5章 もう一つの道
5章 もう一つの道
1
激しい雨が大地を叩きつけている。
めったに降らぬ雨は、あっという間に乾き切った砂地に染み込み埃っぽい岩肌を潤わせた。山間はたちまち河となり草原は沼になった。
雨音で目が覚めた。
「ユダ、バラバが目を覚まされました!」
枕もとへ近づく気配がし、目を向けると線の細い声が放たれた。
レビやシモンではない、見知らぬ少年の叫びだった。なぜ、ここに。記憶が途切れ途切れに飛んでいる。
間違いなく十七年間暮らした我が家。しかし、かなり様相が変わっている。乱雑だった棚や無雑作に置かれた穀物類など、すっきり片づけられ整頓してあった。床板もしっかり磨かれている。
「おお、やっと起きたか。ひょっとしたら、このまま目を開けぬのではないかと心配したぞ。さっそくだが紹介したい者たちもいるし、伝えたいこともある」
「紹介したい者?」
「そうか、まる三日も昏々と眠っていたので知らないのだな。なら教える。ミカやサラ、レビとシモン以外にも、お前を慕い続々と少年たちが集まってきている。今では総勢十一人の大所帯だ」
ユダの言葉が頭のまわりで浮遊し、それが強い雨音に掻き消されて頭に入り込まない。
「待てユダ、俺は、三日間も寝っ放しだったのか――」
「そうだ。マルタとラザロが心配して、毎日毎日、顔を覗きにきている。つい先刻までいて、雨が降り出してきたので帰ったばかりだ。が、目を覚ましたと知らせれば、この程度の雨きっと飛んでくるだろう」
ユダが満面の笑みを見せた。
本降りの雨は一段と強さを増している。とても人が歩ける状態ではない。来れるはずがないのだ。だがユダの目は、それでも来ると信じて疑っていない。
そのユダの表情を窺えば、すっかり柔和になっている。隠されたもう一つの人格と、迷いによる屈折した部分が消えていた。ルシフェルと完全に決別したせいなのかもしれない。
「いいから起きろ。早くミカに知らせたいし、皆にも紹介してあげなきゃ可哀想だ」
ユダが目線を土間に向けると、新たにやってきた五人の少年たちが、土間に片膝を突き、バラバを拝していた。
「うむ、分かった」
促されてゆっくり立ち上がる。すると突然眩暈がした。ぐらぐら視界が揺れて目の前が暗くなった。
「どうした、バラバ、大丈夫か……」
ユダの声も遠くに聞こえ、激しさを増す雨の音だけが耳を支配した。
よろよろと足を縺れさせていると、視線の端にミカが息せき切って飛んでくるのが見えた。献身的な動作で甲斐甲斐しくバラバを支えてくる。
「まだ身体が衰弱しているのよ、無理をしてはだめだわ」
と、細い腕をまきつけてきた。その後ろにはサラ、レビ、シモンの、懐かしくも思える顔が心配そうに寄り添っていた。
「すまない……」
ミカの目を、まともに見れずに言った。
とたん密着していたミカの黒いまき毛、白く華奢な腕が振りほどかれていく。長いまつ毛の中に隠された濡れた瞳も遠ざかる。バラバが居た堪れずに払っていたのだ。
数秒後、しだいに感覚が戻ると改めて他の少年たちに視線を移した。身なりこそ貧しいが、見つめ返す瞳は純朴でそれぞれが澄んだ目をしていた。
このような自分を慕い、集まってくれたのか。
また胸が熱くなった。
サラよりも若い七、八才の少年ばかりだった。おそらく親を亡くした少年たち、バラバは直感的に思った。
「そなたの名は?」
バラバは、その中、強い光を瞳に秘めている少年に尋ねた。
「イリヤ、カナからギメルに連れられてきました」
「おお、ギメル――」
熱くさせた胸に、もう一つ懐かしい顔が浮かんだ。
「今では、熱心党の若き指導者の一人です。強くて統率力に秀でた人だけど、バラバみたいに神秘的な力は持っていません。ですが自分ら五人は、ギメルにローマ兵の焼き討ちから救い出されたのです。家族は全員が殺されてしまいましたが」
イリヤは悲しい出来事を淡々と話す。よほど心が強いのだろう。
哀しみを辛いまま話せば愚痴になる。だから敢えて素っ気なく話す。大事なのは翻弄される運命を乗り越える気骨と、出会うべき人間。
だったら天から授かった道をすて、人として、少年たちのために生きる道を切り拓く。少しも悲しいことじゃない、むしろ喜ばしい。漠然とだが、この敗戦は楽園を創れとの明示なのだ。
「そなたらに聞く。なぜ、ギメルの言葉に従った。もし奴隷扱いされたらどうする。私は、神から見すてられたも同然の人間なのだ――」
少年たちの期待を裏切りたくなかった。どうせギメルのことだ、大げさにバラバを神の子だと伝えているはずだ。でも実際は異教神と戦い、敗れた惨めな負け犬でしかない。心の奥深くで辛うじて繋がっていると信じているが、天の意思から逸脱した人間。その事実を知ってもらいたかった。
「自分たちは、バラバが神の子だからきたのではありません。別に悪魔の子でもいいのです。だってギメルから話を聞かされて以来、ずっとバラバを慕っていましたから。ギメルに従ったわけではなくて、むしろ頼み込んで連れてきてもらったのです」
思いは共鳴した。
その瞬間、なぜかミカに対する気持ちが正直になった。マリアの館で死ぬと感じたとき、面影が脳裏に浮かんだことを思い出す。
「私は楽園を創る。だから、ずっとそばにいてほしい」
「えっ……」
ミカが面映く、ともすれば消え入りそうな声で顔を覗き込んできた。「私でいいの?」
バラバは肯いた。「君しかいない」
潤ませる瞳に口を近づけ、目がしらに溜まる熱いものを吸った。
その瞬間、レビとシモンが奇声を上げた。同時に跪いていた少年たちが立ち上がる。バラバに駈け寄り誰それとなく抱きついてきた。
「いいな、バラバのお嫁さんになるんだ……」
サラのやっかみにも聞こえる心憎い祝福に、ミカが恥じらい視線を窓の外へ逸らせた。いきなり瞳を輝かせた。
「バラバ、見て! ほら、雨が上がって日が射している」
すぐさま反応したのはイリヤだった。走って窓を全開させた。
いつの間にか雲はなくなり、抜けるような青空が広がっていた。膨らみ出した葡萄の実に水滴が反射して光り、爽やかさをいっそう目に訴えている。
「あ、虹だ!」
イリヤが空を指さし、興奮気味に叫んだ。皆が窓辺に走る。バラバもミカに手を添えたまま急いだ。
ヨルダン川沿いの上空に、七色の橋が架けられていた。
ほとんど雨の降らない夏場に、空前の大雨。それだけでどこか神がかりだったのに、今、少年たちと同じ夢を奏でられた。皆の心が晴れ渡らないわけがなかった。まして大自然が虹を演出し後押ししているのだから。
「ねえバラバ。この虹は、天からの贈り物なのかしら」
ミカが聞いてくる。躊躇うとユダが代弁してきた。
「満足する者には贈りものだが、求める者にとっては試練かもしれない。バラバは結果的に二人を殺した。それを根に持つ人間は必ずいるのだ。マルタが信徒の不穏な動きを教えてくれた、すでに密告しに行ったと。彼らは裁判で争うつもりらしい。これからは見張りを必ず置いて警戒を強める」
言葉が、一瞬にして室内を重く覆った。ミカとレビとシモンは理由を知っているのか、目を伏せ気味にして唇を噛みしめた。
負けて、終わったわけではないのか?
日は淡さを増し、エルサレムに向かって大きく傾く。幸せの裏側、バラバは暮れゆく空を茫然と眺めた。
2
翌朝。夜明けに目を覚ますと、すでに皆起きていた。土間でミカが朝食の支度に精を出している。バラバと目が合うと頬を赤らめた。それが決まり悪く、不自然に鶏小屋ヘ向かった。
「おはようバラバ。最近、朝稽古をしないから、もう鶏小屋へは、レビとユダがイリヤを連れていったわよ。山羊の搾乳も、シモンが年下の子を引き連れていっている。あなた、起きるのが遅すぎるわ」
食卓を拭いていたサラが目ざとくバラバを見つけ、こまっしゃくれた口を尖らせる。目は愛嬌たっぷりに微笑していた。
「意地悪するわけじゃないけど、最低限、ユダヤの法律は守ってもらうわよ。あと一年は準備期間、それがすぎるまでは、私、ミカの隣で寝るからね」
「分かっている。でもサラ、毒舌ばかり吐いていると貰い手がいなくなってしまうぞ」
バラバは笑った。サラの頭を撫でた。
「レビもいるしシモンもいる。イリヤたちも来たし、私、引く手あまたなのよ。バラバこそ逃した魚は大きかったって、あとで後悔しないでね」
「後悔なんてしない、ミカと婚約できて満足している」
「もう、なんてひどい人なの。こんな美しい乙女を袖にして、そのうえ惚気るんだから」
見る見る頬を脹らます小さな淑女に、何も反論できなかった。ただ、サラに限らず、人は皆幸せを求めている。それを創り出さなくてはいけないだろう。
「袖って、サラは引く手あまたではなかったのか」
「あのね、バラバ。いくら引く手あまただからといっても、私は、私の気に入った人としか結ばれたくないの」
「なら、ずいぶん時間がかかりそうだ」
「ひどい、ひどいわバラバ」
とうとうサラがへそを曲げた。手に持っている雑巾を投げつけようとする。
「サラ、なまけてはだめよ」
土間から嗜めるミカに、サラはぺろりと舌を出した。
「ミカは、口うるさい奥さんになるわよ、きっと……」
外へ出た、庭先で卵を抱え込むユダとすれ違った。
「バラバ、話があるんだ――」
ユダは、眉の間に皺を寄せ「下の岩棚で待っててくれないか、すぐ行くから」と、卵をしまいに家へ入った。
懸念は残ったが、坂を下りて岩棚へ向かう。
荒れた岩山に緑が映えている。昨日の雨が植物に潤いを満たしてくれたのだ。見えないが、大地の下にはいつでも恵みの準備ができている。人間だって同じだ。感じて行動すれば、いつだって幸せの機会は訪れる。
大きな正義をすてた今、やろうとしていることはちっぽけな善でしかない。でも、たとえ小さな善であっても、積み重ねれば大きなものになるはず。バラバは岩に腰かけると、今日にでもエルサレムへ行ってヨセフの屋敷を訪ねようと思った。
この土地は、もとはといえばヨセフから譲り受けたと父から聞いている。町から遠く不便だが、離れているからこそ山羊を増やすことだって可能になる。鶏だってあと百羽は増やしたい。そうすれば、この後、孤児が何人来ようとも受け入れることができる。
夢が、どんどん果てしなく広がっていく。その夢の中心に、こましゃくれているのに愛らしいサラの顔が浮かんだ。
「うん、サラの園、と名づけてもいい」
バラバは一人、笑みを含ませた。
心を緩ませていたら、背に人の気配を感じた。匂いはユダではない。
「イエス・バラバ、必ずいると思いました……」
無防備に声をかけられた。毒はないが言葉に微妙な含みが感じられる。反射的に身構えた。
そこに、まだ背の低い朝の光に埋もれるマリアがいた。細身の身体を黒い衣に隠し、背まで垂れるヴェールを頭から被っている。捩るように光を避けバラバを見つめていた。
なぜ、ここに?
心に鎧を着せた。もう自分の進むべき道は楽園創りと完全に決めたのだ。正直、これ以上惑わされたくはなかった。
「何しにきた――」
「心配せずとも、争うつもりはありません。どうか鎧を解き、夢物語として聞いてください」
穏やかにマリアが言う。「あなたは神の子でありながら人間臭く、とても不思議な人間でした。勝負に負けながらも神々の胸に風穴をあけた……」
「もう過去のことだ。私は宿命をすて、新しい希望を宿らせている」
「つまり理想をすて、現実を選択したということ?」
「そうかもしれない」
「では、神の子としてでなく、人間として生きると決めたのですか」
「そうだ。負けたことにより、最も大切なものを見つけた」
「そうでしょうか。イエス・バラバ、あなたは最も大切なものを失った気がします。ほんとうはルシフェルもバアルも、ナザレのイエスと接触していません。もちろん聖婚を取り決めたなどと方便です。あなたを試しただけ」
「簡単に言わないほうがいい。そのために犠牲者が二人も出ているのだ」
完膚なきまでの敗北を思い出した。それに伴う犠牲、行き場のない反発を覚えた。
「情けに負けて、たやすく霊性を投げ出してしまう。それをルシフェルは危惧していました。強さと脆さが同居する愛、知っていたのでしょう……」
「何のことだ」
バラバは言葉を被せる。
「天上での戦い、ヤハウェの狙いは反乱軍の消滅だったはず。バアルが言うには、あなたはそれを無視して情けをかけた。それを資質とでもいうのでしょうか、人間臭すぎるかもしれません」
「言ってることが分からない。それは私に、もう一度、戦えとも聞こえる」
「そうではありません、戦うのではなく救えと言っているのです」
淡々と言ったあと、マリアがナザレの方角に視線を当てた。「あなたとの戦いの後、ガリラヤに感じた凄まじいまでの波動。ナザレのイエスの目的は、きっとイスラエルの王になることだけなのでしょう。しかしながら、ルシフェルに聞く限り、霊性はあなた以上であっても聖霊と繋がっていないらしいのです。それこそ属性は物質、肉の世界に君臨することにあるのだと思います。だから私は、あなたに夢をすてないでと伝えにきました」
「私は夢をすててはいない、掴んだのだ。そして信仰心も失わせてはいない」
きっぱり言いきるとマリアの横へ行った。「ルシフェルの真意は誰も知らないだろう。ともに戦った天使たちでさえ理解できなかったのだ。ましてあなたが分かるはずもない。あの夜、打ち明けた話は一部でしかないからだ。だから聖婚の相手を弟と決めて譲らない理由をあなたは知らないはずだ。でも、なぜそこまで弟に固執するか考えてみるとよい。そこにあるのは真理、あなたが知らなくてはならない壁だ。知ると変わる、変わるがこそ変えられる。大きく世界を変えたいのなら弟を変えろ。私は、その片隅で小さく変えていく」
「子供たちだけの楽園を創るつもりなのですね。けど言わせてもらえば、それは逃避だと思います。何も苦しんでいるのは子供たちだけではないのです。青年であっても老人であっても、それぞれに苦しみを抱えている現状を知ってください。確かに恵まれない子供に希望を与えるのは立派です。けどそれでは子供たちの救世主にしかなれません」
マリアの訴えかける語尾が、かすかに上ずっていた。
「騙されるな、バラバ!」
いつ来たのか、後ろからユダが叫んだ。「マリアは、ナザレのイエスが動きを見せたから臆しているだけだ。バラバが倒れた今、その重責は一人に託されている。私は決めた。近い将来、行動をヨハネと共にする――」
思ってもみなかった言葉だが、考え抜いた上での結論なのだろう。目に強い意志が秘められていた。
「ルシフェル、と戦う道を選んだのか」
「ああ、そうだ。だけどルシフェルだけじゃない、そこにいるマリアとナザレのイエスともだ。バアルが断言した『残る邪魔者はクムランの小僧だけ』その言葉が頭を離れないのだ。死なせるわけにはいかない。力を駆使して補佐してあげたい」
戦いに敗れて、変わったのはバラバだけではなかった。ユダも変わっていた。それも大胆なほど正義感に溢れている。
「ユダ、あなたも確かクムランにいましたね」
マリアが糸口を探すふうに言った。
「父シモンが、エッセネ派の指導者と親交が深かったから、一時的に預けられただけだ。でも、おかげで学問に触れ、ヨハネとも知り合い友情を知った」
「また情けですか。あなたたち二人は、どうしてもそこに流される。目的を果たせずに断念する部類の人間ですね」
「マリア、あなたは情けが嫌いなようだが、情けを持った愛がどれだけ深いのか、必ず知るようになる」
バラバは、マリアの考えをやんわり否定した。
癒しというのは、愛だけでは癒せないのだ。そこに、情けがあってこそ初めて可能になる。ユダは戦いから友情を学んだ。それをどうして、あっさり一蹴するのか。意志の強い人間だけが、頭のよい人間だけが生きているわけではないのだ。貧乏人もいれば、明日の飯を食えぬ人間もいる。
「では話があるといったのは、このことだったのか」
ユダに聞いた。
「そうだ、けどマリアの登場でぐらついている」
「離れる時期と、昨日言った、咆哮による犠牲者のことだな……」
ユダが肯く。マリアが弁明する。
「確かに親族が憤慨しています。でも、そのことでここへ来たわけではありません」
「言い訳はするな。お前が黙殺したせいで、ローマ兵が動くかもしれないのだぞ――」
ユダがマリアを睨みつける。
「ローマ兵?」
バラバもそこまでは考えていなかった。しかし、ますます意外な方向へ展開していく。描いていた夢が、端から黒く塗りつぶされていくように感じた。
「幻視の中でヨハネが訴えてきた。今日、カシウスという名のローマ兵が、バラバを捕縛しに来るって、な」
「カシウスですって……」
その名を聞いてマリアが絶句した。
「あなたは、カシウスを知っているのか。その男が父を殺した、ローマの百人隊長だ」
「知りません。ただ一度、名前を聞かされただけなのです」
「誰にだ――」ユダがたたみかける。
「聞くまでもない、ルシフェルに決まっている。おそらくカシウスとは契約を完了させたのだろう。もう一つ、ルシフェルはアレクサンドリアへ向かっているはずだ。弟を引き連れてだ」
「バラバ、それがどうして分かる、まさか?」
「どうやら、そのまさからしい。たぶん私の傷を癒したのはルシフェルなのだろう。だから繋がり、思考が手にとるように分かる」
「そうですか……ルシフェルがナザレのイエスと接触を。けどユダが言うように、操ろうとして接触したのではないと思います。逆に、目を見開かそうとしているに違いありません」
マリアの瞳が濡れていた。つまりそれは、ルシフェルが館から去ったという証でもある。だったら、もうこれ以上の論争は意味がない。バラバは二人に背を向けた。
3
運命とは試練、それは予告なしに突然やってくる。岩棚へ、ミカが青い顔してやってきた。サラもイリヤもいる。
「何ごとだ!」
「見知らぬ男が二人侵入してきて、応待したレビとシモンを殴りつけているのです。一人は短剣を持っています」
「くっ――」
バラバは聞くやいなや、皆を置いて走っていた。父の二の舞はさせたくない。絡みつく澱みを手で払いながら急いだ。だらだら坂を一気に駆け上がり、張り巡らされた背の低い木柵を飛び越えた。
庭先でレビが馬乗りになった男に殴られていた。シモンもまた、どこか見覚えのある男に殴られ倒れ込んでいる。男の右手には鈍く光った短剣が握られていた。マリアの信徒たちだ。おそらく老執事と大男の親族なのだろう。
「やめろ!」走りながら夢中で叫んだ。
二人が振り返る。
「な、重症のはずでは……」と、老執事に似た男が身体を硬直させた。
「ま、待ってくれ。違うんだ――」
大男も声をかすらせて喚いた。他の信徒から情報を入手し、バラバが大怪我を負っているか昏々と眠っていると予測したのだろう。取り乱し、呆れ返るほどの狼狽を見せていた。
「黙れ! なら、なぜ剣を持っている」
レビから離れ、哀願しようした大男を手で突き飛ばした。
悲鳴が上がる。手加減したつもりだが感情が入っていた。まして相手は動揺から無防備、さらに地形が坂だった。ころころと思いのほか転がっていく。
その転びかたが悪かったのかもしれない。無情にも、流れる運命は速い速度で駆け抜けた。大男がのた打ちまわった後、ぐったりして動かなくなったのだ。倒れた際に頭の打ち所が悪かったせいもあるが、最も致命的だったのは、手に持った短剣で自らの身体を突き刺していたことだった。
上腕部に流れる動脈、人体に五本しかないといわれる場所だった。見る見る血が滝のように噴き出していく。瞬時に、辺りが血の海と化した。
とめようがないみたいだ。遅れてやってきたミカが布で血止めをしても効果がない。逆にどんどん溢れ返り、顔へ衣にと飛び散った。息苦しい空気が辺りに張りつめる。
「バラバ、息をしていないぞ!」
その張りつめた静寂をユダが切り裂く。
ミカの口から嗚咽が洩れる。幸福の絶頂から、あまりにとつぜん襲ってきた残酷な現実。思考が許容範囲を超えて整理しきれなかったようだ。バラバを見つめて、しゃがみ込むことしかできていない。
小男が悲鳴を上げて逃げた。一目散に坂を駆け下りていく。館へ知らせに行くのは間違いなかった。
追う気もない。今度ばかりは事故では済まされないのだ。ヨハネの幻視は当たっていた。カシウスはやってくるだろう。バラバは呆然と立ちつくす。
「癒しだ、バラバ、癒しをしろ」
ユダが金切り声を上げた。
「無理だ。手のひらに感じる波動が消えている」
おそらく、ルシフェルによって封印されたに違いない。まるで無力で、この世のすべてから存在そのものを否定された感じだった。
バラバは道路に伏した。進むべき方角を見失い、どこへも動くことができなかった。見い出した楽園の夢も儚く消えた。
やがて男の身体から溢れてきた血がバラバの足元に流れてきた。薄麻の衣に染み込み、じわじわと赤く侵食していく。
「バラバ、逃げろ。逃げなくてはカシウスに殺されてしまう」
必死に呼びかけるユダの言葉も聞こえない。朦朧として答えを出せなかった。自分でしでかした状況なのに、まったく状況を掴みきれていなかった。
私は性懲りもなく、また、人を殺してしまったのか。
どうやらそれが現実らしい。やたら冷たい風が体内に流れ込んでくる。
「カナへ行け、そこに熱心党のアジトがある。律法者やローマ兵たちの手のとどかない場所だ。ほとぼりが醒めるまで暮らし、再起を図るのだ」
「再起? 私は人殺しだ。そんな人間に、再起なんてあるはずがない」
もはや絶望しか感じられなかった。バラバに見えるのは磔にされて無残に殺される自分の姿だ。
ユダが、ぽつりと言った。
「モーゼでさえ何人もの人を殺している。だから選ばれた人間の再起は必ずある。しかし、バラバの場合は違うかもしれない。変転したとばかり思っていたけど、していなかった。ならこれは、ほんの序章でしかすぎないのだろう。お前の苦悩は……これからはじまる」
「一度、宿命づけられてしまったら、どうあっても拒絶されるというのか。人を癒そうと思っても、叶わないというのか」
塵ほどの望みも切ってすてられた。もう叫ぶ気力も残っていなかった。心は深い絶望に襲われた。
「まずは逃げて、生き方を模索するのだ。とうぶん私はここにいる」
ユダが唇を噛む。
「バラバ、私も……連れていって」
ミカが悲痛に泣き叫ぶ。
「私たちも行きたい……」
レビとシモン、サラや他の少年たちの声も耳に入ってきた。しかし面影は全部揺らいでいる。ほくそ笑む、ルシフェルの姿だけが支配する。
「むごい、むごすぎる……」
事態を見つめていたマリアの声が、この世でいちばん低い場所、死海の淵へ消えていく。
4
マルタとラザロを呼んで、遺体を布で巻いて預けると、バラバはカナへ行くことに決めた。悔いがないといえば嘘だ。少年たちに慕われ、やっと明るい道が開けはじめていた。
しかし、すべて跡形もなく消えてしまった。
羊肉の燻製とパンをロバの背に乗せ、クムランからヨルダン川の東端に渡る。ローマの支配地に近いエリコを避けての道程だった。狭い国だが南北に長いイスラエル、もう二度と皆に会える保証もない。
岩山ばかりの場所のせいか、すぐに日が落ちた。一面が闇、それでも目を凝らすと荒れた岩山の一角に、微かだが円筒形の建物があるのに気づかされる。岩窟を利用した住まいは大きく一つの集合体を形成していた。さながら天然の要塞ともいえる。
殺伐としたものを感じないのは、垣間見える敷地に開墾された農地らしきものが見えたからだ。どうやら葡萄畑のようだった。真裏に控える山にも珍しく木々が生い茂っている。断定はできないが、背の高さから芳香植物と思われた。
なら、おそらくここはエッセネ派の僧院なのであろう。表面的には荒れ野でもヨルダン川に近く、死海に隣している。掘り下げれば地下に水脈があり決して人が住めないわけではない。
彼らもまた、今のバラバと同様に世を偲んで生きる人々だ。根本的に違うのは、彼らは救世主の降臨だけを信じるヘブライスト。生活は厳格で徹底して禁欲的だ。異性に興味を示すことなど有り得ない。
バラバは感傷的な気持ちで歩く。無性に隔絶感が刻まれる。
それほどまで、我が憎いか。
次々と暗闇の中から伸びてくる残忍な抱擁に、心も身体も重くなった。
折れて、たまるか!
悪夢を必死に手で振り払い、わずかであっても光を見つけようと自身を叱咤した。堪らなくルシフェルに向かって叫んだ。
「お前の望む、殺人機械になるつもりはない!」
人間には尊大な魂がある。それは天使の魂と何ら変わりがないのだ。いや、神の直接的な庇護の下で生きる天使より苦しいぶん立派だ。なぜなら闇から伸びる手の中で、人は人のために生き人のために死ねるからだ。
「かつて誰より人を愛したルシフェル、今のお前が人のために死ねるか、天使のために死ねるのか」
乖離する色褪せた叫びは闇に溶けていった。
そんなバラバを案じて、ロバがぺろりと首すじを舐めてきた。
勇気づけられ、バラバは背を擦った。ロバは、ぐひんと独特の鳴き声で言葉を返してくる。一頭と一人、寄り添いながら歩いた。
僧院を通りすぎてからも休まずに、さらに一時間ほど歩いた。さすがにロバも疲れたのか、バラバの肩に、熱く湿っぽい息を吹きかけてきた。妙に甘ったるく思える鼻息だった。それが疲れの限界を知らせる仕草と気づいた。そういえば足の歩みも急激に遅くなっている。
「私は手ぶらだが、お前は荷を背負っているのだな」
ねぐらを捜そうと辺りを確かめた。真横の岩の上に、洞窟らしきものが見えた。
「よし、あそこで夜を明かそう」
優しく背を叩くとロバが足早に歩き出す。
入口の高さは四キュビット近くあり、奥行きも深そうだった。石灰岩の岩盤に開いた自然洞穴。それを住居に適したように掘り直した、そんな感じに思えた。
入口に立って中を窺うと人の気配がしないでもない。けれども休まなくては身体がやられてしまう。覚悟を決めて洞穴に入り込んだ。すると当然のように声がした。
「血だ、血の匂いがするぞ!」
低くはないが、よく通る声だった。壁に反響して荒々しく耳にとどいてくる。
バラバはぎくりとさせて立ちどまった。ロバも怯えて後ずさりをした。
よもや、盗賊か?
すぐさま声の方向に目を向けた。だが姿は見えない。
そのうち、もそもそ人の這いだす音とともに、凛々しい若者の顔を月光が映し出す。バラバと同じで十七才ぐらい、聡明な瞳をした若者だった。薄汚れた駱駝の毛衣を纏い、腰に革帯を締めていた。
でも服装と顔の微妙な不釣合いさに、おかしさを通り越して親しみさえ感じられる。粗野な衣と顔の端麗さが、あまりにも合っていないのだった。
癖なのか右手の人さし指を突き上げ、不自然なぐらい勝気に見せる唇を微笑ませ近づいてきた。じろじろとバラバを観察するように見回してから、呟いた。
「人を殺したな、しかも相手は異教徒――」
ぎくりとした。予想だにしない一撃をまともに喰らったような衝撃を受けた。
なぜだ、なぜ知っている。ではこの男、服装からしてもしやヨハネか?
てっきりクムランの僧院にいるとばかり思い込んでいた。それだけに意表を突かれた。
「預言者、ヨハネか」
バラバは聞き返した。
「ほう、私を預言者だと? おもしろいことをいう奴だ。まあ、いいから入れ。ちょうど、一人で退屈していたところだ」
すでに消していたランプの火を再び灯すと、ヨハネは敷きつめた干草の上に腰かけた。身振りでバラバにも座れと促してきた。
「なぜ、私がヨハネと分ったのだ」
好奇な眼差しを見せ、ヨハネが聞いてくる。たやすく素性を見透かされた驚きも、微かながら目の奥に見えた。
「ユダに聞いて、知っていたからだ」
「イスカリオテのユダ? ユダと友達なのか。ならそなた、ひょっとしてナザレに住んでいやしまいか……」
あきらかにバラバを弟と想定している。
「いや、ナザレではない。ベタニアに住んでいる。ここへは、カナへ向かう途中立ち寄っただけだ」
「ベタニアと? まさか、そなたイエス・バラバではあるまいな」
バラバは押し黙った。ラザロとマルタとの経緯を聞いている。それを知っていて肯定できるはずもない。
しかしヨハネは気がついた。確信にまで至っていないようだが、思わせぶりに押し迫ってきた。
「答えたくないようだ。ならば教えてほしい、父の名を――」
真実は告げたくはないが、嘘はつきたくはなかった。だったら沈黙を貫き通す以外に道はない。バラバは無言を押し通した。
「言いたくなければ無理強いはしないが、ベタニアにアッバス・バラバという賢人がいた。エルサレムで事件が起きたとき遭遇したが、強い意志を持った老人だった。子の名前はイエス・バラバ。多くの純な少年たちに慕われて暮らしているらしい」
エルサレムの事件。そうだ、ヨハネはミカの命を助けた恩人でもあったのだ。
「身内を救ってくれた一件、心から礼を言う」
「おお、やはり光の子だったのか!」
驚きから一転、ヨハネが伏し目がちに睨みつけてくる。「何たることだ――」
真ん中から二つに分けた長い髪の毛が、爪で掻きむしられていく。一本二本とちぎられた髪の毛が仄かな光に舞った。その場が重苦しさに沈んでいく。
「して、よもや七神との戦いにも負けたのか」
漂う息苦しさの中、ぐいと顔を向けてくる。
「いかにも、負けた」
「情けない、情けなさすぎるぞ。たかが一地方の、しかも有限の神に負けて、どこが無限の神の子だ」
罵り、ヨハネは口調を強める。「そのあげくに異教徒に手をかけたのだな。あってはならぬことだ」
「その通りだ」
バラバは、きっぱり言った。「確かに負けた。そして事故であれ殺人を犯したことも事実だ。しかし負けて人の心を得た」
「思い違いも甚だしいぞ、義なき殺人者に民衆は追随しない」
ヨハネの言う通りだろう。一度でも染みついた刻印は、絶対に消えることはない。
「だが、もともと私に用意された道は、犠牲者の屍を踏み越える凄惨な道だった。それでも、お前は嘆くのか」
ヨハネは目を険しくさせたまま答を返そうとしない。オイルランプの灯りに照らされる光と影を交互に見つめ、激しく心情を葛藤させているようだった
「ユダは、どう言っていた。バラバの未来に納得していたのか。そうではないだろ。ユダにはきっと見えていたはずだ。見えていながら策謀した。それは預言者として恥ずべきことなのだ」
ヨハネが矛先をユダに変えた。
「違う、ユダはそんな奴ではない。ルシフェルとも決別したし、悪意などこれっぽっちも持ってはいない」
「それはどうかな。真理と友情は別ものだ。私も一時期ユダと過ごしたが、ユダは本来、この世を力で支配しようとする、ナザレのイエスの懐刀になる宿命を持っているのだ。そのため、バラバに策意を弄して怒りに導いた。多神の巫女と口裏を合わせて誘惑を持ちかけたはずだ」
声をつまらせた。脳裏にマリアの瞳が浮かび上がったからだ。
「私にとって、マグダラのマリアこそが最大の罪人だ。巫女の血筋を悪用し、このユダヤの地に異教の神々を侵略させた――」
ヨハネが視線を静かにベタニアへ向けた。
分裂して再統合されたイスラエル。双方にそれぞれ言い分があるにしろヨハネが間違っているとは言えない。マリアに見えていない部分が多すぎるからだ。
かといってヨハネに疑問を感じないでもない。漠然とだが、照準をマリアだけに執拗に向けているような気がするのだ。潔癖すぎるのかもしれない。天界と俗界を結ぶ預言者であるという自覚が強すぎて、清くなくてはいけないと思っているのだろうか。
ましてやヨハネは、マラキ以来絶えて現われなかった預言者になるべき男。弟を利用して、バアルの力を拡大させようとするマリアと弾かれ合うのは当然だ。水と油、奥底に見えているものは同じでも反発する。この先どちらかが折れぬ限り言葉を交わすこともないだろう。
そんなバラバの懸念をよそに、ヨハネは言葉を続けた。
「私らが、同じ日、同じ時間に生まれたという事実は知っている。そなたらイエス兄弟の所にはガブリエルとミカエルが現われ、私の所には『神の啓示を理解する者』または『悔い改めの大天使』とも呼ばれる、レミエルが来たからだ。けれどマリアの所にはルシフェルが来た。この意味が分るか。マリアは天に唾するために生まれてきたのだ」
ヨハネは視線の先に、屹然とルシフェルを見すえている気がした。おそらく敵と味方、頭の中に線引きがくっきりと為されているのだ。それが確固たる信念の要因。
「そうかもしれない。でもヨハネ、よく聞くのだ。後からくる者が果たして愛だけで悪の力と対抗できるだろうか。できないと思う。それこそ先駆者の破壊が必要。往々にして愛の効果が表れるのは、怒りの嵐が過ぎ去った後だ。そのとき地道に民を説き続けた愛が勝利する。だから私は運命を受け容れようと思う」
「ルシフェルの謀に乗せられる、という意味か?」
「違う、お前が知らないこともある。弟は、ルシフェルに惑わされながら力を養っている。着実に来るべき日のために備えるだろう」
バラバは首を振って否定した。願望でもあった。
「分ったような、分らないような気持ちだ。でも決心した。善は急げだ、明日アレクサンドリアへ向かう。ナザレのイエスを直接この目で見て確かめてくれる。たとえ祝福に値する存在でなくともかまわない。そしたら絶対的な存在に創り上げてみせる。それでも無理なら、自らが立つ。バラバには悪いが汚れていては価値がない」
やっとヨハネは決断したのか、自らの言葉を噛み締めるようにして伝えてきた。きっと胸の中で、一心に救世主と信じていたバラバときっぱり決別したに違いない。
「さあ、もう寝るぞ」
干草にごろんと倒れかかると、ヨハネが素っ気なく背を向けた。空間を沈黙が支配する。バラバは戸惑いながらも立ち上がり、ヨハネが消し忘れたランプの灯りを閉ざした。
いきなり洞窟内が闇に包まれる。穴の外を見れば、数え切れぬほどの星が夜空に浮かんでいた。でも、それだけのことだった。星の囁きも聞こえないし、ましてや問いかけなど気づくべきもない。空しいだけだった。
ヨハネの道を無にしてしまった。
膝を抱え、岩壁にもたれかかるバラバにまた後悔が襲う。悪夢のような殺人の記憶は決して鎮まることはない。目を閉じても眠りは訪れることがなかった。
「なあ、バラバ。ナザレのイエスって、どういう奴だ。私に、託せる男か?」
寝たとばかり思っていたヨハネが、寝返りを打って夢現に聞いてきた。
「目覚めれば弟は愛に包まれているし、私とは資質が違うはずだ。きっと、お前の意思を理解して救世主となる」
「だったら、私は先駆者のままでいいのか。救世主にならなくても……」
語尾が完全に消えかかっている。静寂がまた広がっていく。バラバは、ヨハネがずり落とした夜具をそっとかけ直した。
裂けた胸に冷たい風が吹き抜ける。母親と、愛する女性ミカの顔が切なく浮かんで消えた。
バラバが目を覚ますとヨハネの姿はなかった。せめて一晩、泊めてもらった礼を伝えたがったが仕方ない。これもまた行きずりの縁、ロバに水を飲ますと感傷をすて坂を下った。
すると二十キュビット前方にヨハネの姿が見えた。頭の周りを数十匹の蜂が旋回している。
「バラバ、まだ行くな。蜂蜜を採ってきたから一緒に食べよう――」
ヨハネの手には、容器いっぱいに入れた蜂蜜があった。
洞穴の入口に布を広げ、朝日を浴びながらの朝食がはじまった。
バラバ……と、ヨハネが意味ありげに口調を変えた。昨夜と、あきらかに違う印象を感じさせた。「これからサマリアへ、私と行かないか」
「しかしヨハネ、お前はアレクサンドリアへ行くのではないのか。それに、私にとってサマリアは危険だ」
サマリアはローマの直轄支配地である。
「では聞く。ローマ兵は、そなたの顔を知っているのか。祭司でも律法者でもいいぞ、神殿に従事する者でバラバを知っている人間が一人でもいると思うか。この私でさえ顔を知らなかったのだ」
「そうだが、そこに何がある」
「ゲリジム山があるではないか」
ゲリジム山といえば、バラバとヨハネが生まれた年に神殿が建てられた場所。二年後には早々と破壊されてしまったが、今でも訪れるサマリア人は絶えない。サマリア人にとって、唯一信仰の聖地なのである。
「ヨハネ、お前はそこで何をするつもりだ?」
パンに手を出しながら聞いた。
「マリアの逆をつく。サマリア人すべてがバアルを信じているわけではない。もちろんバラバが殺した男の両親を捜し出し、罪を乞うのも目的の一つだが、ゲリジム山に集まる信徒の前で悔い改めの説法を考えている。とうぜんバラバにも話をしてもらわなくてはいけない」
「どういう意味だ、私とは決別したはずではなかったのか」
「したけどいいだろう、私の勝手だ。それに今はまだ時機ではない。しばらくはバラバ、お前と一緒にいることに決めたよ」
「何だって」
心の変化が読めなかった。「お前は、弟を見限ったのか」
「見限ったわけではない。様子を見ることにしただけだ。それとバラバ、お前も見限られられてはいないのだ。昨夜、交信して聞いた」
「私が、見限られていないだと?」
パンが喉でつかえた。胸を叩いて無理やり飲み込んだ。
「ああ、そうだ。過ちは心から悔い改めれば、新たな道がひらかれるそうだ」
ヨハネはパンに蜂蜜をたっぷり塗ると、淡々と話す。嘘を言っているようには見えない。でも昨夜、ヨハネを絶望の淵へ突き落としたばかりだった。それを思えば信じられない意見である。もう一つ、交信とは何だ。
「ヨハネ、お前は聖霊と繋がっているのか」
だとしたら、バラバの見当違いだった。「聞かせろ――」
「慌てるなバラバ、私にとってパンは何年ぶりかのご馳走なのだ」
急かすなと手を広げて、噛みしめるよう少しずつ食べていく。
「毎晩というわけではないが、レミエルを仲介として神の言葉に触れた。昨夜はユダの霊と、夢の中で交信していた」
「それは、要するに夢の話か。聖霊とは繋がっていないということなのだな」
期待して、導き出された答えに気抜けさせられた。夢ならヨハネならずとも誰でも見る。
「早とちりするな。お前は夢をばかにしているが、夢こそ預言者の真髄だぞ」
「だったらなぜ私を知らず、弟の記憶もないのだ。我ら兄弟とだけ交信しなかったわけではあるまい」
「しないわけがない、もちろんした。だがナザレのイエスも、お前も、心を閉ざして容易に解放してくれなかった。二人の魂は頑なに接触を阻むのだ」
言ったきりヨハネは宙を見つめた。人差し指を突き出して空間に目を彷徨わた。「お前の心を探れなかった。でも曖昧な未来が見えた――」
「何が見えている?」
少年たちとの約束、その道が消えずに残っているなら進みたい。バラバは返答を求めた。
「焦るな、薄っすらにしか見えない未来だ。変わることも充分に有り得る。でも、はっきりしているのは創り上げた楽園が無残に切り裂かれるということ。そして私もそうだが、バラバもユダも長く生きられない。三十四才で凄惨な死を遂げる」
ヨハネは曖昧と言いつつ、きっぱり断言した。
「磔となって死ぬのだな」
絵を思い出した。
「磔かどうかは分からない。それはナザレのイエスかもしれないし、とにかく断定できないのだ。だから『慕う人間たちと、民のために生きろ』と、レミエルは願っている」
「分かっている。が簡単にいかない。今まで、愛を表現する生き方を望まれていなかったのだ」
「望まれていたよ。だから少年たちが集まった。これから数はもっと増えるだろう。無垢な少年たちには、バラバの本質が見えていた」
「けれども運命は戦いを挑んでくる。私は健気な子供らを、巻き添えにすることを望まない」
楽園が切り裂かれるのであれば、多くの少年たちのみならず、ミカやサラまでもが死ぬことでもある。想像したくなかった。だったら創らないほうがいいような気がする。夢と現実は違うのだ。希望を脹らませれば膨らますだけ、現実が惨たらしく思える。
ヨハネも分かっているのだろう。バラバから視線を移し、ゆっくり昇っていく太陽をまぶしそうに見ていた。すべて知っていて、それでいて優しく言葉を選んでいるようにしか思えなかった。
「ラザロという少年がいるはずだ。あいつ頻繁に交信を求めてくる。どうやら、お前のことが好きでたまらないらしい。いつの時代も理解してくれる人間がいなくて、無垢ゆえに逃避していたのだ。それがお前に魂を救われたことにより、過去も現在も未来も、一瞬にして希望に満ち溢れたのだと言った」
「分かっている。ベツレヘムだな」
恐れもせず、必死に獅子に立ち向かってくれたラザロ。その魂に懐かしさがあった。ラザロも、またミカやサラたちと同じで、あの殺戮の中で寄り添ってくれていた魂だった。本人たちは誰一人として気がついていないが、バラバは知っていた。だから心底大事にしたいと感じている。
イスラエルにおいて死後の世界の解釈は統一されていない。ファリサイ派は死後の世界も復活も認めているが、サドカイ派では頑として認めない。ヨハネの考えは柔軟だった。精霊や天使を、直接感じとれる能力があるからこその言動であろう。
「ベツレヘムで惨殺されたラザロ、すでに魂は闇の淵から甦った。けれど……」
そのヨハネが、最後まで言わずに語尾を沈める。
「何なのだ、何を言いたい」
なぜか無性に胸の辺りが熱くなってくる。
「ならば言う。場所は分からないが、ラザロはバラバのために楽園へ行き、バラバの身代わりとなって死ぬ」
「嘘だ! そんなこと絶対にさせない」
反射的に叫んだ。聞きたくない言葉だった。金輪際、自分のための犠牲者を出したくない。
「身代わりはラザロだけでない、私に見えるだけでも二百人近く殺される。その中には小さな子供もいれば身籠ったばかりの女性もいる。ほとんどがベツレヘムで散った小さな魂たちだ。一人残らず斬り殺される――」
「よせ、言うな! 頼むから言わないでくれ」
甦る、忌まわしい過去。知りたくない未来。バラバの頭の中に絵が像となって、くっきりと現われた。
それは砂漠にぽっかりと開いた大きな穴のようだった。砂の中に得体の知れぬ怪物がいて、子供たちや愛する女性を次々と引きずり落としては斬り刻んでいくのだ。悪夢だ。とうてい受け入れられぬ予見に、首を振って拒絶した。
夏の日差しが高い位置に移動していく。バラバ一人が太陽から目を背け、深い闇を覗いていた。
5
次の日、まだ薄暗い早朝。二人でベツレヘムへ向かって歩いていた。目的地はゲリジム山。本来の道程なら、ヨルダン川を越えてエリコを経由する。
けどヨハネは「ベツレヘムからエルサレムを抜ける。この旅は贖罪の意味合いが強いから」と譲らなかった。
「答えは、ゲッセネマにある」
有無を言わさぬヨハネの口調に、無言で同意した。急ぐ旅ではないし、カナへはいつでも行ける。先延ばしにしてもいいことだった。
理由はあきらかにしなかったが目的は推測できる。たぶん聖霊といちばん近い場所ゲッセネマで、悲惨なバラバの未来を変えることと、自ら下した決断が間違っていないか確認したいのだ。
ルシフェルの介入によって複雑化した構図。さらなる変転の兆しを感じる。だからといって、ユダの言う殺戮のはじまりにはしたくない。人の血を流さずに嵐を起こす、そうすればラザロも無垢な少年たちも死ななくてすむ。
「恥ずかしいことだけど、まだゲッセネマで祈りを捧げたことがないのだ。父と母が早く死んだため、もの心ついたときにはクムランの僧院にいた。やっと今年から一人で荒れ野の洞穴生活をはじめたばかりだ。頭の中に知識として積み込まれ、胸の内に滾りとして燃えるものはある。けれどレミエルの仲介なしに、神の声を聞かないないことにはどうにも前へ進めない」
ヨハネがエルサレムの方角を見つめる。「これまで三度ゲッセネマへ行ったが、都度、心が乱されて途中で引き返した」
「不甲斐ない、王族のせいだな」
イスラエルの統治はヘロデが死んだことで、家督は三人の子に受け継がれた。アケラオス、アンティバス、フィリッポスだ。三分割され、ユダヤとサマリアを統治するアケラオスにエルサレムは委ねられた。
アケラオスは父ヘロデに見事なまで人格が似ていた。しかも残忍で無類の好色、罪深い背徳者であった。美人であれば誰であろうと姦淫を迫った。肉の身体をもつ以上、色を好むのは人間の自然な摂理。道義をわきまえれば誰も咎める者などいない。現に、ヘロデには十人の妻がいたと伝えられている。
しかし、それが兄弟の妻であったりすれば、王族といえども非難を免れるわけにはいかないのだ。律法で赦されるわけがないし、戒律を守るユダヤ人にとって屈辱的な行為にほかならない。
そのうえアケラオスは政治能力にも乏しかった。紀元六年とうとう追放され、ユダヤとサマリアはローマによる他国支配となった。考えればヘロデにしてもユダヤ人を装う異邦人、支配は今にはじまったことではない。
ごろごろとした石の隙間から草が覗いている。荒れ野とはいえ、この辺りにまったく緑がないわけではない。今も所々に点在する青々とした草原に羊が百数頭ほど放牧されていた。
羊飼いは岩に腰をかけ、羊の周りを犬たちが賑やかに走り回っている。羊の鳴き声は緑の樹木にすっと沁み込んでいき、ごつごつとした岩肌にだけ反響する。何とも長閑な光景だった。
「思いもよらずに降った、四日前の幻想的な雨。それが夏にクムランを生き返らせた」
と、ヨハネがバラバを覗き込んでくる。その仕草が、館での戦いのことを言いたいのだとバラバには直感できた。
確かに、偶然とは思えない深い意味のある雨。まさに運命そのものみたいな気がする。激しい雨を変転とすれば虹は希望でもあるのだ。でも、もうその話には触れられたくはない。
「それよりも強欲な支配者がいなければ、このような長閑な光景がどこにでも見られるのだろうか」
バラバはロバに水を飲ませ、手頃な岩に腰をかけると話題を変えた。
「見られる。でも争いごとは、決して消えやしない」
いつのまにか銜えていた草の葉を、ぷっと吹き飛ばすとヨハネは言った。枯れ木の棒で小石を突き、バラバの隣に座ってきた。
「欲、だな……」と、ヨハネへ言った。
「ああ、そうだ。際限がないのに、少しでも手にすると猜疑心にとらわれる。自身の内に生じた不和を外へ向け出すのだ。もうそうなってしまったら、いくら人の心を傷つけようと気がつかない。別の新たな欲に駆り立てられて自分を正当化するからだ」
「欲を持たずに、人は生きられぬものか」
バラバは聞いた。
「適度な欲は、人を成長させる。希望となりえるのだ」
とヨハネは答え、急に顔をこわばらせる。
「どうした?」
「善きにしろ悪しきにしろ、ナザレのイエスが民に与える影響は大きい。しかし、このままいくと大地を潤すことも望めないし、下手すると熱情のまますべてを焼きつくしてしまうかもしれない。民の希望とは差がある気がするのだ」
「どうして、ここでそんなことを聞く。答えはゲッセネマで出すのではないのか」
「そうなのだが、ルシフェルとマグダラのマリアに篭絡されて、我が神の信仰を消滅させてしまわないかと危惧している」
「つまり弟の本質を引き出せなければ、民を異教に走らせてしまうということだな」
「そうじゃない、事態はもっと深刻だ。この地上から聖霊を消滅させてしまう――そこまでの意味だ」
「まさか、そんなこと有り得ない」
あくまで仮定の話だと分かっていても鳥肌が立ってくる。やはりバラバの最大の敵はルシフェルだ。
ベツレヘムまで、あと三時間、気の遠い道中になる予感がした。
考え込んで歩いていたせいか、ベツレヘムに着く前に日が沈みはじめた。丘に咲く百合の花びらが赤味をまし、紫色の花びらが霞んで見えづらくなっていた。直視できるほど夕日が淡い。
「どうするヨハネ。このままベツレヘムまで行くか、それとも野営できる場所を探そうか?」
「もう少し、歩こう。べつに洞穴がなくてもいい。ベツレヘムを一望できる場所で夜を明かしたい。そこは、私ら二人が生まれた場所だからだ」
ヨハネは歩みをとめない。
「ベツレヘムは、まだまだ上だぞ。最低でも三十分は登らないと着かない。日が完全に沈んでしまう。それなら、断崖と谷底を同時に見渡せる、この場所のほうがいい」
「いや、歩こう」
どうしてもヨハネは、ベツレヘムを眺望できる所まで行きたいみたいだ。薄くなった西日に顔を向けたまま振り返ろうともしなかった。端正な顔のわりには気が強くて一途なところがある。言い換えれば頑固なのだが。
やがて完全に日が沈むと、上り坂が緩やかな下り坂に変わった。山際だけが赤い眼下に、ぼんやり町が見えてきた。
「バラバ、ベツレヘムだ――」
ヨハネが息を切らして叫ぶ。
「おお、ベツレヘム。我らが生誕の地!」
眼前に、横たわる町並みがひらけていた。
ユダの荒れ野から見える町の風景は、なぜか胸を和ませ、バラバの心をとらえて離さなかった。どの辺りでバラバが生まれ、またヨハネが誕生したのかは分からない。でも間違いなくここで生まれた。
並んだまま、二人とも息をはずませて感慨に耽っていた。
ヘブロン丘陵とエルサレム丘陵に挟まれたベツレヘムが、ゆっくり闇に沈んでいく。わずかに赤く見えていた山々の稜線も、藍に溶けた。代わりに、家々の明かりが丘一面に灯される。
ヨハネが身動ぎもしないで見とれている。バラバは、ヨハネの肩に手を乗せ促した。
「さあ、そろそろ寝場所を捜そうか」
「そうだな」
とヨハネが答えたとき、崖下に、バラバは徒ならぬ気配を感じた。
夜風が急に澱んでくる。ロバも、しきりに足をばたつかせては何度も嘶いた。空気は真冬のように冷たくなった。くぐもった梟の声だけが、薄気味悪く山々に木霊する。それ以外は一切の音もない。
冷気に思わず眼下を凝視した。ヨハネの視線も谷底をとらえている。
と、忽然と梟が鳴きやんだ。いよいよ肌寒さが身震いに変わる。
「ヨハネ、気をつけろ。下から、何かが噴き上がってくるぞ!」
「ああ」
バラバの呼びかけに、ヨハネが短い声を洩らした。バラバは拳に力をこめる。ヨハネを背に押しやり、前面に立って身構えた。何が飛び出してきても、ヨハネを守るためならぶちのめしてくれる。
期せずして、谷底から風が強まり、激しく身体を揺さぶられる。何とか足を踏んばるが、左手で斜め後方にいるヨハネを支えることしかできなかった。
すると冷風は、もの凄い速さで上空に浮かび上がると、静かに下降した。紫紺の空に薄墨色のぼやけた姿を眼前に映し出す。近づくにつれ、しだいにその輪郭が鮮明になってくる。色も神々しい純白に変わった。
正体が掴めた。けど感触がどこかいつもと異なり、まともに声が出なかった。いったい本質はどこにある? ときに醜悪な試みで悩ませ、夜明けに謎を突きつけた。また強烈に威嚇したあと、変容したかのように純白の衣で天使の振りをする。
ヨハネも正体が分かったようだ。
「この空気の肌ざわりと匂い、堕天使ルシフェルか!」
バラバの横に進むと、にべもなく言い切った。
声は凛としている。先ほどとは違って微塵も怯えが感じられない。強いとは思えないが、どんな相手にも臆することのない大胆かつ一本気な人間性。短い言葉にヨハネの性格が滲み出ていた。しかし、いかんせん修羅場を経験してきていない。
バラバは前に押し出ようとするヨハネに「ここは、まかせろ」と、再度背に押しやった。だが、ルシフェルの照準はヨハネだったのかもしれない。
「よくぞ見破った。さすがは水と呼称される預言者である。他神の辱めを受け、やすやすと悶絶した神の子よりは骨があるかもしれない。もっとも、しょせん征服者の操りを賛美する愚鈍な預言者にすぎないが」
ルシフェルが天使の姿で現われた。
純白の衣の背に十二枚もある金色の羽根を広げ、真っすぐに垂らせた金髪と優雅な口もと。何より深みのある瞳を湛えている。
「ルシフェルよ、お前に気高さがあるのは認める。だったら、なぜそこまで醜く心を堕とすのか」
バラバは嘆いた。
「哀しいかな。命を救われたことも忘れて、また姑息な人間に逆戻りしたようだ。目先しか見えぬヨハネに篭絡されたか。イエス・バラバよ、そなたなどに同情されたくはない。もう少し霊的本質に即した行動をとらねば、後々大きな後悔をすることになろう」
「これはこれは、とても堕天使とは思えぬ言葉。神より最初に祝福を受けたのを忘れ、即した行動をとっていないのはどちらのほうだろうか。きさまこそ祝福に値しないことを思いしれ!」
ヨハネが何を思ったか、激しく罵ると手に持っていた枯れ木をルシフェル目がけて投げつけた。当てようとも、当たるとも思っていないようだ。ただ足があるなら浮かんでいずに、その足で地を踏み話し合えと言いたげだった。
が、ルシフェルは鼻でせせら笑い、手をかざすと、いとも簡単に枯れ木を消した。
「骨があると思っていた預言者の若者は、生意気というか無知である。効果的な行動も思考も理解していないようだ。果たしてそんな体たらくで、ユダヤの預言者として務まるのか甚だ疑問だ。少々思い知らせてくれよう」
ルシフェルが深い瞳を妖しく光らせ、唇を微笑させた。
「ヨハネよ、これが何だか分かるであろうか」
漆黒の夜空に妖艶な女性を映し出した。
肌の透けた衣装を身に纏う、二十才前後の魅惑的な女性である。これ見よがしに腰をくねらせて艶めかしい踊りを舞っている。妖艶でありながら整った顔立ちと、長い髪に装飾された宝石。首にも腕の先にも、足首にまでも色とりどりの宝石が鏤められている。
続けて、浮かび上がらせた踊り娘に何やら呪文を呟くと、右手の上に人間の首を浮かばせた。銀の食器に乗せた男の生首だった。およその年は三十才ぐらい、どうしてか、それがバラバの血を逆流させた。
ヨハネが瞳を凍りつかせている。それでも負けん気が、握りしめた拳を小刻みに震わせる。
ルシフェルが凍りつくような目をヨハネに当てる。
「どうやら理由が見えたようだ。ならば預言者としての資質は、多少ともあるのかもしれない。しかし過去まで見えたわけではあるまい。むろん踊り娘の正体も――」
「おかげで遠い過去世も、女の正体もすべて見えた。だからこそ贖罪のためヨルダン川の水に浸かり、後々禍根を残さないようにと、自らの罪を洗い流して悔い改めたのだ」
ヨハネが過去世を振り返ったかのような言動をした。
「なれば最初の人間よ。罪は汝にあったのではなく、神にあったのを思い出すがよい。そのとき汝が見たのは真実、この踊り娘も、それを知らしめようと蛇に変身したにすぎぬ」
ルシフェルが口調を変えた。低い声で言い聞かすように話した。
遅まきながらバラバにも、やっと事態が把握できた。踊り娘らしき女性の名前までは、まだ確として掴めないが、銀食器の上の首は間違いなくヨハネ。そしてヨハネこそが、最初の人間アダムだったのだ。
ルシフェルに能力を封印されたせいで、はっきりと経緯は思い出せなかった。でも、すべてが嘘ではない。
バラバは記憶の糸をほぐしながら探った。すると思考の先に澄みきった青空が見えた。
見渡す限り緑が広がる中、中央に園があり、それを取り囲むようにして肥沃な大平原があった。生き生きと馬が駆け、牛や羊がのどかに草を食べている。その横では微風に吹かれ麦の穂が光うねっていた。
さらに目を凝らせば、羽を広げた天使と小鳥が優雅に飛び交い、ともに翼をきらめかせている。耳を澄まさなくとも楽の調べにも似た神を賛美する歌声が流れ、たまらなくバラバの心を掻き乱した。
泉のほとりで、オリーブや林檎、シュロの樹々に抱かれて男と女が過ごしていた。が、二人をよく見れば、女性はルシフェルが夜空に映し出した踊り娘。男はヨハネだった。
「リリス、か!」
愕然と言葉を発した瞬間、ヨハネが立ち上がり、激しく声を張り上げた。
「ルシフェル、リリスを唆したのもエバを惑わせたのも、皆きさまが原因だ――」
緊迫感を漂わせる沈黙が流れた。誰として口を開かない。聞こえるのはヨハネの激しい息づかいだけだった。
ルシフェルが、ゆっくり切り出す。
「見るがよい。アダムはエバの登場を待たずして肉欲に溺れている。それは征服者の意思でもあったのだ。人間可愛さにリリスを創ってあてがい、憐れにも盲目になっていた。だがリリスが不適当と判断すると、二人の間に生まれた子を自殺に追い込んだ。私は二人の子、アスモデウスらを征服者から隠して引きとった。だから人類にとってカインとアベルが最初の子ではない。人類は無知な征服者のため、早々から破滅を迎えていたのだ。それでも憔悴するアダムを見かねた私は、エバの誕生を征服者に進言し魂に息を吹きかけた」
「ばかな、ならエバの魂には、お前の意識が入り込んでいるというのか」
ヨハネが憤りを見せ「詭弁だ、降りてこい」と指で手招きした。
一本気なヨハネの性格は諸刃の剣である。正しいと思えば相手が誰であろうとも絶対に歯に衣を着せない。無責任な民衆は諸手を挙げて狂喜するだろう。普段、皆が言えないことを代弁してくれるからだ。それが魅力になるかもしれないが、とうぜん敵は多くなる。
何も妥協してまで気配りをしろとは言わない。けれど相手の心情を多少でも理解してあげなければ、逆に付け込まれ恨まれる羽目に陥るのだ。
だが、エバのことなら間違いだ。ルシフェルは知恵をたきつけただけで、エバの魂に息吹を注ぎ込んだわけではない。天使でありながら天使を創ったのも、人類最初の子を天使として育てたのも事実だが――人間を創ってはいないのだ。
それにしてもリリス、蛇に化身してまでアダムに恋い焦がれていたのか。だったら、ただの踊り娘としてヨハネの前に現われたわけではないだろう。
裸どうぜんの透けた衣装を纏っているが、鮮やかな緑に染められた絹のスカーフには、金の縁どりが施されている。そのうえ耳飾りにしても首飾りにしても、見たこともない輝きを放つダイヤモンドが細工されている。指輪にいたっては、純金の台座に真珠が埋め込まれていた。まぎれもなく王家の娘にほかならない証しであろう。
なら、リリスとルシフェルの目論見は何だ。あの勝気なヨハネの背中が失望と怒りで震えている。
「ルシフェル、見苦しいとは思わないのか。お前のしていることは誘惑ではなく、単なる虐めだ。堕天したとはいえ相手の意思に反してまで行動に移さぬのが信条なはず。いつから、そこまで性根を腐らせたのか!」
「堕落寸前の、神の子に言われようとは、恥ずかしい限りだ。不服であるならば、時刻を少し戻してあげてもよいが」
ルシフェルが口もとに笑みを浮かべた。
まさか時間を操作し、斬首の瞬間を見せつけるつもりか。
無性に腹が立った。憤りに頭の中が真っ白になった。「もう約束なんてどうでもいい。きさまを倒す!」
「無理だ。力を失った状態では勝てぬ。能力の回復には時間がかかるのだ。が、どうしてもと願うのなら封印を解いてやってもよい」
首と踊り娘を映し出していた右手を振ると、絵を消した。バラバを無視してヨハネに向き直る。
「汝の能力はイエス・バラバと違い、過去と未来を予見するだけ、いわゆる透視能力であったな。ということは、わざわざ私が見せなくてもいずれ知ったこと。蛇足だった。それはさておき、私が現われた理由を教える」
ルシフェルが言葉を区切って、バラバとヨハネを同時に見た。「その前にヨハネ。じつをいうと、私は汝にとても興味があるのだ。イスラエル中を見渡しても、今現在――汝ほど世を憂えている人間はいない。どうだ、イエス・バラバや、ナザレのイエスと同じ能力を授けよう。私のよき下僕にならぬか」
乗るな、ヨハネ。
バラバは、ヨハネの表情を凝視した。
「今のままで充分だ。消えろ、二度と私の前に姿を見せるな」
が、杞憂だった。少しもヨハネは動じていなかった。
「これはこれは頼もしい限りだ。分かった、ならば核心の話をしよう。私は、つい今しがたまでナザレのイエスに会っていた。明日、エジプトに向け旅立つよう仕向けてきた。三十才までイスラエルの地を踏まぬという約束をさせた。これがどういう意味か分かるであろうか」
バラバは、ルシフェルを憤然と睨みつけた。
「きさまという奴は――」
三十才すぎてから宣教をはじめて、民を動かせるのか。それよりもアレクサンドリアから、イスラエルに帰ってくる保証もない。「ルシフェル、さぞかし満足であろう。だが言っておく。お前の弱点は、人が誘惑に乗らずに慎ましやかな道を選ぶこと。私は理想の社会を創り上げ、お前を孤立させてやる。我が神の配慮の正しさを実感させて見せる」
「ふ、人になったのに人の心を知らぬようだ」
ルシフェルが肩をすくめると、バラバから目を逸らしてヨハネを見た。「ま、よい。ではヨハネよ、マケルスでまた会おう。イエス・バラバ、そなたとはゴルゴダで会うことになるだろう。もちろん、それがどういう意味なのか、言わずとも二人には分かるはず――」
重い言葉を残して、ルシフェルが姿を闇に溶け込ませていく。
バラバは、やり切れない思いで叫んだ。
「待てルシフェル。弟ではなく、この私を誘惑しろ!」
「興味はない」
残酷な否定だった。ルシフェルの姿が消えるのを茫然と見送った。
風もやみ、平静が戻った。ところがバラバの胸には依然として深い絶望が渦巻いていた。
興味ない。置き去られた言葉が、いつまでも耳に残っていたのだ。ほんのわずか、ルシフェルが姿を見せたのは数分だけだった。それなのに衝撃は計り知れないぐらい大きい。
弟を謎に包んだまま急速に時代は動いていく。だとしたら、いまだ生み出されていない聖霊と繋がる儀式を、早急に創り上げる必要がある。
そうか、ヨルダン川だ。
ヨハネの過去世でもあるアダムが贖罪した川、そこで水による洗礼を与えればいい。
多くの人はノアの大洪水を知っていても、それが神の意思による再生、水の洗礼だとまでは知らない。一部の有識者が、神が水によって贖罪を問うたと理解しているだけである。
しかし、人間は始祖の段階で贖罪の意味を知り、アダム自らが発見していた。
まてよ。そうだとしたらルシフェルは、それを伝えるために狡猾を装い、過去世を見せて、バラバとヨハネに自覚を促したとも考えられる。アダムのことを思い出さなければ、ヨルダン川の洗礼など思いつかなかったからだ。
もし、ほんとうに真意がそこにあるとしたら、ルシフェル、お前は不器用すぎる。
バラバは、ルシフェルが消えた漆黒の夜空を見上げた。
「私を誘惑しないのは、興味の問題ではなく、試練を乗り越えさせたいからか」
小さな声で呟いた。それがヨハネに聞こえたらしい。
「どうした。衝撃が大きすぎたようだが、大丈夫か」
「衝撃なんてヨハネに比べれば屁みたいなものだ。心配するな。それよりも……」
とバラバは、そのままヨハネに向き直った。
ヨハネが聖霊と繋がれば、弟に洗礼を授けることもできる。だったら問題点は一点のみ。バラバが聖霊を呼び出す力を持っていれば目的は叶う。
「聞いてくれヨハネ。なぜ、我らが今ここにいるのか。またルシフェルが何を伝えたかったのか、すべて理解できた」
「うむ」と、ヨハネが短く返答してきた。バラバが何を言わんとしているか直感で理解しているのだろう。
「この最悪な状況を打開できるのは、ヨハネ、お前しかいない」
「分かっている。巨大な敵と戦うには、私が聖霊と繋がっていることが前提なのだ」
ヨハネが語気を強めた。
「ならば私と約束をしてほしい。弟に、水による洗礼を授けるのだ」
「洗礼、それは私もずっと考えていたことだった」
ああ、だったら悔いはない。悩むことなど少しもないのだ。道は正しくひらけている。闇の先に埋もれていた光が僅かだけ見えた気がした。あとはバラバ自身の能力の問題だ。
「バラバ、ルシフェルは悪の象徴だけど、今もって聖霊と繋がっているのだろうか?」
ヨハネが唐突に聞いてくる。
「一度繋がった聖霊との縁は、決して離れることはない。ただし自ら潜ませることや、他の力によって封印させられることはある。かといって消滅することはないと信じている。だが、どうしてそんなことを聞く?」
「ルシフェルをこの肉眼で見たとき、全身が震えたのだ。怒りや畏れではなく感動だった。私は……ルシフェルを見て感慨に震えていた」
ヨハネが、バラバから視線を外して熱い眼差しを夜空に向けた。
はじまりを告げる者が、自らの力のなさを素直に認めて純粋に神の息吹を求めている。そう思わされてならなかった。ルシフェルの光は、まぎれもなく神の光が託されているからだ。
ならと、バラバはヨハネの手を握り、さらにもう一方の手を額に当てた。声を振り絞る。
「無限者である父から分離した聖霊よ。あなたの望む無条件の愛ではない。罪を背負った男の憐れな願いだ。だが、どうか聞いてほしい。純粋な気持ちで、生涯で一度きりの洗礼をヨハネに授けたい。あなたと繋がり静謐に満ちなければ、ヨハネは真のメシアを目覚めさせることができないのです」
バラバの真剣な呼びかけに、ヨハネは感じるものがあったのか神妙に跪いた。
「眼前に開かれた道を意思だと信じて、喜んで弟の生贄となります。お願いです、どうか力を、お貸しください!」
呼応した空気は、そのまま明けの明星である金星を勇壮に光らせた。でも、どこか金星の輝きは滲んでいるようにも見えた。
聖霊ではなく金星が呼応した? もしかして封印を解いたのか。やはりルシフェル、これが真の望みだったのか。
そこへ、金星の遠く先から光が瞬いた。光は煌きながら近づき、目の前で停止した。手のひらぐらいの微かな光体だったが、しだいに輝きを増すと辺りを金色に包んでいく。
それとともに和らかい風が吹き上げ、バラバとヨハネの髪を優しくなびかせた。
とバラバの汚れていた衣が、神々しいまでの純白に変わった。
「変貌だ。たとえ一時的なものであるとしても、汚れて黒ずんでいた衣が白く輝くはずがない。それはつまり、神がバラバを見すてずに神の子として認めていたことになる。私はバラバの存在を認めていながらも、どこか否定していた。もう少し寛容を見せ、バラバのための道を創って上げるべきだった」
ヨハネが目に涙を溜めた。
すると光から、風を媒介とした荘厳な声が響く。
「愛する子らよ、悲観することはない。元々この試練は、わたしが与えたものではないのだ。自ら感じとって道を選択したのである。ルシフェルの誘惑も深き愛の試練と理解してほしい。いつか、分かるはず。まずは迷える、もう一人の子を善に導くのだ。それが人を、必ずや原点に振り返らせる結果となるはず」
癒されていく。まさに天上の愛の味わい。
「人の子イエス・バラバ、汝に授洗の権能を授く――」
息吹とともに恩寵がとどけられる。瞬間、天上の慈愛が五感のすべてに感じられた。
バラバは胸を熱くさせてヨハネに呼びかけた。
「神と聖霊の名において、ヨハネに授洗の権能を授ける!」
直後、エデンを追われたアダムがヨルダン川の水に浸かって心を清めていったよう、ヨハネの心を洗っていく。
確認すると光は消えた。
バラバとヨハネは余韻に浸ったまま動けず、いつまでも消えた光の方向を見つめていた。気がつけば星が寄り添うようにして集まっていた。梟の声が、やんではまた聞こえ、少し離れた所でロバがぐひんと嘶いた。
翌日。目を覚ますと、辺り一面にやたら甘酸っぱい葡萄の香りが漂っていた。岩の切れ目の土に汁を滴らせ、数十本の山葡萄が咲き誇っている。バラバは起き上がり実る房から一粒もいだ。それを口に頬ばった。
さり気なく後ろを見ると、岩壁にヨハネがもたれかかるように立っていた。ベツレヘムを正面に見すえてクムラン側から登る朝日を眺めていた。昨日までのヨハネとまたどこか違う気もする。
ヨハネがこちらを向いた。勝気なはずの目がかなり潤んでいる。
「聖霊が、あんなにも神々しくて、強烈なものだとは知らなかった……」
バラバは黙っていた。
「じつは、あれからレミエルに幻視を見せられた。そして新たな予見を二つ知らされたのだ」
ヨハネが瞳を曇らせる。息を吸い直してベツレヘムを囲む草原を見つめた。すでに羊が放たれ草を頬張っている。
「もう何を聞かされても驚かない。神と約束したことだ。行動も変わらない」
「分かった、話す」
が、言ったきりヨハネは話さない。そればかりかますます表情を固くして伏し目がちにさせた。
「どうした?」
「言わなくてはいけないのだろうか」
「喋りたくないことを聞くつもりもない。お前の好きにすればいいことだ」
昨夜、破壊の道を神の前で宣言した。だったら、それに伴う痛みは必ず生じてくる。自分のことだ、死後、地獄に堕ちることだったら聞くまでもない。ただ、人として知った情け、これだけは絶対になくさない。
バラバはヨハネの肩をぽんと叩き、踵を返した。すると背中に声が張りついた。
「待ってくれ、バラバ。やっぱり聞いてほしいのだ!」
バラバは立ちどまった。
「近い将来、ユダが私の所へやってくるだろう。そうするとバラバの創った少年たちの家が解体してしまう」
「そんなことはない、ユダがいなくなってもレビやシモンがいる。それにしっかり者のミカがいるはずだ」
バラバは背中を向けたまま言い返した。
「ミカ? ああ、姉妹の姉だな。確かに、その女性は最後まで守り抜こうと努力した。でも少年たちがユダより先にいなくなる。残ったのは二人だけだった。その姉妹たちにも、とても口に出して言えない悲惨な試練が待ち受けていた」
「悲惨な試練?」ヨハネに向き直った。
「言えない。だが、乗り越えるしかない。運命は必ず好転する」
ヨハネの励ましとは裏腹に日が高くなる。繁った草花を焼きつくすかのように日射しが強くなった。
6
丘を登りきると視界がひらけ、天に向かって聳え立つ白亜の大神殿が見えた。
延々と続く褐色の城壁に囲まれ一段と威容を誇っている。まさしくダビデ、ソロモンの時代に栄華をきわめた聖地エルサレムだった。
二人は聳える神殿を見上げた。何度見ても威厳に満ちている。城壁の高さだけでも四十キュビットではきかないだろう。とても人間業とは思えぬ神秘的な建造物だった。
それなのにヨハネの言葉は賛美に遠かった。
「どうしてか分からないが、とても澱んだ空気が感じられる。空は晴れているのに町全体がどす黒く思えてしまうのだ。きっとここは預言者たちを追い払い、殺す町なのだろう」
神殿の屋根の上に、一羽の黒鳥が舞い降りた。どこか威嚇しているようにも思えた。
「預言者だけではない。メシアを否定し、擁護する者を葬むる町だ」
それは歴史が証明する。
ダビデがヘブロンを拠点にして丘陵地帯を支配していたとき、エルサレムを統治していたのはエブス人だった。海岸地方はペリシテ人が治めていた。ペリシテは、ダビデがイスラエルから追われたときに快く匿ってくれた国でもあった。もともとは難を逃れて海岸地方に土着した民族。英雄ゴリアトを倒された敵であっても温情を見せた。マリアの館で会ったダゴンを崇拝していた。
その後、ダビデは王としてヘブロンに凱旋した。目的はユダとイスラエルの全土統治である。イスラエル人がパレスチナを支配するには、ほぼ中央に位置するエルサレムがどうしても欠かせなかった。内乱を乗り越えて、ほどなくエルサレム侵略に成功したダビデは、彼らが崇める土着神を葬り、契約の箱をエルサレムに安置した。
また恩義のあるペリシテを打ち滅ぼした。モアブを壊滅させて支配下に置いた。アラムもエドムも属国とした。そしてダビデは名君の名をほしいままにする。
しかしダビデは自分の妻を裏切り、部下の妻バト・シェバを寝取った。そのときダビデには八人の妻がいて十人の側目がいたのだ。エルサレムは呪われていく。
近親相姦、兄弟同士の殺し合いの果て、バト・シェバとの不倫の子、ソロモンの時代に、ようやく絢爛な神殿を完成させる。兄殺しの贖罪もあってか、牛二万二千頭、羊十二万頭を殺して神に捧げた。
侵略と他民族抹殺、近親相姦と肉親同士の殺し合い、無意味な動物の殺戮はヘロデに伝承されていく。エルサレムとは血塗られた都市なのだ。
今エルサレムには、ローマと癒着するアンナス一族がいる。装飾された言葉の裏で、礼拝器具商、両替商を束ねる権勢者だ。莫大な富、その栄光の陰で泣く民は多い。
そのような貧しい民が、偶像崇拝に走っても仕方のない現状だった。指導者は金銭と権力闘争に明け暮れ、神をまったく畏れなくなったのだから。もちろん彼らはメシアの登場を望んでいない。
と、そんな二人の前へ、ファリサイ派の学者らしき男が歩いてきた。
午前中の礼拝を済ませてきたのか、襟に金刺繍を施した黒い衣を着て右手には律法書を持っていた。暑さよけに巻く布から覗く目は知的だが、それだけに冷たく鼻持ちならなかった。
しかし、走ってはいないものの妙に急ぎ足だ。口も引きつらせているし、なぜか早く立ち去りたいという表情がどことなく窺える。
バラバは首を傾げて尋ねた。
「ラビよ、お待ちください。その様子は只ごとではない。如何なされたのか」
問いかけに、学者は無愛想に答えた。
「おそらく盗賊のたぐいであろう。城門から、すごい勢いで疾駆してきて、そこで落馬した。見れば斬りつけられた傷がある。どうやらローマ兵に成敗されたに違いない」
「怪我人がいるのか! なら盗賊でも何でもいい。あなたは、その傷だらけの男を見すててきたのか」
「あたり前だ、罪人なのだから――」
バラバの問答無用の詰問に、学者は窮したのか、逃げるようにして去っていった。
「何て奴だ」
それが人を救うべき立場にある律法学者の行動か。バラバは無性に腹が立った。
ファリサイ派、自他ともに認めるモーゼの解釈者としてエルサレムに君臨している。正す手だては、正義感の強い指導者を立てなければ救いようがないところまできていた。クムランは動かず、ファリサイ派、唯一の左派であったシャンマイ派は、過激な熱心党に変わっていたからだ。
だが、それよりも気になるのが怪我人のこと。ヨハネと顔を見合わせ同時に駆け出した。
六十キュビットぐらい先、無花果の木の下に所在なげに立ちつくす馬が見えた。きっと男は馬の側らで、息も絶え絶えに横たわっているのだ。心配で足を速めた。
そこへまた、素知らぬ顔で横を通りすぎるレビ人らしき男の姿を確認した。
律法学者ほど裕福ではなさそうだが、清潔な白麻の衣の胸には高価な竪琴が抱かれていた。察するところ聖所の楽師なのだろうか、目を遠く空の彼方に置いていた。
まただ。なぜ怪我人に気がついても、平然と行ってしまうのだ。
バラバには到底信じられない光景だった。レビ人を問い質した。
「馬の横に、怪我人がいなかったのか。もし、いたとして、あなたはどうして声もかけず、平気で通りすぎたのか」
レビ人が眉間に皺を寄せ、迷惑そうに答える。
「あれはガリラヤ人。しかも熱心党員だ。さっき城内で騒ぎがあったから、何か悪さをしでかしてローマ兵に痛めつけられたに違いない。いくら怪我をしているからといっても、罪人に声をかけるなんてごめんだね。関わりたくないよ」
耳を疑うほどに、あっけらかんとした対応だった。バラバは強い憤りを覚えた。
「同じイスラエル人、それでも神にたずさわる仕事をする身か。少しは恥を知れ!」
気がつくと叱咤していた。
しかしレビ人は、ふんと鼻を鳴らし悪びれずもせず去っていく。
呆気にとられた。これが聖地に住む人たちか。が、今は怪我人を救うことこそ大事。バラバは駆け寄った。
と、いつの間にやら身なりの貧しい老人が、怪我人に水を飲ませ、傷口を葡萄酒で消毒していた。さらに腰袋から布を取り出し血止めをしようとする。
――ここに、人がいた。
見すてたものではない。いまだ心優しき人はいる。バラバはひとしきり感動を覚え近づいた。
怪我人は律法学者のいうように、やはり肩から背中にかけて斬りつけられていた。地べたに身を伏せたまま息を荒くさせている。逃げる際に、後ろから一閃、振り抜かれたのだろう。
「どうでしょうか、怪我人の具合は?」
バラバは、黙々と血どめをする老人に尋ねた。年令は六十代前半で、いかにも好々爺といった感じだった。
「わしにはよく分かりませんが、傷はかなり深い。一応の消毒はしたが血がいっこうにとまりませんのじゃ」
如何ともし難い表情で手を広げ、老人が言葉を続けた。「この怪我人はガリラヤ人でしょうが、わしはイスラエル人でありながら、ユダヤ人から軽蔑されるサマリア人なのです。崇める神も違うし、この場に長くいれば双方ともに立場が悪くなりましょう。ゆえに立ち去りますが、どうか勘弁を願いたい」
気まずい空気を考慮して、自らサマリア人と名乗る老人は深々と一礼をし去っていった。直後、荒んで無痛になったバラバの胸にじんわり温かい風が残されていく。なぜか心が緩んだ。
ふっと我に返って怪我人を見ると、ヨハネが跪き懸命に怪我人の背に手をかざしていた。緩んだ心がまたすぐに熱くなる。
「何をしている? まさか、癒しか……」
ヨハネには、そのような能力がないはずだ。不可解な仕草だった。しかし表情は真剣だ。
が、じきに声が洩れた。
「だめだバラバ。きのう聖霊と繋がったので上手くいくかなと思ったが、やっぱり私には無理だった。まったく血がとまらない」
ヨハネの弱りきった叫びに、ぴくりと怪我人の眉が動いた。かすれた声で反応する。
「バラバと? もしかしてこの感じ、まさか、神の子イエス・バラバであるのか」
誰だ? どうして名を知っている。しかも、神の子などと。
バラバは顔を近づける。誰であるか確かめた。
年齢は五十才ぐらい、もはや顔に精気がないが、切れ長で目の鋭い男だった。しかし見たこともない人だった。
「どうして私を、神の子などと?」
バラバは膝を地面に突いて、解せぬ気持ちで尋ねた。すると血の気の引いた顔から気力を振り絞った声が返ってくる。
「ギメルを知っているか」
男の言葉に、ギメルの浅黒い肌をした面影が浮かび上がる。
「いかにも」とだけ、答えた。
「ならば、ユダも知っていよう」
男が続けざま、突拍子もない人間の名を告げた。
レビ人から、この人が熱心党員と聞き、本人からギメルの名前も出た。そこへユダの名だ。心が波立った。
「いったい、あなたは誰なのか」
「私は、二人の父でシモン。死を覚悟してエルサレムに潜り込み、虎視眈々と総督の命を狙っていた。しかし愚かであった。奴らの首はただの飾りものだ。知らぬまに昨日、グラトスが総督になりおった。そのため私は行き場を失くし、市中を見物するグラトスに馬上から斬りかかったのだ。が、しょせん単騎。護衛に阻止され槍で刻まれて、このざまよ」
シモンは、もたげた顔をぱたりと土に伏せ、声をとぎれさす。
「何と、ユダとギメルの父であられたか」
バラバとヨハネが、同時に、同じ驚きを洩らした。
「では、追っ手が――」
ヨハネの付け足した言葉に、バラバはエルサレムの方角を睨んだ。城までわずか四千キュビットの道のり。すぐにも追いかけてきそうなはずなのに、気配は確認できなかった。
「官邸の裏手に数ヶ所、火を投げ込んでおいたから、そちらに気をとられているのかもしれん。それに私は馬、奴らは徒歩であった。だが、じきに追いかけてくるのは間違いない。神の子よ、逃げろ。私といてはまずい。逃げるのだ」
ヨハネと顔を見合わせた。
追っ手がくれば、シモンばかりでなくバラバもヨハネも一緒に斬り殺される可能性が高い。動揺は隠しきれなかった。
だとしても、その前にシモンの傷を治すことが先決だ。放っておけば死はまぬがれない。それをどうして見すてておける。ヨハネに決意の視線を送った。
もとよりヨハネも同じ考えだったらしい。強く頷いてくる。バラバは腕まくりをして背中に手を当てた。
「しばらく我慢してください。私は逸脱してしまった人間なので能力が乏しい。でも昨夜、少しだけ復活した。時間をください、それであれば必ず治せる気がします」
「無用だ、覚悟していた。それに、はや老骨の身、今さら生きながらえても何の役にも立たぬ。早々と立ち去ってはくれまいか」
シモンが、バラバとヨハネの心意気を感じたのか、痛々しいほどの強がりを見せてくる。が、立ち上がることも儘ならない状態である。
「かまいません。我ら二人、ここで命が尽きるなら、それもまた運命。潔く散りましょう」
バラバはシモンの気概に触発された。手に心をこめると目を瞑って祈った。
数分が過ぎた。傷が僅かずつ塞がれていく。しかし癒しを行うバラバの耳に、殺気の混じる蹄の音が轟いた。
「ローマ兵だ!」
ヨハネが叫ぶ。顔を上げれば、渇ききった大地に土煙を上げて騎馬の一団が迫ってきた。その距離三千キュビット、一分もしないうちにやってくる。
まだ傷口は半分も塞がっていない。むろん血がとまったわけではない。サマリア人が巻いた布に滲み続けていた。
――くそ、未熟者め!
自らの力のなさを痛感するものの、途中でやめるつもりはさらさらなかった。
ヨハネが怪我人とローマ兵を見ながら、唇を噛み締めている。拳を強く握っている。澄んだ目の中に、めらめらと燃えさかる炎を滾らせていた。
「ヨハネ、あと少しだけ、ローマ兵を凌いでほしい」
せめて、あと三分あれば傷を完全に治せる。
「分かった、まかせろ」
我が意を得たり、ヨハネの返答はそう見えた。勇んで立ち上がる。道の中央へ進むと、押し寄せるローマ兵に両手を広げて阻んだ。
「待たれよ! そなた、名をヨハネと言うか。ならば私の師でもあり、友でもあったザカリアの子か」
シモンが眼差しをヨハネに向けた。その驚きは尋常ではない。
「その通り、私の父はザカリアです」
道に立ちはだかったままヨハネが答える。
「おお、何ということだ。私は聖所で、そなたの父ザカリアとともに大天使を見た。その輝く大天使は言った。『ベツレヘムで生まれる、ザカリアの子は人類の始祖。エリヤと同等の力を持っている』と。なら神の子だけでなく、ここに断って久しい本物の預言者までもが揃っていたのか――」
シモンが人目を憚らず、とつぜん激しく全身を震わせる。が、我に返ったのか「こうしてはおられん」とばかりに、ふらふら起き上がろうとした。
「何をなさるつもりか」
バラバは慌てて身体を支えた。
「心配はいらぬ。年をとっても、このシモン。そなたらが生まれたとき大天使に憂国を誓った殺戮者」
「しかし……」
「ええい、言うな。神の子と預言者を、私などのために死なせるわけにはいかんのだ。戻れ、預言者よ、ここへ戻ってこい」
自ら傷だらけの身体に活を入れると、シモンは立ち上がる。敵は目前に迫っていた。
立ちはだかるヨハネの前に濛々と砂塵を巻き上げて五頭の騎馬がとまった。馬の鼻面がヨハネの顔に密着し、荒い鼻息が前髪をなびかせた。木陰にいるシモンの姿は見えていないようだが、すでに道端にたたずむ馬は見つけられている。
馬上の兵士が殺気を隠そうともせず、ヨハネを睨んだ。膝までしかない薄絹のチュニックの上に装備した皮の鎧が、居丈高に威嚇を増長させていた。
見るからに屈強そうな兵士たちだ。右手に槍を持ち、盾は馬の背に括りつけてあった。首には青いスカーフを巻きつけている。いくども修羅場をくぐり抜けてきたのだろう、容赦ない凄みがあった。
その中にあって、一人だけ全身に邪気を纏い、青馬に跨る痩身の兵士がいた。バラバよりかなり上の年齢で三十代後半だろうか、ルシフェルと同じ碧眼だった。
喉もとまで覆ったブロンズの兜を被り、胸の部分に青白く光る青銅の鎧を装着している。脛にも膝にも青銅の当てものが見える。おそらく隊長、眉一つ動かさず鋭い眼光でヨハネを射すくめていた。
なぜか、その男の周囲だけが、異様に寒々として感じられた。十数キュビット離れたここまで冷気が伝わってくる。平素が戦場、おそらく男には殺戮と戦いだけがあって安息などないのだろう。
世の中は広い、このような男が存在していることを初めて知った。きっと信仰とは無縁の所に生き、残忍なまで自己を磨いているに違いない。そう思わされてならなかった。
草食動物を食い殺す猛獣でさえ、飢えていなければ目の前を羊が通りすぎようと見向きもしない。だが、この男は違う。たとえ吐き出そうとも骨まで喰いつくすだろう。
「小僧、どこかで見た顔だ――」
低い声でヨハネに迫った。答えようとしないヨハネの表情を窺えば、あきらかに知っているようだった。
なら、この男こそがルシフェルと契約をし、父を殺したカシウスなのであろう。
そんなバラバの視線を感じたのか、隊長がぎらりとした目を向けてくる。放たれた睥睨が渦を巻いて一直線に跳んできた。強烈だ。
張りつめる緊張感の中、シモンがなぜか、ふっと笑った。表情を険しくさせるとバラバの手を振りほどいて立ち上がった。
「若者相手に、無用の虚勢を張るかローマ人。私なら、ここにいる」
叫びに反応した他のローマ兵が驚きを見せる。すぐに殺気立った。
「老いぼれ、そんな所に隠れていたか。こっちへ来い! ぶっ殺してくれる」
先頭にいた男が、馬上からシモンを見下ろして威嚇する。ぐいと馬の手綱を引いた。
ヨハネが動く。バラバとの約束を守ろうと、無謀にも馬の前へ回り込んだ。
「引き返せローマ兵! 相手は老人、しかも怪我人だぞ」
隊長の目が光る。指で新たな兵士をうながした。すぐさま横の兵士が足で馬の腹を蹴る。
「小僧、邪魔立てするな、退け!」
と目を吊り上げ、石打の部分で思いきりヨハネの胸元を突いた。
ヨハネは身体をくの字に曲げ、弾き飛ばされた。
兵士が馬を進めてくる。さらに二騎がすばやく左右に散った。潜む伏兵を警戒してのことだろうが、前方の一騎と後方の二騎、そして左右から挟みかかる二騎。異様な隊長の指揮の下、見事なまで統制がとれていた。
シモンがいよいよ目を剥いた。怪我を忘れて抜刀した。
バラバはシモンを見て、やっと不可解な笑みの意味を知った。おそらく千載一遇の死に場所を見つけ、偶然にも巡り合ったバラバとヨハネに、壮絶な最後を見とどけてもらいたかったに違いない。
気持ちは理解できる。だが壮絶な最後というのは、一方的な無駄死にではない。それに、見とどけるにはバラバとヨハネが生き残ることが前提だ。
奴らは、ただのローマ兵とは違う。ルシフェルと契約した隊長はもちろんのこと、どの兵士たちも訓練されていて強靭だ。
殺させはしない……。
バラバは手のひらを広げた。かすかな波動は甦りつつあったが雷ずちを放つほどの力強さはなかった。だったら持ち前の俊敏さで対抗するしか手段はない。飛び出す時機を窺った。
シモンが、ずりずりと間合いをつめる。
無謀だ。相手は槍、そのうえ騎兵だ。無策に、しかも真正面から挑むのではどう転んでも不利は否めない。地上戦ならまだしも、馬上の相手にいくら剣を振り回してもほとんど意味はない。運よく下肢に殺傷を与えても致命傷には至らない。
ならば、私がローマ兵の槍を奪うほかに助ける道はないだろう。
決めると行動は早かった。バラバはローマ兵に反応を与える間も見せず、迫る騎馬の側面に走った。
「赦せ!」
と一言、道端に転がる拳大の石を掴んで投げた。石は狙い通り、長い馬の鼻先に激しくめり込んだ。馬が、けたたましく嘶くと足を縺れさせた。その興奮して暴れまわる馬をなだめようと、ローマ兵が必死に手綱を引く。
今だ! 警戒心が薄れたところを、バラバは勢いをつけて跳びかかった。不意を突かれたローマ兵は応酬できない。バラバはローマ兵の身体を地面に叩きつけた。
左右に散っていた兵士が慌てて馬の腹を蹴る。距離がたちまち縮まった。バラバは、倒れたローマ兵に渾身の拳を振り抜くと槍を奪い取った。槍先を寄せてくる馬上の兵士に向けた。
「ほう、小僧、味な真似を――」
隊長が目を歪ませる。
傷を負ったシモンと、羊のようなヨハネしかいないと思っていたのだ。それだけにバラバの身ごなしが意外だったようだ。瞬時に警戒心を顕わにした。
昔ならいざ知らず、エルサレム近辺に住む今のユダヤ人に、高い戦闘能力を持つ者などいないと信じていたからにほかならない。「殺してしまえ!」と、両翼の兵士に血走った形相で命令した。
そこをシモンが見逃さなかった。朦朧とするローマ兵の喉もとを剣で突いた。
効果は絶大だった。バラバに照準を定めたローマ兵の槍先に、一瞬、戸惑いが生まれた。強固に見えていた軍団に小さな綻びが生じた瞬間ともいえた。
だが生じたものは怯えではない、怒りだ。兵士たちは仲間を殴ったバラバよりも、殺したシモンに感情的な怒りを滲ませていた。
「くそ、八つ裂きにしてやる!」
一人の兵士が隊長の命令を待たずに絶叫した。
「待て、我らの優位は動かない、落ち着くのだ。賊を三人と思え。老いぼればかりに気をとられず、手向かった二人の小僧を先に殺せ!」
甘さの見えるバラバを二騎の部下にまかせ、一人、隊長は冷静に剣を抜いてシモンへ向かう。
残る一騎が、近くで転がされたままのヨハネに近づき、いきなり斧を取り出した。
「預言者どの、危ない!」
シモンが、それを見た。背から噴き上がる血柱をものともせずに駆け寄った。
馬上から斧では蹲るヨハネは殺せない。馬から降りれば別だが、時間はあった。バラバも救い出そうと思ったが、二騎のローマ兵に進路を塞がれてしまっていた。シモンに託すしか方法はなかった。
そのシモン、救出に気をとられているせいか近づく隊長を見ていない。まして怪我も癒えていないのだろう。俊敏に移動したつもりでも動きは緩慢だった。
隊長が蝿を払う感じでシモンの顔を槍先で叩いた。続けざま、とどめとばかりに喉元を突こうと反動つける。
「カシウス、やめろ!」
バラバは叫んだ。
隊長が腕の動きをとめて、バラバに馬首を向けた。
「小僧、なぜ私の名を知っている」
「お前は契約したはずだ。十二枚の羽を持つ者と――」
バラバは二騎の槍を躱しながら、大岩を見つけて敏捷に走り込むと答えた。しかし思っても見なかった返答だったに違いない。カシウスの顔色が変わった。
「きさま――何者だ!」と、低い声で迫ってくる。
「決まっているであろう、父の子と、預言者どのだ!」
口から血を吐き出しながらシモンが叫ぶ。
「よもや、標的か?」
驚くカシウスをよそに、シモンが力を振り絞る。
これが最後とばかり、斧を持って動きをとめた兵士の足を斬りつけた。切っ先は、馬の腹も同時に斬り刻んでいた。痛さに馬が棹立ちになった、兵士は落馬した。
「預言者どのの戦いは父の子とは違う。さ、早く逃げるのだ――」
言い終えると、もう立つ力も残っていないのか誇らしく地に沈んだ。
それが共鳴した。
バラバは岩から跳躍して槍を振り回すと、ローマ兵の首すじに斬り付けた。兵士が地面を転がり動かなくなった。
また一人、人を殺してしまった。しかも殺意があった。まぎれもなく殺人だ。
悔いが襲う。しかし新たな殺気が背後から生まれていた。前方から怖ろしいまでの激情を見せ、カシウスが間合いをつめてきたのだ。
無意味な殺し合い、愚かさに戦う気も失せた。なぜだか涙が溢れてきた。
「力を過信する者。真の力を見せ付けなければ、お前らは気づかぬのか!」
バラバは、カシウスへ向かって声を軋らせた。
咆哮だ。地に向かって迸る唸りは、肉としての悲しみを伴い空に跳ね返る。たちまち風を引き寄せ黒雲を呼び込んだ。
干上がった大地に砂嵐が巻き起こり、空を暗くさせた。闇となった。
ローマ兵たちから言葉にならない悲鳴が飛び交った。怯えながら、暴れる馬を必死になだめている。
バラバは無視して帳然とまた吠えた。
すると空を飛ぶ鳥たちが鳴きわめき、ばさばさと平衡感覚をなくして落ちた。それのみか、大音響とともに稲妻が白昼の闇を切り裂いた。鋭角の光をいくつも残して大地に落雷した。
馬が怯えて嘶く。ローマ兵が次々と振り落とされた。顔を地に伏せ、頭を両手で抱えて縮み上がった。邪悪な目をしたカシウスだけが、必死に手綱を操り怒気を浮かべて耐えている。
バラバは悲傷をとめた。
大地の揺れが収まる。風がやみ、黒雲が消えていく。青空と太陽が顔を覗かせる。地に落ちた鳥も空へ舞い上がっていった。咆哮の痕跡は跡形もなく消えた。
しかしローマ兵らの動揺は想像よりも深かった。身体を起こしたものの、立ち上がる者はカシウスを除いて誰一人いない。
そのカシウスが焦れる。
「軟弱者めらが! 立て、立つのだ! 幻覚は、とうに過ぎ去っている」
遠まきに人だかりができはじめていた。大多数がユダヤ人だ。経緯を把握できぬもの、状況を見れば簡単に推測はできる。
二人の若者を囲む、武装した騎馬ローマ兵。足下にはユダヤの老人が血を流して死んでいる。皆、石を拾って憎悪の炎を滾らせていた。いざとなったら、いっせいに石を投げて加勢するつもりなのだろう。真剣な眼差しで事態を見つめていた。
一方、カシウスの喝で正気を取り戻したローマ兵が、奇声を上げて野次馬に槍を向けた。照りつける強い日射しの中、群衆を交えた三竦みの緊張が辺りを押し包む。
とつぜん邪気を帯びたカシウスの碧眼が動いた。張りつめた緊張を重々しく打ち破る。
「この槍を見よ!」
と、天にかざした。「かの皇帝、カイサルから拝領した槍だ。貪欲なまでに血を欲している。もう一つ、この槍で僻地の豚を殺すためにローマからやってきた」
「言わしておけばローマ人。お前らはどこまで傲慢なのだ。よくも、神の選んだ民を僻地の豚などと」
バラバの横でヨハネが怒る。十数人の群集も煽られて熱り立つ。堪らず一人が、手に持っていた石を投げた。
石はカシウスの兜をかすめて地に落ちた。
「豚め!」カシウスが凄まじい形相をさせて男を睨みつけた。
男が危険を感じたのか、いきなり背を向けて逃げた。いったん恐怖に取り憑かれてしまうとそんなもの、隠れようともせず一本道をエルサレムに向かって真っすぐ走っていく。
カシウスが、背袋から弓を取り出し限界までゆっくりと弦を張る。冷笑を浮かべ、距離五百キュビットになったところで指を弾いた。
矢はつんざく。弧を描いて男の背をとらえた。小さな砂埃が舞い、男は倒れた。
群集が消沈した。
「カシウス! 民間人に、よくも手をかけたな。それが支配する者の特権だと思っているのか。赦さない――きさまを絶対に赦さないぞ」
バラバは間合いをつめた。
「ふ、民間人だと? 豚に民間人と兵士の区別があるのか。ならば若者、お前は兵士か。どうだ、名を名乗ってみよ」
「きさまなどに名乗るつもりもないが、地獄の土産に聞かせてやろう。私はイエス・バラバ、お前らローマ人を葬るために、この世に生を受けた!」
「やはり、イエス・バラバだったか。して、もう一人の小僧、お前の名も、ついでに聞いておこう」
カシウスは弓と槍を持ち替え、瞳を妖しく光らせるとヨハネに言った。
「偉そうなことは言わないほうがいいぞ、カシウス。お前は悪魔に誑かされて契約した愚者だ。そしてバラバの愛する者たちを殺戮したことで、各地を彷徨ったあげく地獄で罪を問われるのだ。今なら遅くない、悔い改めよ。ローマの兵士を辞めて、このバプテスマのヨハネの洗礼を受けろ!」
消沈していた群集から「おお――」と、どよめきが上がった。
洗礼。聞き慣れない言葉だったが、それが確実に群衆の心をとらえたようだ。
がバラバは、洗礼よりも言葉の内容に吸い寄せられていた。このカシウスこそが少年たちを皆殺しにする張本人であったのか、と。
「楽しい奴らだ。では答えろ、死んだら、私はどうやって、この男の愛する者を殺戮できる。どうしたら、お前の弟子になれるのだ。戯言はそこまでにしておけ!」
カシウスが反動をつけて、鈍びた槍の切っ先をバラバへ向けてきた。他の兵士も遅れをとるまいと動きを合わせた。
思考が戸惑いを見せたぶん、反応がずれた。迫る三方の槍に防御の体勢がとれなかった。
「バラバ!」
叫ぶヨハネの声が、やけに遠く聞こえた。
二本は躱したが、カシウスの槍だけは躱せなかった。不覚にも鋼の穂先が左脇腹に突き刺さった。強烈な痛みを伴う衝撃とともに、金属の異物が身体に侵入してきた。
目の前が白くなり、ヨハネの叫びだけがとぎれとぎれに小さく聞こえる。怖しいほど、緩やかに時が流れていく。死の瞬間とは、このようにゆったりと迎えるものであったのか。
口元を半分引きつらせて、ほくそ笑むカシウスと、懸命に駆け寄ろうとするヨハネ。他の兵士の槍が宙にとまっていた。取り巻く群衆も固唾を呑んだまま口を開け、静止していた。空を飛ぶ鳥さえも浮かんで停止している。
バラバの意識は、意味の分からないままに身体を抜け出していく。勢いよく空へ舞い上がり、上空から光景を見つめていた。
肉体は地に片膝を突いて、唇を噛みしめている。脇腹が血に染まっていた。すべての動きがとまっているのに血だけがどくどく流れていた。
ふと山道を見れば、馬が三頭、砂塵を巻き上げて疾駆していた。
馬を凝視した。三頭の馬に光りの粒子がきらめいていた。そのきらめく光に包まれて馬は移動していた。バラバの血と、三頭の馬だけに時が流れている。
先頭の馬に乗る男は褐色に近い肌をしていた。カシウスの黒ずんだ闘気とは違い全身から赤い情熱を迸らせている。後続の二騎にも目を転じた。先頭の男と同じでやはり闘気は赤い。
バラバは近づいた。
先頭の男はギメルだった。よほど熱情が激しいのか、目までも赤く染めている。残りの二騎、幼いながら一人は筋骨逞しく、それでいて正義感に溢れている。シモンだ。もう一人は、か細い手で必死に馬の手綱を握っている。闘争など似合わない瞳、レビだった。
熱いものが込み上げてきた。経緯までは分からない。しかし、シモンとレビの瞳が強く訴える。「バラバ、死んではなりません。私らの生きる道がなくなってしまいます」と。
三騎は、ローマ兵に気どられない位置で、そっと馬から降りた。通行人を装い、小走りで岩陰に身を潜めた。弓を取り出し弦に矢を掛けた。
景色がかすむと、とめられていた時が緩やかに動き出していく。バラバは帰体した。
「バラバ、死んではいけない。私を置いていくな!」
ヨハネが頬ずりしていた。普段、頑として見せぬ本性。内包された真の優しさを惜しげもなく露出させている。
バラバは、心配するなと手を返した。ようやくヨハネが安堵の表情を浮かべた。
だが、そのヨハネの頭上にもローマ兵の槍が冷たく迫っていた。
「やめろ!」内に向かって深い叫びを上げた。
気がつくと、左手のひらでむんずと切っ先を掴んでいた。
「そうはさせるか」
渾身の力を振り絞り、穂先を捻って反転させた。ローマ兵が転がった。砂利土をなめる。カシウスが信じられない表情を見せた。
なおも血まみれとなった手で槍を一閃させ、続くローマ兵の槍先を薙ぎ払った。その行為はカシウスの憎悪を引き出すのに充分だった。
見る間に眉が吊り上がる。ばかりか眼球が血の色に変わった。ほんらいの薄気味悪さも相まって、辺りを圧倒した。あまりの凄まじい闘気に、怯えた馬が足をばたつかせ暴れた。
とカシウスが、鬼気迫る表情で馬の頭に手を置いた。逆らうことは死を意味する。咄嗟に馬は本能で悟ったのだろう、静かになった。
他の兵士に伝播した。精彩を欠きはじめていた兵士らに、忠誠と、勝利へのあくなき闘争心が甦ったのかもしれなかった。一瞬でも怯んだことを恥じていた。
だがバラバには、それが歴戦の勝利からくる誇りではないと知っていた。恐怖だ、カシウスの烈々なまでの精神力は、逆に恐怖を生み出していたのだ。
バラバは兵士らを相手にしようとせず、カシウスに向き直った。けれど満身創痍、槍を杖代わりに地に突いて両膝を支えるのが精一杯だった。
「呪われし者、カシウス。まず私と勝負しろ」
そんなバラバを押し退け、ヨハネが転がる槍を手にすると、カシウスの前へ進んだ。
気後れも怯えも感じられない。武の経験の一切ないヨハネだったが、いくつもの戦いを経験した勇士のような風格があった。槍を地に突き立てるさまなどは、喩えようもなく華麗で水際立っている。死んだシモンの気骨が乗り移った感じさえした。
「きさまごときが、私に勝負などと、なめるな! 二人まとめて串刺しにしてくれる!」
カシウスが馬上から吐きすてる。
「来るなら、来い。卑しき輩に大地を支配されても、心までは絶対支配されない。ユダヤ人が最も愛するものは誇りだということを忘れるな」
ヨハネの言動は、他国人の力によって圧迫させられる民族の心情を沸騰させた。たちまち歓声となって群衆を鼓舞した。
「これでも、喰らえ!」
群衆が手に持つ石をいっせいに投げ出した。投石は次々とローマ兵の顔に胸に当たり動きを封じた。カシウスの頬にも小さな飛礫が何発も直撃した。
「く、虫けら奴が――」
言葉と裏腹にカシウスが目を疑わせている。見せしめで一人殺したばかり、群集が反発するなどと考えていなかったからだろう。ヨハネへ向き直り、怒りに唇を歪ませた。
「つくづく口の達者な小僧と、強運の強い小僧だ。特にきさま、死んだとばかり思っていたが、ほとほと悪運が強いのであろう。だがそれも、もう終わりだ。今度こそ地獄へ送ってやる。くたばれ!」
カシウスが槍を突いてきた。
もう体力も底つきている。躱す力も気力も生まれてこなかった。杖とした槍に全体重を預け、しっかとカシウスを見すえると死を覚悟した。
「ああ――」
群衆から、また悲しみの入り混じる溜息が洩れる。
だが異変は、そのとき起こった。バラバの耳に、風を切り裂く複数の音が聞こえたのだ。
馬上のカシウスを目がけて矢が飛んでいた。それも三本。一本は顔の前をすり抜け、一本は兜に当たって撥ね返った。さらに、あと一本は青銅の鎧を浅く貫き、胸に突き刺さった。
「新手か、何者だ!」
カシウスが手綱を引いて憤然と岩陰を睨みつけた。予想だにしなかった伏兵に苛立ちを見せている。
バラバも槍に体重を預けながら岩陰に目を向けた。
矢をカシウスに向けたままギメルが微笑んでいた。浅黒い肌に映える白い歯が、もう安心と、無言でバラバに訴えかけていた。
シモンとレビは振り返る余裕はないと見えた。瞬きもせず瞳を強張らせ、次の矢をカシウスへ向けている。
ギメルが低い声でローマ兵を一喝した。
「我らは熱心党。天より使命を与えられた神兵だ。むだな死は望まない。このまま立ち去るなら命を助けてやる!」
「ふ、薄汚いユダヤ人のどこが神兵だ。ローマこそ神だ。崇めるなら我が皇帝を崇めろ」
突如として姿を現した三人に対し、カシウスが異常なほど興奮を見せた。「弓など、恐るるに足らん。射てる者なら射ってみよ!」
よっぽど性根が据わっているのか、自虐的のどちらかだ。カシウスが、不利になればなるほど残忍な人格を見せつける。
しかし弓との距離は四十キュビット。当たれば弓の有利は動かないが、外せば槍が勝利する。ギメルたちは殺されることになる。それを知っているからこそ、しきりに馬を前後左右に動かしているのだ。
そのカシウスが、自らを鼓舞するかに激を飛ばした。
「帝国の同志たちよ、僻地に来て、さては卑しい豚に成り下がったか。立て、立ち向かえ! ローマは無敵だ。私に続け、力と名誉のために!」
カシウスの怒声に怯えきっていた兵士が反応した。一人が立ち上がり、小さな声で同じ言葉を何度も繰り返した。
「力と名誉のために!」と――。
俯いていた他の兵士も言葉を重ねる。俄かに自らを勇気づける合唱となった。馬首をギメルに向けて進ませた。
一方ギメルは、冷静にレビとシモンへ目配せする。
「足を狙え」と、顎で意気込みはじめた兵士を指さした。
すかさず矢が放たれる。シモンの矢が標的の兵士の足に突き刺さる。レビの矢も流れ矢となって、もう一人の兵士の腕に刺さった。合唱はやんだ。
だがギメルは、カシウスに狙いを定めたまま弦を弾かない。威嚇し、静かに動きを牽制している。
「くそ!」
カシウスの目が、かっと異様に軋む。単騎でギメル目がけて突進した。半ば狂った狼の暴走のようにも見えた。そこをギメルが狙い澄ませて指を弾いた。
風切り音が聞こえた。すぐにカシウスから押し殺した低い唸り声が上がる。
ギメルの指から弾かれた矢は、カシウスが激しく上体を揺らしたため、上腕部ではなく右目に刺さったのだ。脳神経を破壊するほどの凄まじい衝撃、それでもカシウスは倒れなかった。背筋を張って目に刺さる矢を手で押さえた。
強引に引き抜こうと、ぐりぐり矢を動かしている。だが激痛からか、その手の動きが妖しくとまった。ついに馬上で首を折り曲げた。
空気が重い。
十秒、二十秒、カシウスは依然として動かない。いよいよ他の兵士は負けを認め、兜を脱いで馬から降りた。すべての武器を放り投げた。
ローマ兵たちの行為に群衆がどよめいた。三十数人に膨れ上がった唸りが大地を揺るがした。
終わった……。
バラバは悲惨な結果に戸惑いながらも、ふっと安堵の溜息をつく。ヨハネが後ろから抱きついてきた。
すっと力が抜けると、傷の深さにやっと気がついた。知らないうちにヨハネに身体を預けていた。高かった日の位置が低くなり、ゆっくりと西へ傾いていた。静かな夕闇のはじまりを告げる。
しかし――終わってはいなかった。
「うおおおお!」
馬上で首を落としていたカシウスが、突如凄まじい雄叫びを上げた。目に刺さる矢を強引に折り取り、顔中を血だらけにしてギメルに突っ込んでいった。
レビがシモンが、後ずさりをする。ギメルは間に合わないと観念し、弓を投げすて剣を抜いた。
群衆のざわめきが、一転、驚愕に変化した。何より壮烈な執念だった。
けれど二十キュビットほど馬を進めると、カシウスは背から転げ落ちた。起き上がる気力も意識も残っていないみたいだ。天を仰いで動かなくなった。
ヨハネに抱かれて横たわるバラバの元に、ギメルが駆け寄ってくる。目に涙が滲んでいた。
「死ぬな、バラバ。ユダが、父の危機を知らせてくれた。そのとき神から啓示を受けたのだ。私の生きる意味、なのだと。そのためギルガルから必死に馬を飛ばしてきた。お願いだ、死なないでくれ」
咽ぶと、後は言葉にならなかった。
バラバは痛みを忘れて、込み上げる情けに胸を熱くさせた。感謝に、思わず唇を噛んだ。そうしなければ嗚咽で息をすることもできなかったからだ。
ふと横を見ると、レビとシモンも目を赤くしていた。また群衆の中にいた数人の少年が触発されて泣きくずれていた。
するとヨハネが、皆に聞こえるように言った。
「神から遣わされた二人の人がいた。一人は光を浮き上がらせるため、あえて闇を創り、闇の中に沈む。彼自身は闇ではなく、すべてを照らす光のため布石となった。彼は立ち塞がる岩をどかす。そして私は道を創る。立て、石をどかせ、立ちはだかる岩を動かすのだ。救世主のために――」
朗々とした声だった。しかも響くのではなく乾いた砂に水が吸い込むような潤いがあった。理解した者にだけ、言葉は涙を誘う。
「イエス・バラバと、共に戦え。もしそれで地獄へ堕ちたならば、私が、聖霊とともに必ず救いにいく!」
場違いなほど澄んだ夕暮れを見ながら、ヨハネがヨハネらしかぬことを言った。それほど立ち塞がる敵は強大なのだ。言葉に焦燥と残酷、情けが混在していた。
バラバは若者たちの目を正視できず、暮れゆく黄昏を見つめた。そびえる白亜の大神殿が夕陽を浴びて真っ赤になっていた。
道連れは本意ではない。心の内で叫んだが、東から徐々に闇が広がっていく。見ているうち、ふっと気を遠くさせた。
7
樹々の隙間を縫って岩に月影が落ちていた。
気がつくと馬群は、糸杉が鬱蒼と生える急斜面を、月を背にして下っていた。手綱を握るギメルが左手一本でバラバを支えていた。
ここがどこだかも分からない。だが月の位置、星の場所、夜の更け方から推察すれば、エルサレムは遥か遠くへ過ぎたのだろう。
夏の夜なのに空気が寒々として感じられる。蹄の音だけが冴えた夜空に響く。ギルガルに熱心党の基地があるといっていたから、おそらくギブオンの手前で右方向へまがり、山を下っているのだろう。
傷口を手で触ってみた。清潔な布でしっかり包帯されている。しかも葡萄酒で消毒し、薬草で血どめもしてあるようだ。血は僅かに滲んでいるだけだった。
「気がついたか、バラバ……」
ギメルが、そっと声をかけてくる。
いまだギメルの瞳は微妙に赤い。よほど募るものがあるに違いない。
視線を背けた。顔を見ずに「すまない、私などのために」と、短い言葉を返した。
「礼など不要だ。それよりも、ここまでくれば、もう追っ手はこない。そろそろ野営をしよう」
馬をとめると、シモンとレビに「洞穴を探せ」と、指示を出した。
二人は勇んで馬を駈けていく。律儀な若者たちだ。
「ところで、ヨハネはどこに?」
バラバは周りを見渡し、ヨハネの不在に気づいた。
「預言者どのはゲッセネマで祈りを捧げたいからと、途中で別れた――」
「そうか、ヨハネは行ってしまったのか。してシモンとレビは、ベタニアへは帰らずに、なぜここにいる」
「彼らは、彼らなりに未来を考えている。ユダの予見で、ギルガルに来たときに決めていたようだ。バラバと人生をまっとうしたいと、な。して預言者どのだが、去り際に『くれぐれも使命を忘れるな』と伝言を残していった」
バラバは、さらに聞こうとして言葉をつぐんだ。
聞きたいことをギメルが知っているわけではない。レビとシモンしか知らないのだ。まして女々しいことを聞けるはずもなかった。
首を廻して、東南にあるベタニアの方角を見た。ベタニアの上空だけが、どんより曇っている。ユダがいなくなったら、と考えると、ミカとサラが気掛かりでならなかった。
感傷的にミカの面影を追いかけていると、レビとシモンが戻ってきた。「最高の洞穴がありました」と、したり顔で案内する。
「イリヤ、どうして、お前までがここにいる?」
焚かれた火が、見知った少年の輪郭を浮かび上がらせた。とうぜんのように他の四人の少年もいる。
幼い少年たちが、バラバと一緒に逃避行をしているのは知っていた。暗かったせいもあるが、でもそれがイリヤたちとは考えても見なかった。
「自分らの将来はバラバとともにある、とミカに説明したら『行きなさい、私とサラがここを守り抜くから、心配しなくてもいいのよ』と送り出してくれました。ユダも、渋々ながら承知したのです」
何ということだ。ヨハネに聞かされた予見通りに事が運んでいくではないか。だったらミカとサラに、この先待ち受ける運命とは?
考えるだけで、胸が塞がれていく思いだった。
捕えた野兎を、ギメルが串に刺して焼いている。袋からパンも取り出された。
バラバは、もう一度じっくり見渡した。イリヤたち五人のほかにも、見知らぬ少年たちが数人いたからだ。
それぞれが熱い目で、バラバの一挙手一投足に注いでいる。たとえ一言でも聞き逃すまいと耳も傾けていた。
「さあ、バラバ。こんがり焼けた。まずは、そなたから食べるがよかろう」
ギメルが、塩焼きにした肉を短剣で切り取ると手渡してきた。
「先に、少年らに食べさせるべきだ」
バラバは言った。ギメルがすぐに言い返す。
「何を言うか。そなたが食べねば、この者らが手をつけるはずがない」
少年たちを見た。
誰一人として喉を鳴らす者などいなかった。この時間だ、普通なら空腹が当たり前。なのに依怙地なまで我慢している。それのみか、バラバに対して張り裂けんほどの思慕を溢れさせている。
また、ミカやサラを思い出した。二人には楽園で過ごさせるつもりでいた。だが、この者らは違う。戦いにいざなうのだ。
むごすぎる。バラバは自らの惨めな末路も、巻き添えにする仲間たちの運命も、すべて知っている。知っていながら、引き入れろというのか。
槍に突き刺された脇腹が、ずきんと脈を打った。
「バラバ、受け容れろ――」
ギメルの声に振り向くと、新参の少年たちが潤んだ瞳で見つめ返してきた。
「この者らは、逃避行の中でバラバの噂を聞きつけ、三々五々集まってきたのだ。戦いの後、ヨハネの檄に触発された者もかなりいた。皆バラバを慕い、殉ずる覚悟で来ている。もはや感傷をすてて、前を向くのだ。イスラエルの、いや、こいつらの未来を築くのはバラバ、お前しかいない」
ギメルの叱咤に、少年たちがいっせいに答を求めた。
どこか受け容れることを拒否している自分を垣間見ながら、逆に問い返した。
「私に従いてきても、光の踏み台にしかならない。まして命を落とす危険性も高まるが――どうしてだ」
「父と母がそうだったように、戦いを避けても命を落とすことがあるのです。でもバラバと一緒だったら、たとえ惨殺されようが悔いはありません」
イリヤが熱っぽく訴える。
バラバは、イリヤから受けとめた視線を他の少年らに移した。
「どうしてだ――」と、もう一度聞いた。
少年たちは声を揃えた。「未来のために!」と。
斜め上から降り注ぐ月光が、純真な少年たちを照らす。山間を流れる風が這い上がり、そよそよと草を揺らせる。バラバは揺れる胸の内を抑えて、さらに、もう一度確かめた。
「未来? しかし、お前たちは悪魔の仮面を被るのだぞ。決して称賛されない。ローマから敵視され、ラビたちからも謗りを受けるが、それでもいいのか」
「私たちは、みんな孤児です。だからといって恨んで生きたり、不運を周りに押しつけたくはない。真に望むのは、バラバとともに築く明日の希望です。そのためなら命など惜しくない」
「レビも自分も、バラバと一緒に生きていけるなら本望、たとえ罵られてもかまいません」
レビとシモンが感情を吐露した。
バラバには二人の気骨が頼もしく思えた。それだけに道を誤らせてはいけない。最後の確認の意味で問いかけた。
「皆も、レビとシモンの考えと同じなのか」
「はい!」
少年たちは目を赤く潤ませ、きっぱり言い切った。
「だったら約束する。理想郷を必ず創り上げ、後の世代を、その揺るぎない世界に住まわせると。けど我らが、そこに住めるとは限らない。生き地獄を見るのだ。それでもいいなら私に命を預けろ。その命を礎にして、地上を楽園にさせる!」
言葉が終わると同時に、うねり上げるような歓声が夜空にこだました。ギメルが目を細め、ひとしきり顔を肯かせている。
期せずして、どんよりしていた空から星が覗く。夜空はどこまでも青くなり、星の輝きをより際立たせていた。
ヨハネの星が潤んだように瞬いた。