表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
バラバ  作者: 鮎川りょう
4/9

4章 対決

 4章 対決

 

       1

 エルサレムは雨に煙っていた。重い雲が落ちるかに垂れ下がり、空と大地の輪郭をぼかせていた。ときおり光る稲妻によってだけ仄かに風景が浮かび上がる。

 バラバは人々が罵る中を、重い角材を背負って歩いていた。高い城壁に囲まれた道を抜け、雨に濡れた石畳を霏々として進んでいた。

 鞭の痛みと角材の重さに耐えかね、よろよろと坂の途中で膝を突いた。首が力なく折れ、長い前髪が濡れた地面に触れる。すかさず背後から容赦ない兵士の鞭が飛び、ぶざまに地面へ這いつくばった。反動で角材が肩から外れ、背をはねながら身体に圧し掛かってくる。

 頭に巻きつけられた荊の棘で、額を伝う血が目に入る。濡れた衣から覗く手足も血だらけだった。血が滲み、白かった衣は朱に染まっていた。それでも執拗に鞭が飛び、やるせなく息を吐きながら立ち上がる。感情はとうに消えていた。

 建ち並ぶ石造りの家々、それらの家の窓から、また沿道から、あらゆる目が光っていた。嘲笑、蔑み、ものめずらしさに騒ぎ立てる者。人さまざまだったが、囃し立てる群集から好意を感じるものは何一つない。

 その夥しい民衆の中に、ミカとサラがいた。レビとシモンの姿も見えた。目が合うと皆は蹲った。肩を上下に震わせてさめざめと泣いた。瞬間、消したはずの感情がみしみしと切なく甦り、喩えようもなく胸を抉られる。

 不意に心が緩む。哀歓に目を熱くさせる。失くしていたとばかり感じていた温もりが、熱く甦ってくる。

 殺戮の道を選んだ時点で、ミカとサラとは接点が消えているはず。レビともシモンとも行動をともにしていない気がした。それなのに、どうしてここにいる。ミカたちを導くものは? 噴き上がる情愛がバラバの胸を焦がす。たまらなく視線を逸らして嗚咽を止めた。

 ミカらを見ず、遠くを見つめて叫んだ。声はどんなにか上ずっていた。

「泣くな、私のために泣くな」

 叫びに呼応した雨が激しさを増した。ますます風も強まってきた。

 やがて涙でかすんだ視界の先に、うっすらと丘が覗けた。もうバラバは友であった者たちを見ることもなく、積み上げられた石段を黙々と登っていく。

 雨水が、道の脇にすてられている魚の骨や、鳥の骨、食べ物の滓と一緒に流れてくる。汚物も交じっているのか、ぬるっと妙な感触が足に纏わりついてきた。さらに惨めさが増す。

 ようやく頂上に着いた。すると兵士たちは、角材を置いた地べたへバラバを寝かせ、笑いながら釘を打ちはじめる。手のひらと足の甲に強烈な痛みを感じた。死が……間近に見える。

       

 

 バラバは夢を見ていた。

 それにしても、やけに真に迫った夢だった。見せつけられた絵が脳裏にこびりつき、意識が覚醒しても離れようとしない。バラバは、そっと扉を開けて外へ出た。

 東から夜が白み出し星の光が薄らいでいた。その中で、明けの明星だけが昇ろうとする太陽にめらめら抵抗を見せている。他の星を圧倒させるほどの際立った光を放ち、誇らしげにきらめいていた。

 ルシフェルの星だ。今見たばかりの夢と重なり胸が激しく高鳴る。

 そのうち腕の内側に寒気が走った。得体の知れない身震いが突き上げてくる。気づけば全身の毛が星に向かって逆立っていた。

 と直後、一つの影が妖しい光をたずさえて飛び出した。目にもとまらぬ速さで暁を切り裂いていく。

「バラバよ、今夜だ。今夜、お前の運命が決まる」

 中空から謎めいた言葉を投げかけ、竜の姿にも似た光影が一気に下降してくる。バラバの頭上でとまった。

 ルシフェル! 咄嗟に身構えた。「狙いは、何だ」

「生存か消滅、存在自体を問うている」

 返答は、バラバの思いの遥か先をいっていた。

「ついに異教の神々の手先となったか。憐れな、そこまでして天上の恨みを晴らしたいのか」

「勘違いしないほうがいい。私は手先になどなった覚えはない。逆だ、私に七神が従っている」

「なら、どうして私に呼びかける」

「知れたこと。未来と、過ぎ去った日々を鮮やかにさせるため」

 とルシフェルは、一瞬、懐古するふうに間を置き続けた。「すでにアッバスは抹殺した。あとはバラバ、お前が傅けば――私の思いは一旦成就する」

「そうじゃない、父は、お前のことをいつも気にとどめていた。だから、お前に過ちをさせないために自ら命を捧げたのだ。まさか、それすらも理解していないというのか。浅はかだ、それでは欲に取り憑かれた権力者と同じだ。過去の栄光にしがみつき、失われた尊厳を取り戻したいとしか聞こえない」

 バラバは嘆いた。

「過去だと? それが未来であることが分からぬようだ。ま、よい。今夜、ユダを連れて館へ来るのだ。そこで真実を見せよう――」

 声が消えると、光影が滲んだ。速度を上げて飛んでいく。

 バラバは追った。全速力で中庭を駆け抜け、跳躍して木柵を飛び越えた。素足のまま岩だらけの坂道を下り光影を追いかけた。

 ルシフェルと同じ速度で谷底を降り、また登って、草原を突っ切っていたような気にもされる。とてつもない記憶の断片だが、一歩足を踏み出すごとに記憶が一つ甦る感じだった。

 が、実際は追いつくはずもない。ただ、一直線に西へ向かって走っただけである。

 住宅の密集する路地を縫い、寂しい一本道に差しかかった場所までくると、バラバはそこで足をとめた。

 ベタニアの丘と、前方のオリーブ山を繋ぐなだらかな窪地。飛び上がっても、山の背後にそびえる神殿さえうかがうこともできない。かろうじてオリーブの梢に昇りはじめた朝日が当たっているだけだった。低空飛行した影など見えるべくもない。

 気をとり直して、バラバがふたたび前へ歩き出したとき、後ろからこちらに向かってくる足音が聞こえた。いささかの用心もない接近音だった。

 振り向くと、ミカが走ってきた。懸命に追いかけてきたのだろう。息を切らせながら「今、飛んでいった光はいったい?」と、バラバに尋ねてきた。

「見えたのか……」

 驚きを隠せなかったが「あれは光ではない、影だ!」と、激しく否定した。

 滲ませるのならまだしも、ルシフェルは澱ませた。もし認めれば、ルシフェルの生き方を肯定することになる。

「いいえ、朝日に掻き消されていましたが歴然とした光でした。それも、ずいぶんと哀しい風景を秘めた光。人間のためなら自分の命でさえ犠牲をいとまない。そんな覚悟に思えました。まるで父のように……」

「何が言いたい、何が見えたのだ」

 声を荒くした。思っても見ないミカの返答に、バラバは惑った。

「はっきりとは分からないのです。ただバラバが外へ飛び出した瞬間、空からこぼれ落ちた光が弱まりながら私の中へ入ってきた。そのとき景色が覗けてしまったのです。くり返される悪夢と、またも昇華できない無垢な魂たちの景色が」

 まさかルシフェルにも、あのベツレヘムの純な魂たちが寄り添っている?

 ルシフェルの真意が分からなかった。ミカの全身を食い入るようにして見つめた。

 何も見た目の変化はなかった。ただ……瞳の奥底の光がルシフェルと重なり合っているような気にもさせられる。だったら確認しなくてはならない。

「今から館へ行く。ついてくるがいい」

 時間が時間である。だから連れていっても危険にさらす事態には陥らない。そんなことよりもミカが何を感じるのか見たかった。

 なぜなら、こぼれ落ちた程度の弱さでも、ルシフェルの残存させる光は無限のもの。過去であり未来であり真理なのだ。

       

 

 前方に鬱蒼とした杉林が見えた。その先に、隠れて見えないが館がある。バラバは、ミカと顔を見合わせると進んだ。

 涼しいというより冷気を感じる林道だった。杉ばかりでなく背の高い棕櫚、ポプラ、その下にも没薬などの芳香樹が生えている。草花も咲いていた。それなのに少しも暖かさを感じられない。

 早朝で、空気が冷んやりとしているせいだけではないだろう。この後どんなに太陽が照りつけても、ここだけは変わらないはず。唯一、光が遮られてしまう領域なのだ。

 館の前で、緑色のターバンを巻いた老人が掃除していた。執事なのだと思う。バラバとミカを見ると目を凄ませ威嚇してきた。眉の間に縦じわを立て、歩み寄ってきた。

「この先は私有地で、行きどまりだ。どちらへ行かれるつもりか!」

 ひげの間から見える歯が黄色く汚かった。言葉づかいは思ったほど乱暴ではないが、あきらかに不愉快さが窺える。

 バラバが黙っていると「道に迷ってしまったようです。すぐ戻りますから」と、ミカが低姿勢に詫びた。

「嘘を言うな、迷うはずがない。お前らのことは知っている。東の外れに住むアッバスの子供たちだ。帰れ、二度と近寄るな!」

 と、老執事は露骨に反応する。

「驚いたな。まるで、仇のように聞こえる言い種だ」

 バラバは閉口した。

「仇? 同じようなもんだ。お前らは敵だからな。さあ、早く立ち去れ」

 バラバとミカの言動に思ったほどの敵意が感じられなかったせいなのか、それとも塀の内側が気になるのか、声の調子が変わった。しきりに背後を気にして、きょろきょろしだした。

「じきに退散するつもりだが、どうした、何をそんなに慌てているのだ。今ここに我らがいては、まずいことでもあるのか」

「そんな質問に答えたくない。いいから消えろ」

 老執事が、むっとした目を向けてくる。そうとう苛立っているようだ。

 無用な衝突を恐れたミカが、バラバの衣を引っ張る。「もう充分です、察知しました。帰りましょう」と促してくる。

 元々がどんな雰囲気か、この目で見ることと、ミカの感じた印象を聞くことだけだった。長居するつもりはなかった。バラバは帰ろうとした。

 と、ぎいーと帆桁が軋むような音がした。

 前後して鉄扉から人が顔を覗かせた。頭巾で目を隠してよく分からないが、感じとしてミカよりも年下、レビやシモンと同じぐらいの少年だった。

「待って、帰らないで!」と、思いつめたような声をかけてくる。変声期前の、少女と錯覚してしまいそうな透明感のある声質だった。

 間髪入れず、老執事が手を顔に当て、表情をしかめた。

「いけません、ラザロ坊ちゃま。近づいてはなりません。この者らはマリアさまの敵であり、我らを叩き潰そうとする元凶なのです。それ以上近づくのなら、この爺が赦しませぬぞ」

 どうしても会わせたくないのか、手を広げて少年に立ちはだかった。

「敵とは思えないよ。爺も、そう感じていないんだろう。だって敵と言っときながら、平気で背を向けているじゃないか。あの人たちがほんとうに敵なら背なんて向けないだろうし、爺は殺されているよ」

 と、頭巾を上げて首の後ろに垂らすと、バラバを見つめてきた。声と同質の澄んだ瞳があった。

「こ奴らは若いくせに老獪、手管を心得ているのです。坊ちゃまには見えますまいが、私には見えます。閉じた口の中にある凶暴な牙と、胸の中に隠している邪悪な本性が。さあ、噛みつかれないうちに屋敷へ戻ってください。そうしないと、私がマリアさまに叱られてしまいます」

 老執事が、ちらちらバラバに目を配りながら毒々しく答える。

 ミカが、さすがに呆れてしまったのか口を閉じるのを忘れさせている。バラバもほとほと弱り果て、ぽりぽりと所在なく耳の後ろを指で掻いた。

 腕力に自信がないぶん多分に狡賢い性格なのだろう。仰々しい言い方の中に立場的なものが感じられる。信念を持った生き方ではなく、生き残るための処世術。単に世渡りに長けているだけなのだ。

 一見、口調が修飾されて大げさすぎるので思ったほど腹が立たないが、どちらかというと平気で人を傷つけても気がつかない部類だ。

 でも、このラザロと呼ばれた少年は大らかなのか、少しも嫌な素振りを見せない。裏を返せば流されず、固執しない視野の広さを持ち備えているのかもしれなかった。

 しかし用は済んだ。「帰ろう」と、ミカの促しに応じた。

「爺、知っているよね。昨夜の話を……」

 するとラザロが、引きとめようとするかに再度バラバに視線を流してくる。

 意味の分からない投げかけだったが、興味をそそられた。帰りかけようとした足を踏みとどめるには、充分の謎だった。

「はて、何のことでござりましょうか。爺にはさっぱり訳が分かりません」

 老執事が口元を引きつらせている。

「帰るのは、もう少し様子を見てからにしよう」

 バラバは、ミカを制した。

 たちまちラザロが反応する。聞かせようと、これ見よがしに真っすぐな瞳をぶつけてきた。

「とぼけないでよ、爺。マグダラやサマリアから、続々と信徒が集まってきているじゃないか。みんな緊張していたよ。今夜あるんでしょ、戦いが……」

「めっそうもないことを口に出すものではありません。巫女の弟として、不躾すぎますぞ。戦いなどあろうはずがない。それよりも、そろそろ朝の祈りがはじまる時間。爺と一緒に参りましょう」

「どうして、みんな僕だけに何も教えてくれないの。いつもそうだ、都合が悪くなるとすぐにしらばっくれる。話をすりかえてしまう。それは僕が、荒地の若者と仲良くしているから? 僕は、この家にとって異端児なの」

 ラザロが食い下がる。ちらちらと視線をバラバに送りながら、静かに老執事の広げる手を払いのけた。「僕は、この人に聞きたいことがあるんだ」

 老執事を睨みつけると、バラバに近づいてきた。

「あなたはイエス・バラバ、ユダヤの神の子だよね。今夜、神々と戦うんでしょ」

「豊穣神らとの戦い?」

 ユダとルシフェルと似たようなことを言う。また父の殺害といい、バラバの知らない所で知らない戦いの準備が着々と進められている。

「見ての通り、私は人間。神の子などとおこがましいし、改まって言われることでもない。それに今のところ、君らが崇める神々と戦うべき理由が見つからないし、その気もない。君らを惑わし周到に画策するルシフェルとなら、また別だが――」

 バラバはそれだけ話すと、言及を避けた。

「こいつは征服者の子、悪魔です! 口から、甘い果実の息を吐きかけます。考えても見てください。あくまでも我らは守るだけ、今夜攻め込んでくるのは奴らなのですぞ。へりくだった言葉を、真に受けてはいけません。篭絡されたら最後、地に引きずり込まれてしまいます」

 と老執事が、またもや誇張した言葉をたたみかけてきた。

「そんな、言いかたってないわ」

 ミカがたまらず反論する。「さっきから黙って聞いていれば、人を魔物扱いにしたうえ勝手に好戦的と決めつける。我慢するにもほどがあります。私たちは戦いを挑んだ覚えもなければ、篭絡させるつもりもないのです」

 ミカが、バラバの前へ押し出る。二人に向かって珍しく興奮して続けた。

「今から涼しくなる秋まで、イスラエルでは葡萄などの果実しか収穫できないのよ。灼熱の太陽に照らされて大地が干からびているせいだわ。そうするとあなたたちの理論では、大麦と小麦の種蒔きがはじまる九月まではバアルはいないのでしょ。だったら、死んでいるんじゃないの? だから、いるはずもない神々との戦いなんてあるわけないし、ルシフェルが仕組んだ嘘に決まっている。それと……マリアが戦いをほんとうに望んでいると思っているのかしら。そうだとしたら悲惨ね。マリアが可哀そうだわ」

 マリアの心情には疑問は残るが、今夜に関していうなら的を得ている。

 つまり誰がための豊穣かということだ。豊穣を望むのは人間なのである。とすれば一目瞭然だ。バアルは人間が望み、その必要に応じて生まれた偶像でしかない。要するにユダヤ人が豚肉を食べないのと同じ理屈で、必要に迫られた人間が作った虚像なのだ。

 バラバは、二人の視線を断ちきると踵を返した。

       

 

「バラバ、待って。僕は、あなたの本心をまだ聞いていない」

 ラザロが気忙しく追いかけてきた。横に並んだ。

「話すつもりもない。このまま帰ったほうがいい」

「いいや、僕は帰らないよ。とても大事なことだから」

 ラザロが、強引にバラバの前へ進むと向き直った。

「それほどまで君は、私とバアルを戦わせたいのか」

「そうじゃない。相手はルシフェルを合わせると八人、結果が目に見えているんだ。間違いなくバラバ、あなたは殺されてしまう」

「もともと、それが君らの望みであったはず……」

「そうだね。確かに水と出会うまではバラバの消滅だけを願っていた。けど、今は違うよ。水の預言者に聞いたんだ、支配のほんとうの意味をね。だから……」

 水、その言葉が妙に引っかかった。問い質そうとして息を吸い直すと、ミカが割り込んできた。

「水の預言者って、もしかしてクムランの若者のことなの。だったら駱駝の毛衣を着ている?」

「うん着ているよ。名前はヨハネ、バラバと同じ日、同じ時間、同じ場所で生まれたのだとも言っていた」

「何と! あの夜の――ベツレヘムで」

 思いもかけぬラザロの返答だった。

 幼子は全員が惨殺されたと聞いた。我ら兄弟のほかに、悪夢ともいえる殺戮を逃げのびた者がいるなど、父からも聞いたことがない。初耳だった。心を深く動かされラザロを凝視した。

 ラザロが青白い顔を、心もち上気させて話し出す。

「ヨハネは『いまだに魂が叫び続けている』と、言ったよ。ベツレヘムの殺戮がはじまったとき、ヨハネの周りに惨殺されたばかりの魂が集まり、逃亡を導いてくれたらしいんだ。それでヨハネは託されたことを知った。痛みを知る預言者として正義を貫かなくては、とね」

「だったら……偶然じゃなかったのね。父は、あのときヨハネが誰であるか知っていた。だから私には感謝よりも懺悔する気持ちのほうが強く感じられた。だって父の目から、同じ二の舞を踏ませたくない、その気持ちが滲んでいたのですもの」

「ミカ、それはエルサレムで、父が殺されたときのことを言っているのか」

「そう、私をローマ兵から救ってくれようとした若者がヨハネなのです。しかも根底に、バラバと同じ痛みを背負っている」

 頭にかかる霧が、勢いよくとり払われていく感じだった。なぜ父が、むざむざ殺されたのか。その疑問が解明された。父は敏感にそれを悟った。そして今度こそ守ろうと自らの命を捧げたのだ。

       

 

 町の上空を、雲一つない爽やかな青空が広がりを見せていた。しかし今のうちだけ、じきに太陽は大地を焼きつくす。

「僕はね、バラバに負けてほしくないんだ」

 帰らずに歩くラザロが、空と反比例した潤んだ眼差しを向けてきた。

「精霊相手に勝つことは至難の業だ」

 バラバは黙々と坂を登っていく。

 町を過ぎ、踏み均された道を抜け、灌木と岩山だらけの場所までやってきた。この辺りは荒れて殺風景だが、少しでも雨が降ればたちまち緑豊かな大草原に景観を変える。土の下に真実が隠されているからだ。

「ラザロ、そろそろ帰ったほうがいいのじゃないか」

「でも、まだバラバは本心を話していない」

 ラザロが、不機嫌そうに道端の小石を蹴飛ばした。

「どうかな。土の下に眠る草の芽と同様で、本心を喋っていないのはラザロ、君のような気もするのだが」

 推論の域をでていないが、直感した。「さっき負けてほしくないといったが、勝ってほしいともいわなかった。それは、どうしてだ」

「相手が強すぎるからだよ」

 違うと思った。

「だったら単刀直入に聞こう。姉さんに負けてほしくないのか、それとも勝ってほしいのだろうか。私には、逃げろとしか受けとれなかった」

 ラザロが弱々しく微笑する。

「知られちゃったようだね、その通りさ。でも、今夜戦いがあるのは間違いないんだ。そこでのバラバの選択肢は三つ。勝つか、負けるか、逃げるかだ。僕は逃げることを薦めにきた」

「私が逃げれば、ラザロ、君の姉さんたちに労せずして勝利が転がり込む」

「ほんと卑怯だね。けどマリアの考えではないよ。マルタと二人で悩み抜いたあげくの結論なんだ。このままではバラバ、あなたが殺されてしまうから……」

「尻尾を巻けと、君は願うのか。残念だが聞いた以上それはできない。避けられない以上、時期早尚とも感じるが戦うしかないのだろう」

 バラバは力不足を認めながらも、戦うことに決めた。ここで死ぬなら、それだけの運命でしかないのだ。

 ミカが顔から血の気を引かせて、バラバ……と、消え入る声を洩らした。「殺されてもいいの?」

 ラザロも首を傾げる。

「ラザロ、君は優柔不断すぎる。私が逃げれば、双方の血を見ることもなく丸く収まると思っているのだろうが、それは違う。自分の考えをはっきり示さなければ、単なる八方美人でしかないのだ」

 つまり戦いとは自己との闘争、バラバはそのことをラザロに伝えたかった。

「だから死など怖くない。怖いのは何も悟れず、悔やんで死ぬことだけだ」

 最後は自分自身に言い聞かせた。

 

       2

 

「何だと――戦う?」

 ユダの恫喝にも似た叫びに、皆が動きをとめた。父アッバスの死以降、誰もが平穏な夜を願っていた矢先だった。

「殺されることが分かっていて、なぜ戦う。どうしてだ!」

「では、逃げ出せというか」

「そうだ」ユダが間髪入れずに答える。

 ユダは、ルシフェルとバアルの強さを知っているのだ。だから兄弟同然のバラバを生かすには、それが最善の方法だと思っている。ある意味ラザロと同じだ。

 だが、そんなことはできない。「私には守るものがある。そのためには、かかる火の粉は振り払わねばならない」

「勝手な言い分だ」

 ユダが、いつになく感情を荒げる。「俺は、バラバより先にマリアの館へ行く。どんなことをしても戦いを阻止する……」

 木扉に手をかけた。

「よせ、むだだ! わざわざ毒を飲んで心を腐らすことはあるまい。それに手なずけられた信徒も、いつか気づくはずだ。奴らがもたらすのは、豊穣の名を借りた混沌でしかないからだ」

「残念だが、違うと思う。この地上こそが地獄への入口、混沌として迷うけれど、悪霊たちと精霊、人間が共存して生きる世界だ。影響を受けるのは当然じゃないのか」

 ユダが言い返す。

「なぜユダは、この世界を天国の入口と考えない。そこからして間違っている。だから、たとえこの世が悪に支配されようとも、我が神に属している限り悪魔は介在できない」

「だとしたら、バラバ。お前は永遠にルシフェルを理解することはできないだろう。この世界にはユダヤ人の思念に属していない神々もいるのだ。ルシフェルは、それらすべての声を聞き入れ、束ねた――」

 ユダが切なく息を吐く。

 バラバの思いは複雑だった。ユダもまた、ルシフェルの画策した壮大な物語に踊らされてしまっている。そう感じたら無性に腹が立ってきた。

「では、ユダに聞く。ルシフェルは神々の声を聞いたらしいが、果たして人間の声も聞いたのか。私には自分の声を聞かせているだけに思える。そんな話を真に受けるな。だいいち、まだ私が負けると決まったわけではない。弱者にも必ずどこかに勝機が隠されているものだ」

 バラバはユダを押し退け、強引に扉を開けた。

「バラバ、自分も連れていってください!」

 そのとき血気盛んなシモンが、革袋の中から短剣を取り出すとにじり寄ってきた。

「私も行きたい」レビまでもが駆け寄ってくる。

 強張りが解けると収拾がつかなくなるのか、サラでさえ「私だって戦うわ」と、シモンから短剣を奪い取り、ぶるぶる唇を震わせて擦り寄ってきた。

「心配させてすまない。だが、私は必ず戻ってくる――」

 気持ちはありがたいが、連れていく気などなかった。心配そうに見つめるミカに、みんなを頼むと声をかけ、振り向かずに外へ出た。ユダが続いた。

 すでに空は暗い。月が顔を覗かせ、庭の無花果の影を地面に落としていた。前方のオリーブ山が無彩色に染められて、わずかに空との境を映し出している。バラバとユダの足音だけが耳にはね返ってくる。

       

 

 館が見えた。窓からかすかに明かりが洩れている。

 とつぜん塔の最上部に括りつけられた鐘が揺れた。まるでバラバの到着を知らせるかに鐘が鳴る。

 立ちどまると「バラバ、こっちだよ」と、押し殺してはいるが聞き覚えのある声がした。

「ラザロだな」

「そうだよ、待っていたんだ。迂闊に正面玄関から入ると信徒たちが武器を持って待ち構えているからさ。裏から入ろう――」

 姿を現せたラザロが、館の玄関に漂う妖気を指さし無垢な目を向けてくる。

 足音を忍ばせ、没薬の枝を掻き分けながら進んだ。視界が一段と悪くなっている。ラザロの気配と、灌木に衣が擦れる音だけを頼りに歩いた。

 もう実をつけているのか、没薬が苦味走った匂いを発散させて鼻をくすぐる。ときおり蜘蛛の糸も指に絡みついてくる。手で払い、灌木の林を抜けた。

「それにしても、武器を持って迎え撃つなんて……」

 先頭を進むラザロから、そんな忸怩たる言葉が洩れた。

「マリアは、あくまで力で排除しようと思っているのか」

 予備知識もほしかった、ラザロに聞いた。

「それって、信徒が待ち構えていたから? だったら違うよ、マリアもマルタも知らないことさ。自衛本能だと思うよ。だって説教するとき以外、マリアは二階にいるから階下にいる信徒たちの行動を把握できない。僕だってマルタから聞いて知ったばかりなんだ」

 ラザロが足をとめて、バラバの間近で真顔になった。

「マリアが知らないはずがないだろう。それにバラバの質問は、そのことじゃないぞ。信徒なんて、どれだけいようといくらでも対処できる。問題は七神とルシフェルのことだ。俺はバラバにも言っていないが、ここへ何度も足を運んで、マリアと話を煮つめた。バラバが軍門に降りさえすれば、戦う意味はないとな。つまりバラバが殺戮の道へ進まなければ、イスラエルが焦土にならなければ、マリアは本望なんだ。今もそれを願っているはずだ」

 ユダが、ラザロの言葉を否定した。

「僕には七神のことも、ユダとマリアの考えの違いも正直よく分からない。でもバラバに言われたことは胸に刺さっている」

 ラザロがユダの視線を外して、バラバに当ててきた。「僕は気ばかりすり減らして、丸く収めようとだけ考えていた。だけどそれが逆効果だって気がついた。だからもう迷わないよ。今夜、その決着をつけなくてはいけないんだ」

「決着をつける? それはバラバが殺されるということか!」

 ユダが血相を変えて遮る。三人は完全に足をとめた。バラバは口を出さずに成り行きを見守る。

「かもしれない、可能性は高いよ」

「お前は、それを知っていて道案内をするか」

「そうじゃない、僕はバラバを信じてる。マルタはユダと一緒で迷っているけどね」

「まさか、マルタが?」

「だって僕とマルタは、サマリアにいたときから何度も幻視を見ているんだ。夢の中でヨハネとも交信したよ。かなりの衝撃をマルタは感じていた。以来、心はずっと揺れ続けている。僕だって戸惑いながら、今朝、やっとバラバに解放された。だからバアルを信仰していたときに感じなかった光や空気や風が、今とても爽やかに感じられる。答はそれで充分だろう、ユダ」

 ラザロが、揺るぎない眼差しをユダへ向けた。

       

 

 と、鉄扉を開けたときだった。裏木戸から、さっと数人の男女が躍り出る。バラバとユダを取り囲む。こん棒、鞭、長い角材と、思い思いの武器を手に持っている。それぞれ強い敵意が剥き出しだった。空気が俄かに殺気立った。

「く、まんまと誘き出されよって、この悪魔めら。覚悟しろ!」

 見覚えのある老執事が、がっしりとした体躯の男の陰から顔を覗かせた。樫の棒を握り、目を憎悪に煮え滾らせていた。

「誘き出されただと? ラザロ、まさか謀ったのか――」

 ユダが感情を抑えきれずに喚いた。怒り心頭にラザロの胸ぐらを掴んだ。

「知らない、ほんとうに知らないんだ。だって裏は無警戒だと思ったから」

 鉄柵に押しつけられ、ラザロが足をばたばたさせる。

「手を放すのだ。この程度は少しも危機ではない」

 ラザロの嘘を見抜いたが、動ぜず言った。ユダがしぶしぶ手を放す。

「使用人とサマリアから来た人たちだよ。礼拝中だし、マグダラの人たちと地元の人たちも来ているから、かなりの数だね」

「あっけらかんに言うな。見ろ、じりじり迫ってきたぞ。奴らはやる気だ」

 ユダが眉間に皺を寄せて、ラザロを一瞥してから懐に手を入れた。短剣を取り出そうとしている。

「ここは、まかせろ。一人で充分だ」と、バラバは手を広げて制した。

 すでに信徒たちは、じわりと間合いをつめ、飛びかかろうと様子を窺っている。

 だが、窺っているだけでなかなか行動には移さない。ちらちらと背後へ視線を流している。命令を待っているのが明白だったし、それが誰であるかバラバにはすぐ分かった。

「マルタ、隠れていないで出てこい!」

 出し抜けに、開け放たれたままの扉へ向かって叫んだ。

 バラバの叫びに反応して、扉の内側の空気が揺れた。マルタが静かに近づいてくる。

 背の高い大柄な女性だった。礼拝用の純白の衣の上に、足もとまで垂れるヴェールをかけている。前髪が眉の上で短く揃えられていて、その下の目が無表情だった。

「ご苦労さまでした、ラザロ――」

 厚い唇が動くと、思っても見ない冷淡な言葉が告げられた。

 呆気にとられるユダの横を、ラザロがすり抜ける。マルタの元へ走っていった。

「ラザロ! きさま、やっぱり騙していたのか。大した演技だ」

 ユダが腹立たしさを隠せずに、ぺっと唾を吐いた。

「どう思うと自由だけど、踏んぎりをつけるには、こうするしか方法がないんだ」

「うるさい、黙れ! この二枚舌の喰わせ者め」

「迷っていたユダには、結果的によかったじゃないか。バラバを裏切らずに、友として一緒に殺されるんだからさ」

 ラザロが肩をすくめ、素っ気なく言い返す。

「聞きたくなかった。真意がどうであれ、言っていいことと悪いことがある」

 バラバはラザロを咎め「ヨハネに幻視を見せられながら、なぜ――いまだに迷う」と、マルタをきつく嗜めた。

「残念ですが、悪魔の子に、何も話すことはありません」

 反してマルタは、にべもなく跳ね返す。それどころか「さあ、思う存分やりなさい」と、すぐさま老執事に指示を出した。

 信徒たちの形相が一変する。俄かに殺気立ってきた。

「どうやら歓迎されていないらしい。だが、通らねば用は果たせない」

 言葉に特別な意味をこめて、ユダへ言った。

 ルシフェルと七神に比べれば小さな難関だったが、人を動かすには力ではないことを理解していた。力で屈服させてもその場限り、到底人の心をとらえることは叶わないのだ。

 

       3

 

 礼拝堂の扉を開けたマリアは、群がる信徒らの手をさりげなく振りほどいた。

「少し休むので、一人にしてください」と言って、階段を駆け上がった。

 礼拝が終わると同時に聞かされた、抜け駆けのようなマルタの愚行。薄暗い階段を感覚だけで上りきると、脇目も振らずに裏口へ急いだ。二階にはマリア専用の祭壇があり、裏口へ抜ける非常用階段も備えてある。

 一階の広間を突き抜けて、そのまま裏口へ廻れば手っとり早い。けど、そうすれば一般の信徒に気づかれてしまう。面倒だが騒ぎを避けるためには、いったん二階へ上がり秘密裏に裏へ出るしか方法がないのだ。

 広間の灯かりが届かない廊下は、真っ暗で何も見えなかった。壁に手を当て、同じ闇でもわずかに色彩の違う窓を見つめて走った。

 イエス・バラバ。お願い、信徒たちを殺さないで。

 走りながら祈った。多少の小競り合いはあるていど予測していたとはいえ、まさか冷静なマルタがこのような強硬手段をとるとは考えてもいなかった。

 あなたは……何を考えているの。

 ほんらいなら父と母が残してくれた莫大な遺産を、マルタが継ぐはずだった。もちろん巫女として。それを頑なに固辞してマリアに譲った。その後は補助に徹して、陰でマリアを支え続けてくれた。

 暴力が嫌いで思いやりに満ちていた。だから好戦的な信徒を見つければ烈火のごとく怒り、その後は懇々と愛を説いた。なのに今夜に限り、荒っぽい信徒を扇動してバラバを迎え撃っている。

 そんなことをしなくても礼拝の客と一般信者が帰れば、じきに戦いの準備が進められる手筈になっていたのだ。それを……信じられなかった。

 バラバが怒れば、信徒なんてひとたまりもなく殺されてしまう。下手をすればマルタとラザロの命でさえ奪いかねない。

 桁外れに強いバラバを阻止する方法は一つしかなかった。マリアが直接対峙して粉砕させることだ。一つの大きなまとまりにするには、一度、どうしてもばらばらに分解させる必要がある。

 裏庭が見える窓の所まで来たら、そこに青白い光の輪郭を浮かび上がらせるルシフェルがいた。壁にもたれかかって外の光景を眺めている。なぜか口元が微妙に笑んでいた。

「見るがいい、見て、果たして頭で想像するものと同じか、確かめてみることだ――」

「何のことでしょう?」

 焦りを気どられたくないため、素っ気なく返事した。そうして窓辺へ立った。

「これは……」

 眼下でくり広げられる光景に、どうしようもなく息苦しくさせられた。

「いけない! 決して赦されない行為。ならば、もう完全に……私にしかとめられない」

 マリアは階下へ降りた。

       

 

 衣は血糊でぐっしょり濡れていた。

「なぜだ、なぜ、お前は抵抗しない!」

 狂ったようにして叫ぶユダの声と入れ替わりに、また鞭が飛んできた。裂かれた皮膚の上に重なる強い衝撃を感じた。

 続けざま角材で脇腹を突かれた。激しい痛みが走る。ぐらっとよろけ、膝を落としそうになった。しかし倒れるわけにはいかない、両足をぐっと踏んばって堪えた。

 踏んばった拍子に後ろが見えた。ユダが大きな男に跨られ、殴りつけられていた。耐えろとしか願えなかった。不本意だが、一人の人間を動かすためであればと決めたことだ。

 バラバは視線をマルタとラザロに当てた。ラザロだけが慌てふためいて、マルタは女ながら泰然自若だった。微動だに構え、瞳すら揺らせていない。

「マルタさま、こっちのちびは、気を失いましたぜ」

 大男がユダの顔を跨いで立ち上がった。次はどうするか目で問いかけている。

「だったら、イエス・バラバを倒しなさい」

 マルタが表情を変えずに告げる。

「ようがすぜ!」

 大男が、行きがけの駄賃とばかりにユダの顔を踏みつけた。ぐたっとしていても反応は起きる。聞きとれない喘ぎを洩らして、ユダが顔を苦痛に歪めた。

 行為のみならず、信仰者にしては残忍な性癖の持ち主みたいだ。目が吊り上がり、ターバンも布も巻かずに剃り上げた頭は、角の名残のような瘤がぼこぼこと突き出ていた。指をぽきぽき鳴らして、のっしのっしと大股で歩いてくる。

「おい、かかって来いよ。震えてばかりいないで、殴り返してきたっていいんだぜ。さっきのちびじゃ弱すぎて、俺あ、消化不良を起こしてんだ」

 たぶん嘘だ。バラバが無抵抗だから言える雑言でしかない。女か、弱い相手には、極めて残虐になる部類だろう。

 案の定、抵抗がないと判断するといきなり殴りかかってきた。受けとめようと思ったが、ユダに対する非道な行為が頭にこびりついて離れない。つい避けてしまった。

 慢心しきった空振りは動作が大きかったぶんだけ反動が強い。大男は体勢を崩すとぶざまに転がった。

「くそ! てめえ、もう勘弁ならねえぞ――」

 怒り心頭、大男が起き上がりざま体当たりを仕かけてきた。倒してから馬乗りになって、ここぞとばかり殴るつもりだろう。

 バラバは、ちらっとマルタを見た。相変わらず観察しているのか、まったく表情を変えようとしない。無反応だった。陰影のある目で冷淡に見つめている。

 思い、違いだったのか。

 抱いていた望みが掻き消された瞬間、まるで象に衝突されたような圧撃を喰らった。

 バラバは飛ばされた。鉄柵の近く、ユダが仰向けに倒れているすぐそばで、馬乗りに圧し掛かられた。

「よくも、俺さまに恥をかかせやがったな」

 大男が力いっぱい殴りつけてくる。一発、二発、三発と、怨嗟のこもった打撃をまともに受けた。頭が朦朧とした。

 と、繰り出す拳がやんだ。そればかりか大男が呻き声を上げた。

 背にユダが立っていた。手に血の付いた短剣を握っていた。

 仲間の信徒たちから悲鳴が上がる。だが、さほど深傷でないのが見てとれた。大男がすくっと立ち上がる。

「てめえ! 俺に、何をしたのか分かっているのか」

 と、これ以上ないぐらいの醜悪な表情でユダを睨みつけた。

 ユダが足どりをふらつかせている。体力の限界を、とうに越しているみたいだ。

「バラバ、立て! こんな腐った奴らに、むざむざやられることはない」

 と憎々しげに、短剣を構えた。「現実なんてこんなもんだ。お前がいくら憂えても、感じない奴は感じない」

 ユダがマルタを射すくめる。その放たれる視線からは失望しか感じられなかった。

       

 

 短剣を警戒する大男、静観するマルタ、凍りついた沈黙が流れる。

 が、それは狡猾な者の手によっていとも容易く断ち切られた。老執事が背後から、細長い樫の棒でユダの短剣を叩いたのだ。

 するりと手から放れた短剣は、無情にも対峙する大男の前へ転がった。

「まずい、取らせてはいけない」

 バラバは身体を起こして懸命に奪い取ろうとした。しかし鞭と角材による傷は思いのほか深かった。苦もなく大男に握らせてしまった。

 一方、老執事も隠し持っていたのか、衣をはだくと短剣を取り出した。動きを牽制しようとバラバへ向けてきた。

「しまった!」

 次の瞬間、その悔いは、より大きな絶望に支配された。大男が、ユダの胸めがけて短剣を突き刺していたからである。

 ユダが胸を押さえて、くずれ落ちる。お前は……どうして立ち向かわないのだ。と、バラバに訴えながら。

 ついにバラバは壊れた。後悔、自身への歯痒い憤怒、それでいて、一個の人間に対して危害を加えたくないという甘さ。その諸々のすべての思いが、胸の中でやるせなく炸裂していったのだ。

「うおおおぉぉぉぉぉ――」

 バラバは頭を抱え、両膝を地につけて咆哮した。振り絞った叫びはいつまでも語尾がとぎれない。

 大地が共鳴する。バラバの叫びに合わせて、うねりながら地鳴りのように律動させると、震動は夜空を触発していく。

 立ちどころに空の一角から黒雲が湧き上がる。やがて烈風が吹き荒れ、中空にいくつもの雷光の帯が発生した。怯えた野鳩や鷲たちが梢から飛び立とうとするが、どこへも飛び立てられずに次々と落下した。

 信徒たちは武器をすべて放り投げ、恐々蹲っている。ユダを刺した大男と老執事だけが、短剣を握ったまま憐れに這いつくばっていた。

       

 

 広間を突き抜けて、仄暗い廊下を二十歩ほど走ったときだった。外から獣のような咆哮が聞こえると、廊下に置かれた燭台が猛烈に揺れた。

 マリアはとまった。いや走れないのだ、とまらざるを得なかった。まるで地が裂けてしまうかと思えるほどの激震、蝋燭が倒れないよう必死に台座を押さえるぐらいしかできなかった。

 広間から悲鳴が飛ぶ、甲高い絶叫が行き交った。皆、狂ったように慄いていた。阿鼻叫喚とはこのことなのだろう、とマリアは思った。

 バラバの仕業?

 だとしたらユダが死んだのかもしれない。マリアに直感するものがあった。二階の窓から覗いたとき、ユダは馬乗りに殴られていた。

 煮え切らないが大胆な一面を持っているユダだ。衣の内側に隠し持つ、短剣を抜いたに違いない。それで相打ちになったか、逆に刺されたのだろう。マリアは激しい揺れの中で、冷静に思考を巡らせていた。

 と、扉の向こうから、どたどたと数人の足音が迫ってくる。いつのまにか咆哮は消えていた。

 マリアはすくっと立ち上がる、再び走り出した。そこで魂の抜け殻みたいにさせる五、六名のサマリア人信徒とすれ違う。

「どうしたのです。外で、何が起きたのですか」

「悪魔の子が怒り狂って、ゴモとソムを殺した!」

「何ですって」

 頭が痺れた、後の言葉が続かない。

 完全に予測が外れた。殺されたのがユダとばかり思っていたから。ならば咆哮は殺意のこもった雄叫び、自身の手を汚さずに浮遊する霊を操った殺人でしかない。とうとうバラバは悪魔の本性を目覚めさせてしまった。

 マリアは走り去る信徒の背を呆然と見送りながら、裏口へ急ぐ。

 戸口に立った。鉄柵の近くで、マルタとラザロが蹲る一人の男と向き合っていた。その横には老執事ソムと大きな体躯をした使用人ゴモが、それぞれうつ伏せに倒れていた。もう一人、見覚えのある黄土色の衣を着た若者が衣を血に染めて横たわっている。暗くてはっきり見えないけど、きっとユダなのだろう。

 だとしたら、膝を落として蹲っているのが……バラバ。初めて目の当たりにして見れば、頭の中で想像していた印象とはかなりの食い違いも感じられた。これだけの騒ぎを起こして、二人も人を殺したのだ。もっと粗野で冷酷な男を描いていた。

 けど実際は憔悴しているだけ。肩透かしを喰わされた思いだった。

 意気込みを削がれたが「マルタ、無用な争いはそこまでです。すぐにもバラバを二階へ連れてきてください。三人の死体はすみやかに弔らわせますから」と、冷静に言った。

 ラザロが振り返り、決まり悪そうに目を逸らす。

「ソムとゴモには済まないことをしたけれど、試して正解だった。やはり、あなたは神の子なんかではない。砂漠の殺人鬼、悪魔の子だったわ」

 マルタが毅然と言うと踵を返し、バラバへ背を向けた。

 一方、バラバは返答もしない。ユダが死んだことと、咆哮によって二人の犠牲者が出たことを、悔やんでいるみたいにもマリアには思えた。

「違うんだ、マルタ! 僕には、バラバの叫びに怒りが感じられなかった。むしろ哀しみに共感させられた。勘違いしているのはマルタのほうかもしれないよ。だって見て、ユダが……ほら、動き出している」

 ラザロがユダを指さした。マルタが足をとめる。

 そういえば、息をしているようにも思える。

 マリアは、小走りでユダの元へ行き喉に手を当てた。するとユダが薄目を開けた。すぐには起き上がれないみたいだが血色は悪くない。血もとまっているのか衣が乾きはじめている。

「どうしてなの?」

 マリアは心を彷徨わせた。

「バラバの咆哮は、怒りではなくて癒しだったんだと思う。きっと、ユダを助けたかっただけなんだ。それに、ソムとゴモが雷に打たれたのは、バラバを殺そうと短剣を持っていたからだ。もしかしたら天罰を受けたのかもしれない」

 ラザロがマリアの心を揺らそうとしてくる。

「だったら、ユダも一緒に連れてきて」

 マルタの頬に紅が差している。でも、敢えて無表情を繕い、マリアは館内へ向かう。

 

       4

 

 バラバはよろけながらも、祭壇へ繋がる通路をマルタに続いた。

 ベタニアにバアル信徒が多い中、エルサレムに近いせいもあって聖所もなければ神殿もない。北部のサマリアに廃墟となった秘神殿があるだけである。だからこそ信徒は館を有するマリアに従いてくる。

 礼拝堂があるからだけではない。きっとマリアを通してでなければ誰もバアルの姿を拝せぬからだろう。信徒にとってマリアは虚像を映す鏡であり、霊感の強い巫女なのだ。

「さあ、マリアと存在たちは二階です」

 マルタが階上を指差したあと、膝を付き、両手を胸に押し当てた。

 バラバに対する変貌ぶりを見て、広間をとりまく数十人の信徒たちに動揺が渦巻く。意に介さず、バラバは階段に足をかけた。ラザロがついてこようとしたが押しとどめた。

「肉の世界を超越した敵だ。下手をすればマリアが壊れ、ラザロ、マルタまでもが命を落としかねない。供はユダ一人で充分だ」

       

 

 正面の祭壇にマリアの姿があった。天窓から射し込む月明かりを一身に浴びて、ひたむきに祈りを捧げている。

 まわりには煙のようなオーラを纏った塊が七柱、ゆらゆらと強烈な視線をバラバへ向けて浮かんでいた。ルシフェルは彼らと数キュビット離れた場所にいた。天使の姿で壁にもたれかかり、鋭い目をバラバに当てている。

「その傷だらけの身体で、ついに来てしまったのですね。ほんとうは望んではいませんでした」

 意識をルシフェルと七柱の霊に向けていたら、マリアが思いもよらぬことを伝えてきた。どこか瞳が潤んで見える。

 裏庭の行為に気を咎めているのか。

「下衆な勘ぐりはやめたほうがいいかと。私は、あなたが死と向き合っているのが偲びないだけです」

 マリアが、バラバの心を覗いたかに言った。

 わずかでも接点を見い出そうと思ったが、強情な女性だ。弱さを発見したかと思えば、前触れもなしにいきなり強く否定する。まるで掴みどころがない。

「確かに身体は傷だらけかもしれないが、マルタの改心によって心の傷は癒えた。なお痛ませるのは、マリア、あなたが真実に目を塞いでいるからだ。それに下衆の勘ぐりは、あなたのほうかもしれない。死と生は隣り合わせだが、私は死と向き合ってなどいない。生と向き合って生きている」

「征服者の子は独占力の塊、口も達者なようですね」

「普段は寡黙だ。その代わり、相手が尊大だと雄弁になる」

 と言い返したあと、皮肉をこめて付け足した。「本来は、どんなに高圧的な相手でも、女性には言い返さないほうだ」

「黙りなさい、バラバ! 嘲弄は赦しませんぞ」

「嘲弄ではない、差し出がましいことを言うようだが懸念しているのだ。このままでは、いずれ七つの悪霊に取り憑かれた女と、民から蔑まされることになる。マルタのように改心すれば別だ。人の痛みを知る聖女として永遠に人の胸に刻まれるだろう」

「残念ですが、口先だけで一方の理念を押しつけようとするのであれば問答は無用。これ以上話しても埒があきません。やはりあなたの相手はルシフェルに一任します」

「そのほうがいい。じつは、私もあなたが苦手だ」

 バラバは一方的にマリアから視線を外すと、返す動きでルシフェルを見た。

 もともと敵をマリアと定めたことはない。七柱の存在を横目で牽制しながら、天敵へ静かに近づいた。

 と、忙しく階段を上がる音が聞こえた。見ればラザロがバラバをすり抜け、思いつめた表情でマリアに駆け寄っていった。マルタもラザロを追いかけるようにして続いてくる。

「マリア、僕は、自分に正直に生きることに決めた。バラバが教えてくれたんだ」

「知っています。でもこれから、それが間違いだったと教えるつもりです」

 マリアは背筋を伸ばしたまま考えをくずさない。静かで、それでいて激しい瞳をラザロに当て、あべこべにたじろがせている。

「巫女の血筋のせいでしょうか、私たちの一族は女に限って特に霊感が強い。その重圧に押し潰されるのが嫌だったの。だからマリア、あなたに家督を譲った。でもイスラエルの女です、もう一度、イスラエルの神を信じようと決意しました。今こそ宿命に決着をつけるつもり」

 マルタが居ても立ってもいられない感じで、マリアの手を握る。

「マルタ、あなたまでもが……誑かされてしまったのね」

 マリアが手を払いのけた。

「痛ましい光景だ。バラバよ、二人を篭絡させたことについては素直に評価しよう。だが、そんな茶番じみた芝居では、人間の観客を騙せても存在たちの心は動かせぬ。どうする、思いきって床をなめ平伏してみるか。それとも抹殺されてみるか」

 壁にもたれていたルシフェルが、足を半歩前へ進ませ、意味深に投げかけてきた。

「それほど深淵に徘徊する仲間を鼓舞したいのか。しかし忘れていることがある。生きている限り私は無力だが、死して魂の本質に戻ったとき、力はお前を凌駕する」

 朗々と言った。けどルシフェルは揺るがない。

「それこそ痩せ犬の遠吠えにしかすぎん。我らは感情にまかれて怒りを爆発させることはしない。逆だ、力を制御する能力に優れているのだ。だから命をとらずに狂人にすることだって、再起不能にすることだって思いのままだ。それを踏まえて対決するがよい」

 バラバを余裕であしらうと、七柱の霊へ向かって呼びかけた。「それでは、出でよ多神たち――」

 煙のように輪郭をぼかせていた存在が、ルシフェルの言葉に呼応する。俄かに妖気が厳かな霊気に変わった。漂っていた重苦しさは消え、七柱の霊から不可思議な光が洩れる。幾筋もの光の帯が、部屋中の壁に反射して飛び散った。

「おお……」

 ユダが驚嘆の声を上げる。ラザロが慌てて、バラバの後ろに身を隠した。一人、マルタだけが手を広げ七霊の前に立ちはだかっている。

「彼らは古代よりこの地に土着する豊壌神です。正統な巫女の血筋を引く、マリアの聖婚を支配しようとしています」

「たぶんそうなのだろう。彼らを知っている……そんな記憶もある」

 バラバは呟くように言った。

「ヤハウェの子よ、今夜限りで消滅する身でありながら、我らを覚えてくれていたとは身にあまる光栄です」

 冴え渡る声とともに、見るからに美しい女神が姿を見せた。

「そなたはフェニキアの女神アスタルテ、そこにいるバアル神の妻。なら残りの五神はマンモンの神モロク、ペリシテの海神ダゴン、竜神ヤム・ナハムに、女神アナト、そして最高神イルであろう」

「ほう。さすが神の子と呼ばれる人間よ。心を折ったくせに、しっかり名前だけは覚えているのだな」

 くぐもる声を轟かせ、颯爽とイルが姿を見せた。いかにも最高神らしく堂々たる勇姿だ。

 律法学者らによって幾千年も苛まれていたはずなのに、尊厳は失わせていない。いまだ多くの民に崇められているのか強烈な崇高さが保持されている。部分、部分に、聖なる威厳がとても強く感じられる。

 だがバラバは、ルシフェルに向き直り言った。

「こそこそとやたら気配を感じると思ったら、どこへ行き、友を連れてきたのか。天の目を盗んでの冒険、さぞかし楽しめたと思う。が、真意はどこにある。多神と私を対峙させ、何を望む」

「理由はすでに伝えてあるはずだ、そんなに怖れなくともいいだろう。私は場を設定し、双方の真価を見とどけたいだけだ。ナザレのイエスは、すでに試した――」

 かっと頭を熱くさせたが、逆に心は鎮まっていく。弟への揺るぐことのない信頼感、それが根底にあった。

「なら試させてあげよう。金輪際二度と、私と弟の前へ、恥ずかしくて顔を出せぬほどに!」

「神々よ、この男は何も分かっておらぬ。弟、弟とほざくが、その弟を、なぜ私らが封印したのか説明する必要がある。誰か、言って打ちのめしてはくれぬだろうか」

 ルシフェルが周囲に呼びかける。すると、すぐさま金色と黄色の入り混じる霊気が反応した。女神だてらに気性の激しいアナトだ。

「バラバよ、きさまはナザレのイエスを清らかな男と勘違いしているが、あ奴こそ正真正銘の偽善者だった。そればかりか底知れぬ能力を秘めた魔術師でもある」

「弟が、偽善者だと。どこからそんな言葉が吐き出されるのだ。アナトよ。そなたこそ病を癒す女神でありながら戦いに明け暮れ、守護する力は少しも民に及んでいないのを知れ。それに横にいる竜神ヤムから、姉妹ともども奴隷まがいの扱いを受けて、復讐することしか念頭になかったのではないか。憎悪と復讐、神に縁遠い行動だが、これをいかに説明するのか」

 バラバは七神すべてを見渡すと、語気を強めアナトへにじり寄った。

 しかし戦いの神アナトは、これっぽっちも怯まない。逆に「まったく説得力に欠ける言葉だ。今でこそヤハウェは善き神として民の上に君臨しているが、元々は戦いの悪魔ではないか。いったいどれほどの人間を殺めた、どれだけの自然を破壊したというのだ。この地域の乱れの元凶は、すべてヤハウェにあるのを知らぬか。我らは人間を殺めてもいなければ自然も破壊していない」

 と、凛とした精気を双眸に漲らせた。「大地の修復は、我らが人間と手をたずさえて行ったのだ」

 アナトの言うように、神は地上に災害をもたらし多くの人間を殺した。また蹂躙される民を憂えて、戦いに導いた。

「イスラエルの民を救うとはいえ無意味な行為であったかもしれない。けれど自然については破壊したのではなく再生したと心得よ。我が神は、ついで人間の心も再生した。そして地域に固執せず、至高の奥深くで全世界を俯瞰している」

「ばかめ、負け惜しみにしか聞こえぬわ。我らは、ヤハウェをイスラエルの殺戮の神と呼んでいた。だが、きさまが非を認めたことに関しては評価してもよい。四の五を言ったら、斬りつけてしまおうかとも本気で考えていた。ま、ナザレのイエスのことは別として、痛み分けで良しとしてくれるわ」

 アナトが白い歯を覗かせる。やけに小気味よさが残った。一方での潔さ、それが戦いの女神といわれる所以なのかもしれない。けれど肝心の弟のことに関しては話をはぐらかされた。封印? いったい多神と弟の間に何があったのだ。

 刹那、ルシフェルから不可解な笑みがこぼれた。嘲笑でもなく同情でもない、どちらかというと値踏みするような笑みに思えた。この場を画策しておいて何を意味するのか理解しかねたが、釈然としない。

       

 

「ふ、口の達者な小僧だ。だが他所は見えても、自分の足もとは見えぬようだ。では私がアブラハムの子孫とヤハウェの節操のなさを教えよう。心して聞け」

 バアルの誰よりも低く、そのうえ張りのある声が部屋中に響く。嵐と慈雨の神、大地に豊穣をもたらす存在だ。それだけに纏うオーラも力強い金色に輝き、見るからに相応しい威容を誇っている。

「今でこそ砂漠となってしまった大地も、遥か昔は肥沃な一面緑の大自然だった。そこで私は人間たちに農業を教え豊穣をもたらせた。そのせいもあり、人間たちの暮らしは日増しによくなっていった。しかし流浪の民を率いる僻地の神ヤハウェが羨んだ。なぜか? 理由は言うまでもない。それはイスラエル人が、ヤハウェの提唱する戦いが無意味だと知ったからだ。アブラハムの子孫は次々と見切りをつけ私を崇め出したのだ。彼らは遊牧をやめ農耕を選択した。つまりヤハウェをすて私を選んだ――」

 バアルが満足げに話すと「それだけではないぞ。大地の恵みを捧げるカインを拒絶して、弟殺しの罪を着せると残酷な生贄を奨励した。ヤハウェはとことん血が好きなのだ。大地を血で呪いたいらしい」

 生贄のことをいうなら、バアルは人身御供を望んだ神として有名である。イスラエルでもつい五百年ぐらい前までは、バアルと、バアルの後ろに控えるモロクのために、子供を生贄として捧げ火で焼きつくしていた。しかし聖地の祭壇に、子羊の血を振り撒く儀式が今も続いているのは事実だった。父アッバスはそれを嫌い、穀物を捧げていた。

「バアルよ、なぜそれほどまで小さな主観の中でものを言うのか。私に足もとを見よといったが、あなたこそ空でも見上げてみたらどうなのだ。ルシフェルと違い我が神の創造物でないことは認める。だがだ、あなたらは神の創った大地から生まれた精霊であって、聖霊ではないのだ」

「我ら神々が聖霊ではないだと? ふざけるな! 黙って聞いていれば、よくも抜け抜けと。たかが十六、七年、地上で生きて何が分かる」

 バアルを押しのけ、それまで静かに情勢を見つめていた竜神ヤムが激怒した。とつぜん両手を胸の前で広げ、熱い息を吹きかけると指を弾いた。

 弾かれた二つの空気は小さな炎の塊となって、凄まじい勢いで飛んできた。まるで至近距離から放たれた火矢のようであった。避けるまもなくバラバの両肩で炸裂した。

 気がつけば肩に激痛が走っていた。バラバは膝を落とした。身体から肉の焦げた臭いが、ぷーんと鼻を衝く。両肩は焼けただれていた。

「ヤム、ひどいぞ!」

 ラザロが叫んだ。「それでも神なの、恥ずかしくないの。今の行為には少しも愛が感じられない。僕には核心を突かれて動揺しただけに思える。ほんらい怒りというのは、愛が備わっていない限り出すべきではないんだ。傲慢すぎる。謝って、バラバに詫びを入れて!」

 さして強くも思えぬラザロが、竜神に対して堂々と言ってのけた。ある意味、多神との完全な決別と思える言葉だった。バラバは痛みを忘れ、胸を熱くした。

 それのみかマルタまでもが駆けより、流れる血に布を当ててきた。誰はばかることなく、必死に血止めをする姿は清廉そのものだった。

 ああ……こんな私に。たまらなく目頭が熱い。

 ふと横を見ると、ユダが、ルシフェルとバラバを交互に見つめ戸惑いを見せている。目覚めたといっても契約寸前の影響なのだろうか、懸命に殻を打ち破ろうと悶えているようでもあった。

 バラバは、マルタとラザロに目で感謝すると「離れたほうがいい」と促し、ゆっくり立ち上がった。

「ヤムよ、一つだけ約束してほしい。私に攻撃を加えるのは、いっこうに構わない。しかしマルタとラザロだけには手を出すな。たとえ虫に喰われた程度の損傷でも決して与えてはならない」

「あたり前だ。言っておくが、我らの中にヤハウェみたいに大洪水を起こしたり、空から硫黄の雨を降らす者などいない。それに我らは一民族だけを導く偏った考えを持っていないのだ。大地と人間を心から愛している」

「果たしてそうだろうか。そこまで人間を愛しているというなら、どうして地上の支配者争いに終始し、なぜマリアに取り憑いているのだ」

 ずきずきと襲う両肩の傷の痛みに顔をしかめ、再度核心を突いた。横でマリアが小さく肩を震わせる。バラバは続けた。

「マリア、あなたは邪悪により拘束されていることに気がつくべきだ。いくらイスラエルの表層を見て失望しようとも、バアルのような外的権威を受け入れてはいけない。自らの内に真理を見つけるのだ。それは偶像からの解放でしかない」

「偶像? イエス・バラバ、あなたは何を持って偶像と言わしめるの。なら聖地エルサレムはどうです。私には契約の箱に収められた石版も、箱に描かれた絵も立派な偶像に思えます。それに呪われた町ではありませんか。豊穣神を追放したからだけではありません。一目瞭然です。大神殿に裕福な律法者たちと祭司、信仰を指導している人たちは心の貧しい者ばかりです。本質から理解すれば戦いの神ヤハウェなど、一般市民の生活とは無用なもの。単に階層的な貴族のための信仰でしかありません。神殿こそが律法者こそが、偶像にほかならないのです」

 返答が毅然というより刺々しい態度に思えた。ただ、律法者に関しては的を射ている。

 それは税も払わぬのに税を搾り取り、贅を尽くした祭司たちの生活ぶりを目の当たりにしているからだ。バラバ自身も強い反発を覚えていた。だからといって、答をすり替えてはいけないとも感じた。

「マリアよ、なぜエルサレムの塵に気づきながら、自分の中にある棘に気がつかない。あなたに憑いた者は悪霊であって、純真な心を貪る者たちだ」

「愚かな――」

 マリアが苦笑して言い返す。「あの一同に星が集結したベツレヘムの夜。ガリラヤでは明星とともにアスタルテ、アナトなどをはじめとした多くの女神が降臨し、星々がマグダラを祝福していました。理由が分かるでしょうか。私は女神の意志を引き継ぐ母性なのです。だから救世主にとって私は道であり、私を通ってでなければ、たとえ選ばれし者でも大願を成就することは叶いません。メシアは私のもとで目を覚まし、バアルら神々の定めた道を歩くのです」

「違う、メシアの母は農婦だが一人しかいない」

 冷淡に別れを告げたが、母と子の絆が消えるわけがない。バラバは母の顔を思い出しながら反論した。

「ああ言えば、こう言う。どこまでも口が達者ですね。それだけにイエス・バラバ、あなたの惨めな末路がはっきりと見えるのです。最終的にあなたは、あなたの神から見放され大いに嘆くでしょう。それは真実を知らぬままに生き、最後の最後に真実を知るからです」

 マリアの口調はもの静かで溶け入るようにやわらかい。それなのに言葉が胸に突き刺さる。

 重苦しい沈黙が生まれた。

「減らず口を閉じるのだ。真実を知りもせず巫女を惑わせてはいけない」

 七柱の中、ひときわ澄んだ輝きが沈黙を破った。最高神イルだ。眼差しは激しくない、むしろ湖の底のような深い静けさを湛えていた。

「そなたは我ら七神を排除し、ヤハウェのみを正しいと主張しようとする。それは間違いである。なぜなら矛盾だらけだからだ」

 イルは間を置くと続ける。「では説明しよう。ヤハウェはダビデのような戦いに能力を発揮するものだけを好んで優遇した。また愚かにも信じる者には永遠の救済を約束し、異教徒には地獄の苦しみを与えると断言した。差別好きのヤハウェは一切を救済する思慮に欠けているのだ。なのに唯一神と自ら名乗り、この先ヤハウェの子が真理を悟れば三位一体と言い直すであろう。それは本末転倒であり私の真似事でしかすぎないのだ。その真理も然りだ。理解できぬのなら予見を見せる、しかと見るがよい」

 イルは言葉をそこで切ると、皆を見渡しておもむろに両手を広げた。

 そこに、墨色の空を背景に三本の柱が立っていた。所々から雷雨のはじまりを告げる光が破裂しかかっている。

 これは……よもや霊視で見たゴルゴダか。なら自身の絵姿であろう。バラバは言葉を失いかけた。

 イルが「目を背けてはならぬ、耳も澄ませよ」と小さな声で囁いてくる。やけに間延びした声なのに、いつまでも頭に残った。それだけにユダもラザロも、マリアまでもが吸い込まれるよう耳をそばだてた。

 

       5

 

 衣を剥ぎとられ、全身無数の鞭跡だらけの痩せた男が、雷光に向かって叫んでいた。でも、よく聞きとれない。

「ふ、遠すぎて、よく聞こえぬか。ならば――」

 イルが、もう一方の手から波動を送った。と、とつぜん臨場感溢れる声が迫ってきた。

 ――エリ、エリ、レマ、サバクタニ!

 痩せた男が目力を弱め、どんよりした空に向かって吼えている。

 これは、まさか弟なのか……ならば弟までもが、我が神に見すてられたことになる。

「どちらとは言わぬが、そなたの推察どおり、ヤハウェに呪われた子であるのは間違いない。しかし私が言いたいのはこの後のことだ。男は復活する。民衆は奇跡だと大騒ぎをする。復活、そんなことが奇跡であるならば我が息子バアルは、とんでもなく奇跡の神である。バアルは死して必ず三日後には復活したのだから――」

 バラバの身体から力が抜けていく。イルの言葉ではなく、絵の重みに耐えきれず首をうなだれた。

 すると、それまで黙っていたルシフェルが見透かしたよう話題を変えた。

「イエス・バラバよ、真実の入口に差しかかったついでに、私が反逆を起こした理由を説明しよう」

 と足を進めてきた。「征服者は、唯一神の論理に拘りすぎて我が子を見すてた。いや、それ以前に多神を見すて、人間を見すて悪魔となったのだ。真実を人間に知られるのを畏れ、禁断の木の実をあえて設定した。だが私には耐えられなかった。そのため蛇を唆してまでも、エバに目を見開くのだと囁いた。なぜなら知識の実など大嘘で、どうしても隠しておきたい別の真実があったからだ」

「その真実とは?」

 ユダとラザロの切迫した声が聞こえてくる。バラバは伏し目がちに首を上げた。

 見ると、ほぼ全員がルシフェルを凝視していた。だが、すぐには答えない。

「何を躊躇するか。早く言って、ヤハウェの子を二度と立ち上がれぬぐらい叩きのめすのだ」

「お願いです、ルシフェル。私もその答を、ぜひ聞きたい……」

 マリアも、潤ませた瞳をルシフェルへ向ける。

「もとより隠すつもりはない!」

 ルシフェルは、何か踏んぎりをつけようとしているのかバラバを睨みつけ、めずらしく言葉尻を荒げた。

 真実を思い出すということは、忘れていた記憶を甦らせることでもある。記憶の入口に差しかかり、なぜかルシフェルに対し懐かしい哀愁じみたものを感じた。それが何であるかまでは思い出せないが、まぎれもなく約束に起因するものなのだろう。

「遥か昔、まだ人間がいないころの地上。私は大地をこよなく愛する豊穣の神バアルを見て、土から人間を創ろうと、まだ神と認めていた征服者に持ちかけた。『よかろう、ならば、わたしの似姿に合わせて創ろう。その代わり、わたしと同じように敬わなければならない』と言った。反発する天使もいたが、抑えて私は同意した。なぜかといえば、私は人間の肉を見ずに魂だけを見ていたからだ。魂に境涯の違いがあっても、どこに偏見があろうか」

 ルシフェルにしては穏やかな目だった。しかし衝撃的だ。

「バアルはエデンの東で、アダムとエバに豊穣の喜びを教え、アスタルテは愛の大切さを知らしめた。エデンには竜神ヤムもいるからして、緑と水、愛に溢れた大地となった。だがアダムとエバは、征服者からバアルもアスタルテもヤムもすべて神々だとは知らされていなかった。理由はいうまでもなく、征服者が封印していたにほかならない。そのことについては、ラザロもマルタもバアル信徒であったから知っているはずだ。しかし真実を見せずして、このままでいいのか、私はしだいに心を揺らせた。で、ついに真実を告げた。神はヤハウェ一体ではない、大勢いるのだと――」

 マルタとラザロの息づかいが急に激しくなる。

「そしたら、神は……」

 ラザロがルシフェルへ純真な目を向けた。

「征服者は烈火の如く怒った。アダムとエバから、よりよい関係であったバアルやアスタルテなど神々の記憶をすべて奪い、一本の林檎の木に隠してしまった。神が堕して征服者となった瞬間だった。私は、そのとき初めて怒りを感じた。真の三位一体とは神を含めた神々と、天使、人間の魂が心を通わせることだと思っていたからだ。根底から、ずたずたに裏切られてしまった。だからこそ私は悪魔と堕した征服者に弓を引いた!」

 ばかな、嘘だ。三位一体とは無限の我が神と、有限の天にいる聖霊と、地上で肉を持った弟であることが前提なのだ。精霊でしかない有限の多神とは、あきらかに本質が違う。精霊とは万物に宿る崇高な霊のことだ。無限に行くこともできないのだ。

 だが根も葉もない戯言だと否定しようにも、衝撃が強すぎて言葉を返す気力がない。いたずらに首を横に振ることしかできなかった。知っているつもりでも知らないことが多すぎたからだ。

 仮に六面体の大きな箱があり、それぞれに真実の色がついていたとする。正面から見れば一色しか見えない。でも斜めから見れば二面二色に見える。バラバには斜め上から、さらに上面の色まで見えていた。

 しかしそれは、あくまでも全体の半分でしかない。残りの三面は未知のままだった。今、一方の存在から反対側の色を知らされ、ルシフェルから地の底からしか見えぬ色を聞かされた。

 我が神は、人間に無限の愛を知らしめた。だが反発する者には必ず怒りとも試練ともとれる罰を与えた。悪に向く人の心を覚ますためである。ルシフェルよ。お前は無知な策略を持って我が神の計りごとを覆うつもりか。

「無限である神から、何より最初に祝福された大天使ルシフェル、光の伝授者よ。お前は明けの明星でありながら、この地上に光ではなく闇をもたらすのか」

「イエス・バラバ、お前はそのように嘆くが、私の翼がどれだけ黒く澱んでいるだろうか。この見事なまで純白な衣はどうなのだ。眼差しもそうである。人間に対する思いは、枯れることのない泉のよう絶えず潤いに濡れている。断言しよう。我、征服者を呪い、袂を分かったことに一点の迷いもない!」

 なぜか反論できなかった。力量不足だ、あのルシフェルが切々と胸の内を見せているというのに、心を無下に隠すことなどできるはずもない。

       

 

「憔悴しているところに鞭打つようだが、今宵、そなたを呼んだ理由を伝えよう」

 ルシフェルと入れ替わり、バアルが駄目押しとも取れる言葉を浴びせてくる。「もはや万端手筈は整えて、残る邪魔者は取るに足らないヤハウェの子そなたと、守護する生意気な小僧ヨハネだけだった」

「私とヨハネだけ? それは、どういう意味だ……」

 いきなりヨハネの名前が飛び出して、かっと胸を熱くさせられる。

「分からぬか。どうして我らがルシフェルといるのか、なぜ天上でそなたと戦ったことがあるのか、もう一度よく考えて見ることだ」

 バアルが愉悦の表情を浮かべて見下してきた。バラバは少なからず皮肉をこめて言い返す。

「まどろっこしいことを言わずに、正直に話したらどうなのだ。ルシフェルと一緒に深淵に堕して、這い上がってきたと――」

「ふ、蝿の王と言いたいのだろうが、それはヤハウェに洗脳された人間が真実を歪めて伝承したものだ。がだ、確かに我らはルシフェルの呼びかけに応じて天上で戦った。砂漠の神ヤハウェが砂漠だけに飽き足らず、近隣へ触手を伸ばし、秘かに全土支配を目論んでいたからだ。しかし敗者とは惨めなものだ。その後ヤハウェはイスラエル人を操って戦いに明け暮れ、我らが補佐する民族を次々と滅ぼしていった」

 たぶん彼らは怖れている。補佐するペリシテ人やカナン人、フェニキア人らがいなくなってしまえば、彼ら自体の居場所がなくなり存在が無になってしまうからだ。そうなれば自ら消滅させるか、未開の土地へ行って一からやり直す以外にない。

 現に消えかかっている民族だからこそ、マリアが最後の砦となる。マリアがどう動くかで存続が決まる。なら、そのための邪魔者がバラバとヨハネなのだろう。

「そなたを消滅させてしまえば、ヨハネなど論外」

「そうはいかない、それが甘い謀略だということを思い知る。俺が死んでも弟がいることを忘れたか――」

「弟だと? よくよく世間知らずだ」

 バアルが冷笑する。「もう少し思慮深く敏感だと思っていたが、やはり愚か者であったようだ。もっと言葉の裏を探るべきではないのか。ナザレのイエスが、そなたの考え通りに動くとは限らないのだ」

「世迷言を言うな」

 肉として破壊の道へ進むのも、ここで殺されるのも、ひとえに弟こそが救世主と信じていたからだ。それを異教に屈するなどと、そんなふざけたことがあってたまるか。露骨に否定した。

 生まれて以来、一度たりとも会っていない。しかし弟こそが心の支え、唯一の誇れる牙城なのである。その存在があったればこそ、破壊の道を歩くことになっても後悔しないと決めたのだ。しかし封印、今になってその言葉が重く圧し掛かる。バラバは、ルシフェルへ向き直った。

「どこまで汚い奴だ。多神と密談を重ね、まだ聖霊と繋がっていない弟を、組やすしと判断して誑かせたのか」

「お前は放っておいても自滅するだろうし、能力もたかが知れている。契約の対象外だ。それにマリアがいれば聖婚によってバアルと繋がるのだ。そうすれば手なづける手間が省ける、この先ヨハネが洗礼を編み出しても脅威ではない。聖霊と繋がっていないもう一人のイエス、選択肢はナザレのイエスしかいなかった」

「よくも!」

 バラバは痛む両腕を前方にかかげ、手のひらに波動を蓄えた。すぐにそれは金色の光となった。雷ずちである。

 皆が息を呑んだ。

「見苦しいぞ、イエス・バラバ。腐った怒りによる雷ずちなど我らに効かぬ」

 たじろぎもせず、泰然とかまえるルシフェルの態度に、創り出した雷ずちの行き場を失わせた。目的なき雷体は、手のひらの中でぐるぐる旋回しながら勢いを緩やかに鎮めていく。

 腐った怒り、その言葉が迷った風となって胸の中を吹き抜けた。

 ルシフェルは悪略をもって大切なものを奪い、人々の救済の道を塞いだ。卑怯すぎるぞ。後から続く正義が立ち上がらなくては、人に道はないも同然。

 バラバは激しく首を振り、手のひらで暴れる雷ずちをルシフェルへ向けてかざした。

       

 

「き、きさま、それを我らに向けて放つのか!」

 気配を察知したヤムがルシフェルを押しのけ、すかさず、いくつもの炎の球を創った。間髪を入れず指を弾く。まったく躊躇いが感じられない、唸りを上げ立て続けに飛んできた。ぐわっと燃えながら迫ってくる。

 気丈なマルタが甲高い悲鳴を上げる。ラザロを懐に抱え込んで蹲った。

 それを見て手のひらの波動は突如熱り立ち、ついに雷ずちを放った。閃光が館内に走った。薄暗い室内が白昼の輝きを見せる。

 だが心境は絶望的なまでに耐え難い。究極の破壊力、その殺傷能力はヤムの炎の比ではないからだ。

 雷ずちは、凄まじい力でヤムの炎を弾き飛ばした。弾かれた炎が、瞬時に痕跡も残さず消える。光の藻屑となって霧消した。

 勢いを増した鋭角の光は、仄暗い空間をそのままルシフェルに向かって突っ込んでいく。精霊たちが俊敏に身を翻した。

 そのとき、時がとまった。機敏な精霊の動きも静止し、ルシフェルとバラバだけが同じ時間の中にいた。

 ルシフェルは悠然として逃げようともしない、眼差しに強い意志を漲らせて堂々と立っていた。気配から塵ほどの畏れも感じられなかった。

「なぜ、なぜだ……」

 逃げろ、逃げて卑しい醜態を晒すのだ。

 いくら霊的天使といっても、しょせん被造物、滅亡の可能性だって大いにある。雷ずちをまともに受ければ全組織が一挙に死滅し、再生させることは不可能となる。存在自体が魂ごと消滅してしまうのだ。

 それを知っているはず、なのになぜ逃げぬ。まさか、死ぬ気なのか。バラバの背中に冷たい汗が走る。

 そのとき、時が動き出した。

 バラバは、突き出す手のひらを咄嗟に上へ向けた。

 雷ずちはルシフェルのわずか手前で大きく光の弧を描く。天窓を粉々に打ち砕くと、大音響を残して虚空へ消えていった。ばらばらと砕かれた屋根の残骸が舞い落ち、辺り一面埃が降り注ぐ。それでもルシフェルは微動だにしない。眉一つ動かさなかった。

 バラバは悄然と立ちつくした。

「よくも、小癪な真似を――」

 打ちひしがれるバラバの心情を無視して、ヤムが歩をつめてきた。もう反応する気力がない。今頃になって両肩の痛みが増した。

「よせ、来るな!」

 近くにいたラザロが手を広げ、勇敢に立ちはだかる。

「退け、小僧」

 何をしようとするのか、ヤムが、ふっと小さく息を吹きかけた。息は旋風となり、ラザロの身体をふわりと持ち上げる。次の瞬間、ぐしゃっと骨が砕けるような音と同時に、ラザロが壁へ叩きつけられた。

 背中を強く打ち、声が出せないようだ。ラザロは気丈に睨みつけたものの、すぐに目を閉じ悶絶した。

「手を出さぬと約束したのに、まだ懲りないのか!」

「心配するな、手加減はしておいた。人間に殴られた程度の衝撃しか与えていない。すぐに気がつくだろう」

 バラバが嗜めると、ヤムが悪びれずに言った。

「手加減? 何を言うのです。たとえ神といえども、していいことと悪いことがあります。あなたの行為は神格を疑わせます」

 マルタが堪えきれずに噛みつく。とても信じられないと何度も首を横に振った。

「我らを裏切り、異教に走った女だな。その言葉、聞きずてならぬ。ヤハウェがどれだけ人間を殺戮したかを考えよ。奴こそ神格がない。それに、お前が慕うこの殺人鬼、この後――命が尽きるまでに何人の人間を殺すか知っているのか」

「数など分かりません。けれど大きな正義のための行為、あくまでも人の子として戦い、人に対し御業など使わないはずです。ルシフェルの言っていることも口先だけでした。あれほど神々は感情にまかせて怒りを爆発させない、制御能力に優れているといったのに興醒めです。ヤム、あなたは口から息を吹いてラザロを傷つけました。これは失望以上の何ものでもありません」

 マルタが瞳をたじろがせることなく、きっぱり言い切った。

 勇気づけられた。雷ずちを当てずに虚空へ向けて正解だった。マルタの揺らぐことのない信頼に、無性に熱いものが込み上げてくる。

「小賢しいぞ女、ならば我も炎を使わぬ。地上にいる雄々しき者を呼び出して、どう対処するか見てくれるわ。みごと雷ずちを使わずに退けたら、そのとき我らは静かに退散する。神々よ、異存はないか」

「まさか、ヤム。あなたは、この半死半生の男に、あの者を召喚して戦わせるのですか」

 アスタルテが絶句した。アナトを見つめバアルの表情を探る。しかしバアルは無言で答えを返さない。

「バアルよ、たとえ無傷であっても、能力を使わぬヤハウェの子のどこに勝ち目があろうか。有り得ぬことだが、万が一、魔獣を退けたとしよう。それでも我らに不利を生じるものなど何一つない。巫女とナザレのイエスの契約はすでに成立しているのだ」

「うむ――」

 バアルが眉間に皺をよせると決断を避け、イルに答えを委ねた。

「いいだろう。だが、このままでは神々として我らの名折れ。能力を使わぬのなら、せめて傷を癒し、正常の状態で戦わせる」

 イルが唇を強く結ぶと、きらめく金色の光をバラバへ投げつけてきた。と、両肩の傷が光に絡み合い見る間に癒えていく。わずか一瞬のできごとだった。

 ユダ、マリア、マルタ、ラザロと、四人が同時に感嘆のどよめきを上げた。

「私は最高神イル。まさに神はヤハウェだけでない証明である。さあ、ヤム。すぐにも召喚させるのだ!」

 叫びに、どよめいていた皆の顔が急に強張った。みしみしと張りつめた緊張が走る。それぞれ互いが顔を見合わせ、バラバの背後、壁側に寄り添った。

「我らは、あの者の勇気と素の能力を見たいだけだ。魔獣ではなく獅子を出すがよいであろう」

「獅子と? なぜだ、獅子と戦った人間は他にもたくさんいる。ヤハウェの子にはパズズを召喚させねば意味がないと思うが――」

「黙れ、ヤム。それこそ真偽を問われることになる。獅子に勝った人間は、その後、英雄の称号を与えられた。我らもヤハウェの子に英雄の称号を与えようとした。それなのに――奴は喰い殺された。落ち度はないし理にも適っている。誰も無謀な行為とは思わぬはずだ。逆に、水と緑に嫉妬した滅ぶべき砂漠と山岳の神であることを、子が自ら証明したといえよう」

「うむ、分かった。ならば獅子を呼ぶ」

 ヤムが渋々承知する。

「草原の覇者、疾風する百獣の王よ。我の呼びかけに応え、すみやかに姿を現せ!」

 木窓の方角へ独り進むと、虚空に向かって俄かに呪文を唱えた。

 

       6

 

 すぐさま叫びに呼応して、どこからともなく尋常と思えぬ唸り声がした。

 虚空から雄叫びとともに獅子が姿を見せる。想像よりも遥かに大きい若獅子だった。顔の周りの毛は憤怒にすべて逆立ち、鬣までも闘気に尖っていた。動くたびに盛り上がった筋肉を上下に躍動させる。

 壁に床にと咆哮をまきちらしながら、前後左右をずっしずっしと練り歩く。戦う相手を捜し、牙を剥き出しにして誰彼となく威嚇している。

「野獣の王よ、お前の敵は、あ奴だ!」

 ヤムがバラバを指さし、声を張り上げた。

 すると獅子の動きに反応が起きた。目をバラバに当て爛々と凄ませてくる。向き直って足をとめた。

 瞬間、戦いのはじまりに音が消え、凍りつくような静寂が訪れた。バラバは壮絶な格闘、その先に見える死を覚悟した。

 すでに全身を凶器に変えた獅子は、低い姿勢で跳躍の気配を窺わせている。鋭い爪を床に密着させ冷酷に口を閉じた。もはや唸らない、それがいよいよ息をつまらせる。

 果たして丸腰で戦えるのか。比べれば感覚は頼りなく、喩えようもない理不尽さに憤りだけが胸を支配している。雷ずちも使えず、かといって武器もなく、与えられた使命を何一つしないまま朽ち果てるのか。無念さだけが沸騰した。

「バラバ、俺も一緒に戦うぞ!」

 と、そのとき、これまで敵であるがごとく素っ気なかったユダが横へやってきた。衣から短剣を取り出して構えた。忘れかけていた友情に勇気が湧いた。何より今、ユダが味方であることが嬉しかった。

 だが、助太刀など無用! と逆に追い払った。「気持ちと短剣だけを、ありがたく受けとる」

 これさえあれば、互角とはいわぬまでも獅子に少なからず手傷を与えられる。獅子、恐るに足らず。直ちに切っ先を獅子に向けた。

 しかし獅子は怯む様子も見せず、摺り足で床を這い早くも襲いかかってくる。低い姿勢から跳躍して、一気にバラバの喉笛を狙ってきた。

 獅子の巨体が空を跳んだ。

 咽喉もとに冷気が走る。だが怯まない。反射的に身を低くして仰向けになると、獅子と床の隙間、一キュビットあまりの幅に素早くもぐり込み、腹部に切っ先を立てた。

 強烈すぎる跳躍が災いしたのか、獅子は勢いをあまらせる。バラバの変化にすぐ反応ができない。斬り裂かれ、腹から血飛沫を散らして頭上を勢いよくいきすぎた。

 が傷もなんのその、着地すると直ちに反転し、唸りながら再度襲いかかってくる。

 今度はバラバの反応が遅れた。振り返ったときには獅子の爪と牙が目の前にあった。咄嗟に左腕で咽喉を守るのが精一杯だった。無残にも、その庇った左腕を強く噛み砕かれた。

 激痛に大声を上げた。

 マルタとラザロの悲鳴も耳にとどくが、獅子の唸りに消された。

 ぎしぎしと牙が肉奥深く食い込んでくる。すでに牙は骨に達し、その骨さえも喰いちぎられているのだろう。左腕はまったく無感覚で力が入らない状態と化した。

 ぐいぐいと獅子はなおも牙で腕を引っ張り、前足に全体重を乗せて、胸と肩を押さえつけてくる。あくまでも殺す気なのだ。咽喉笛を狙っていた。

「させるか!」

 気力を振り絞り、右手に持っていた短剣で獅子の耳を突いた。何度も、何度も突いた。渾身の力で突いた。

 血が飛び、返り血が顔にかかる。目にも入った。それでも獅子は牙を離さない、反対に力をこめてくる。バラバは負けじと、また剣を突いた。

 その一瞬、勝利を確信していた獅子に戸惑いが見えた。動揺を隠せぬのか、苦痛に顔を歪ませ牙を離して数歩退いた。といっても戦意は失くしていない。腹と耳から大量の血を流しながら猛々しくバラバを射すくめていた。

 血などいくら流れても、それほどの深傷と思っていないようだ。ますます形相を爛々とさせた。狂気を感じるほどに。

 バラバは片手をぶらりとさせ立ち上がった。その腕から、ぼたぼたと血が滴り落ちる。足もとは血の海になっていた。獅子を睨みながら、ヤムや神々に怒りをぶつけていた。

 こんな戦いに何の意義がある。答を見つけ出せぬまま、やり切れない怒りを溜めていく。

 したりとヤムが、ほくそ笑んでいるのが見えた。それがまた、さらに怒りを増幅させる。気がつくと、手のひらに雷ずちをつくっていた。

 何を思ったか、ラザロがするすると近づいてくる。

「いけないバラバ、怒りを鎮めるんだ」

「ラザロ。来るな、来てはいけない」

 心を読めず慌てた。

「怒りを鎮めないなら、僕も、バラバと一緒に戦う――」

 ラザロが唇を噛み締め、悲壮な決意を瞳に浮かべる。

「なりません! ラザロ、どきなさい」

 獅子の後ろから、マリアの上ずった声が飛ぶ。しかし制止も空しく、ラザロは横に来た。

「なぜ、なぜだ、ラザロ……」

「バラバの本質、癒しで戦わないからさ」

 緊迫感の中、ラザロが飄々と応えた。

「癒しだと? だめだ、そんな気持ちで、この獰猛な獅子と戦えるわけがない」

「そうじゃなきゃ、バラバは殺される……」

 気勢が一瞬だが削がれた。はからずも対峙する獅子から目を離したときだった。

 隙を見計らっていた獅子が、その絶好機を逃すべくもない。敢然と突っ込んできた。

「ラザロ、どけ!」

 懸命に右手でラザロを庇う。左手はぶらりとして動かない、喉が無防備になった。獅子は猛然と咽喉笛に喰らいついてきた。

 マルタの悲鳴とユダの叫びが、一瞬にして重苦しく交錯する。

 全身に痺れが走った。頭の中が真っ白になった、徐々に意識も遠のいていく。

 これが、お前らの望みか……。

 七神の姿がぼんやり浮かび上がる。もう睨み返す気力も残っていなかった。

 薄らいでいく意識の中に、ラザロの泣き顔だけが見えた。目に一杯の涙を溜めて獅子の顔を殴っていた。前足で払われ、床に転がされても這いつくばって戻り、そのたびに殴り返す力を強くしていた。

 側らにマルタもいた。咽喉笛に喰らいつく牙を外そうと、危険を顧みず、手を血だらけにして必死に抉じ開けようとしていた。

 よせ……もういいのだ。離れろ、誰も道連れにするつもりはない。

 と、身体を動かそうとするのだが、言葉にもならず力も入らない。

 すべて幻覚だ、そう思えば楽になる。バラバは静かに目を瞑り、それ以上は考えることをやめた。すると耳が澄み渡っていく。

「離せ、離せ、この獅子め!」

 幻覚を消し去ると、幻聴が耳に入り込んできたらしい。ユダの、必死に獅子を蹴飛ばす音が聞こえてきた。人間は死ぬ間際、頭の中にいろんな絵が浮かぶともいう。とうぜん音も聞こえるのだろう。

 だったら、死はすぐそこだ。

 すべてを受け入れ、覚悟を決めた。わずかな意識を残したまま、身体の力を緩めた。

 感知された。

 瞬間、獅子に抵抗するユダ、ラザロ、マルタ、三人の感情が激しく揺れた。

「死ぬな!」

 泣きながら叫ぶユダの言葉が、もの悲しく空気を切り裂いた。

 薄目を開けると、あまりの哀哭に獅子が牙を自ら離した。数歩後ろへ離れ、動かなくなった。

 見ると斬り裂かれた腹から臓物が飛び出している。おそらくバラバ同様、獅子も体力が限界だったのだ。勝負がついた時点で自らの死が目前に迫っているのを把握した。

 召喚される野獣というのは、勝つことが義務づけられているといっても過言ではない。この獅子も過去に何度か召喚され、その都度勝ち続けてきたのだろう。支えてきたのはいうまでもなく誇りだ。さもなくば反発であったのかもしれない。

 いつからヤムに見出され、召喚獣として名を連ねているのかは分からない。しかしはぐれ獅子であったのは間違いないだろう。それも群れに対して桁外れの反発を秘めた――はぐれ獅子。とりわけ異彩を放つ眼差しが、獅子の歩んできた凄惨な過去を炙り出す。

 それが今では、哀愁に満ちた瞳でバラバを凝視していた。お前のおかげで、最高の死に場所を得た。と表情は、そんな満足感に溢れているような気がした。

 不思議な感覚だった。そのせいか獅子に対しても召喚したヤムに対しても、これっぽっちの恨みが湧いてこない。それよりもユダへの友情と、ラザロとマルタ、二人の献身に対する感謝の気持ちに満ちていた。慕情さえ感じられた。

 父アッバスの愛情も甦る。天上にない究極の至福、バラバに関わった誰もが情に厚く、何より情け深かった。

 情け?

 ああ、我が神は、このために人間を敬えと言ったのか。ひたすら相手を思いやる、天使にない人間の資質。肉になってこそ分かる人間の素晴らしさ。バラバは死にたくないと、初めて願った。

 神よ、私は神の子としてでなく、一人の人間として生を全うしたかった。愛を見つけ、愛のために生きたかった。

 心の奥から叫んだ。同時に死を悟り、静かに身体を横たえた。そしてミカと、秘かに想いを寄せる女性の名を呼んだ。

 が、どうしたわけか離魂しない。逆に引き戻される。なぜなら懸命にバラバの身体を揺すり、三人の無垢な魂が涙ながらに押しとどめていたからだ。

 絶対に死なせてなるものか! ユダ、ラザロ、マルタの思いがひしひしと伝わってくる。

 そこへいつの間にか、ミカとサラ、レビとシモンが駆け寄ってきた。さらに階下から、見知らぬ十二才前後の少年少女もやってきた。一人集まり、二人集まり、真剣にバラバの名を叫び、死ぬなとを惜しむ。

 ある者はバラバの背後で咽び、ある者は衣を掴んで泣き伏し、またある者は床に突っ伏していた。広い館内は、少年少女らの嗚咽で津波のようにうねり返っていた。皆それぞれに「死んではなりませぬ!」と号泣していた。

 なぜ階下に、これほどの少年少女がいたのか理由が分からなかった。けれどバラバに情けをかけ、この身を惜しんでくれる彼らに、尽くし難い感謝を知覚した。

 すまない。

 絞りきった言葉を洩らすと、ユダ、ラザロ、マルタらが、堰を切ったように泣いた。燭台に灯る明かりが悲しみに切なく揺れる。

「ふ、手間をかけたが、どうやらそれも終わりのようだ――」

 ヤムの、吐きすてる言葉が聞こえた。

 それが我慢の限界だったのか、とうとうユダが叫んだ。

「神々と、ルシフェルに告ぐ。なぜあなたらは、そのようにしか感じないのか。確かに人間の生なんか取るに足らないものかもしれない。けど、この少年少女らを見てみろ。想定外だが、まさしく崇高な霊性が死の間際に顕した事象。この感情のうねりこそが、人間たる所以なのだ。上から目線で人間を見下すな。はっきり言ってやる、あなたたちの言葉、行動には血が通っていない。おそらく心を切り刻んでも、血も涙も出やしない。なら金輪際、情けも知らずに愛を唱えるな! 今宵限りで我イスカリオテのユダは、愚劣な神々と薄情なルシフェルと決別する!」

 聞き終えると、バラバの意識は消えた。

 



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ