3章 水と子羊と光
3章 水と子羊と光
1 イスカリオテのユダ
紀元十三年、夏。
ヨルダン川渓谷からエルサレムへ続く道。オリーブ山の麓に、旅人が癒しとする一本の老木があった。樹齢は有に七百年は越しているのだろう、幹の太さは通常のオリーブの数倍はある。枝ぶりにかつての瑞々しさが失われていたが、枯れはじめて知る威厳も感じられる。
その葉の中ほどに一人、梢に近い所にもう一人、二人の若者が息を潜めてベタニア方向へ目を凝らしている。それぞれが腰に剣を佩き、肩に弓をかけていた。
「まだか、ユダ。奴らの姿はまだ見えないか――」
苛立つ兄ギメルの声が、汗ばむユダの耳へ入り込んでくる。
この状態のまま二時間。眼下の街道を通ったのは行商人と旅人、帰路を急ぐ、見るからに地元のユダヤ人三人だけだった。待ち続けるローマ兵の姿は頑として見えない。
「今に来る。すでにベタニアへ行って五時間が経つ。くそ暑い夏だし大雑把な人種たちだ。いつまでも手間をかけたりしないはずだ」
ユダはいまいましく吐きすてた。
窪んだ幹の所で蹲るギメルとは違い、梢で様子を窺う小柄なユダは、葉の隙間から間断なくぎらつく夏の太陽に照りつけられていた。黄色がかった衣は首筋から胸もとにかけて、はや何ともいえぬ色に変わっている。
ローマ兵、俺は――きさまらを絶対に赦さない。
ユダは激しい喉の渇きも忘れて、ただ一点だけを凝視した。
惨劇は思い出すこと自体苦痛で、脳裏に焼きついた絵はいまだに消えない。今も狂わんばかりに生々しく甦ってくる。
母ばかりでなく姉も殺された。しかも姉は三人のローマ兵に代わる代わる陵辱されたうえ胸を剣で貫かれた。殴打され、背中を斬り刻まれたユダの意識が戻ったとき、騒然とした部屋は静まり返っていた。薄暗くなった部屋の中で遅れて帰宅したギメルが一人、唇を噛みしめていた。目だけを憎悪に爛々と光らせて。それがいっそうユダの胸を軋ませた。
なぜ犯す必要がある、どうして殺さなくてはいけなかった。野盗の仕業に見せたかったのだろうが違う。ユダは見ていた。
それに調べたから知っている。一人をのぞく二人の兵士、お前らはローマ人ではなく、ローマに征服されたガリア人だ。国ばかりでなく財産も心も蹂躙され、我らユダヤ人と同じように侵略者に踏みにじられた被害者のはず。なのに支配者の手先になったとたん、このざまだ。
――殺してやる。
だが今日、奴らは白いチュニックの上に鎧を着込んでいたし、喉もと近くまで覆った兜を装着していた。
なら的は限られている。しかし、できるのなら一矢で絶命させたい。
引きずり続けた復讐を早く終わらせたかった。済ませたら、すぐにも熱心党に入党して、思いを個から国へ切り換えたいからにほかならない。
「ユダ……まさか、お前、首すじを狙って簡単に殺そうだなんて思ってやしないだろうな。甘いぞ。足を狙え、太腿を射れ。とことんいたぶって奴らに地獄を味わせてやるのだ。そうじゃなければ気がすまない」
ギメルが見透かしたように尖った目を向けてくる。
「ああ、もちろんだ。分かっている」
思いは同じだ、憤りはある。だからこそ確実に報復したい。別に殺し方なんてどうでもいいのだ。
「見てろ、八つ裂きにしてやる――」
執拗につぶやくギメルの言葉が、また胸に刺さる。忘れていた喉の渇きが増す。心までも渇いた気がした。
ギメルは事件以来すっかり変わった。長兄として父不在の家族を支えてきた自負や自尊心が、ローマ兵の残虐な行為によって根本から覆されたからである。ユダと違って、身体に傷を負わないぶん受けた心の傷は深かったのだろう。
しかし、それはそれ。個の恨みに執着していては革命家として大成できない。
だとすれば、狙う場所は兜と鎧のわずかな隙間、首すじと顔しかない。足を狙っても、せいぜい負傷させるだけだからだ。
でも、すべて手製の弓と矢で、狙い通り……果たして上手く射ることができるのか。
不安があった。
一矢が外れれば、奴らは鍛え上げられた獰猛な兵士だ。憤怒と逆に冷静さも交え、盾をかざして突っ込んでくるのが目に見えている。
そうなればギメルのいうように足を狙うしかないだろう。けど、いたぶりなんかではない、足にしか隙が生まれないからだ。できるだけ白兵戦を避けない限り、あっけなく殺されてしまう可能性が高いのだ。
だったら弓が勝敗を左右する。
緊張からユダは、じわじわ手のひらに噴き出す汗を衣で拭った。まだ十六才、戦闘は未知の領域でもあった。
真夏の陽光がゆっくりと西へ傾き、オリーブの老木を赤く染めていく。
少なくとも現時点でここに戦いはなく、いつもと変わらぬ風景が広がっている。しかしユダの目は三千ダブルキュビット先、町境に巻き上がる砂埃と人の姿をとらえていた。
どくんと胸の血が騒ぐ、髪の毛の先が逆立った。
「ギメル、ローマ兵が見えたぞ!」
ユダは大声で叫んだ。まぎれもなく武装したローマ兵、馬上からこれ見よがしに赤いマントを風に孕ませていた。後方に、荷馬車を引く徴税人の姿も見える。押収、いや略奪してきたのだろう。麻縄で縛った山羊を二頭、荷台へ乗せていた。
「いいかユダ、奴らは徴税人が引く荷馬車に速度を合わせている。それでも十五分もしないうちに、ここを通るだろう。そうしたら、まず俺が一人を確実にしとめる。お前は真横に来るまでは絶対に射るな。外して、下手に身構えられても敵わないからな」
幹の窪地から伸び上がるようにしてローマ兵を確認すると、ギメルが命令口調で伝えてきた。
赤茶けた大地と青空の境に濛々と砂埃が舞う。ギメルは矢を弦にかけると少しだけ引いた。
丘を下れば、ユダが潜むオリーブの木までは急激な登り坂。しかも身の隠す場所のない熱射の荒れ野から、一気にひんやりとするオリーブ山が控えている。しかもオリーブ山を越えればエルサレムの城門は目の前だ。緩む緊張から生まれる油断、それがユダとギメルの狙いでもあった。
ローマ兵の小さな姿が、徐々に大きく人相まで鮮明になってきた。
近づくにつれ、あばた顔の大男と、ぎすぎすした鷲鼻の兵士の顔が識別できた。真っ先に姉へ手をかけた小生意気な若い下士官の姿も見えた。神経質そうに辺りに目を凝らしている。
「間違いない、あいつらだ!」
だが、三人が三人とも左手に盾を持っている。
錯覚だった、緊張を緩ませてなどいなかった。奴らは安堵するどころか寸分の隙も見せていない。ここが敵地で、そこかしこに刃向かう輩がいることを知っている。神経質に見えるのは執拗な警戒を怠っていない証拠だった。だとしたら、甘いのはユダとギメルのほうだ。確実な成功など、もうどこにも見当たらない。
なら、この十本の矢をぜんぶ射ちつくしてやる。矢が切れたら飛び降りて、かまわず斬り込む。もはや命など惜しくない。
腹を括り、樹上で息を殺すと、汗が一瞬にして引くのが分かった。見上げると上空を三羽の禿鷲が旋回していた。
くそ、禿鷲の奴、もう死臭を嗅ぎつけたか。
頭を振ると、視界の端、別方向に二人連れの男が見えた。
よりによって、こんなときに――。ユダは二重に腹立たしさを覚えた。ローマ兵たちは、すでに五百キュビットまで迫っている。
「まずいぞ、ギメル! 誰か来る」
エルサレム寄りの鬱蒼とした木々の間から、老人と若者が姿を見せた。ちょうどユダを基点にしてローマ兵と同じ距離、五百キュビット離れるオリーブ山の麓だった。
直射日光を避けるためだろうか、二人とも熱いのに頭巾を目深に被っている。老人がロバに跨り、若者がその横を注意深く進んでいた。
ともにごくありふれた薄麻の衣を着ていて質素なのだが、でも、どこか一般のユダヤ人とは違う、とユダは思わされた。ついたじろいでしまうほどの威厳が二人から感じられるのだ。
不意に若者が足をとめ、何やら老人に話しかけた。老人が頭巾をずらして重々しくこちらへ目を当てる。その瞬間、老人の目から武の匂いが放たれた。
かつて感じたことのない強烈な視線が避けようにも直接頭の中に入り込んでくる。ユダは思わず射すくめられた。このままでは意思が砕けて戦う意欲を挫けさせられてしまう。そのぐらいの目力だった。
咄嗟にはねのけようとして身を硬くした。そうしなければ、すべてが無にされる気がしたからである。
ふざけるな! 昂ぶった感情が膨れ上がり、逆に睨みつけた。
しかし凝視すれば、老人の衣服を通して鍛えられた筋肉が垣間見える。何より漂わせる波動に重厚な威圧感があるのだった。
若者も同様だ。一見痩身だが、引き締まった皮膚は躍動感に満ちている。反して、取り払われた頭巾から覗く眼差しは、まるで朝霧のように神秘的でなおかつ優雅に見えた。
まともに目を合わせることすらできそうもない。ユダは、こんなユダヤ人たちを今まで見たことがなかった。
いや一人いる。ユダが五才の頃、単身カナへ移住した父シモンだ。一介の聖職者でありながら、巨大な敵に立ち向かっていた姿が彼らと似た雰囲気と匂いを感じさせる。
それと架空の話で根拠はないが、たびたび幻視に現われユダに不可解な暗示を与える天使。なぜか同じに思え、懐かしさも募った。
「ユダ、何を今さら躊躇うんじゃない。人なら、さっきから何人も通っているのだ。誰であろうとかまうものか、予定通り、襲撃は遂行する!」
ギメルが二人に視線を流してから、ユダに向かって荒っぽく吐きすてた。
誰であろうと?
言葉が引っかかる。もしかしてギメルも二人に対して何かを感じたのか。
ギメルを見た。弓を張る力を緩め胸を手で押さえている。耳をそばだてれば、こんなときに、と激しくかぶりを振っていた。
なぜ? もしやギメルは、この二人を知っているのか。勝手な推測に胸を高鳴らせた。
迷いは伝播する。
三百キュビットまで迫っていたローマ兵が、突如警戒心を剥き出しにして手綱を緩めたのだ。
それをギメルが見た。もっけの幸いと鼻息を荒くさせた。
「ユダ、弓を引け! 都合のいいことにローマ兵は我らに気づかず、あの二人に神経を削がしている。絶好機だ、矢の雨を降らせるのだ。天は味方しているぞ」
「もちろん、そのつもりだ」
この機会を逃したら、あの仇敵の三人に、いつまた会えるか分からない。無念を晴らすことができなくなるのだ。残酷だが、老人と若者は巻き添えを避けられない。我らの襲撃によって、完全に仲間と間違えられるだろう。
仕方ない。果たすべき目的のためには何らかの犠牲はつきものなのだ。
ギメルほど大胆で剛直さはないが、それなりの気骨も潔さも持ち合わせている。と、ユダは自負していた。また絶好の展開とともに、二人によって気圧された抵抗感が薄らいでいた。
ユダは、ぎしぎしと弦の指先に力をこめた。
と二人連れが、二言、三言話すと頷き合い、弾かれるようにして離れた。
老人がいきなりロバの腹を蹴る。疾駆させ、真下を一気に通過するとローマ兵の方向へ速度を上げていく。
ユダは面喰らった。
正直、まったく行動が読めなかったのだ。ユダが矢を構えて巻き添えにすると決断したから察し、態度を豹変させたのか。それとも加勢するために単騎ローマ兵へ斬り込んでいったのか。
違う、剣など振りかざしていない。
それに、そんなこと無理に決まっている。いくら老人に秘めた能力があろうとも相手は完全武装した戦士なのだ。槍で一突きに絶命される。
だとしたら、密告しかない。
やめろ! それだけは絶対に避けたかった。
「ギメル、老人が我らのことを知らせに行ったぞ」
「くそ、アッバス。少しは骨のある男と思っていたが――蝙蝠だったか。してユダ、もう一人若者がいないが、どこへ消えた?」
ギメルがわめく。
「えっ――」
ギメルの発した名前に戸惑いを感じたものの、若者が気になり、ユダは老人から目を切った。数秒前まで二人が立ちどまっていた場所に目を当てた。
若者が走っていた。最短距離で、真っしぐらにこちらへ向かってくる。まるで獲物を狙い定めた獅子のようでもあった。長髪をなびかせ跳躍して、いくつもの灌木を跳び越えると、さらに岩を蹴り迫ってきた。
お前は、何をしようとするのか。
生きるため、異邦人に数多くの敵をつくったが同胞に敵対した覚えはない。ユダは若者の真意が掴めなかった。
「ギメル、あいつがくる。もの凄い速さだ!」
やっと巡り合えた千載一遇の絶好機。それを阻止しようとするなら、たとえ同胞であろうとも敵だ。敵なら殺さなくてはいけない。
「ほっとけ! 予定よりも早いがローマ兵に矢を射るぞ。奴らはアッバスを警戒していても、こちらには無用心だ」
意識が散乱する。そうだ、ギメルの言う通りだ。あくまでも目的はローマ兵なのだ。それを叶えるためにすべてをすて、あの薄汚いキデロンの谷で辛酸を舐めてきたのではないか。谷は心と身体を病んだ者ばかりで、とても人間が生きる場所ではなかった。
それに若者がここへ到達するまで、ローマ兵に最低でも五本の矢を撃てる。すでに二百キュビット切っているので致命傷は無理だとしても、連続して射れば確実に一人をしとめられる距離だ。
そうしたら、次は……。
若者の顔を思い浮かべたが、もう後ろを振り返ることをしなかった。ぎしぎしと積年の憎しみをこめて弦を張った。
「俺が、まず右側の兵士を殺す。ユダ、お前はそれからだ。とにかく背中の矢をぜんぶ放て。下手でも、そのうちの一本ぐらいは当たるだろう」
無言で肯くと、瞬時に重く緊迫した空気が二人を包んでいった。ユダはローマ兵を見すえ、ギメルの合図を待った。唾も飲み込めないほどの緊張が最高潮に達する。
まさにギメルが矢を放つと感じられた、そのときだった。風を切り裂く音がしたかと思えば、ぶしゅっと異物が肉に食い込む音がした。
「ぐわ!」ギメルが小さな呻き声を上げた。
「どうした、何が起きたのだ?」
ユダが下を見ると、ギメルが太い幹に蹲り、左手で脹ら脛を押さえていた。その指の隙間から、鐔のない、それでいて鋭利な短剣が刺さっていた。
衣が見るまに赤くなり、そこから血が湧きでるように滲み出す。反動で、ギメルの指から弾かれた矢が、わずか二十キュビット下の土に刺さることなく力なくはねた。
若者が投擲したのだ。
「きさま!」
これで阻止しようとするのが明白になった。ならば、こいつらは完全にローマの手先だ。「ふざけるな、邪魔させてたまるか」
お前から血祭りに上げてやる。ユダは若者へ矢を向け、思い切り指を弾いた。矢はしなりながら勢いを加速させる。若者めがけて矢羽を震わせ小さな弧を描いた。
が、若者は首を横に曲げて鏃をこともなげに躱すと、速度を上げてユダに迫ってくる。
「な、何なんだ、こいつ?」
動揺を隠せなかった。運がよくて、偶然に矢を躱したのか、それとも見えていたのか?
しかし、そんなことはどうでもいい。阻もうとするなら容赦はしない。絶命させるまで撃ち続けるまでだ。矢袋からもう一本矢を取り出した。
次の灌木を、跳び越えた瞬間を狙う。いくら俊敏でも空中では無防備になる。
ユダは限界まで弦を張った。
「よせ、ユダ! 状況を見るのだ。すでにアッバスはローマ兵のところへ行った。もう奇襲は成功しない。あきらめろ、これも天命だ――」
ギメルが天を仰いだあと、がっくり項垂れた。
「なぜ……」
思いもかけぬ言葉に引きずられ、目の前の風景が動いた。ユダの心は宙に飛ばされた。
気配に気づいたときは、もう手遅れだった。若者は跳躍して駆け上がると枝に手をかけていた。ユダの背筋に冷たい汗が流れ落ちる。やむなく腰の短剣を握った。
「むだだ、命を粗末にするんじゃない」
若者が叫ぶ。言葉は心地よいほどにやわらかい。
が次の瞬間、端正な顔立ちからは想像もつかない骨太い手に足首を掴まれた。仰けぞると、ずるずると引っ張られて幹の窪地に落とされた。
2 マグダラのマリア
黄昏が刻々と東から忍びよってくる。丘で軒を寄せ合う日干し煉瓦の家並みに僅かずつ暗さが塗り込められていく。
「見てください、ルシフェル。あなたがユダと見立てた雲が、勢いよく吸い寄せられていきます。子羊は、もう一人のイエスに呑み込まれてしまったかもしれません」
黒い衣に黒いヴェール、全身を黒で埋めつくすマリアは、落胆の声を洩らしながら、ひときわ暗い部屋の片隅に視線を流した。その仕草で、はらりとヴェールが落ちた。十六才、艶のある長い黒髪がふわっとそよぐ。
「やはりアッバスは、唯一、私の実体に触れた人間だけあって、なお思念を残存させている。見え透いた小細工は効かなかったようだ」
天窓の光さえとどかぬ部屋の奥から、氷のように静謐な声が返ってくる。マリアは落としたヴェールを拾うのも忘れて、声の方向へ目を当てる。
オリーブ山の麓から、いくらも離れぬベタニアの村。町の中心から外れた西北の位置に、壁全体を赤緑のヒソップが覆いつくす見るからに古めかしい館がある。奥まった場所にあるせいか、人の気配も感じられず妙に殺風景だ。
その妖しげな館の二階で、寒々とした声だけが深々と響く。存在感は感じても、仄暗い部屋の中に、孕んだ黒髪の隙間から瞳を揺らすマリアの姿以外は何も見えない。
「なら、アッバス・バラバは危険を察知したばかりか、イスカリオテのユダを懐に引き入れたのですか」
アッバスのことはルシフェルから聞いて知っていた。それだけにどんな動きをするか、マリアには大よその想像がついていた。結果は、ある意味想定内でもあったのだ。
だからといって苛立ちはしないが、もどかしさは残る。いくら出会う運命だからといっても、アッバスに引き入れられてしまったユダの、その後の心変わりが怖いからだ。
「そうとは一概に言えない。感知したのはアッバスではなく、イエス・バラバのほうだろう。バラバの吸引力、想像以上に強かったのかもしれぬ。ユダとギメルの襲撃に遭遇させて、バラバに、ローマ兵殺しの汚名を着せるという目論見はものの見事に外れた。これでは追放させることもできないであろうし、ユダが、ナザレのイエスではなく、バラバの子羊になる可能性も残してしまった――」
部屋の片隅から、黒い影がゆらりと動いた。みしみしと風もないのに空気が軋む。
「ルシフェル、それほどバラバの力は強いのですか」
マリアは指先に苛立ちを見せると床に落としたヴェールを拾う。オリーブ山を睨みつけた。
「案ずることはない。私は、すでにイスカリオテのユダの思考に接触した。現時点で、奴の心はローマに対する復讐しかない。また、いくら数字の計算に長けていても愛に飢えている人間だ。よって人の感情は計算できないし、少しの暗示にも心をぐらつかせる。いずれ対決の舞台でバラバを裏切るだろう」
徐々に輪郭を整えたルシフェルの影が、マリアの心を見透かす。
ルシフェルはアッバスを天上界へ連れていった。鉄槌の意思を持った子を託すためだ。アッバスは約束を守り着々と準備を進めている。しだいにバラバは覚醒されてイスラエルは戦場と化してしまうに違いない。マリアには、焦土の上に立って笑うバラバが想像できた。
これ以上この地を枯れさせてはいけない。不毛の土地にさせてはならない。だからこそアッバスとバラバを排除する。
今イスラエルに必要なのはバアル神の慈愛。人間なら、ダビデのような戦いに秀でた勇士ではなく、愛を知る救世主。殺戮に使命を見出すバラバなんかではない。バアル信徒に改宗させるつもりの、ナザレのイエスなのだ。
ユダヤ人は声を大にして唯一神と叫ぶが、隣国にも遠国にも、このイスラエルにも、神々は名を変えて現存する。それは、かつて国家がバアル神との混交崇拝を認めていたことでも証明できる。指導者たちがヤハウェの配偶者と呼ばせた女神、アシェラもその一人だ。拝一神でしかないのはあきらかだった。
そもそもアシェラは、元を正せばフェニキアの女神。マリアが巫女を務めるバアル神の妻、アスタルテなのである。契約の箱にはヤハウェと並んでアスタルテも描かれているとの噂も流れ交う。
それらの神々の中にあってヤハウェほど多くの人間を殺した神はいない。と、ルシフェルは言った。
ヤハウェは天使に対して「人間を敬え」と命じながら、天使たちにラッパを吹かせたのだ。天から硫黄と火の雨を降らせて、ソドムとゴモラを壊滅させた。その被害はイスラエルのみならず、ヤハウェを崇めていない近隣諸国にまで及んだらしい。
また、人を敬うはずの天使が命令一つでいとも簡単に殺戮に加担し、悪魔に豹変することもマリアには驚きの一つだった。天使とは神と人の中間にあって、慈愛深く福音を知らせる存在ではなかったのか。それとも力による荒々しい神の支配を受けているのは、天使も民も同じだったのか。なら家畜のように抗うこともせず、ただ力を畏れているだけなのか。
思いが加速して、マリアは息を荒くさせた。
「ユダばかりではありません。表層を見る限りですが、水の洗礼者となろうヨハネも、私の背後にあなたと七神の存在を感じているのでしょう。動きに反発して、しきりに姉と弟を挑発しています。マルタは毅然として決して揺るがない女性ですが、ラザロはあの通り無垢な少年です。しかも七神には好意的ではない。もしラザロがヨハネに篭絡されてしまえば、揺るがないといっても本質は母性に満ちた姉ですし、下手をすれば、この計画は失敗してしまうかもしれません」
マリアは声を上ずらせる。
「心配はいらぬ。ヨハネは天上の言葉を預かる者、大局的にものを見る男だ。つまらぬ感情に流される男ではない。友情などよりも使命、自分のすべきことを知っている。必ずや、ナザレのイエスに洗礼を授けるであろう」
影は消え、ルシフェルが光り出す。
「でも水と子羊と光を得ねば、神の子であっても変転せず、地上の平和は成就されません。のべつ戦いに明け暮れ、人の心が癒されることが永劫になくなってしまうのです。今のところ、あなたが運んできた光を伝授した私だけが真意を知り、矢面に立たされています」
マリアは臆せず続けた。「水と子羊が、それを理解する日が訪れるのでしょうか」
ヨハネとユダが、ナザレのイエスに目を向けなければ、マリアの見てきた予見が根底から否定されてしまう。
今現在まともに聖霊と繋がっているのは、天上でヤハウェの魂に触れたアッバスだけ。とすれば繋がってないにせよバラバが真性を目覚めさせている可能性も考えられなくもない。
それでもバラは否定する。ナザレのイエスを選ぶ。
矛盾は感じる。しかし平和を成就させるためには強い気概を持って臨まなくてはいけない。それが予見であれ、マリアの知る、唯一嘘偽りのない真実なのだから。心を折ってしまったら未来は絶望しか残らない。
ああ、ルシフェルがエバに、真実の実を食させたというのに人はいまだ目が見えない。
マリアは自らの未熟さを責める。壁にもたれかかった姿勢のまま目を伏せ、両手で顔を覆った。
「マリアよ、そなたにも内容は言えぬが。私には征服者の子と、天上において二人だけの約束がある。その約束を果たすためであるならば、私の実体に触れた唯一の人間と、約束の相手を抹殺するしかないのだ。それは子が自ら望んだことでもある。とはいえ偉大なる征服者は、非情にも二人のうち一人をすて駒として世に送り出した。かつて自らの失敗をすべて私一人に擦りつけたようにだ」
「抹殺? いけない、ルシフェル! そんなことをしては絶対だめです」
マリアは顔を上げる。ルシフェルに熱い視線を走らせた。
二人を排除させるのに躊躇いはない。けど殺そうなんて考えたことは一度たりともなかった。
「忠告はありがたく受けとめよう。しかし定めるだけで操ろうとは考えていない。よって本人に強い意志があれば乗り越えることも可能である」
ルシフェルが姿を浮かび上がらせた。
純白の衣に真っすぐ肩まで垂らした金髪。顔は凍りつくほど無表情だが、随所に侵し難い気品が備わっている。触発されたのか、空を焼きつくす夕日に負けじと明星が輝き出す。
しかし気品に満ちた眼差しの奥に深々と憐憫の情が刻まれているように見えた。自身が悪の権化と謗られても敢えて一切の罪を真実のためにかぶり、黙して運命を受け容れているからなのだろう。
ルシフェルが悠然とマリアの横へやってくる。表情を変えず窓の外へ目を向けた。大空を飛翔する禿鷲を荒々しく睨みつける。
「徹底的に二人を追い込む。そのためにローマ兵カシウスと契約をした」
と、指を小さく弾いた。波動で、禿鷲の動きが宙でとまる。錐もみ状態となって落下していく。木窓の外は、いよいよ日が沈みかけていた。
急降下していた一羽の禿鷲が、地上すれすれで羽を広げた。慌しく上昇すると、何ごともなかったかのよう東へ向かって消えていく。太陽はオリーブ山の向こうに、ほぼ沈みかけていた。
「ローマ兵は? ギメルはどこへ……」
はたと目を覚ましたユダは、自分が、なぜここに寝かされているか理解できなかった。
「ほう、ようやく気がついたようだ」
アッバスが柔和な目をユダへ向けてくる。「ローマ兵は去った。何も起きてはいないのだ。仲間内で喧嘩をしていると、私がローマ兵に伝えたせいかもしれぬ。してギメルだが、彼はカナへ向かった。いつまでも反骨児だ。復讐するの一点張りで、私がいくら諭しても言うことを聞かなかった――」
「ギメルは、俺を置いていったのか」
「すったもんだの末にだ。何せ復讐に囚われ、まったく目が見えていない状態だったのだ。イエスの一言で、ようやく決意した」
イエス?
ユダはアッバスの背後に目を当てた。そういえば骨太い手の若者がいた。
「大丈夫だ。ギメルは父の弟子で、修行仲間だった。それと、少しだけだが路銀とロバも渡した」
若者が、その今では懐かしく思える骨太い手を差し出してきた。「すぐに暗くなる。行こう、仲間が――お前を待っているぞ」
「仲間とは、どういう意味だ」
「今日から家族の一員だ。ギメルからも頼まれたが、ユダは、私の兄弟となるのだ」
それは家族を失った俺に、また新しい家族ができるということなのか。
ユダは戸惑いながらも、差し出されたバラバの手を握る。
その瞬間、風景が動いた。なぜかバラバとユダの哀しい未来が、絵となって覗けた。抗うにも、ユダの思考は闇の底へ引きずり込まれていく。
3 バラバ
九ヶ月後。
季節は春、歳月は足早に駆け抜けた。バラバは十七才になっていた。
元々彫りの深かった目鼻立ちは引き締まった唇とともに、更に凛々しく陰影を際立たせている。どこから見ても雄々しい若者であろう。
木扉に手をかけ外へ出てみると、山の稜線から太陽が少しだけ顔を覗かせ、朝霞の絨毯が草花を覆うように立ち込めていた。
「眠いか?」
バラバは、眠たそうに瞼をこする少年に声をかけた。
「いえ、少しも」
少年の名前はレビ。つい一ヶ月前まで、エルサレムで物乞いをしていた十二才の少年である。観察するように人を見ていたので、一緒に来るかと聞いたら、ぜひ! と従いてきた。やはり十二才のシモンと同じで、バラバとユダを兄と慕っている。
バラバは自分を隠す。また出しゃばらない。がユダは、バラバと同じ年齢でありながら並外れた運営能力と豊富な知識量を備えている。それ自体が、たまらなく少年たちを惹きつけてやまない魅力であったらしい。
実際ユダの助言で、当初二十羽しかいなかった鶏が、少ない投資で六倍の百二十羽に増えている。山羊にしても五頭しかいなかったが、ユダが繁殖に成功させて倍の十頭になっていた。
一方でレビは武芸好きのシモンとは違い、どちらかというと勉強熱心な若者に分類されるのだろう。昨夜も遅くまでユダと一緒に書物を読んでいたし、武よりも智に長けているほうだ。いずれユダを含めた三人の進むべき道を模索して、旅立たせるべきだと考えてもいる。
キデロンの谷で引き取ったミカとサラの姉妹もだが、こんな世でなければ夢を現実のものとさせられるのにと、バラバは時代を恨んだ。
広場で、武芸好きのシモンが、父アッバスを交えて汗を流していた。
「さ、打ち込んでこい」バラバは肩を叩いてレビをうながす。レビが元気よく駆け出していく。
連れてきた翌日から続く、朝稽古。多少ともさまになってきたレビの剣先も、父相手だと弱々しい。侠気があって豪胆なシモンとはかなりの差がある。誰しも得意不得意があるのは当然だが、書物同様、武からでも学ぶことはある。バラバは、レビの背中に向かって無言で叱咤した。と同時に、輪の中へ入らず遠巻きに稽古を見つめるユダを諌めた。
「少しは稽古をしたほうがいい。身を守れねば、大事は成し遂げられないぞ」
「大事? 成し遂げる?」
ユダが怪訝に首をひねる。「バラバ、その言葉に何か思い当ることでもあるのか」
「難しい質問だ」
バラバは苦笑した。「たとえ知っていても、それが正しいのか、間違っているのか、私には判断つかない。だから目の前の霧を、一つ一つ取り払おうと思っている」
「それが悠長すぎるとは思わないのか」
「悠長だとは考えてもいない」
「現実的、なんだな」
ユダが、興醒めしたかにバラバから目を逸らす。
現実的? そうではない、臆病なのだ。道を見定めている。
バラバは弟の存在を自らの嗅覚で嗅ぎとっていた。そして弟に先に道を選ばせ、残った道を自分が歩く。よしんばそれが退廃的な道であってもと決めていた。けれどユダ、それこそがお前の望む道でもなかったのか。
バラバは、その言葉を口に出さなかった。押し黙り、ロバ用の軛に建てかけられた木剣を取りにいった。
と、背中にユダの言葉が張りつく。
「バラバ、お前はこの国の将来が、いや――俺たちの過酷な未来が気にならないのか」
「未来は、どんなものであれ創るものだと思っている。だから過酷だなんて一度も思ったことがない」
自分の背負っているものが、どれだけ重いのか推測できる。だけど意思とは裏腹に、そこへ巻き込んでしまう人間も出てくるだろう。避けたい、犠牲を出したくない。そのために本心を明かせない。だから先の見えぬ者と愚弄されても平気だ。
バラバは木剣をユダに手渡した。
「ユダ、今からでも遅くない。奴と断ち切るべきだ。奴は楽しんでいるだけ、真意を明かしてはいないはずだ」
「奴? いったい誰のことだ。まさか、碧眼の天使のことか。じゃ、とぼけていても、全部お見通しだったってわけか」
ユダが激しくかぶりを振った。「なら、いいだろう。打ち合おう」
ユダが構えると、すかさず強烈な一撃を与えた。ユダの手から木剣が弾け飛ぶ。理由がどうであれ隙を見せるから魔に魅入られるのだ。それを伝えたかった。
ユダの行動は剣と一緒で迷いが多い。一見、計算しつくし相手の動きを常に先の先まで読んでいるが、じつは現状がおろそかになっている。だから計算通りにいかないと悩む。手を差し伸べられれば、例え相手が悪魔であろうと受け入れてしまう。ここへ来たのも、そうだろう。
それに家族を守れなかったのも、胸ではなく背中を斬り刻まれたのも、心が後ろを向いてしまった結果でしかない。勝手に先を想像して、恐怖を感じてしまったせいなのだ。
ユダが、慌てて視線を転がる木剣に向けた。
「目を外すな!」
剣を掴もうとするユダに擦り寄り、不用意に拾おうとした木剣を足で蹴飛ばした。
だめだ、ユダ。隙が隙を呼ぶ。剣に固執すれば負の連鎖でしかない。ユダには言葉という際立った武器があるし、逃げるという選択肢もあるではないか。
ルシフェルは、去る者を決して追わない。
二十分がすぎた。完全に昇りきった朝日が庭先に長い影をつくっていた。
「そろそろ切り上げよう。各自の仕事を終えたら朝食だ。ミカとサラが食事の用意をして待っているぞ」
父アッバスの号令に、バラバは木剣を軛に立てかけ鶏小屋へ向かった。わだかまりを引きずるユダと稽古で若干足を痛めたレビも続く。父はシモンと山羊の搾乳へ行った。
鶏小屋は母屋の裏手にある。
レビが板でまばらに囲っただけの粗末な戸を開けた。二人に続いてバラバも中に入り込む。ぐにゅっとした感触、鶏小屋は糞尿でかなり土が湿っぽい、いつものことながら妙な弾力だ。
それでも卵を確認して進む。息の荒さが残る三人の侵入に、鶏たちは羽をぶつけ合い右往左往して騒ぐ。小屋の中は大混乱に陥った。飛べぬのに飛ぼうとする鶏、また奇声を上げて逃げまどう鶏の羽綿が、射し込む朝陽に反射してきらきら舞っていた。
皆で手分けして卵を容器に入れると、雑穀をばらまいた。すると鶏たちは、とたんに臆病さを忘れ、我先にと餌を啄ばみ出した。どこかそれが不甲斐ない律法者の姿と重なって見えた。
「ねえ、バラバ。どうして異邦人は豚を食べるの」
九才になったばかりのサラが、質素な食卓に物足りないのか不満そうに尋ねてきた。
杉板をつなぎ合せて作った飾り気のない食卓。そこに並べられているのは少量のパンと、イナゴ豆を煮つめたスープだけだった。
産みたての卵も売り物のため、週に二度食べらればいいほうだ。だから家畜の餌となるイナゴ豆が頻繁に主食となる。塩漬けにしたオリーブや乾燥させた無花果なども、貧しい人たちに分け与えるのでそれすらたまにしか口にできない状況だった。成長期の者たちには味気ないというか、かなり寂しい食卓である。
「豚を食べたいのか、サラ」
先に座って全員が揃うのを待っていたシモンが、稽古でずりむけた口をへの字に曲げて肩をすくめた。その仕草を見て
ながらバラバは席に着いた。
「違うわ、食べたくない。でもさ、ローマ人が美味しそうに食べていたのを見たことがあるの。もし、ほんとうに美味しいのなら食卓が豪華になる。って考えただけよ」
赤い紐で髪をリボン結びにしたサラが、口を尖らせる。
イスラエルの女性は外出に限ってだが、ヴェールを被らなくてはいけない。唯一、被らなくてもいいのは娼婦だけなのである。サラは九才、家の外でも中でも対象外だった。でも大人ぶりたい年頃、姉ミカにヴェールの代わりとリボンを結ってもらっている。
そんなサラを見て、父アッバスが答えた。
「考えるのなら、まず豚が何を食べるのかに目を向けることだ。大自然の草を食べる羊や山羊、牛とは違うはずだ――」
質問に答えるというよりは謎かけに近い。父が皆を見渡した。
「と、いうことは?」
ミカが、器にスープをよそい終えると、不思議そうな顔をバラバへ向けてきた。
二つ年下の十五才ではあるけれど、成長の早い女だった。レビやシモンと比べれば、その差は歴然だ。肩の線はまだまだ細く華奢だが、衣から通して見える腰のくびれと胸の膨らみはもう立派な大人である。何より立ち込める匂いが色香と錯覚させられてしまう。
かといって派手でも積極的なわけでもない。どうかすると汚れきってしまう家の中を、静かに陰で支え、よく働く少女だった。幼い頃から見てきた悲惨な現実が、一足早く心と身体を成長させただけなのだ。
「その答は、勉強熱心なレビに答えてもらう」
照れたわけでもなかったが、バラバはミカから顔を背け、隣に座るレビの肩を叩いた。
「いいのですか」
レビが胸を張る。答えたいのに遠慮していたのか、たちまち雄弁になった。
「えっと、確かにイナゴ豆に限らず、人間の食べる物はすべて豚の餌となる。けど山羊や羊の食べる草を人間は食べない。つまり人の食は、山羊や羊には脅かされないということ。だから豚肉を食べないということは、神の言葉ではなく地域の生活心情に沿った考えから生まれた習慣なんだ。決して神が決めたことじゃない、聖職者が神の言葉にすり替えたんだと思う」
「じゃ、いつかは肉も食べることができるのね」
サラが、ごくりと生唾を飲み込んだ。
「なんだサラ、やっぱり食べたいんだろ」
シモンが揚げ足をとる。
「違うって、いったでしょ。シモン、あなたは意地悪よ」
サラは食卓の上に置いてある雑巾を、シモンに投げつけた。
「やめなさい、サラ――」
ミカが二人を睨みつける。
贅沢というにはほど遠く質素だったが、平和で素晴らしい生活がここにある。でも、いつまでこの平穏が続くのか。バラバは、はしゃぐ皆を尻目に父アッバスを見た。
変わらぬ穏やかな目をさせている。その横で一人ユダだけが深く考え込んでいた。
そんなユダに向かって父が声をかける。
「シオンの屋敷の主人が、お前とイエスに会いたがっている。近いうちに同行せよ」
「アリマタヤのヨセフどのが? でも、どうして」
ユダが戸惑いを見せる。
バラバもまだ会ったことがないが、シオン嫌いの父が一人だけ認める人間。大議会の議員でありながら驕れることのない人間らしい。
しかし本業は海運業、他国、特にローマとのつながりが強いと聞く。そのため着任したばかりのユダヤ総督グラトスなども、ヨセフの邸宅に招かれることがあり、バラバにとってきわめて謎だらけの人物だった。
でも、なぜか好転のきっかけを与えてくれる人間と感じられてならなかった。ぜひともユダに会わせたい。そうすればユダの世界観がひらかれる。まだユダは、他者の策略によって運ばれてきた運命しか生きていない。好転ではなく、暗転の道を不本意ながら歩き続けている。
あきらかに背中の傷は致命傷で、まともであれば命を落としているはずだ。なぜなら臓器まで達しているように見えたたからだ。どう命をとりとめたか釈然としないが、きっと助けられたのだ、ルシフェルに。
なら初めて会ったとき、バラバの身体に触れた段階で瞬時に互いの運命も悟ったのかもしれない。だから迷い、必要以上に未来を気にするのだろう。
できることならルシフェルなどに操られず、もう一度自分の目で現実を見つめてほしい。ユダとは場所こそ違え、生まれた日も、おそらく……死ぬ日も同じなのだから。
4
「たまには私も、配達の手伝いをしたい」
サラが父の衣の袖を引っ張りだだをこねていた。
「卵と山羊乳の納品は、とても力仕事なのだ。サラにはまだ無理だろう。だが、どうしても手伝いたいのであればシモンと交代して、イエスとキデロンの谷へ行きなさい。パンと果実だけ、割れる心配もないし、仕分けして手渡すだけだから」
父は苦笑いすると、今日が屋敷の主人と会う日ではないためか、ユダとシモンに留守番をさせることに決める。一人仏頂面をさせるシモンを置いて、五人でエルサレムに向かった。
城門へ通じる道は活気に満ち溢れていた。果物、卵、油などの食料品から日用品、衣料品はもちろん、あらゆる物を売る店がびっしり軒を連ねているせいだ。さらに神殿へ向かう巡礼者で人が溢れ返り、商業路は喧騒でごった返していた。
バラバとサラは市内へ入らずキデロンの谷へ、父とミカとレビが北の羊門からシオンへ向かった。
「では配達を済ませたら、東門の、杉の木の所で待っている」
父が門をくぐって北へ行く。バラバはそのまま城壁沿いをキデロンの谷へ、サラと一緒にロバの手綱を引いた。
キデロンの谷は、城内の下町にすら住めない者たちが暮らす貧民街である。まばゆい聖地の光に映し出された影、ユダヤ人だけでなくモアブ人も数多く生活している。聖地の光が映えれば映えるだけ、キデロンは惨めさを増す。
十分ほど歩くと、暗い谷の淵に沈む家並みが見えてきた。いずれも洞窟を利用した粗末なあばら家で、まるで動物の死骸が横たわっているかに埋もれている。
町中からは決して見えない光景である。じめじめして薄暗い。木々がまばらに生えているだけの殺風景さがよけいに荒涼感を漂わせている。しかも至る所に糞尿が撒き散らされているせいか、饐えた臭いが鼻を突く。空の青さに反比例して空気は限りなく重く澱んでいた。
「ここで、私は生まれたんだよね」
サラが再確認をするようにつぶやいた。
ミカとサラを引き取ってから一年半が経つ。今でこそサラもかなりのおしゃまになっているが、当初は殻に閉じ篭って誰にも心をひらかなかった。容赦せぬ徴税。それがサラの家族を追いつめ、サラの心を閉じさせてしまったのだった。
二人の父親は鍛冶職人だったらしい。サラが生まれる前、城下内にある職人街の外れで、貧しいながらも幸せに暮らしていたという。でも不幸は突然やってきた。父親が病に倒れたのだ。
「あの日、ミカと二人で死のうと決めて、崖の上に立っていたんだ……」
サラが唇を噛んだ。バラバと初めて会った日のことを思い出している。
そこへ一組の親子が近づき、目を伏せて通りすぎた。若い母親と幼い少年だった。ともに衣は汚れ、所々に穴があいて裾が擦りきれていた。母親は到底ショールとはいえない襤褸布を頭に巻いている。もちろん二人とも裸足、サンダルなど履いていない。
希望を失くした目をしていた。嫌味とも思えるからっとした夏の風に、糸のほつれた衣を孕ませて無表情に坂を登っていく。
きっと、これから街角に立って物乞いでもするのだろう。それでもショールを頭からかけているだけでも前向きだ。バラバは、やるせなく母子の後ろ姿を見送った。
「私も、父が死んでから、母に連れられて街頭に立ったことがあるんだ。でも母はヴェールをかけていなかった。そのときは惨めだなんて感じなかったけど、今思うと……」
サラがしゃがみ込んだ。
ミカとサラの母親は生きていくために街娼の道を選択したようだ。だが、生活は思ったほどよくならなかった。それは一度身を落とすと、波長の低い輩が不幸の匂いを嗅ぎつけてくるからである。
彼らは決して強引に行動を移さない。獲物を定めると甘い言葉を耳もとで囁き、じわじわ母親の心に黴菌を増殖させる。頃合いを見計らって態度を豹変させるのだ。結果、ミカとサラが奴隷として売られることになる。
「私たちだけが救われて、ここは何も変わらない」
サラがしゃがみ込んだ姿勢のまま、小さな肩を震わせる。「まだまだ不幸な人たちが、いっぱいいるのに」と、普段見せない感情を吐き出す。
バラバは母子の姿が見えなくなるまで目で追った後、同じようにしゃがみ込んだ。サラと呼んで、髪の毛を撫でた。
「なら、父にさえ話していない私の計画を、サラ、お前にだけ聞かせてあげる」
と濡れて湿ったサラの顔を、バラバに向けさせた。「私は楽園を創る。場所はまだ決めていないが、親から見すてられた子、貧しくて住む場所のない子らを集めて、そこに住まわせる。山羊や羊を飼って飼育させる。農園も作って、自分たちの食べる物はすべて自らの手で確保させる。来る者は子供であれば誰も阻まない」
「そこに……私も住めるの?」
「あたり前だ。山羊や羊だけでなく鶏と牛も飼うつもりだから、サラの手助けが必要だ。ミカとサラには、そのうちいい人を見つけて結婚させたい。動物や子供に囲まれて、一生そこで暮らしてほしいのだ」
「す、凄い! だったら私、バラバのお嫁さんになる。でもミカに怒られたら嫌だから、レビでもいい……我慢する」
サラの突拍子もない言葉に、バラバは思わずたじろいだ。だがそれこそが、もう一つの道であり、夢。記憶に刻まれるベツレヘムの魂たちとの約束なのだ。最低二百人は集めなくてはいけない。バラバは一瞬たりとも忘れていなかった。
ユダ、大事を成し遂げるのは、お前と弟だ。
バラバの叫びは、ぎらぎらした初夏の陽光に吸い込まれていった。
目的地へ近づくにつれ、ますます現実が惨たらしくなっていく。干からびた猫の死体に群がる禿げ鷲と烏。その道の両脇には家畜とも人とも判別しがたい糞が落ちている。
漂う異臭にロバが先へ進むのを嫌がった。足を踏んばり、あからさまに後ずさりした。
バラバは手綱を話してロバへ向き直り、両手で顔を押さえつけた。真正面から鋭く、反面、慈しむ眼光を当てる。ロバは安堵したのかすぐ観念した。荒くさせていた息を徐々に平静に戻していく。
半洞窟の家を何軒も行きすぎた。どの家も木の枝を持ち出しただけの屋根に、申し合わせたように棗椰子の葉を乗せている。風で葉が飛ばないよう小石と泥をかぶせ重石にしていた。
ベタニアにも棗椰子で葺いた屋根は多い。が、どんなに貧しい家でも壁は日干し煉瓦を積み重ね、表面は漆喰で塗られていた。こことは貧乏の度合いが違うのだ。
なぜだ、と怒っても返る答はない。空しさだけを募らせた。
洞窟にしては大きな門構えの家に着いた。
「長老を呼んで、皆に均等に分けてもらおう」
きょろきょろ懐かしそうに、辺りを見回すサラに伝えた。しかし、バラバがきた! と一人の少女が甲高い声を上げた。
声に反応した住民がいっせいに顔を覗かせた。皆心待ちにしていたのか、バラバの姿を見ると続々と駆け寄ってきた。
白い顎ひげを揺らせ、長老もおっとりやってくる。どけどけとばかりに人を押しのけ、木の卓を担いだ人までも現れる。長老の家へ行くまでもない、道端で配布がはじまった。
バラバは、パンと果実をてきぱきと渡していく。サラが手際よく人数分に分けていくため思いのほか捗る。ものの五分、ロバへ満載に積んだ食料はなくなった。
いつもなら父のほうが早かった。それなのに待ち合わせの場所、杉の木の所には、父の姿もミカの姿もない。妙な胸騒ぎがする。
「おかしい、それにしても遅すぎる」
「へっへ、あたしが、いっぱい頑張ったから早すぎたのかな」
知ってか知らずか、サラが無邪気な笑顔を弾けさせる。
「そうかもしれない、よく頑張った」
バラバは目を細めた。だが一度でも燃え上がった不安は、なかなか鎮まるものではない。胸の中に無理やり押し込めてみるものの、間隙をついて口から這い出ようとしてくる。
日が西へ移動していく。じっと北を見つめるサラの影が長くなる。
「ねえ、迎えに行こうよ」
とうとうサラが痺れをきらしたのか、表情を暗くさせる。
「もう少し待とう。約束を違える父ではない」
すでに約束の時間は大幅にすぎている。それでもバラバは、父の通る道もアリマタヤのヨセフの屋敷も知っていたのに、捜しに行こうともしなかった。捜しに行くということは何かが起きたと仮定してのことだからだ。不幸を想像することほど辛いものはない。
それに六十才になったとはいえ、父の身体は相変わらず頑強で鉄人に変わりがなかった。反して気性の鋭さが消え、どこから見ても温厚そのものなのだ。殺傷沙汰はまず考えられなかった。
「バラバ、大変! 父がローマ兵に――」
と大通りを、ミカが青ざめた表情で走ってくるのが見えた。そこにはレビの姿も、父の姿もなかった。
その瞬間。それまで抑えていたバラバの負の感情が、外へ放たれる。
「神殿の裏手で、父がローマ兵に囲まれ、斬られたの」
ミカが言葉を震わせる。青ざめた顔は虚脱していた。
「何だと! 嘘だ、そんなばかなことがあるはずがない」
「ほんとうです。私をかばうために、父は斬り刻まれてしまった」
くらっと目の前が暗くなった。視界から周囲の色が消えていく。
死なないで――いてほしい。夢中で走った。胸騒ぎが起きた時点で捜しにいけばよかった。そうすれば防げたかもしれない。後悔の念に心を支配された。ミカとサラを置いて一人速度を上げる。
神殿の裏手にやってきた。普段、さほど人気のない通路の一角に人だかりができている。
レビがいた。バラバを見つけると、こっちです、早く! と、手招きをしてきた。バラバは群がる人を押しのけ強引に内側へ入り込む。
父が横向きで倒れていた。白い衣は血で真っ赤に染まり、同一色に滲ませようとしている。一組の中年夫婦が、父の頭の下に毛布を敷き手厚く介抱していた。
「ローマ兵は騒ぎを恐れて逃げました。卑怯きわまりない行為でしたから――」
レビが腫れた口を痛そうに歪ませる。
前後して、介抱する女性と目が合った。続いて男性とも。
二人はバラバを見ると、なぜか思いつめたように茫然とさせる。そのうち口に手を当て、女性が泣き出した。不可解だったがバラバは横目で流して父のもとへ急いだ。
「死んではなりません!」
背中から溢れる血を手で塞いだ。身体を揺すり、懸命に呼びかけた。
応答はない。
ならばと片手で父の手を握った。久し振りに握る父の手は、知らぬ間に水分がなくなりかさかさしていた。まるで枯れてしまった木の皮のような感触だった。
「ごめんなさい、バラバ。私が若いローマ兵の挑発に乗ったばかりに、父をこんな目に遭わせて……」
いつの間にかやってきたのか、ミカが父の側らで突っ伏した。サラは言葉を失っている。
「お前のせいではないぞ、ミカ」
事情は分からないが、決してミカのせいなどではない。すべては安心しきっていた自分が悪いのだと悔いた。
「せめて、祈りを捧げさせてください」
ミカとレビとサラが跪く。声を合わせた。
すると、とつぜん不思議な感覚にとらわれた。父の身体に当てた手のひらから不思議な熱を感じたのだ。ミカたちの思いとバラバの願いが合致して、父の波動と同化する感じだった。手のひらから奇妙な熱量が放たれる。
いつしかバラバの意識は父の血流の中を心地よく流れ、全身に駆け巡っていた。切断された臓器と血管の辺りをぐるぐる旋回していた。
これは?
理由を探ろうとすると、父の瞼がぴくっと僅かだが反応した。血の気のなくなっていた頬に紅が差し、唇にも少しだが血色が戻ってきた。
「イエス、来てくれたのか。サラも」
ぐったりしていた父の口が弱いながら動いた。思いもよらぬ展開にミカがしゃくり上げて泣き出した。周囲の群衆からも驚嘆の声が上がる。ざわざわと見知らぬ他人同士が顔を見合わせ出した。
「今のを見たか? 死んだとばかり思っていたのに、生き返ったぞ」
「ああ、この目ではっきり見た。まぎれもなく神の御業、奇跡としか考えられない」と、目をぱちくりさせて騒然とさせている。
介抱していた男性までもが「信じられん。間違いなく死の淵にいた……」と口を開け、激しく首を振った。
「ならぬぞ。イエスよ、私の身体から手を離せ。我らの目指す道は癒しとは逆なのだ」
不意に父が一喝する。渾身の力を絞ってバラバの手を振りほどこうとした。
「なぜです? 今、手を離してしまえば、回復するどころか一瞬にして無に帰してしまいます」
おそらく手のひらから放たれる波動は、バラバが体得してはならないものなのだろう。だが目の前で、死に瀕した父を見すてることなどできない。必死に抵抗した。
「女々しさをすてよ。我が友、一部で同化し続ける天使がそこまで迎えにきてくれた」
それはルシフェルのこと? ユダばかりでなく父にまで触手を?
バラバは顔を上げた。きっと目を吊り上げてルシフェルを捜した。
その一瞬の隙に父が身体をひねった。バラバの手が離れていく。波動は完全に行き場を失った。
「イエス、これでいい。お前の弟では怒りの力が強すぎて世界が滅びる怖れがあった。だからルシフェルと、敢えて、お前に……」
言葉がとぎれた。父は動かなくなった。血色がさっと青くなる。
ミカとレビが人目を憚らずに号泣する。
そこへ竜の形をした一陣の風が巻き上がり、バラバの横で小さな旋風を起こした。風は父の身体のまわりを愛おしそうに旋回させると天へ向かって吹き上げた。バラバには、ルシフェルが父の魂を風に乗せて運ぼうとしているように思えた。
父が意識を閉ざすと、介抱していた女性が泣きくずれた。膝をつき、至近距離の位置で目を赤く腫らせる。でも、どうも様子が違う。というのも、父に向けていた視線をバラバに移し、唇を震わせているのだった。
どうして私を見て泣く? この婦人は誰なのだ。
なぜか胸をどぎまぎさせた。根拠のないときめきに心が振れる。
「あなたが、イエス・バラバなのですね」
絞り出すような声をかけられた。感情を押し殺した口調だが、どこか情愛の入り混じる郷愁を感じる。
しかしバラバは答えず、曖昧に首を振る。おぼろげな記憶の断片にしかすぎないが、この女性が誰であるか確信を持ったからだ。
もう遠い存在。今さら母など必要がない。
それでも女性は、切々とこみあげる胸の高まりを懸命に抑えているようだった。父アッバスを挟んだ間近の距離から、懐かしさのたっぷり沁み込んだ指でバラバの頬をなぞり、顔を近づけてくる。
無雑作に手を振り払った。
ぱしんと弾かれて、行き場のなくなった女性の指がやるせなく宙をさまよう。自らの心を覗けば空っぽの風が吹き抜けていた。
「ミカ、ロバを連れてくるのだ。父を乗せたら、帰る」
「いいのですか、後悔しませんか……」
事情を察したミカが、目に溜めたままの涙を拭い、問い返してきた。
バラバは、レビとサラの顔にも目を当てた。父の死とは別の、新たな涙が溜まっている。また孤児になっても厭わない表情だ。そんな三人を見ていたら無性に愛おしくなってきた。ならば、これ以考えることは無意味。
「後悔などせぬ。俺の家族は死んだ父と、お前らしかいない」
ミカは返答せずに歩き出し、いっそうの涙をこぼしている。嬉しいとも哀しいとも判別のつかない複雑な表情を見せてロバを連れてきた。
バラバは立ち上がって父の身体を抱えた。ロバの背に乗せようとした。だが、ぐたっとした父の身体は意外に重く、よろけてしまった。
慌てて女性が手を添える。
「触るな!」
バラバは激しくはねのけた。
その瞬間、導かれた母と子の絆はとどかず、虚しく空を切った。
5
「父を殺したローマ兵は、凍りつくような冷気の塊。そんな怖ろしい隊長でした」
父の葬儀を済ませた帰り道。家の屋根が見えはじめた場所まで戻ってくると、ふとミカが立ちどまり、唐突に話し出す。バラバが尋ねても答えず、置き去りにされていたことだった。
ユダが目を光らせる。好奇心の強いシモンが駆け寄ってきた。レビも一緒にいた責任を感じているのか、聞き逃さまいと真剣な目を向けてくる。
ミカは明るく見えても、誰にもまして人の心理を読みとり、考え込んで気苦労する性格。だからよけい話せなかったのだろう。自分だけが知る真実、そうとうの重圧があったに違いない。しかし心に溜めているほうが苦しいこともある。
「ミカは、その斬りつけた瞬間を目撃していたのだな」
せめて経緯だけでも知っておきたかった。
「はい。あのとき、バラバに知らせようと走っていたら、嫌な予感がしたので、振り返ったのです。そうしたら父は囲まれていて、隊長になぶられるようにして斬られた……」
「でも、おかしい。例え囲まれようと、強い父さんが、そんな簡単にやられるはずがないよ。だって強さはイエスと変わらなかったもの。もしかしたらイエスより強かったかもしれない」
シモンが、そんなの嘘だ! と反論した。
「あたり前だ、かつてユダヤ随一の武将と讃えられた人だ。まともであればローマ兵ごときに殺されるはずがない」
ユダも語気を強めた。小さな石を拾って腹立たしく投げた。石は草原の先に広がる荒れた岩地に跳ねた。が、まるで手応えのない音が返ってくる。
「そうね、やられるはずがないわ。でも、あのときは幾層にも理由が重なっていた」
ミカが目を伏せる。
「詳しく話してくれるか」
バラバは静かに言葉を投げかけた。
「そのローマ兵たちとは、以前の配達のときにも軋轢があったのです。三年前まで、街娼をしていた母と連れ立ってエルサレムの町を歩いていたから、私を覚えていたのかもしれません。最初は何とか矛先を変えてすり抜けましたが、今回は隊長もいて強気だったみたいでした。すれ違いざま兵士が私を見て、いきなり『おお!』と、奇声を上げたのです。以前しつこく絡んできた兵士、だと一目で分かりました。嫌だったので無視を決め込むと『女、見るたびに色っぽくなる。ヴェールを外せ、相手にしてやるぞ』と、ねちねち擦り寄ってきたのです。私は無言で、目も合わさず相手にもしませんでした。そうしたら兵士が急に怒り出したのです。異常とも思えるくらいに。どうもカシウスと呼ばれた隊長が唆せていた気もします」
ミカは話しているうちに、よっぽど悔しいことを思い出したのか指を強く握りしめた。バラバたちから目を逸らし、震えの混じった溜息を洩らした。
ローマ軍は総督府のあるカイサリアと、聖地エルサレムに三千人の兵士を駐留させている。一個大隊を約六百人とすると、エルサレムには二個大隊千二百人が駐屯している計算になる。
中隊はおよそ二百人から三百人、となればカシウスは、最前線で百人の部下を率いる小隊長となる。きっと実戦で揉まれ続けてきた猛者に違いない。ミカが恐ろしいというのも、いちいち肯けることだった。
落ち着くとミカは、顔にかかった前髪を指で掻き上げ続けた。
「私は、父のあとを三歩ほど遅れて歩いていたので、早足で父に並ぼうとしたのです。そうしたら『俺は、お前の母親の身体の隅々まで知っているぞ。どうだ、お前も検分してやる。見せてみろ』卑劣にも、娼婦の子はしょせん娼婦だと罵り、槍の先で衣をたくし上げてきました。恥ずかしいことに衣の裾が背中まで捲れてしまったのです。恥辱にやめてください! と叫びました。それなのに兵士たちはやめようとせず、逆ににやにやして、とても口に出せない卑猥な言葉を浴びせてきたのです。往来の真ん中で、あられもない姿、屈辱的なことでした。ついに堪忍袋を切らせたのか、父が怒りました。『よさぬか、下郎!』と言うなり、手に持っていた杖でローマ兵の槍を叩いたのです。若いローマ兵の槍は、ころころと地面を転がっていきました。『じじい! てめえ、何をしたのか知っているのか』と熱り立ち、槍を拾おうとしたとき。何を思ったか父は、片足で槍を踏みつけ、もう一方の足で兵士の顔を蹴り上げたのです」
「おお!」皆がどよめく。
「さすが父さんだ。ざまあ見ろ、ローマ兵め――」
興奮の中、シモンが鼻の穴をふくらませて溜飲を下げる。
やはり父はミカを助けるために立ち向かった。だが、それにしてもなぜむざむざ殺されたのか?
「隊長は『筋書き通りになってきた』と口を歪ませ、冷酷にも近くにいたレビを槍の穂先で叩きました。それも倒れて気絶するまで、何度も。たぶん父の出方を窺っていたのでしょう。父は『そうか、きさまが運ばれた者か。なら、ここが私の死に場所かもしれん』と、難解なことをつぶやきました。もしかしたら覚悟したのかもしれません。私に『逃げるのだ』と指示して、槍を拾って構えましたから。いよいよ戦う気になったのです。また私さえいなければ、互角といわぬまでも勝算はあったような気もしました。でも……」
「でも? でも、どうしたのだ」
せっつくバラバの問いに答えず、急にミカが歩き出す。ベタニアの町を一望できる草地に立って、哀しげに景色を眺めた。間近で、しかも目を合わせて話せることではないのかもしれない。
心情が理解できた。視線を当てず、さり気なくミカの近くにある岩に座った。続いてユダが、少し距離を置いて岩に腰かけた。レビもシモンもサラも同じように腰を降ろす。
「できごとに、偶然というものはないのでしょうか。まるで誰かに仕組まれた運命のようにも感じられました。私が逃げると一人の兵士が追いかけてきたのです。すぐに肩を鷲づかみにされて捕まってしまいました。助けようにも父は、四人のローマ兵と交戦中でした。いや、正確には三人です。一人は地面に倒れて、ひくひくと足を痙攣させていましたから。けど情けないことに私は座り込んで観念しました。凶器を持ったローマ兵相手に敵うわけがないのです。目を瞑り、ぶるぶる震えて、首が胴から離れるのを覚悟していました。でも、なかなかローマ兵は斬りかかってきません。どうしたのかと顔を上げれば、駱駝の毛衣を着た若者がローマ兵の足に短剣を突き刺していたのです」
「若者が、群衆の中から助勢に?」
「ええ、私を逃がすために。『行け、走るのだ』と叫ぶ若者の言葉に、私は再び走り出しました。けれどいくらも離れないうち、若者は場慣れしたカシウスに槍で短剣を弾かれ、とり押さえられてしまったのです」
「では、その若者も殺されてしまったのか?」
バラバは唇を噛んだ。
「ばかな、そんなことがあるはずがない。あいつが殺されるはずがない!」
ユダが興奮して岩から立ち上がった。しかし皆の目が注がれると、失言だ、俺の勘違いだったと、すぐに座り直した。が、拳はぎゅっと握りしめられている。
バラバは怪訝に思ったが、ミカがまた話し出したので聞き逃がすまいと耳を傾けた。
「カシウスは狡知の塊。いずれ殺すつもりだったのでしょうが、思いもよらぬ劣勢に、すぐに若者を殺さず父へ迫ったのです。『剣をすてろ、すてねば、この小僧を殺す!』と。ローマ兵は父に二人倒されて一人は足に傷を負っていました。残りはカシウスと大柄な兵士だけ。若者の登場は、まさに人質として好都合だったのです。気絶したレビは、あの女性が群衆の中に引きずり込んでいましたから、人質にさせようともできませんでした。父は『ミカ、早く行け。イエスに伝えよ』それだけを私に言うと、剣を投げすてました」
「なんてひどい奴だ。バラバ、そのカシウスという男が赦せない」
シモンが頬をぴくぴく痙攣させて苛立った。ユダは場から視線を外して考え込んでいる。
自分の命を顧みずに助勢してくれた若者を、絶対に殺させるわけにはいかない。父はそう決断したのだろう。痛いほど理解できた。そのような状況に陥ったら、きっとバラバも同じことをしていたからだ。
「私は逃げました。でも、背中に群衆の大きな溜息が洩れ聞こえたので、父が斬り殺されたのだと理解しました。ただ私を助けてくれた若者は殺されていないような気がしました。あとでバラバと駆けつけたときに死体もなかったし、耳に、腹をすえかねた群衆の声が聞こえてきたからです」
「すると、群衆が立ち上がったのか」
「はい。最初はレビを救った女性の声でした。おそらくはバラバの母であろうかと。『それ以上の手出しは赦しません!』と、細い声ながら凛とした叫びが耳にとどきましたから。私は路地を曲がる手前で、その声に吸い寄せられるようにして振り向いたのです。皆必死に石を投げつけていました。それを確認して、また私は走りました。カシウスの『運の、いい小僧だ』と、苦々しく吐きすてる声だけが、最後に聞こえた……」
ミカは、すべて話し終えると膝を落とした。細い肩を上下に震わせた。サラがたまらず駆け寄っていく。レビもシモンも続いた。ユダだけが唇を真一文字にむすんでバラバの側へやってくる。
「変転がはじまったようだ。バラバ、受け容れるしかないだろう」
と、意味深に西方向を指さした。「町の外れにそびえる館の屋根が見えるか。そこに、すべての答がある」
「ユダ、お前……」
語尾が口の中で消える。そこは異教の館、黒い妖気の立ち込める悪霊の館である。急激に身体が強張っていくのが感じられた。
「館には常時十数名のバアル信徒が寝泊りし、バアルのみならず、天使も他の神々もいる」
ユダの言葉に、皆が瞳を凍りつかせて振り向いた。
なら、父の次は私か? 道を外させるだけでなく消滅させる気なのか。バラバは谷底から吹き上げる微風にも抗えず、よろけそうになる。澄みきった空に、どす黒い雲が広がっていく。