表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
バラバ  作者: 鮎川りょう
2/9

2章 悪夢

  2章 悪夢


        1


 洞窟内に深遠な静寂が流れている。

 耳へ入り込んでくるのは、母の胸に抱かれ満足げに眠る子の寝息だけ。毛織の外套を肩からかけ、壁にもたれかかる父親も目を瞑り動かない。時さえも止まって見える。

 しかしこの静寂は長く続かないだろう、とアッバスは思う。邪心に駆られた帝王は必ず動き、虐殺は夜陰に乗じて強行される。それが陰謀に生きてきた王の揺るがぬ信条なのだ。

 とすれば、すぐにも二人を起こし、脱出の準備をしなくてはならない。だが――その前に作っておくものがある。


 王の命を受けた兵士は、狭い民家に侵入し無抵抗の子供を殺戮するのが目的である。よって槍は使えない。おそらく携えてくるのは剣だけだろう。ならば草原を突き抜け、逃避せんとするアッバスらにとって、その剣を防ぐためにも必要だ。短剣で、角材を削る力を速めた。

 細かい木屑が、股先から二つに分かれた手づくりの衣に落ちる。それを払うでもなく剣先を一心に当てていく。壮年も半ばをすぎて、張りがなくなりはじめた剛健な指を器用に扱い、握りやすく柄の部分を細くして段差を作った。なおかつ殺傷能力を高めるため先端をより鋭角に削ぎ落としていく。こうすることで鎧を貫くことは不可能だが、少人数なら首すじに致命傷を与えることも可能となる。


 でも、いいのか。お前は、民のために剣をすて、義に生きてきたのではないのか。

 とつぜん激しく自身の胸を切り刻む疑問が湧いた。

 仲間から憧憬され続けてきた兵士時代、してきたことは人を殺すことでしかなかった。翻れば、英雄とは嘘ざむい殺人者と同義語なのだ。退役して十年がすぎるというのに、自問は息苦しさを増幅させるばかりで、いまだに答を見つけられない。

 ばかりか今、遠ざけてきた戦いの場に再び身を置き、人を殺すことだけを考えている。あきらかに愚行だ。ただ馬鹿げているかもしれないが、これが自分の運命なのだと、そこへ思いを逃がした。

 先刻まで星たちが織り成した光の洪水。それに反発するかに迫り上がった深淵。おそらく闇は、この地ベツレヘムから北へ九千ダブルキュビット(九キロ)離れた場所で権威を振りかざす、傀儡を揺り動かすに決まっている。


 アッバスは完成させた急ごしらえの槍を抱え、岩の裂け目に立った。漫然と殺戮者らが現れるであろう北方向へ顔を向け、その闇の先エルサレムを鋭く凝視した。

 視界が遮られる中、迂回をせず真っすぐエルサレムに続く道が頭へ浮かび上がる。かつて名君が故郷と聖地を結ぶため、岩山を切り開いた道である。おかげで旅人はどれほど助けられたろう。だが皮肉なことに、その道は直接――現帝王の兵営へ通じているのだった。ものの数分で命令を遂行できる。


 そんなアッバスの鼻に、微風が草の匂いを運んでくる。ベツレヘムは荒れた丘陵だが、今は雨季。春先までは種々雑多な草花が咲き乱れ、花の薫りをまきちらせているからである。それでも芳しい草の匂いが血生臭い予兆にも感じる。

 ならば、急がせなくてはいけないだ。


            2

 

 アッバスはくるりと向き直ると、足音を忍ばせ父親の前へ歩み寄った。ごつごつとした男の肩に手をかけて、そっと揺すった。

「起きろ、ヨセフ。急いで身支度を整えるのだ」

「どうした、アッバス」

「どうも危険が迫っている気がしてならない。すぐに旅立たなければ、子の命が失われる怖れも考えられる」

「危険だと――」

 ヨセフが、覆われた髭の隙間から窪んだ目を瞬かせる。が、お前が嘘をつくはずがないと、すぐに腰を浮かせ、弾かれたように立ち上がった。「学者からは明日の日中と聞いていたが、今夜、なのだな」

「そう思って間違いない」


 アッバスが断言すると、隣で眠っていたはずのマリアも素早い反応を見せる。二人の子に毛布をかけ直し、乱れた衣の裾を手ではたく。表情は色を失っている。

「まさか、ヘロデが? 怖れていた悪夢が……現実になってしまうのですか」

 アッバスは無言で肯いた。

「だが、幸いにも兵士の姿はまだない。どうだ、アッバス。今から村人へ危険を知らせに行くことは可能か?」


 ロバの元へ向かおうとすると、疑問とともにヨセフの鋭い視線が目の端に刺さる。アッバスは立ちどまり、あえて無愛想に返答する。

「それくらいの時間はあるかもしれないが、賛成はしかねる」

「なぜでしょうか。今、この古く小さな町には、戸籍調査のため全土から一万人以上の人間が集まっています。幼児の数だけでも二百人以上いるでしょう。私たちが逃げ出せば、その二百人が犠牲になってしまうかもしれないのです。人として知らせるのが当然の行為のはず」

 マリアが身支度を整えながら言葉を重ね、色を失わせた眼差しに憤慨を滲ませる。

「聞かせろ。お前に、人の命を救う気があるのか、どうかを――」

 ヨセフも荷造りをする手を休めず、訝しげに心を探ってくる。


「ある。しかし二人だけだ」

 アッバスは軛から引き綱を外すと、ロバの手綱を張りながら言葉を続けた。「理由は二つ。知らせるより、逃げることのほうが先決であるからだ。もう一つは旅人と村の者に危険を知らせても、果たして我らの言葉をどこまで信じるか疑問を感じる。おそらく、信じない。一笑に付されるだけだ。むしろ眠りを妨げる非常識者と、石を投げつけられる可能性も否定できないだろう」

「なら、我らで兵を防ぐことは」

 ヨセフが、ロバに駈け寄り慌てて中央に引き出してくると、荷を載せながら矢つぎばやに問いかけてきた。


「無理だ。むだに命を落とすだけ。一個人の力と統制された軍隊の差は歴然だ。たとえ村人が協力しても絶対に騎馬兵には勝てない。装備する防具も武器も格段に違うのだ」

「でも、アッバスどの。兵士にしても戦うからには義が必要です。いくらヘロデが我が神を崇めていないからといって、反抗も反乱も起こしていない村人に手を下すでしょうか。兵士は、同じ神を崇める……同じ民族のはず」

 マリアが子を抱き上げ、縋るようにして一縷の願望をぶつけてくる。憤慨の眼差しは、いつしか赤く潤んでいた。


             3


 確かにユダヤ人であれば、マリアの言う通り罪のない同胞の子供を殺せるはずもない。しかしヘロデは知略に長けた男、兵士の心情も動かしかたも理解している。そればかりかヘロデの兵士は他民族の寄せ集め、純粋なユダヤ人兵士は全体のごく一部でしかないのだ。多くはイドマヤ、シリア系のアラブ人兵士で占められている。

「叶わぬ願望だ。小隊は、ヘロデに民族感情を煽られたアラブ系の兵士で編成されている」

 その言葉に、ヨセフが目を光らせる。

「うむ、邪な士気か。ならば殺戮に躊躇いはない」

「そうだ。まして我らはロバに乗り逃げる身。躊躇すれば騎馬に追いつかれ、子を背負って対峙することになる」

「では、見殺しにするしかないのか」

 と、浮かぬ顔を見せるヨセフをマリアが遮る。子を亜麻布でしっかり包み、端正な顔立ちに似合わぬ不釣り合いの激情を見せてきた。

「そんなむごいことをさせられません。アッバスどの、二人の天使があなたを讃えていました。雄々しくて善き人だと。なら護衛してくださりませんか。戦うのが目的ではありません。兵がくる前に、真剣に村の人たちを説得し、幼児たちと一緒に悪夢から逃れたいのです」


 マリアの真剣な眼差しに、ふっと動揺を覚えた。が敢えて横目に流すと、アッバスは無雑作に頭からターバンを外した。それをすぐに腋の下から斜めに通して肩の所で強くむすんだ。

 目を真っ赤にし、憤然と睨みつけてくるマリアから無表情にもう一人の子を受け取ると、ターバンの中へ無理やり押し込んだ。この子を、神から託された者としての自負もある。ここで心を折るつもりなど、これっぽっちもなかった。

 そもそも、いくら望んだところでこの大きな動きを阻止すべくもない。阻止できぬ嵐は、戦いの中に生きてきたアッバス自らの判断で切り抜けるしかないのだ。

 もうこれ以上の議論の余地はない。心を掻き乱されたが申し出を突き放した。


「忘れろ、村人のことは、頭の中から消し去るのだ」

 神の子を守るためなら、誰が何百人と殺されようと目を背ける。胸の内で寒々と炎が揺れた。

「いいえ、消しません。ヘロデは我が子の顔も名前も知らないのです。だから二才以下の幼児であれば、見境なく引きずり出し『殺せ!』と命じていることでしょう。我が子のために、どれだけの子が犠牲となって死んでいくのでしょうか。アッバスどの、今一度、考え直してください」

 決断したものの、なおも執拗に訴えるマリアに言葉を返せない。


 アッバスはロバの首すじに手をやると、背を向けて、再び外の闇を覗き込んだ。静かだ、変わらぬ静寂が広がっている。懸念する悪夢が起こる気配など微塵も感じられなかった。

 殺戮は学者らの言う通り日中であって、やはり夜襲など杞憂なのかもしれない。それなのに、押しつけがましく命の比重を二人へ迫った。多くの幼児の命と、たった二人の神の子。アッバスは後者を選択し、強引に選択させた。

 聖霊よ、私は間違っているのだろうか……。

 吸い込まれそうな夜空を見上げ、星に問いかけた。

 ――子は贖罪を望み、泣きながら戦う。

 ふと気づけば、知らされた神の言葉が重く圧しかかる。だとすれば贖罪を望む子から、その贖罪を取り上げるのと同じ?


 アッバスは思い直すと、はたとマリアへ視線を当てた。

「北の丘から狼の遠吠えが聞こえるまでなら、頭上の星が雲に遮られるまでなら、時間は――なくはない」

「おお、それは!」

 ヨセフが、深く抉れた目を至近距離まで近づけてきた。「少しなら助ける時間があると、受けとめたぞ」

「虐殺は町の麓からはじまる。そしてここは中腹より上の位置。知らせながら逃げることも可能ともいえる」

 わずかな希望をつなげて言った。

 ヨセフが喜色ばんだ。マリアも目を輝かせる。

「だったら、大急ぎで出発します。敵と出会わない限り、知らせられるのですね。もしかすれば連れていくことも……」

「だが敵の姿が見えた時点で、即刻ひるがえす」


 正義の旗を振りかざし、立ち向かうことだけがすべてではない。ときには卑劣に逃げることも隠れることも必要となってくる。戦うのではなく、できうる限りの範囲で危機を避ける。やはり村の子よりも二人の命を守ることこそが必定。アッバスは何度も、その言葉を呪文のように繰り返した。

「そうと決まれば、急ごう」

 ヨセフが、せかせかとロバの背に毛布をかける。マリアの手を引きロバへ乗せようとした。

 ――しかし、無情にも星は動き出していた。


               4

 

 王を象徴とする星(木星)と、ユダヤを指す(土星)二つの星へ、どす黒い深淵がとり囲むようにして迫っていたのだ。深淵がヘロデであるということは一目瞭然だった。

 アッバスは苦々しくヨセフを呼び寄せる。

「空を見てほしい。聖なる二つの星が、はや黒雲に囲まれている――」

 ヨセフが手の動きをとめ、訝しげに夜空を見上げた。とたん表情を一変させる。

「もう、来てしまうのか――」

「もはや一刻の猶予もないだろう。短剣を渡そう。しかし、あくまでも身を守るためだ。マリアには悪いが、我らは村人を起こさずに逃げる」

「何だと! なら……見殺しに? してそれを、マリアに説得しろと」

「その通り」言葉を濁したくなかった。冷淡な口調で言った。


 ヨセフが困惑した表情を見せる。が、次の瞬間にはマリアの元へ行き、両手で挟みかけるようにして髪を撫でていた。機転が利くわけではない。ヨセフは自分にとって何がいちばん大事か理解しているのだ。それに見た目ほど好戦的な男ではない。


 直後、細く引きしぼるような嗚咽が聞こえた。

 決断をしたとたんの心変わり、憤怒を煽るには充分の裏切りであったろう。ヨセフの太い腕の隙間からマリアが悲愴に睨みつけてきた。その目からは涙しかこぼれていない。

 アッバスの心が弛緩する。予測していたはずなのに空しい感情に支配された。

 まだ姿も見せていない敵の幻影に怯え、救うことさえ拒否された。マリアにしてみれば、腰の引けた愚者によって一方的に押しつけられた残酷な屁理屈でしかない。


「卑劣な行為かも知れぬ。だが――その責任は、私と、託された子が生涯背負って生きる」

 身勝手な言葉だが、有無を言わせなかった。こうするほかに道がないからだ。「敵は訓練された兵士。用心のため短剣を渡すが、使うよりも逃げろ」

 胸から短剣を取り出すと、ヨセフの肩をぐいと掴み手渡した。

「言われなくとも分かっている」

 ヨセフが声を上ずらせて受け取った。

「もし敵に囲まれ、私が殺されていたならば、理解していると思うが使い道は一つしかないぞ。兵士に斬り刻まれるよりは、ずっといい」

「ばかな……」


 今度ばかりはヨセフが目をくり剥いた。唾を飲み込み絶句した。アッバスが言わんとすることは自害。それは――神の意思を根本から裏切る行為。たちまち日焼けした顔を蒼白させる。

「ヘロデの残虐さは、ローマ兵の比ではない。そなたらがダビデの末裔と分かれば、絶命させるだけではすまないだろう。況やハスモン家の例を見れば分かるように、惨殺されたあげく、ナザレに住む一族もなぶり殺しにされるはずだ」

 アッバスが、ヘロデに仕えていた勇猛な兵士だったということを二人は知っている。それだけに言葉は重みを増した。

「まずは草原を東へ向かい、ベタニアへ行く」

 手短に方針を伝えロバに飛び乗ると、はや行動は迅速だった。石垣と低木に囲まれた中庭を横ぎり、一気に駆け抜ける。


             5

 

 ちょうど宿屋の表玄関へ出たときだった。突如、背後の空気が妖しく揺れるのを感じた。

 大地を震わす轟音とともに、草原を挟んだエルサレム寄りの丘へ、手に松明を持った馬群が姿を現わしたのだ。町へ向かって真っしぐらに突っ込んでくる。静寂は無情にも切り裂かれた。

 尋常ならぬ地響きは一段と大きくなってきた。その気配に、つい今しがたまで夢の帳に向かっていた宿屋の窓から、再び明かりが灯る。

 あちこちの民家から住民が顔を突き出しては慄き、絶句する者たちが続出した。みな慌てて窓を閉め、点けた灯かりをすぐに消す。そこへ一団がなだれを打って町へ押し寄せてきた。


「殺せ! 幼子を見つけ出し、殺すのだ。立ちはだかる者もかまわぬ、殺せ!」

 麓から、絶叫を上げる隊長の声が、しっかとアッバスの耳に入り込む。松明の炎に揺らめく兵士の顔も亡霊を想像させんばかりに蒼白く浮かぶ。前後して整然と三方向に分かれ、そのうちの一隊が憤怒の形相で坂を駆け上ってきた。


 アラブ系兵士といえども罪のない子供を殺戮するのである。心を冥府に送らねばできない所業であろう。それぞれが目に名状し難い異様な殺気を孕んでいた。そのせいか炎が冷えびえと揺らめき、ヨセフとマリアにいっそうの恐怖感を覚えさせたようだ。身を潰されんばかりに震える二人の緊張が、アッバスにひしと伝わってきた。

「アッバス、道は塞がれたぞ!」

 ヨセフが甲高い声を張り上げる。

「うむ、仕方ない。裏手へ戻る」

 アッバスは歯噛みし、踵を返した。


「待ってください、ヨセフ、わたしをここで降ろして!」

 そのとき、不意にマリアが叫んだ。

「ど、どうするつもりだ?」

 マリアの不可解な言動に、ヨセフが戸惑いを見せる。

「赦さぬ、断じて、いな!」

 アッバスは、マリアの女々しい心根を激しく罵った。理由を聞かずに、さらに一喝した。「なら行け! 行って、死ぬがいい。その代わり、子は二人とも私がもらう――」

「お願いです。せめて宿泊する子だけでも連れて逃がしたい。その中には、ザカリアとエリザベトの子もいるのです。それも叶わぬというのでしょうか……」

 マリアの語尾が儚く沈んだ。

「無論だ」

 アッバスは素っ気なく首を横へ振り、ヨセフに目配せをしてロバの手綱を強く引いた。


 昔日の名残を今もとどめ、かつてダビデの屋敷だったこの宿屋を兵士らが見逃すべくもない。むしろ一直線に突っ込んでくると考えたほうが賢明だろう。

 ならば、この先に待ち受けるのは想像も絶する地獄絵図。だからこそ目を瞑り通りすぎる。託された子を、むざむざ殺させるわけにはいかない。アッバスは、ますますロバの手綱に力を込めた。

「ヨセフよ、早く来い。離れずに、私のあとを従いてくるのだ」

 もうマリアの言葉など聞くつもりはなかった。ロバの腹を足で強く蹴り裏手へ急いだ。できるだけ背の低い灌木を探すと、ヨセフへ言った。「この生垣を飛び越えて、脱出する」


「ここを、飛び越えて?」

「飛ばなければ、確実に殺される」

「しかし――」

 ヨセフが灌木の外を覗き、跳躍を躊躇っている。見つかれば敵が襲いかかってくるのは時間の問題である。なのに表情を見る見る凍りつかせる。低いといっても生垣は一ダブルキュビットあり、その向こうは断崖に近い急坂の草原なのだ。ヨセフでなくても飛び越える勇気は必要であった。

 察したアッバスはヨセフに言った。

「枝を切る。短剣を渡すのだ」と。

 受け取ると、やにわに枝を薙ぎ払った。小動物しか通り抜けることのできなかった隙間を、ロバがすり抜ける広さに変えた。「これなら、大丈夫だ。さあ、先に行け!」


 と、すぐ近くで、岩へ金属を叩きつけたような甲高い女性の悲鳴が起きた。宿屋に兵士が乱入したのだ。我らの存在も、じきに嗅ぎつけられてしまうだろう。アッバスは尚も躊躇うヨセフに太い声をかけた。

「私もすぐに続く。そなたは振り向かずに、東へ向かって真っすぐ走れ!」

 たとえ屍を積み重ねても守りきってみせる。滾る思いを短い言葉に注入した。

 その気迫が伝わったのかもしれない。ヨセフは強張りを解かせ、飛んだ。暗がりを滑るようにして消えていった。

 続いて飛ぼうとするアッバスの耳に、冴えた夜空を切り裂く新たな悲鳴が断続的に響く。

「痛ましさを知りながら、そなたらを見すて、逃げる。赦してほしい」

 胸が哀しみに貫かれる。喩えようもないほど心を抉られ、心底寒くなる。現実が夢であればと願うことしかできなかった。

 そんなアッバスに、無数の星が切ない光を滲ませる。おそらく斬殺された幼い魂なのだろう。

「約束する。そなたらのぶんまで、責任もって育てることを――」


               6


 坂を駆け下り、見渡す限り一面闇の中を東へ向かう。星明かりだけを頼りに暗い草原を進んだ。ぽつんと馬影が見えた。ヨセフが手綱を引くロバであった。逃避行というにはロバの足どりはひどく覚束ない。すぐに追いついた。

「ヨセフ、急げ。もっと早く逃げろ!」

 アッバスは横に並ぶと、ヨセフを強く嗜めた。

「暗すぎて、よく見えないのだ。それに重いのか、いくら腹を蹴ってもロバが言うことを聞いてくれない」

 ヨセフが声を震わせる。


 もしかして私を待っていた? ヨセフは……心細かったのか。

 理解できないことではなかった。ほんらいヨセフは兵士ではなく鑿や鉋を握る大工なのだから。しかし、それはそれ。為すべきことをしない限り生の道は永劫に閉ざされる。

「だからといって、のんびりしていたのでは敵の思うつぼだ。少しは引き換えに失うものの大きさを考えたほうがいい。私は振り向かずに、真っすぐ逃げろといったはずだ」

 言うなりロバの腹を足で蹴り、返事も聞かずに一人速度を上げる。置かれたヨセフが慌てて追いかけてきた。ロバだって死にたくない、急がせれば走るのだ。


 そのうち草原は岩山だらけの難所になる。眼前に荒涼とした景色が沈んでいた。アッバスはロバの速度を落としてマリアへ告げた。

「ここからは険しい岩道、その座り方では落馬の危険性がある。しっかり跨を開いて乗ったほうがいい」

 マリアはヨセフにしがみつき、横向きに座っている。それでは前後の揺れには対応できても、横揺れには頼りなさすぎた。

「そうだが、お産を終えたばかりの女性に、股を広げさせて乗せるなど言語道断だ。それに、あの急坂をこの状態で降りて来れたのだ。そんなに剥きになって心配することはないだろう」

 ヨセフが代弁する。

「不甲斐なさすぎるぞ、ヨセフ。悲鳴を聞いたと思うが村の子は惨殺された。なら、もはや守る子は二人だけであろう。だったらマリアの身体などどうでもいいはずだ。我らはまだ完全に逃げきったわけではないのだ」

 反論に言葉が強くなった。その場に重い沈黙が生まれた。マリアがじっと瞳を向けてくるのが分かった。


「いいのですヨセフ、アッバスどのの言う通りです。わたしが間違っていました。降ろしてください、跨りますから……」

 しかし――と、ぐらぐら煮えきらずにいたヨセフが、ようやくロバから飛び降りる。

 自分と血の繋がらぬダビデの末裔、いや神から託された子より、それほどマリアのほうが大事なのか。なぜ危険を感じぬ。その先の死を見つめぬのか。アッバスは疑問を抱いた。真の優しさとはその場のいたわりではないのだ。それでは自宅が失火したときに、着の身着のままですぐ逃げず、悠長に外出着に着替える感覚と同じではないのか。

 アッバスの困惑をよそに、ヨセフが恭しくマリアを抱き下ろし毛布をかけ直す。アッバスはその一連の動作をじりじり垣間見ながら、背後へ目を向けた。


               7

 

 ベツレヘムの町から炎が上がっていた。

 ――一人として逃がさず、殺せ!

 残酷だが、それがヘロデの命令なのであろう。おそらく子を隠していると判断した兵士が、屋根裏や物陰にひそむ幼児を燻りだすため火をつけたに違いない。

 ようよう二人も炎上する町に気がついた。揺ら揺らとマリアが力なくロバの首に顔を押しつけた。湿った息が洩れる。やるせない嗚咽が辺りに流れる。感覚の鈍いヨセフまでもが目を真っ赤に腫らし、言葉にならない叫びを上げた。

 耐え難かった。が、ぐずぐずしてはいられない。立ち上がる炎によって逆に視界がひらけている。見つかる危険性は増したのだ。


「ヨセフ、前を向け。急いでロバを走らせろ。今後、二度と後ろを振り返ってはならない。我らが生まれたばかりの子を二人、連れて逃げたのは周知の事実である。しかも異邦人に祝福されたことも知られている。追っ手が放たれる可能性は高い」

「分かった、そうする」

 ヨセフの返答と同時に、マリアが顔を上げた。

「アッバスどの、あれに……」指をさし、血の気が失せたマリアの視線はアッバスを飛び越えて草原に当てられていた。


 はっとして再度振り返れば、赤々と燃える炎を背景に黒ずんだ影が数騎迫っていた。

 濛々と巻き上げる土埃が炎に混じり、血煙に見えた。すでに、いく人もの幼子と親を情け容赦なく殺しているに違いない。殺気だった馬蹄が死を宣告する鐘の音にも聞こえた。

 怖れていたものが――やはり、やってきた。

 全身に震えが走る。アッバスは拳を握ると自らを強く鼓舞して、それを武者震いに変える。迫りくる馬影を睨みつけ、押し殺した声で二人に告げた。

「奴らは私が防ぐ。そなたらは闇にまぎれて逃げるがいい」

 胸から短剣を取り出し、再びヨセフに手渡した。

「ああ……」二人から、同時に声が洩れた。

 あくまでも万が一のためだ。土壇場で大切なものを守るためには、武力に差があっても降りかかる火の粉は払わなくてはならない。その先に待つのが死であってもだ。


 極限の状況になって、やっとアッバスの真意が伝わったようだった。ヨセフが唇を噛みしめ目を湿らせる。

「さあ、早く行け」

 見るのが辛い、ただ声だけを執拗に軋らせた。

「すまない」

 ヨセフが袖で鼻水を拭うと肯き、俯いたままロバの腹を蹴る。去り際に、マリアの潤んだ視線がぴたりとアッバスの背に張りついた。声となった。

「死なないでください。必ず生きのびると、約束を……」

 儚い望みだと理解しているのか、語尾が絶望に滲んでいた。振り向くとロバは岩地を滑るようにして降りていく。二人の姿は、すぐ闇に溶けて消えた。


              8

 

 これでいい。あとは、武運を天に祈るだけ――。

 感傷を断ちきり俊敏に動く。ロバの手綱をぐいと引くと、草原を別方向へ直走らせた。よもやの場合を考え、ヨセフとマリアの行方をくらますためである。無事に逃げ切ってほしい。

 だが、敵はアッバスの動向に気づいたのだろう。馬に鞭を入れ凄まじい速度で追いかけてきた。できるだけ離れようと思ったが、しょせんロバと馬、脚力が違いすぎた。二人と別れた地点から、いくらも離れることができなかった。


 側面から背後から殺気を帯びた蹄が轟く。あっという間に行く手を塞がれた。その数は六頭。まぎれもなくヘロデの騎馬軍団だった。哀愁は、たちまち血臭の入り混じる不快な空気に変容した。

 ロバに乗っている限り形勢の不利は否めない。すくっと飛び降り身構えた。角材を草地に突き立て、兵士を睨みつけた。覚悟はできている。


 見る限りそれぞれが精鋭で相応の武具を装備していた。だが予想していた通り、槍も盾も手に持っていなかった。命令が戦闘ではなく無抵抗の幼児を殺戮するだけだからであろう。

 したがってアッバスのことも殺戮を逃れた村民の一人として踏んでいるに違いない。ならば機を見て、まず馬に致命傷を与える。付け入る隙はそこだ。


 そんなアッバスの考えを露とも知らぬ兵士らは、勇ましく馬の足を踏み鳴らし、今にも斬りかからんとする形相で隊長らしき男の命令を待つ。

「動くな! ここに、夫婦連れが逃げ込んだと聞いた。知っているなら、答えろ!」

 おそらく分隊長だろう。正面の男が荒っぽく馬の手綱を操り大声で凄んできた。

「知らぬ。が、ここから先は一歩も進ませぬ」

 アッバスは低い声で言い返す。ここを乱闘の場にして、少しでも時間を稼ぎたかった。この地に朽ち果てるのも運命なら、どちらか一人、神の子が生き残ればいいことだった。

 恨むなら、私を恨め。と背に負う子に詫びた。死の臭いが一段と近づいてくるのを感じていたせいもある。


 と、一人の兵士が、とつぜん叫び声を上げた。

「分隊長。あ奴は、赤児を背負っています」

 目ざとい兵士の声が、さらに空気を緊迫させる。

「うぬ、きさまも、偽ユダヤ王の片割れを隠していたか。なら、叩っ斬れ、赤児もろとも息の根を止めろ!」

 分隊長が憤怒する。即座に命を受けた兵士らが、馬上から一斉に斬りかかってきた。


 ――そんな簡単に事を運ばせてたまるか。

 アッバスは鋭角に削った角材を前方に突き出した。

 マリアに別れを告げる前から命はすてていた。けれど無為にすてようとは、これっぽっちも思っていない。せめて一人や二人は地獄の道連れとして、訳も分からずに惨殺された子供らの前で懺悔させねば気がすまなかった。


 瞬時に、三方から襲いかかる六人の敵を見定めて、右端の兵士を標的とした。

 皆が右手に剣を持っている。それを無視して左の敵を狙えば、むざむざ剣の餌食になるだけだ。逆に右へ回り込めば馬が邪魔して剣の振りが鈍くなる。実践で培ってきた教訓だった。

 走り出すやいなや、馬の右側へ回った。手に力をこめると、馬の脇腹を目がけてずぶりと角材を突き刺した。痛さに馬が悲鳴を上げる。哀しげに嘶いた。前足を蹴り上げ暴れ出した。慌てて手綱を制御しようとする兵士を、かまわず振り落として走り去った。


             9


「今だ――」

 アッバスは落馬した兵士に飛躍して近づき、咽喉もとに馬の血糊の付いた角材を刺した。

「うぐ!」声にならぬ呻きが走る。

 もともとが無防備の場所、手応えは充分だった。ずぶずぶと勢いよく鋭利な角材がめり込み、肉奥深く食い込んだ。見る間に咽喉を押さえる兵士の指先から、どくどくと鮮血が溢れ出す。

 アッバスはそれを横目で流し、無雑作にすてられた剣を敏速に掴んだ。一瞬の怯みを見せた別の敵に、体勢を整える暇も与えず剣を振り抜いた。兵士の腕がそのまま宙を舞う。なおも兵士の首すじへ間髪入れず剣を突き刺した。


「きさま!」

 と、別方向から同時に斬りかかってくる憤怒の剣先を躱すが、躱しきれずに腕を浅く斬られた。

 アッバスは石化のごとく反転、さっと騎馬兵の裏へ廻り込んだ。剣を一閃させた。

 虚を突かれた兵士が血の虹を宙に浮かばせ落馬した。ぬかるんだ血の海でごろごろとのた打ちまわる。

「くそ、小賢しい奴め!」

 予測もしない事態だったのであろう。分隊長の手が慌ただしく動く。

 と、一人の兵士が馬から飛び降りた。太い腕、異常に盛り上がった筋肉、見るからに頑強な体躯をした毛むくじゃらの男だった。目を引きつらせ、有無を言わさず斬りかかってきた。


 しかし抑えきれぬ怒りは、一律に顔か傷口を狙う。アッバスは見越して体勢を低くかがめた。

 ぶん! たちまち鋭い切っ先が空気を切り裂きながら頭上を通過した。

 怯むことなく、狙いすませて敵の足をなぎ払った。剣は敵の腿の肉を切り裂き、骨に喰い込んで動かなくなった。それを無表情で蹴飛ばし強引に引き抜いた。血飛沫とともに兵士は立っていられず身体を闇に沈ませた。

 

 そのとき予期せぬことが起きた。

 不意に主を乗せぬ一頭の軍馬が近づき、背中の子を愛おしく舐め出したのだ。それも乗ってくれといわんばかりに。アッバスには子が馬を導いたとしか思えなかった。

 では、私に命をすてるなと――乗って逃げろと?

 馬と同時に剣を見た。刃がこぼれていた。


 決断は一瞬だった。

 じりじりと迫る騎兵の顔に向かい、渾身の力を振り絞って剣を振りまわすと投げつけた。矢つぎばやに馬の鞍に手をかけ、飛び乗ると南へ向かった。北に敵の本隊があり東はヨセフとマリアの逃げた方向だからだった。

「逃がすものか!」

 追う馬蹄は二騎。殺気だって剣を振り挟みかかる形で追走してきた。


 アッバスは背中の子が気になり、蛇行して馬を走らせる。しかし傷を負い、何一つ武器を持たぬ状況ではいつまでも躱すことは無理だと分かっていた。

「このままでは、斬り刻まれてしまう」

 とっさに判断すると、地形を頭へ巡らせた。

 草原を疾駆するのでは子の命を守ることは不可能だ。なら岩道に誘い込み、その先にある断崖を跳ぶしかない。生存の確率は低い。だが、むざむざ殺されるよりはどれだけましか。導いた答は究極の選択であった。

 しかし決めたからには行動に移さなければ意味がない。岩山へ手綱を向けた。


                10

 

 暗さが一段と増した。なだらかに波を打っていた崖がそそり立ってきた。道も急激に狭くなる。渓谷を挟む岩肌が、ほぼ垂直になった気までした。思いきって走れない。そのせいか殺気だって追尾してくる蹄が乱れた馬蹄に変わっていた。

 騎馬の蹄音が不気味に反響して噴き上がってくる。それはすぐに黒く沈む谷底へ溶けて消え、また噴き上げた。やがて道は完全になくなり断崖に進路を塞がれた。


 はっとして崖下を覗いた。獣道であろうか、目を凝らせば岩棚があり道らしき道も見えた。しかし――暗い。吸い込まれそうになる。さすがに怖く足が震えを起こした。ここへきて、やっと跳躍をためらうヨセフの気持ちが理解できた。

 だが敵は、すぐそこに迫ってきている。


 二人の兵士は、ここが行きどまりだと知ったのか、息を荒くさせながらも近づいてきた。歪ませた目だけを爛々と光らせている。

「手こずらせたが、どうやら、お前の命運もつきたようだ。で、どうする。背中の子を差しだして、命乞いをするか。それとも赤児もろとも谷底へ身を投げて、自害するか!」

 罵ると、退路を断って馬から飛び降りた。と同時に鞘に収めていた剣を抜いた。もう一人の兵士も続いて降り抜刀してきた。


「命運がつきたのはヘロデだ。見よ!」

 アッバスは高々と虚空へ指を向けた。すると、今のいままで赤く光っていた星が濁って消えた。天が帝王の死を告げたのである。

 分隊長が怒り狂った。

「きさま――妖術師か。もう勘弁ならぬ。その戯言を二度と叩けぬよう、ぶった斬ってくれる!」

 と、言い終わらないうちに斬りかかってくる。

 その瞬間。アッバスは意を決して飛んだ。いや、闇に落ちた。

「あっ――」

 分隊長の肝を潰した叫びが、山峡に大きくこだました。


                11

 

 数時間後、アッバスは一面が岩山だらけの原野を東へ向かって進んでいた。鹿が、谷へ降りる道。断崖から岩棚へ着地するまで生きた心地がしなかったが、思いのほか楽だった。すでに追っ手がこないのは充分に知っている。しかしゆったりとした足どりながら、依然として止まらずに進んだ。

 殺伐とした岩地の高台まで一気に登り、そこで、やっと馬の手綱を緩めた。右に死海が広がり眼前にオリーブ山が横たわっていた。白々と夜が明けはじめていた。

「我が家は、すぐそこだ……」

 高鳴っていた神経が一気に鎮まっていく。


 馬から降り、馬の背をさすって労うと力なく岩に腰かけた。衣から布を取り出して、血にまみれた子の顔を拭った。はたと自らの怪我にも気づき、その布で傷口を強くしばる。脱力感から、今ごろになってずきずきと痛さを知覚した。

 と、ターバンの中の子が和らかく微笑んだ。その瞬間、傷の痛みがふっと消えた。さらに浮遊する小さな光が、この場に、どんどん導かれて集まってくる。ベツレヘムで無為に惨殺された、幼い魂のようでもあった。

 無性に胸が熱くなる。澱んだ風景の中でここだけが清々しい。

「ああ、何という福音……」

 覗き込む顔から涙を滲ませた。

 空へ目を向ければ、壮大な物語を映したすべての星光が薄まっていく。ただ一つ、明星だけを残して。はじまりは、この星からだった。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ