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バラバ  作者: 鮎川りょう
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1章 奇跡

 1章 奇跡


 いまだかつて、何びとも目にしたことがない秘密を、お前に教えよう。それは、果てしなく広がる永遠の地だ。

 そこには天使でも見たことがなく、あまりに広大で、目に見えず、いかなる心の思念によっても理解されず、いかなる名前でも呼ばれたことのない、御国がある。

 

 あなたが誰で、どこから来たのか、私は知っています。

                 

                        『ユダの福音書』より


               1


 紀元前四年、十二月。エルサレム東南の地、ベタニア。

 悠久のいとなみを織り成す夜空に、淡く光る二つの星があった。その星へ向かい、全天に輝く無数の星々が続々と集結しようとしていた。また、下方から邪気を帯びた深淵が狙いを定めて刻々と迫り上げる。

 異様に空が低く感じられた。

 そのせいか、まばらに点在する森から徒ならぬ気配を察し、怯えた鳥たちがいっせいに飛び立った。一挙に大空が鳥に埋めつくされる。

 強風が吹き荒れているはずもない。なのに山々の頂から、大岩が転がんばかりの低い風切り音も発生する。その様は、まるで竜の咆哮のようでもあった。


 町の中心から離れた、小高い丘にたたずむ一軒の家。その石造りの壁を這うようにして密生するヒソップが風に妖しく揺れる。

 ――よもや、はじまるのか。

 アッバスは夜具をはねのけると飛び起きた。

 齢四十一才。痩身ながら肩幅は広く衣から覗く手足は剛健である。きりっと鼻すじが通り、固くむすばれた唇は屈強な面魂が滲んでいた。浅黒く日焼けした肌からも、見るからに戦いの中に身を投じてきた生き方が偲ばれる。とはいえ瞳は涼しく聖職者のごとく理知的であった。


 アッバスは燭台の灯かりをつけようともせず、手探りで窓辺に立って暗い空を眺めた。

 夜空を彩る神秘的なまでの星々と、かたや憎悪に満ち満ち爛々と広がる黒雲。まるで天と地がせめぎ合い対峙しているかのようだった。

 と明けの明星付近から見る見るうちに黒い雲が立ち上がる。しだいに不気味なほど竜の姿に変えていく。直後、その竜に似た雲は凄まじい雷光を放ち、強烈に地上を貫く。耳が痛くなるほどの残響が大地ばかりか天の隅々まで鳴り轟いた。

 稲妻の鏃が近くの糸杉の梢に落雷した。枝が粉々に飛び散り、幹が真っ二つに裂かれた。衝撃で家が大きく揺れる。アッバスは足を踏んばり手を柱に添えて堪えた。

 数分間、黒竜は咆哮を続け、明けきらぬ暁を壮烈に切り裂くと、やがて燃えさかる自身の炎に焦がされ忽然と迫り上がる深淵へ消えていく。怒りではなくやるせない嘆き。なぜかアッバスには、竜が天空と深淵に自らの迸る疑問を投げかけているかにも思えた。


 しかし明星と竜と言えば、かの大天使長の呼称。

 気が急かされた。もっと間近で見たかった。アッバスは上衣を羽織って扉を開けると、小走りに死海を一望できる岩の上に立った。闇が、二筋の光へ迫ろうとしていた。

 地の底に呼応した地上の悪が反発しているのか。でも、なぜ竜が泣く? 竜は闇の最たる首領であるはずだ。


            2

 

 やがて太陽は完全に昇り、普段通り死海に揺らめく姿を映しはじめる。

 ふっ、しょせん幻想でしかないのか。アッバスは、やるせなく頭を振って岩から降りた。

 と、どうしたことか門の上に、純白の鳩と真っ黒な烏が並んで止まっていた。視線はアッバスをきっと見すえている。

 瞬間、胸が勝手に震え出し身体を不安定に揺らした。岩に手をつき、何より倒れそうになるのを懸命に耐えた。黒い烏は悪の象徴であり純白の鳩は聖霊の象徴だったからである。


 ――錯覚、ではなかった?

 恐るおそる二羽の鳥へ近づいた。距離が二キュビットになった。とたんに鳥たちは、ばさっと髪に羽をかすめて別方向へ飛んでいく。

 悄然と見送ると、どこからやってきたのか足元に蛇が数百匹ほど集まっていた。アッバスにはそれが深淵から送り込まれた刺客のようにも思えた。


 なら、きっとどこかでガブリエルが監視している。その前に映し出された混沌とする空もミカエルが見つめていたはずだ。

 なぜか二人の大天使が地上を守り恩寵をたずさえているように感じられた。ガブリエルは、蛇はもとよりすべての力の支配者であり、ミカエルは混沌を慈悲深く監視する天使だからだ。いや、それだけではない。二人は光の守護天使なのである。


 となれば、さきほど竜に姿を変えた黒い雲。あれは、まさか夜が明けてからもなお輝きを残すという明けの明星であるべき象徴が濁ってしまわれたのか。

 見ればエルサレムの上空に耽々と黒い影が迫り、覆いだす。

「はじまりを知り、ついに西北から動きはじめたか」

 ふとアッバスの頭に、帝王ヘロデの顔が浮かんだ。


 父がイドマヤ人で母がフェニキア人のアラブ系ユダヤ人の王ヘロデ。魔に魅入られたように悪政を敷き暴君の名を欲しいままにした。残虐さは、各地で頻発する反乱分子の殺戮にとどまらず、数多くの肉親も殺害した。叔父をはじめとする妻と実の息子たちである。アッバスは一将士として、その恥ずべき行為に加担した。


 へつらう者は誰だろうと許し、地位を脅かす者はたとえ血の引いた一族であろうと容赦なく皆殺しの指示を出した。一方でローマに対し、地中海沿岸に皇帝カイサルの名を付けた町を造ったり、いくつもの都市に皇帝礼拝の神殿を建てたりと、恥ずかしげもなく媚びた恭順の姿勢を見せる。ユダヤ人の習慣を身に付けていたが、アラブ人。ユダヤの神、ヤハウェを崇めていない証だった。


 それはユダヤ人の心情を激しく逆撫でする行為だった。いつしか民衆の不満を反へロデ、反ローマへと固まらせていく。メシア出現の希望だけを胸に抱かせて。

 その矢先、ローマによる苛酷な重税の取立てが始まった。いよいよ民の間に、急速に高まるメシア待望論。ダビデの血すじに生まれ、ユダヤ人の王になると約束された、古の預言者の言葉が現実味を帯びてくる。


                 3


 徹底して民に恐怖を植え付け、残酷なまでの弾圧で築き上げてきた王国。まさに今絶頂をきわめていた。それを預言だからといって奪われたくもないのだろう。

 我が身を守るために、また殺戮に走るか。だとしたら悲しいことだ。とアッバスは嘆く。


 姑息で裕福なサドカイ派と、それに反目し合うファリサイ派の律法学者も然りだ。

 ファリサイ派とは、エルサレムにおよそ三千人いるといわれる知的貴族。従属する者を含めると現時点で有に二万五千人は超す最大派閥である。一方サドカイ派も、ソロモン時代の大祭司ザドクに名前を由来する保守階級貴族。祭司補佐職のレビ人を加えると、およそ二万人が神殿で従事していた。

 神を畏れよと口酸っぱく説き、民の支持を受けているわりには双方ともに神を畏れていない。律法の解釈でいがみ合っているだけなのである。彼らの畏れていることはただ一つ、金が減ることだけだ。今や律法は教えではなく、支配層にとって都合のよい法律と化した。法律家たちは、こぞって支配者のさもしい手先となり民をさらに苦しめていた。


 兵士として人間として、そんな彼らの裏の裏まで見続けてきたアッバスにとって、形式だけの律法などもはやどうでもよいことだった。

 そんなことよりも実践で、そのため権威ある者たちからは煙たがられていた。収穫期に採れた野菜や果物を貧しい者に与えるだけで、異端の目で見られ差別された。ましてや腹をすかせた街娼に焼いたパンを渡そうものなら大変である。


「好色家アッバス。いつからローマ人になった。しかも銀貨でなく、お前はパンで女を買うのか」と揶揄されるのだ。

 お前らこそ娼婦ではないのか。神の存在を忘れ、侵略する異端の男どもに汚い尻を突き上げ恥もなく姦通を重ねる。祭司よ、律法者たちよ、汚れた身体ばかりでなく醜い心を覗くがよい。きっと己の反吐で無残に衣を汚すだろう。

 もはや、この世界には神がいないのか。いれば悪が栄えるはずもない。善きことに励めといった神は、どこへ行ってしまわれた。このイスラエルの悲惨な光景を見て、何思う。神とは『いつも、そこにいるもの』ではないのか。

 神に対し疑念を感じ、アッバスは深い溜息をついた。


              4


 夕刻。祭壇の場と自らが決めた部屋の片隅で、独自に穀物を捧げ祈っているときだった。なぜか祈りに集中できない自分を見つけた。

 どうにも合点がいかなかったのだ。夜明け前の光景である。

 一同に集結する星と、黒雲。加えて竜の咆哮。メシア出現の前ぶれだと思っていた。しかし何も起こらなかった。起きてほしかった。支配と差別。それを眺め続けてきたアッバスの胸に憤りが充満しようとしていたからだ。

 このままでは神を冒涜するヘロデに従い、臍を噛み続けてきた意味がない。あれほど人としての生き方に疑問を感じ、兵士を辞めた意義もなくなる。

 悲痛な想いに、とうとう祈りを中断してしまった。


 そんなとき、突如祭壇に不思議な光が射した。

 はて、幻覚か? はたまた自身の願望が生んだ絵姿かと。最初は、そのていどの気持ちだった。しかし光は急速に大きくなり、やがて目映いばかりに輝き出した。尋常な光ではない、一気に心の平衡を奪いとられていく。

 そのうち目映い光は形を徐々に現わし、いつしか神々しい天使に姿を変えていく。


「ほんらいは善き人であるのに、迷える男アッバスよ。汝の叫びを確認した」

 静謐な声が頭の中に響く。アッバスは動こうにも返事すらできなかった。不覚にも呆然と見とれてしまったのである。例えていうなら、血が全身に逆流している感じとでも言えばいいのだろうか。興奮に言葉を忘れさせてしまった。

 天使はアッバスの動揺ぶりを見て、なお高貴な笑みを投げかけてくる。


 さらに見とれてしまう。いな逆流していた血が凍りついてしまった、と形容するほうが正解であろうか。あまりに美しすぎる天使の笑みは戦慄を伴っていた。

 ストレートに垂らした金髪から覗く目は鋭く、寸分の隙も見せず、脆さなど微塵も感じられなかったからだ。ましてや気高く、ほっそりした輪郭に散りばめられた鼻も口も、すべてが優雅だった。魅了され、このうえなく胸をしめつけた快感は全身に渦を捲きながら駆け巡る。天使とはこのように美しいものであるのかと、ひたすら圧倒させられた。況やヘルモン山の山頂に降り積もる雪のように、白い衣を身に纏う天使なのである。気圧されないほうがおかしかった。


 天使は一歩近づくたびに、羽根の隙間から金色の光の粒をきらめかせる。一粒一粒が、祝福された聖なる恩寵に満ち溢れている気がして、胸が、喩えようのない歓喜につつまれる。反面、頭の中はまるで竪琴から爪弾かれた旋律のごとく高音質の耳鳴りが渦巻いている。

「見るがよい」

 天使が頭上へ手をかかげる。すると薄暗い部屋が、とたん光に溢れ出した。扉が、屋根が、消失した。外壁がすべて取り払われて、大自然の中に室内だけが煌々と浮かび上がり同化した。


 おずおず見ると、天使の足もとから天上へ神々しい光の絨毯が敷きつめられていた。

 それだけではない。西の空一面、夕日で真っ赤だったはずなのに、時間が繰り上げられたかのように夜へ変わっているのだ。全身から一気に血の気が引いた。

 アッバスは天を仰ぎながら膝からくずれ落ちた。

 ああ――まさしく恩寵。

 目から熱い涙が溢れていた。頬を伝い、とめどなく床に落ちていく。


                5


 やはり明け方の光景は錯覚ではなかった。真のメシアが誕生する兆候だったのだ。しかもそれは一方で讃えられ、また一方で怯えにも似た抵抗が感じられた。その抵抗の生じる隙は今一切ない。

 なら眼前に現われた気高い天使は、守護たる大天使ミカエルか。胸の前で指を組んだまま見た。

 すると天使は、気品に満ちた笑みを見せアッバスを手招きした。

 この私に、一緒に来いと?

 戸惑いを覚えた。しかし天使は光を降りそそぎながら近づき、今度は、笑むこともなく無表情に指先で促してくる。


 指が触れた。

 瞬間、媚薬のような快感が襲い、一気に胸を溶かされた。それなのに片隅で心が背徳に凍りつく。

「参ろうか、神の下へ」

 天使から言葉が放たれる。美しい顔のわりには、頭の中を突き刺す言葉は想像もつかないぐらい通る声だった。圧倒され、言葉は胸を錯綜した。

 が次の瞬間、すっと無感覚状態に陥り、意識が肉体から離脱する。気づくと自身の肉体を置き去り、太陽が射し込む光よりも速く空間を移動していた。アッバスは姿を透明にした思念体として、名状し難い速さで天使とともに天上界へ向かった。光と闇の境界をいくつも超えて――。


 一つの光を超えるたび、思いに強い変化が生じた。

 まず気負いが消えた。見ごとなまで無心になっている。地上で暮らし、常に胸を掻き乱していたわだかまり、憤りが、嘘のように霧散していたのだ。姿ばかりでなく心までもが透明になった感じだった。

 天使が横目でアッバスを見る。ふっと笑み、さらに速度を増した。まるで、すべての根源へ向かっていくように魂が引きずられて加速する。肉体もないのに髪がなびき、衣がはためいているようにも錯覚させられた。

 アッバスは縋りつくように天使を見た。


 泰然と天使が言う。

「心を澄ませよ。汝が感じる闇は闇でなく空間、無限というものである。光もまた無限。いかなる不完全さも浄化し、真の愛、喜びに満ちている。光だけを見つめるのだ、そうすれば呼吸などたやすいであろう」

 言われるままに光を見つめた。すると、ほんとうに意識が光と混ざりあい、すぐさま調和されて穏やかになった。

 落ち着くと下方に青い星が見えた。潤いにたゆたい一際輝きに満ちている。

「これほどまで祝福された理想郷なのに、人間とは憐れな生きものよ――」

 天使の呟く声が聞こえた。

 その通りだ。あの青い星こそ母なる大地、我らの住まいなのであろう。まさに全天の星々が福音をたずさえ、我らが大地へ集結しようとしているのだった。続々と目の前を通過する。いつも地上から眺める六つの神秘的な星までもが集まり、距離を保ちながら一心に光を降り注いでいた。


               6


 やがて緑一面の山々と、荘厳な樹木に囲まれた湖の畔へ天使と舞い降りた。そこに全身を金色の衣で覆い、大岩の上で瞑想する神がいた。

 眩しすぎてよく見ることができないが、金色の光は炎であり稲妻であり旋風なのだろう。なのに穏やかな意識がそれらを柔らかく見せるのか、緩和され、何ともいえぬ暖かさに包まれていた。


「ふ、霊であったのが幸いだ。もっとも人間だけでは来れぬが、肉の目で直視したら二度と光を見ることもできなくなったであろう」

 天使が忠告した。

 だが書を読み、知っていた。かつてモーゼが初めて神を見たときのことを。

 神は姿を現わす前に、とつぜんモーゼを持ち上げ、凝視して目が潰れぬよう岩の裂け目に隠したのだ。なおかつ手で視線を遮断した。

 でも天使の言う「霊、肉の目」が、事実と教義に違いがありすぎて大きな矛盾も感じる。人間の肉体と魂は一体と、ずっと教えられてきたからだった。


 この、目の当たりにしている現実を否定するわけではないが、夢なのかもと疑った。生きている間に、肉体と魂が分離するなどと考えても見なかったからだ。

 肉体が朽ち果て死ぬと、そこで初めて魂が旅立つ。人間であった頃の罪に合わせて地獄なり煉獄なりへ行き、人類最終審判のその日まで永遠に罪を贖うのだ。つまり清く正しく生きた者だけが天国へいける。


「ふ、その答は違う。神は人間の魂が清くなるまで何度も試練を与える。すなわち人間とは再生の生きものなのである。それだけではない。そもそも最初の人間を創り、魂を神が分け与えたが、しょせん人形でしかなかった。真実を知らしめるために蛇を使って息を吹きかけ、魂を芽吹かせたのはこの私なのだ」

「なんと。では、あなたは?」

「そのうち分かるであろう。そなたを連れてきた意味も――」

 天使は意味深げに言葉を沈めた。

 

「天上の世界へ、よくぞ参った」

 低く澄んだ声が、静寂な水面に反響する。たちどころに水面は波立ち、響きによって生じた摩擦がばちばちと火花を起こした。

 それは稲妻となり雷鳴となって轟き、高々と水柱を噴き上げる。空気が触発されて至る所で炸裂していた。

 実体のない意識とはいえ神秘を超越した事象。慄然と目を瞑り両手で耳を塞いだ。


「アッバスよ、むだだ。事象はすべて、そなたが映し出した物質界の妄想。神の声は、ない耳をいくら塞いでも魂に伝わる」

 一喝されて面映く薄目を開けると、天使は素っ気なく手をかざして念じた。たちまち、それらの現象はすべて沈黙した。


 神が天使を見つめ、天使が神を見つめ返し、二体の間に激しく、かつ静かな視線が交錯していた。

 まったく殺気を感じさせぬ巨大な象と、闘気を内に秘め、表に出さぬまま激しく対峙している獅子のようでもあった。びんびんと重苦しい空気が意識化した皮膚に突き刺さる。

 なぜ、対峙する?

 そんなアッバスの心情を察してか、まず神は、アッバスを連れてきた天使にいたわりの言葉を投げかけた。


                 7


「さて、ルシフェルよ。今夜は、天使にとっても人間にとっても大事な日。汝は、汝の神の元に戻るがよい。これで、わたしへの使命は果たした。あとは自分の判断で決めるのだ。服従しようが、反逆しようが、好きにすればよい」

 神は口もとに、予見に満ちた笑みを浮かべた。すべてを知ったうえで天使の返事を待っているようだった。

 だがアッバスの胸は高鳴っている。想像で垣間見える経緯に震えていた。天使はミカエルではなく、やはりルシフェルだったのか、と。


 ルシフェルといえば、ミカエルの双子の兄で主に傅く大天使長。「光を掲げる者」なる称号を持つ、神から最も愛される最高位の天使。気品も美しさも兼ね備える神の賜物なのだ。しかし預言者イザヤは「いかにして、天より堕ちしや」と、堕天使であるがごとくに評している。

 それに空耳とも思える最大の疑問。汝の神とは、どういう意味だ? 神は無限においても有言においても唯一つの存在。軽々しく他の神を認めるはずがない。

 疑問を魅惑的な声が遮った。


「何を仰る。私は、あなた同様に孤立させられ、翼をもがれたも同然の身。今さら服従も反逆もない。それに今宵ベツレヘムに人として生まれる御子とは、かつて存分に戦い合った仲――約束もある」

「ほほう、約束とな」

「愚かな! すべて知っているというのに、わざとらしく嘯かないほうがよかろう。私は突きつめれば、あなたと同じで無限の中の意識。導かれはしたが、唯一、炎でなく必然から生じた天使なのだ。光を運ぶばかりか人の運命を支配することができ、御子の兄にもあたる。一方の神よ、今まで擁護してくれたことは感謝する。けれど、もはや限界だ。心を凍りつかせてまで御子との約束を守ってきたが、時機がきた。私は場所を変え、再度、地上で戦うことを宣言する」

 ルシフェルは敢然と言い放つ。

「勘違いも甚だしいぞ、ルシフェル。どれだけ能力を秘めていようと、汝ごときの策略、光の神が知らぬと思ったのか。わたしと違い愛ゆえに怒ることはない。しかし沈黙という、このわたしにも及ばない厳罰を処す。せいぜい心してかかるがよいであろう」


 神は、ある意味慈愛のこもった言葉でルシフェルを諭すと、大岩の上で瞑想をはじめた。

 ルシフェルのは揺れる心を隠し、意外にも脈動しているようにも見えた。それだけ滾るものが満ち満ちているのだろう。はっきりと見てとれた。

 ならばと、アッバスは頭を整理する。

 預言者たちは言った。かつて天上において、神と天使の間で大きな戦いがあったと。イザヤ書に限らず数多くの書には、反逆の天使を撃退するミカエル、ガブリエル、ラファエルなどの勇姿が克明に記されていた。

 またルシフェルのことを神に匹敵する力を備えているとは書いてあるが、同じ存在とはどこにも記されていない。ルシフェルが地に堕ちたサタンと断定してあった。だがどこか、この世の哀しみのすべてを一人で背負っているようにしか思えない。気高さに一点の濁りも感じられないのだ。


「これほどまでいっても、まだ理解してもらえぬようだ。戦いにさえ敗れなかったら、私はあなたらより人間を正しく導くことができたのを知らぬか。対立は、あなたの失敗を身を持って弁護し、立証しようとしたにほかならない!」

 ルシフェルが神を睨みつけ、思いを星に馳せて下方を見下ろした。すでに星たちは一堂に集結していた。「御子よ、私は約束を守った。だが、私はベツレヘムへは光を運ばない。自由にさせてもらう」

 唇をしっかと結び、捉え難い瞳を夜空に向けた。そして熾烈な憤怒も見せることなく、いきなり背を向け飛び去った。


                 8

 

 思いは複雑だ。天上界に対し、描いていた理想が脆くも崩れ去ったからだ。

「アッバスよ。おおよその経緯は、わたしとルシフェルとのやり取りで理解できたと思う。残念なことだが、その通りなのである。ルシフェルは我が子の計らいによって、堕ちず、心だけを今なお堕天させている。が、いずれ訪れる最終審判に向けて最後には初心に帰るだろう。誰よりも人を愛し、人の行く末を案じているからである」

 瞑想していた神が、ふっと重厚な眼差しを向けてくる。アッバスは胸を熱くさせて見つめ返した。

 この神が、反逆天使ルシフェルと同様に、孤立させられた神なのか。ならば悪神? では善きことを願う私と、まるっきり理念は違う。


「聞くのだ」

 と、神が言葉を強めた。「少し、わたしと悪魔を混同しているように思える。悪魔とは殺伐とした深淵にいて心を澱ませる存在。姿は人間ではとらえることができない。そのため地上にたびたび訪れては人間を惑わしている。よってくすみ醜く変貌させている。わたしは人間を見守り、悔い改めるよう激しい試練を与えるだけ。誑かすことも誘惑もしない」

 神がルシフェルが飛び去った方向へ向けた。

 ああ、悪神などではない――熱情の神だ。すべてを悟り、アッバスは息を呑んで次の言葉を待った。

 数秒後、神は視線を戻すと、また話し出す。


「先ほどの天使ルシフェルは、数千年前、わたしと人間に対する扱い方で対立し、今宵、人として生まれる我が子と戦った。敗れ、率いた天使たちが皆暗き深淵に堕ちたのに、天上に一人残り屈辱に耐えてきた。そこには我が子との深い約束があったのだ。しかしルシフェルは今日限りで天上を離れ、我が子とともに地上に生きる。それはわたしが描いた予想図通りである」

 頭の中が一瞬、真っ白になった。それ以上まともに言葉がでなかった。神の描いた絵もそうだが、ルシフェルの屈辱と孤独に心が揺さぶられた。堕ちることと、残ることの意味の差は? そこには計り知れないほどの苦悩があったはずだ。


 神が言葉を続ける。

「そなたを呼んだ理由を説明する前に、七つの大罪について話そう。光の神が説く、七つの美徳である希望とは、堕落した人間にとっては怠惰であり貞節は嫉妬となる。また知恵は暴食に取って代わり、愛は色欲に変わってしまった。見るがよい。地上の実力者に、勇気と忠実と慎重さを保持している人間がどれほどいるであろうか。みな強欲者に変貌してしまった」

 神は手をかざして、湖面にエルサレムの町を浮かべた。

 人は密告者に溢れ、権力による無為な殺戮が行われている。皆わずかばかりの銀貨に心を売っていた。聖地エルサレムは慢性的にはびこる不正や暴力、欺瞞に満ちていた。見て見ぬ振りをする祭司たちは、自らの不誠実さを隠さんとばかりに肥えた動物と穀物を神殿に捧げる。


 が、神は顔を背けて閉口させた。

「わたしは最終的に、また人類に鉄槌を与える。だが躊躇いもある。それゆえ今宵ベツへレムで誕生する二人の我が子。そのうちの一人をアッバス、そなたにイエスと名づけて育てさせることに決めた」

「私が、熱情の神の子を――育てる?」

「表向きの理由は、我が子が地上で、自ら子羊となって贖罪を望んだからである」

「贖罪? だとして神の子が人間に生まれるなど、とても信じ難いことです」

 一つの疑問が解けると、さらなる新しい疑問が次々と生まれ目の前を塞いだ。


 だが神は苦笑もせず淡々と説明をしてくる。

「真理は一にして、多なるものである」

 と前置きしてから、まず絵を消した。そして向き直るといきなり近づいてきた。「子が贖罪を終えれば、いずれわたしの変化に気づくであろう。また、子は泣きながら戦う。だからこそ善き行いをするのに報われぬ、そなたに鉄槌の意志を持った子を託そうと決心したのだ」

「でも、どうしてそれが伝わったのでしょうか?」

「真剣な祈りは、被造された光よりも速く、わたしに届く」

「御国へ、私の願いが?」

 胸の底から感情が溢れ出る。

「一つだけ真理を明かせておこう。わたしは、さらなる存在の腕に抱かれ内包されているだけである。よって唯一神の熱情、という半身でしかすぎないのだ」

「まだ、もう一つの天があるといわれるのか」

 心地よく思考のうねりの中を浮遊していたアッバスに、解き明かせそうもない霊妙な言葉がとどけられた。その瞬間、衝撃で目の前が暗くなった。

 そして一つの光が遠ざかると、横にもう一つの光が燦然と輝き、言葉通り、遥か無限の光の中に二つが内包されているのが見えた。

 でも神の子が舞い降りる、真の理由とは何だったのだ。アッバスは大事なものを聞き逃したような気がした。


                  9


 ――夢、だったのか?

 気づくと祭壇に穀物を捧げている途中だった。アッバスは落胆し、不可解な気持ちを引きずったまま立ち上がる。そうして天窓を覗いた。

 空の一点が異様に明るかった。無数の星が集まっていた。目の前に馬小屋の映像も現われる。両親に祝福されて抱かれる赤ん坊と、無雑作に飼い葉桶に寝かされる二人の赤ん坊が映し出された。

「いや、夢などではない」

 そう感じると飼い葉桶に寝かされた赤ん坊が無性に愛しくなった。

「もしやこの子が、神から託された子なのか」


 幻想的な記憶に痛みが生じる。居ても立ってもいられず、ロバに飛び乗り無我夢中で家を出た。ひたすら試された決断を迷いながら、ベツレヘムに向かって急いだ。草原の道へ迂回せず真っすぐ丘を駆け抜けた。全身を喜びに痺れさせたまま何も考えることもできず。

 陽は完全に落ち、西の空の一部だけがわずか茜色にまどろんでいた。人っ子一人いない。鳥さえもすでに巣の中で羽を休めているのだろう。無性に隔絶間が忍びより、ふっと現実へ引き戻される。

 ここまでやってくると、家を飛び出したときの興奮は多少冷めつつあった。自分の存在など悠久の大自然から見れば芥子粒にすぎないからである。それでも間違ってはいない、神は見ていてくれたのだ。と何度も何度も心の中で繰り返し、自からを叱咤した。


 ベツレヘムの町を見渡せる丘の中腹までやってきた。辺りはすっかり夜になっていた。

 かすかに見える前方の灯りを見つけてアッバスはロバを近づけた。羊飼いが三人、焚き火を囲んでいた。火の上には鍋がかかっており、閉じられた蓋からは白い湯気がわずかに洩れている。赤々と燃えた火は、冷え切ったアッバスの心まで温めてくれるような気がした。

「夜は寒い。さあ、こちらへきて暖まりなさい。よかったら、スープでもどうじゃ」

 アッバスを目にすると老羊飼いが声をかけてきた。

 隣にいた背の高い若者が反応し、蓋を開けてスープをよそってくれた。もう一人の、どちらかというと小太りの若者は細い枝のようなものを持って煙に咽ながら炎の調整をしている。


 羊肉を煮込んだスープだった。美味そうな臭いに胃を刺激された。夕食も食べずに慌てて飛びだしてきたのを思い出す。腹がぎゅっと鳴った。

 ロバから降り、礼を言ってから器を受け取り口にした。

 羊飼いならではの食事なのだろう。菜食中心のアッバスにとって、日頃はめったに口にすることのない豪華な料理であった。

「ありがとう」

 口に流し込むたびに、いくどとなく礼を言った。

 思っても見なかった歓待に、身体ばかりか心も温められた。


                10


「ところで、慌てて、どこへ行きなさる」

 スープを流し込みながら、老羊飼いが尋ねてきた。

「天に導かれて、ベツレヘムまで――」

 大仰な言葉を淡々と答えたものの、思い出すとまた息が荒くなる。随所で高まった興奮が収まらずに甦ってきた。

「ほう……」

 老羊飼いと背の高い羊飼いが目を上げた。一人、煙に咽ぶ羊飼いが突然腹を抱えて笑い出す。

「天? わっはは、何を言い出すかと思えば妄言を。おもしろい、じつにおもしろいことを言われる人だ」

「いや待て、笑うな。俺にも感じるんだ。今夜、何かが起きるとな」

 スープをよそってくれた若者が、仲間の嘲笑を真剣に諌めた。小太りの羊飼いは若者の剣幕に驚いて押し黙る。


「そういえば、天が祝福に満ちているようじゃ」

 何気なくつぶやく老羊飼いの言葉に皆が冬空を見上げた。澄み渡った空に、見たこともない幾万の星がきらめき瞬いていた。

 でも心境は複雑だ。天が二つあって神が二人もいるなど、誰が信じよう。小太りの羊飼いに笑われたよう、狂人扱いにされてとうぜんなのだ。ましてや逆鱗のたびに世界を水没させ、天から炎を降らせる、熱情の神の子が生まれるなどと口が裂けても言えるはずがない。


「あなたの名は、何と申される?」

 老羊飼いの探りかけるような問いかけに、熱くなった皆の眼差しがアッバスに向けられた。アッバスは気恥ずかしさに思わず視線を逸らして、ベツレヘムの町を見た。

 ぽつりぽつりと寂しく明かりが灯るベツレヘムの町は、夏の夜にヨルダン川に集まる蛍のように幻想的だった。どこか夢物語を見ている気分にさせられた。真実に直面させられたアッバスでさえ現実と架空の区別が混同してしまう。

 だが徐々に星が一点に向けて、白鳥の形に彩を見せはじめていた。大天使だ。でもこの感じはルシフェルではない、おそらくガブリエルなのであろう。思いを沈痛に断ち切り、右手を上げて星を指さしながら答えた。


「ベタニアに住む、アッバス・バラバです」

「おお――」

 二人の若者が顔を見合わせた。とたん目に、憧れと怯えの入り交じる狼狽を浮かばせた。

「ほう。あなたが、善き人アッバス」

 一拍置いて、老羊飼いが言葉に好意を覗かせる。

「善き人? 違う、そんなのではなく怖ろしい人だ。敵も味方も、民までも震撼させた兵士。ついぞ名前を聞かなくなったので、戦死したとばかり思っていたら……ここにいた」

 小太りの若者が棒きれを持ったまま立ち上がり、後ずさった。

「そうではない。彼こそが、ユダヤを守った英雄だ」

 背の高い羊飼いが、すくっと立つと小太りの羊飼いを手で突き飛ばした。

 小太りの羊飼いはよろけながらも、アッバスが武器を持たぬのを知って言い返す。

「なら、お前はヘロデを称賛するか?」

 その一言に皆が押し黙り、やるせない沈黙が生まれた。


 アッバスは、おもむろに食べ終えたスープの器を置くと、笑みをたずさえて答えた。

「今は真っすぐに神を信じ、山羊の乳と鶏の卵で生計を立てる貧しい男です」

 イドマヤ人と、少数のユダヤ人、サマリア人などで編成されるヘロデの兵士たち。その中にあって、アッバスは数々の武勲を挙げたユダヤ随一の猛将だった。その凄まじさは壮烈で、確かに味方までにも怖れられていた。だがそれは十年も前のことである。

「その通り。わしの知るアッバスどのは、戦う人でもあるが守る人でもあった」

 姿勢が謙虚に見えたのだろうか、老羊飼いが感心しながらアッバスの指を差した方向を見た。

 まさに全天に輝く星がベツレヘムに集結しようとしていた。六つの神秘なる星と月までもが現れ、ほぼ一直線に輝いている。真上に位置する魚座の中で、ふと水星と土星が接近した。

「大天使ガブリエルとミカエルが、それぞれの恩寵をたずさえて、降りてきています」

 アッバスの言葉に老羊飼いは仰天し、そのうち大地に轟かんばかりの喜びの声を上げた。

「おお、まさしく主の天使たち! とすれば今宵こそ我らが待ち望んでいた奇跡が起こる。さあ、子羊を一頭捜し出し、すぐに木の門を閉めるのだ。我らも参ろう」

 老羊飼いは火を足で踏み消し、若者に指示を告げると勇んで立ち去った。

 完全に決心をした。イスラエルには導く人が必要なのだ。羊飼いたちの思いを踏みにじるわけにはいかない。何より私は、私の信じた子を育てよう。たとえ哀しい運命であろうと、託された子は神の意思なのだから。


                11

 

 ……ヨセフ、生まれる。

 風に乗り、どこからともなくそんな言葉がとどいたような気がした。

 優しき羊飼いらに思いがけず心を温められ、後ろ姿を茫然と見送っていたアッバスは、はっと我に返った。

 急がなくては――。

 羊飼いの背に無言で別れを告げて、星の示せる方向へ急いだ。

 するとベツレヘムへ向かうアッバスの頭上で、とつぜん天の川が裂けて、星々が燃え上がり純白の火柱を立てはじめた。天と地が光で繋がり互いに祝福し合って呼応している。夜空が雄々しく金色に弾け、類のない輝きに満ち出した。

 はや、生まれてしまったか。急いでロバの腹を足で蹴った。


 村へ到着すると宿屋へ直行した。

 ベツレヘムの町は全体が一つの丘になっていて、丘の傾斜を利用した小じんまりとした建物が多かった。しかし丘の中腹から上を占拠する宿屋だけは、かつてダビデが住んでいたという屋敷のせいか大きな庭があり古いながら威容が感じられた。

 正面から左、急坂の斜面に計測したかのように植えられた灌木の下には果てしない草原が広がっており、中庭の奥に洞窟風の馬小屋も見えた。

 宿屋も上から見ると完全に洞窟だが、正面から見れば、門も建物も石造りの二階建てとなっていて、むしろ石工が丹念に積み重ねた基礎と、日干し煉瓦を漆喰で塗った壁は高級ともいえる住居だった。


「すまない。少し伺いたいのだが、今夜ここに、一組の夫婦が泊まってはいないだろうか?」

 アッバスは、鼻の頭を赤くさせた小太りの主人に聞いた。

「いま九組の客が泊まっているけど、みんな夫婦だぜ」

 主人はアッバスを一瞥すると、ひどくぶっきらぼうに答えた。

「おお、それでは、その中に赤ん坊を生んだばかりの婦人がいるはず。ダビデの末裔なのです。部屋はどちらでしょうか」

「ふん、ダビデは伝説の王だ。だからその名前を出せば、みんな無理が利くと思っている。わしは聞き飽きて、耳にたこができてしまった。そうそう本物はいない。けど身重なので仕方なく馬小屋に案内させた客がいる。ずうずうしいことに、そいつらもダビデの末裔だと名乗っていたっけ」

 赤鼻の主人が平衡して裏手を指さした。


 もっと詳しく聞こうとしたら、背を向け、それ以上何も答えようとしなかった。

 きっと馬小屋を格安で提供し、大した利益にもならぬ客がうっとうしいに違いない。にもまして産後の処置で汚されるのが嫌なのだろう。ふと覗いた他人の心がもどかしかった。

 一つの生命が誕生したというのに祝福の気持ちがないのか。ましてや神の子が同時に二人も生まれたのだぞ。そんなときに好意を惜しんでどうする。アッバスは欲にまみれた人間の本質を見せられたような気がして、心を暗くさせた。

 それでも気をとり直すと、予見で浮かんだ馬小屋に向かった。いったん外へ出て石段を降り、中庭を抜けた。


               12

 

 木柵の前に立つと、板の隙間から光が洪水となって石畳まで洩れていた。立ちつくすアッバスの足先までにも光りがとどき、じんと感慨に胸を熱くさせられる。

「ああ、大天使ルシフェルと、同じ光……」

 目頭を熱くさせながらも、思い切って中へ入り込んだ。


 馬小屋には一組の夫婦と、髪の毛を女性のように長く垂らした二人の天使がいた。一人は緋色の刺繍を施した赤い衣を纏い、顔は薔薇の花のように美しかった。想像するにガブリエルなのであろう。

 夫婦を挟んだ反対側には黄金の羽と、やはり黄金の衣を身に着け、目にも鮮やかな朱色のマントを羽織う眉涼しげな天使がいる。凛とした姿勢、まさしく守護天使ミカエルだ。

 気がつくと二人の美しさに凍りつき、思わず後ずさりをしていた。それでも会釈をすると、どんな暴言にも耐える覚悟で近づいた。


「善き人――アッバスですね。待っていました」

 ガブリエルから、荘厳であったが心地よい声が響いた。

「なぜ、私の名をご存じなのか」

 相手が誰であるか知りながらも、つい聞いた。

 ガブリエルが苦笑する。ミカエルは黙している。


「それよりも、そなたに訊きたいことがあります。その飼い葉桶に寝かされているヨセフとマリアの子、謂れを知っているでしょうか」

 ガブリエルの問いに躊躇うことなく答えた。

「むろん承知しています。育てるためにきたのですから」

 すると、それまでじっと様子をうかがっていたヨセフが、いきなり真っ赤な顔をさせて熱り立った。

「やはり、お前はルシフェルの手先か。帰れ、出ていけ! 私は一介の大工にすぎない。だが先祖をたどれば、私も妻もダビデの末裔だ。しかも神より祝福されたイスラエルの王となるべく子を授かったのだ。なのになぜ、お前らは、そうまで横槍を入れて惑わせる」


 がっしりとした体躯のヨセフは、そこまで一気呵成に叫ぶと、赤ん坊の頭を愛おしそうに撫でた。激情型だが同時に優しさも備えているのだろう。見てとれた。

 そのヨセフの肩をマリアがいたわりを込めてそっとさする。すでに皆、一方の子が熱情の神の意思であることを知っているのだ。見るのが辛かった。

 福音と試練が一緒にやってきたのと同じだろう。喜んでいいのか悲しむべきなのか、ヨセフの気持ちが痛いほど理解できた。だがいちばん辛いのは、飼い葉桶に眠らされ放置されている子だと思った。不憫だとさえ感じさせられた。


 アッバスは答あぐね、ガブリエルとミカエルの表情を確かめた。

 ガブリエルは樽の上に腰を降ろして柔和に指を組み、その指の上に顎を乗せている。瞳は穏やかだった。逆にミカエルは厳として腕を組み、背筋を伸ばしてアッバスを見すえていた。視線は思慮深く聡明だが桁違いに強烈だ。

 張りつめた沈黙が続き、手のひらが湿っていく。数秒後、やっとミカエルが話し出す。


「いいだろう、連れていくがよい。ただし、どちらの子を連れていくのだ。もちろん一方の子のはず。けれども、汝にその区別がつくのか」

 ミカエルから切り出された言葉に詰まった。区別などと、そんなこと分るはずがないのだ。しかしどちらかは、ここへ来る前から決まっている。

 アッバスは飼い葉桶に向かって歩き出そうとした。だがミカエルが話を続けたため、立ちどまらざるを得なかった。それが、どこか歩みをとめさせるための意図的な仕草にも思えた。


「二人とも間違いなく神の子だ。しかも肉を持つ人として生まれた。この先、善に触れれば善が光り、悪に触れればより濁るだろう。じつに神の意思は、はっきりとしていながら曖昧だ。汝に触れ、人間社会に育てられることによって変化する神の子を見たいのかもしれない。場合によっては、神の子といえど神に見すてられることも有り得る。それについては何も言えぬ。汝の創り出す運命に任せると、神に念を押されているからだ」

 ミカエルの放つ言葉の重みに、一瞬ぞくっと怯んだ。


               13


 人間に生まれる神の子を、我が手で育てる。その重さに、今さらながら責任を感じたせいだ。しかしミカエルの問いかけに反発する気持もなくはない。

 かといって反論できず、押し黙っていると、ガブリエルが何とも奇妙な謎を投げかけてきた。

「まず、始まりを司るものは水でした。次に情け深い死を司る子羊と、成就の光が現われます。しかし水は光と混じり合うことなく枯れ、子羊は自ら死を選ぶのです。そして復活を司る光は――道を迷うでしょう」

 ガブリエルは意味深な言葉を放つと、アッバスを凝視した。

 それが何を意味するのか理解できなかったが、迷うことなく飼い葉桶に向かった。


「ほう、兄のほうを?」

 ミカエルとガブリエルの、驚嘆する声が背後で聞こえた。しかし黙殺した。

 静かに状況を見守っていたマリアが、胸に抱いていた赤ん坊をヨセフに抱かせた。慌てて歩き出すと、飼い葉桶に寝かすもう一人の赤ん坊に頬ずりをした。そのまま胸に抱き上げヨセフと並ぶ。

 なぜか今一度、どちらかを選ばせようとする想いが伝わってくる。二人とも腹を痛めた我が子、できるのなら自分の手で育てたいのであろう。気持ちは分る。

 が、それだけではない。母親の目に悲壮な覚悟を感じた。肉の目ではない。聖霊を湧現した目だ。けれども躊躇わずにマリアの前へ立った。


「あなたに抱かれる、赤ん坊を育てさせてほしい」

 と、先ほどまで飼い葉桶に寝かされていた子を願った。

「闇は光を映えさせ、その光は必ず闇を照らします。闇は光に……光は闇にと。お願いします。我が子の一人を、あなたに託します。立派に育ててください」

 マリアが涙を潤ませた瞳で見つめ、そっと手渡した。

 瞬間、赤ん坊が光につつまれた。

 アッバスは戸惑いながら子を両手に抱きかかえた。すると赤ん坊が、歓迎するかに柔らかく微笑した。



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