贄の娘
緑色というのは、人を和ませる色と聞いたことがある。
一面に広がる緑は、確かに普通なら癒されていただろう。キラキラと光る木漏れ日に笑みを浮かべることもできたかもしれない。
いつもなら、確かにそうだろう。一人、誰もない森に一人置いてけぼりにでもされなければ。
「…ここは、どこ?」
不安げに呟かれた言葉は虚しくも森に反響した。
振り返っても、特に変わったことはしていなかったはずだ。朝起きて、いつもどうり親の手伝いをしてささやかながらに朝食を食べる。食べ終わったらまた親の手伝いをして時間を過ごす。一日が終われば布団に潜って明日に備える。18年間、そうして暮らしてきた。…なのに。
起きた時には唖然とした。いつもの風景とはまるで違う風景が視界に広がり、混乱を強めるばかり。
辺りを見回せば、不自然に転がった担架のようなものが目についた。
そして分かってしまう。自分は生贄に選ばれたのだ、と。
寝ている間にこの森に運ばれたのだろう。その事実だけが少女の手の中にあった。
少女の住む村は巨大な森と隣接していて、昔から肉食動物などの被害が著しく多く、それ故に犠牲者も多かった。ある人は熊に引き裂かれ、食い散らかされていた。ある幼い少女は狼に頭だけ持っていかれたと聞く。そんな状況に、村人は耐えることが出来なかった。古くから存在したこの村には、言い伝えも多く存在し、残っている。ある日その村の村長は決断を村人に言い渡した。
村と隣接した森には、昔から狼の形をとった神に近い妖が住んでいるらしい。その妖に娘(贄)を差し出せば、被害が抑えられる可能性があると…
反感は小さくなかった。本当かもわからない言い伝えに、無駄に民を犠牲にはできないと。
しかし村長はこうも言った。
―――――――なら他に、なにができる。何もしなければ、被害は増える一方だ。
誰も、異を唱えることはできなかった。村長のいった言葉は、村人全員に共通した思いだったから。
幸いにも、生贄を捧げることで被害は抑えられた。
村人は喜びながらも、悲しんだ。自分たちの住む村の運命を。捧げられた娘たちの、散ったであろう命を…
立ち上がることもできずに、ただ茫然と座り込んでいた。
生贄の娘は常に無作為だ。いつ自分が選ばれてもおかしくない。そうは思うも、受け入れがたい現実が、少女の目の前に叩き付けられた。
いつ、獣が自分の匂いを嗅ぎつけ、喉を引き裂きに来るかわからない。でもそれなら、逃げても同じではないか、とも思う。どうせ嗅ぎ付けてくるのだから、逃げても逃げなくても変わりはない。
そう覚悟を決めた時だった。ガサリと草をかき分ける音がする。反射的に肩が跳ね上がり、やはり怖くなるのだと自分自身に苦笑する。どれだけ腹を括っても、人間の醜い性なのか、死ぬ恐怖は払拭できないらしい。
ガサガサとこちらへ来るであろう、獣に諦めにも似た感情が胸に燻った。
死への恐怖はあれど、足掻こうとはしない。無駄だと知っているから。言わばそれは、一種の刷り込みのようなもの。
『逃げることを、忘れたのか、娘』
突如頭に響いた声にビクリと肩を震わせた。
顔を上げるとそこには…狼が、いた。
普通よりも大きい体に美しい銀色の毛並、凪いだ湖のような青い瞳。
この状況を忘れて見入るに相応しいものだった。
『……聞いているのか、娘』
「あ……」
咄嗟に辺りを見回すが、当たり前に誰もいない。この狼は自分に話しかけている。狼が人に話しかけるなど前代未聞だが、頭に直接響く声は決して幻聴ではない。
「意味がないの」
ぽつりとつぶやかれた言葉に、狼は首をかしげる仕草で先を促す。
「私にとって、私たち村人にとって、獣の餌食になることには逆らいようがなかったの。どれだけ抵抗しても、どれだけ抗っても結局殺されてしまうなら…何もしないほうが、いいわ。怖いことに変わりはない。できれば死にたくないって思う。でも…この状況で、どうやってそれを唱えろというの?…普通の獣に、言葉は通じないわ。あなたは別みたいだけれど」
少女が言葉を重ねる間にも、狼は少女の傍へと近づいていく。狼の顔は少女の目と鼻の先にある。
最期だと思い、強く目を瞑った。しかし、予想していた痛みや衝撃は襲ってこない。代わりに、ざらりとした感覚が頬を伝った。
「…!!」
違った感触に驚き目を開けると、すぐ近くに狼の顔がある。悲鳴が声にならずに喉に響く。
しかし、狼は少女の目を見つめるばかりで何もしてこない。
ふと、先程のざらりとした感覚を反芻した。あの感触は間違いなく舌だろう。その感触が頬にしたということは…自分は狼に舐められたということ。捕食者が獲物を味見する感覚ではない。もしそうなら、自分はすでに狼の胃袋の中だ。
「…なぜ」
『娘。私はお前が気に入った。だから、連れ帰ることとする』
「…え?………は!?」
そうこうしている合間に狼は娘の襟元をくいっと持ち上げ、自分の背に乗せ走り出した。
速度的に逃げ出すことは不可能と考えられた。
『私の事は雪貴と呼ぶがいい。お前の名は、後で聞こう。舌を噛むといけない』
私の意見はどこに!?顔に張り付かせながら、少なからず命を救われることとなった少女は、複雑な感情を雪貴が塒に少女を下すまで燻らせ続けた。