その後の老刑事
根本和義は懐かしい人物と再会した。
「やあ優ちゃんじゃないの」
特に工夫もせずに話しかけてみた。
「あ、根本さん。お久しぶりです」
特に飾らない返事が返ってきた。あの頃とかわらない笑顔だ
バス停のベンチに腰掛けていた星野優が、読んでいた文庫本を鞄にしまったのでまだバスが来るまで時間があるのかと思い、根本は彼女の貸し切りだったベンチに腰を下ろした。彼女とはあの事件の後しばらく会っていなかった為、根本には色々と気になることがあった。
「あの後、なにをしてたんだい?」
「普通にですよ。普通にお母さんの家でご飯食べて、学校に行って」
「それはよかった。結局は普通が一番だからな」
そう、普通が一番なのだ。半年前までは色々あり過ぎた。
「もうすぐ君も卒業だね」
「はい。長かったような、短かったような・・。」
うつむいた彼女は何を思い出しているんだろう。
「どうするんだい?進路は」
「・・・そうですね。」
星野は黙ってしまった。まだ考えている最中なのだろうか。
あの男が最後に解決した事件。かなり強引だったがあいつはこの町を荒らしていた根源を絶つことに成功した。それによってあいつは自分の人生を取り戻し、自分の命を失った。
彼女はあいつと一番近いところにいた。だからこそ皆あの事件の後、彼女に近づこうとしなかった。彼女の悲しみは痛い程分かるつもりだからだ。でも根本は分かる。彼女はもっと強い人間だ。悲しいのも事実だろうが、それで長く落ち込む人間でもない。根本の長い人生の中でも、彼女ほど芯の強い人間はそういなかった。
それでも彼女としばらく顔を合わせられなかったのは、他ならない根本自身が落ち込んでいたからだ。
根本夫妻には子供はいなかった。彼にとっては仕事の部下達が子供のようなものだ。その子供を一度に4人も失うことになったのだ。自分で覚悟していた以上に、事件後の根本は仕事に身が入らなかった。それは根本を半年間悩ませていた。
「根本さんは最近どうですか?」
質問を投げられて、考え込んでいた根本は我に帰った。
「あ、あぁ。・・君と同じだ、いつも通りかな。」
「それはよかったです。結局は普通が一番ですから」
星野はいたずらっぽく笑ってみせた。その笑顔を見てはじめて、彼女が先ほどの自分と同じことを言ったことに気付いた。気付いたとたんに笑えてきた。しばらくの間、根本は声を出して笑った。随分久しぶりの感覚だった。
根本が笑い終えると、横で一緒に笑ってくれていた星野が落ち着いた声で話を振ってきた。
「あれでよかったんですよ」
「・・え?」
「あれであの人は救われたと思います」
根本は返す言葉を持っていなかった。ただ、黙って彼女の言葉を聞いていた。
「あの時根本さんが来てくれて、話を聞いてくれて、・・きっと嬉しかったと思います」
「そうかな」
「根本さんがいなければもっと酷い結末だったはずです」
交差点の影からバスがやってきた。星野が鞄を手に立ち上がった。
「そうじゃなかったとしても、根本さんが最後まで心配してくれていた。それだけで嬉しかったと思いますよ。あの人、ああ見えて寂しがりやだったから」
そう言って彼女はまたあの笑顔を見せた。
バスがバス停に停まった。
「じゃあ」
彼女は手を振る。
「あぁ」
根本も返す。
星野はバスに乗る直前に、思い出したように振り返って言った。
「私、黒木さんみたいに頑張りますね。黒木さんみたいに頑張って、根本さんみたいに優しくなりますね」
彼女の顔にはかつての黒木のように堅い決意は見えなかった。しかし、その優しい表情には彼女の強さが現れていた。
「・・うん、君なら大丈夫だ」
呟いた根本に、彼女は嬉しそうに笑顔を返してバスに乗った。
バスは市営バスじゃなかった。大きな高速バスだ。
旅行にしては荷物は少なかったが、もう業者が荷物を送っていると考えれば納得がいく。
「じゃあ・・か」
バスは彼女を乗せて旅立っていった。
根本はバスの背中に向かってつぶやいた。
「大丈夫、君はもう誰よりも優しいよ」
その次の日から、不思議と彼の仕事ははかどった。