哀哭
その日は月が綺麗な夜だった。
寝付けなかった尚人は部屋のカーテンを開け、月を眺めていた。
寝付けない夜、尚人は必ず月を見るのだ。何も考えず、唯月を見ているだけで尚人の心は落ち着く。その日にあったことを忘れられ、父につけられた傷が癒えるような気がした。
段々眠たくなってきたので、欠伸をして布団に入ろうとしたら、玄関のドアが開いた。
尚人の姉が帰って来た。
尚人の姉の名前は雅美。小学6年の尚人とは10才も年が離れている。仕事から帰って来たようだ。
雅美は父とは違い、暴力は振るわないものの、自分を見る目はいつも冷ややかで、最近では会話を交わす事も無い。
多分、母親が違うのではないかと尚人は思っていた。
尚人は家族の愛を知らずに今まで育ってきた。
家には、尚人、雅美、父との3人で住んでいて、母はいない。
否、尚人は母親の顔すら知らないのだ。多分それは雅美も同じだろう。
父は毎日酒ばかり飲んでいるので、この家の家計を支えているのは雅美だ。
尚人はいつも思っていた。
何故、父や自分が嫌いなのに、家から出て行くことはしないのだろうか、と。もう自立できるほどの年で、ちゃんとした会社にも勤めているのに、何故この家に居続けるのだろうか、と。
そんな事を考えながら、尚人は眠りについた。
朝7時。いつもならもう少し寝て居られるのだが、今日は父と姉、雅美の怒鳴り声によって目が覚めた。
「何度言ったらわかるのよ!?」
雅美の怒鳴り声が家中に響く。
「うるせぇ!てめぇには関係ねぇだろ!
さっさと出てけ!てめぇもアイツも邪魔なんだよ!!」
酒を片手に父も言いかえした。父の言う『アイツ』というのは尚人のことだろう。
別に尚人はそんな事言われるのは日常茶飯事なので何も思わないが、毎回毎回している口論の原因が尚人には分からなかった。
嫌いなら自分のように話しかけなければ言いのに、何故父には… などと考え、尚人は少し寂しくなった。
父と姉の口論を聞いていると、学校の支度をしなければならない時間になり、鞄に教科書を入れ、速足で家から出た。
ぐずぐずしていたら、尚人も巻き込まれてしまうから。
学校についてからも、友達がいるわけでもなく、自分の椅子に座って頬杖を突いていた。
学校にいるのは楽だ。自分を殴るものも、罵声を浴びせるものもいないから。
回りは尚人を空気のように扱っている。
ずっと椅子に座って、ボーっとしているだけで時間が過ぎていってくれる。
唯、一つ気になるのが、昨日の夜に、父から殴られた傷が痛むということ。
家には治療道具なんて無いし、尚人一人では病院に行くことはできない。
傷の痛みに堪えていると、チャイムが鳴り、やっと学校が終わった。
尚人は傷の痛みに本当に堪えられなくなった時には、ある所に向かうのだ。
そこに行けば、傷の治療をしてもらえる。
「尚人君?今日はどうしたの??」
とても綺麗な女性が尚人に話しかけた。
年齢は20代前半といったところ、真黒な長い髪で、巫女の格好をした女性が、心配そうな顔をして尚人に駆け寄って来た。
尚人は黙って俯いていると
「また怪我をしたのね。中に入りましょう。」
と言い、尚人の手を取り歩き始めた。
尚人が来た所は古びた神社で、尚人に話しかけた女性の名前は如月咲子。ここの跡取り娘なのだ。
「すみません。また、来てしまって。」
尚人は消えそうなほど小さい声で言った。
「気にしないで、いつでも来て良いって言ったのは私なのだから。
今日はどこに怪我をしたの?」
咲子は俯いている尚人に、優しい声で言った。
「ここ、です。」
と言い、自分の着ている洋服を捲り上げ、紫色に腫れた腹部を咲子にみせた。
咲子は一瞬驚いた顔をみせたが、また元の優しそうな顔に戻り手当てを始めた。
手当てをされながら、尚人は咲子に初めて会った日の事を思い出して居た。
あの日も今日と同じように、父に殴られた傷がとても痛み、堪えられなくなり学校帰りにある神社の石段に座って居た所を咲子に助けられたのだ。
「大丈夫?どこか痛むの?」
と。
咲子は尚人がみせた傷をみて、驚いた顔はしたものの、何も聞かずに治療をしてくれた。
そして、また怪我をしたらいつでも来ていいとも言ってくれた。
尚人はその日から咲子には度々お世話になっているのだ。
そんなことを考えていると、前々から疑問に思っていた事を咲子に聞いてみることにした。
「あの、咲子さんはなんで、見ず知らずの僕なんかの傷の手当てをしてくれるんですか?」
咲子は少し考えて
「唯、困っている人を放っておけないからよ。それにあなたは私を頼ってくれている。そんな人を見て見ぬ振りなんてできないわ。」
と言いながら微笑んだ。
本当に綺麗な笑みで、尚人は思わず魅入ってしまった。
「はい、終わり。」
咲子の声にハッとして我にかえり
「ありがとうございました。」
と言い、頭を下げた。
「明日もなるべく来るのよ。包帯を取り替えなければいけないからね。」
「はい、本当にありがとうございます。」
と言い、神社から出て行った。咲子は尚人の背中が小さくなっていくのを見守りながら
「あの子に、神の御加護がありますよう。」
と呟いた。
歩くだけで傷が痛むので、尚人は寄り道をせずに、真直ぐ家に帰る事にした。
玄関を開けると、そこには父の姿は無く、その代わりに姉、雅美の姿があった。
尚人は、なんで雅美が居るのだろうかなどと考えていると
「おかえり」
という声が聞こえた。尚人は驚いた。そんなこと言われたので初めてだったし、なにより雅美と最後に言葉を交わした日も覚えて無いくらいだ。そのまま呆然とたたずんでいると
「おかえり」
と、もう一度声がした。
幻聴ではないんだ、と思い尚人は慌てて
「た、ただいま。」
と言ったが、相当驚いていたせいでどもってしまった。
雅美は柔らかい顔をして微笑んでいた。
「そんなとこに突っ立ってないで座ったら?」
と雅美が言うので、尚人は雅美の側に座る事にした。
「き、今日は、会社には行かなくていいんですか?」
久しぶりに姉と喋れる と思い、尚人は雅美に話しかけてみた。
「うん。今日は行かないんだ。」
今まで、尚人に向けてきた冷ややかなまなざしとは違い、優しい口調で微笑みながら言った。
「ねぇ、尚人、あたし…」
雅美が何かを言い掛けた所で、父が帰って来た。多分お酒を買ってきたのか、パチンコにでも行ってきたのだろう。
父が帰ってきたので、尚人は別の部屋に行こうと立上がり、この部屋から出て行くと何やら2人の話し声が聞こえてきた。
何を話しているのかは分からないが、雅美の方は相当怒っている様子だった。
さっき、尚人にみせた笑みとは別人のように。
少し2人が言い合っていると、何やら大きい音が聞こえたのでドアを開けてみてみると、姉が手に持った包丁で父を刺していたのだ。
父は刺された拍子に床に倒れた。まだ、意識はあるようだ。雅美は父の様子を確認し、父の体から包丁を抜き取り、もう一度思い切り刺し、また抜取った。父はウッ小さい声をもらし、そのまま意識を手放した。
「あぁ、尚人。みてたのね。」
雅美は血に塗れた包丁を片手に、尚人に言った。
「な、んで」
尚人は腰が抜けて立ち上がれなかったが、大きく目を見開き、雅美を見上げていた。
「ごめんね、尚人。あたし、あなたのこと、愛してたのよ。大好きだった。だって、たった一人の兄弟だもんね。」
雅美は淡々と話していた。
「じゃあ… なんで?なんでお父さんを刺したりなんかしたんですか?」
尚人はなんとか声を絞りだした。
「この男は大嫌いよ。あたし、母の記憶が少しあってね。何があったか知らないけど、この男が勝手に母を家から追い出したのよ。
それからあたしはずっと母に会いたかった。この男なら居所を知っていると思ったから。
でも駄目だった。だから ね」
雅美は哀しそうな顔をしてそう言うと、床に包丁を置き、尚人に近寄り頭を撫でてから抱き付いた。
「もう、大丈夫。
きっと幸せになれるよ。」
と言うと、今度は尚人から離れ、床の包丁を拾い、自分の体に刺した。
床に手をつき、倒れこむと
「尚人とね、あたしが話してるとあの男は、急に怒りだすんだ。
多分それは、尚人が母に似ているからだね。尚人の笑ってる顔が、見たくなかったんだろうね。」
目に涙をため、苦しそうにそう言うと、雅美は自分の体から包丁を抜き、父にやった時と同じように、もう一度自分に刺した。
そんな様子をみても、尚人は何も言う事ができず、唯泣いているだけだった。
「笑って、尚人。
あたしは、尚人が、尚人の笑顔が大好き だから」
絞りだすように、荒い息で雅美は言った。
「おねぇちゃん 死なないで」
尚人はやっとのことで、泣きながらそう言った。
「こんな姉でごめんね。」
と言い、一瞬微笑むと、雅美は目を閉じた。
「わぁぁぁぁぁ」
尚人は泣き叫んだ。父も死に、姉も死に、尚人は泣く事しかできなかった。
尚人の頭の中では、雅美の声が響いていた。
自分を大好きだと言ってくれ、最後にごめん と言った姉の声が。
最後に微笑んだ姉の顔が忘れられなかった。
そして、尚人は生きようと思った。
姉の分まで、生きようと思った。
幸せになろうと思った。
ありがとう。
お姉ちゃん。
「僕も、大好きだったよ。」
まだまだ初心者なので、おかしなところとかあるかもしれませんが、申し訳ありません。
そして、読んでくださった方々、本当にありがとうございました!