18 東進
サークルのメンバーが消えたあの場所で不思議な体験をしたという山内禎助。突然死亡した山内孝次の祖父である禎助は、孝次が開業に携わった総合病院の一室にいた。
サキを迎えたのは大久保と名乗る医師。孝次からサキの来訪を聞いていたという。
禎助は窓の外に視線を向け、サキが見つめる。
大久保が足を組みなおそうとした時、禎助は不意にサキに顔を向けて言った。
「誰だ。お前は」
「新宮沙紀と申します。孝次さんには大変お世話になっております」
「孝次・・・あいつは正しい奴だ」
「私もそう思います」
「ただ、力を持ちすぎた。何事も無ければよいが」
「・・・」
「お前は山に入るか?」
「はい」
「何の為に入る?」
「山を保つ為です」
「そうか。お前はわしが嘘つきだと思うか」
「いいえ」
「そうか」
禎助は満足そうに顎を撫でた。
「ワシが山で迷った話をしてやろう。憶えておくと良いかもしれん」
「お願いします」
大久保はただ驚いていた。この老人の目の光は鋭さを取り戻している。
しかし、症状が回復したのではない。単に“想い出した”のだ。
*-*-*-*-*-*
あれはわしがまだ15の時だった。峠を越えようと西の谷から入った。
西の谷から峠を越えようなんて奴はいない。
谷から峠越えの林道に出るには道も無い斜面を登らなくちゃならない。荷物があったらまず無理だし、もし谷に落ちたりしたら怪我では済まない場所だ。
それでも俺は谷へ入った。無駄な好奇心と下らぬ功名心だと思わないでもないが、若いとはそういうもんだ。
いつもならもっと北にある峠越えの山道の入口まで戻るか、山沿いを大きく迂回してに南に出るんだが、その時は西の谷に近いところに用があってな。
まぁ、知り合いの娘がどうこうっていうくだらん用事だ。
で、いつもは通らない西の谷から南に抜けていつもの峠道、今は林道になっている道だな。そこへ出るつもりだった。
禎助の舌は滑らかだった。その口調はまるで若者のようだ。
まだ達者な時でも、こんな話し方をしていただろうか?大久保が首を捻るような軽快さで話は続く。
サキは質問をしたい気持ちを堪えて老人の口許を見つめた。
西の谷というのはベースの北にある谷の事で、谷から林道に出るためにベースを通る山道を使ったという事だろう。
その山道に出るためにはかなりの急勾配を上らなければならない。今では谷沿いにも林道が整備されているが、以前は谷の斜面に沿って、人一人がやっと通れるほどの険しい細道だったと山内から聞いた事がある。そこから斜面を登るのは確かに無謀と言える。
現在の林道が昔の峠越えのルートだったので、林道からベースの空き地を経て谷で行き止まりになる山道はあまり使われない横道だったのだろう。
距離的には近いが、斜面を這うように進むルートを通ろうとしたのは禎助が言うように若気の至りか楽天的な性格か。
谷沿いに進んで大岩のところから斜面を登ったのさ。
俺は通った事が無かったが、知り合いから聞いたことがあったんだ。谷の大岩から斜面を登れば峠道に出る小道があるって。
でも、親父にその話をした時には「通っちゃなんねぇ」って強く言われたな。
親父が言うには、事故でたくさんの死人が出たらしく、谷に人が入り込むと、彷徨う霊魂が家族や知人なんかに姿を変えて現れて、谷の奥に誘うらしい。うっかり付いて行ったら帰ってこれなくなるって話だった。
俺は思った。そんな馬鹿な事があるかって。
谷の近くに住む遠縁の爺さんに聞いたけど、そんな話は知らないと言っていたからな。
谷に入ってから大岩までは結構距離があったし、斜面はかなりきつくて難儀した。
もう二度と通るまいと思うほどきつかったが、何とか登りきった。
俺はへたり込んで暫く大息をついていたが、ふと辺りを見回して、はてなと思った。
音がしねぇのさ。
耳がおかしくなったんじゃねぇんだ。斜面を登って荒くなった息遣いも掴んだ枝が折れる音も聞こえてた。ただ、俺以外の音が何もしないのさ。そうだな、音が出ないテレビでも観てるような感じだな。
でも、誰も居ない山ん中だし、疲れてたんで、あまり気にしなかった。
そこから少し先には左手に開けた草地があって、そこからはまがりなりにも山道がある。
サキはその草地がベース設営地であると理解した。
現在の山道が行き止まりの谷まで伸びた理由は分からないが、以前は山道がそこまでしかなかったのだろう。
その辺りは杉の下草を払いに親父に連れられて来た事があるから知らない場所じゃないし、峠道まではすぐだって事は分かってた。
でも、急に気持ちが焦って歩き出したんだ。
崖を上ったせいで思いの外に疲れちまって、杖になるような枝を採ろうと山道から茂みに入った。
その時、穴に落ちた。いや落ちたような感じがした。思わず声を上げていたな。その時は谷の斜面を登ったせいで足元が覚束なかったと思ったんだが、甲高い音も聞いたような気がする。
俺はぶつぶつ言いながら、落ちている杉の枝を杖にしてまた歩き出した。この後は下るばかりだ。さして苦労も無いだろう。
「でもな」
禎助の目に怯えの色が見えた。
着かねぇんだよ。峠道に。その先は同じような山道が延々と続いたのさ。
おかしいと思ったけど、引き返せなかった。ま、引き返したら何とかなるのかも分からないけどな。さすがに怖くなってきた。
そして見つけたんだ。山道にたくさんの足跡があるのを。
そりゃもう何十という人間が行き来したような足跡だった。それまで何の跡も無い山道の途中からいきなり始まってんだ。
草履の足跡だから人には違いあるめぇ。でもな、そりゃ普通じゃねぇよ。
少なくとも数十人もの人間が行ったり来たりしたって足跡だ。
そんな事ありえるか?
こんな山ん中に。誰だよ、そいつらは?
俺は心臓を掴まれたような気分だった。
もう前にも後ろにも進めなくなった。
親父から聞いた霊魂の話も本当じゃねぇかって思い始めた。
そのうちに喉が渇いてどうにもならなくなって俺は沢に向かったんだ。
沢にも着かなかったらという不安はあったが沢はあった。いつものような。
水を飲んで、一息ついたが、どうしていいのか分からなかった。
もう山道には戻りたくなかったんで沢沿いを南に歩いたがどうしても峠道に出られなかった。そのうち日が暮れちまった。一晩中震えながら一睡もできなかった。
俺は明るくなるのを待ってすぐに動いた。
山道を使う南と北がダメ。西に向かったら峰が険しくなるばかりだ。
結局、俺は東へ向かったんだ。1里も歩けば炭焼き小屋がある。
大久保にもサキの緊張が伝わってくる。
サキの膝の上に置いた手が強く握られた。