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「君を愛するつもりはない」? 八歳の公爵閣下、妻ではなく後見人です~七十二歳の元女官長が悪い叔父からお守りします~  作者: 他力本願寺


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本編


「君を愛するつもりはない」


 その宣言をしたのは、八歳のレオン・フェルゼン公爵だった。


 足の届かない大人用の椅子に座り、靴先が揺れないよう必死に膝を伸ばしている。両親を亡くして十二日。先日まで子ども部屋にいた少年は、今日から当主として振る舞わなくてはならないと思い込んでいた。


 その向かいに立つマルグリット・ヴァルネは七十二歳。銀髪を結い上げた、元王宮女官長である。


 マルグリットは笑わなかった。目の前の子どもは、必死で自分の城を守っている。


「ご安心ください、閣下。わたくしは妻になるために参ったのではございません」


 懐から書類を出し、表題を示す。


「こちらは後見人候補の申立書。ご両親に代わって閣下の暮らしと財産をお守りする役目でございます。結婚の書類ではありません」


「……そ、そうなのか。叔父上は、嫁気取りの老婦人が来るから先に愛さないと言えって」


「そのご心配は不要でございます。お嫁入り道具も持参しておりません」


「……持ってきたのは?」


「申立書と、旅行鞄ひとつだけです」


 レオンは威厳を保とうと、指を組み直した。


 彼の母は、かつてマルグリットが王宮で礼法を教えた相手だった。引退後も二人は文通を続け、夫妻は彼女をレオンの後見候補として届け出ていた。マルグリットは訃報を受け、来邸前に正式な申立てを済ませている。


 その母が手紙に書いた言葉を、マルグリットは覚えていた。レオンは言いたいことを三度考え直して、ようやく口にする子だ、と。


「では最初のお仕事です。閣下、朝食はお好みに合っていますか」


「当主の食事に好みなど……」


 少年は三度ほど口をもごもごさせた。


「……麦粥には、蜂蜜をたっぷり」


「承知しました。蜂蜜の量は、当主の重要な決裁事項として料理長に伝えましょう」


「……そんな大げさなことじゃない」


 当主ではなく八歳の声が、初めて聞こえた。


 それを確かめた瞬間、廊下で旅行鞄を運ぶ足音が響いた。車輪の音まで聞こえる。昨日の連絡に、そのような予定はない。


 レオンの肩が跳ね、視線が窓の外へ逃げた。母が、冬も緑の残る木を集めて「冬庭」と名づけた庭だ。今は秋。小さな苗木の間で、落葉樹が赤く色づいている。


 マルグリットは礼をして、応接室の扉を開けた。


◇


 玄関は、荷で埋まっていた。


 旅行鞄が三つ、子ども用の外套と毛布も積まれている。使用人たちは主人に何も聞かされていない顔をしていた。


 指揮していたのは、先代公爵の弟ヴィクトル・フェルゼン、四十六歳。正式な後見人が決まるまで日常支出を管理する仮管理人だ。叔父は屋敷には住まず、町の別宅から通っている。


「王都の学寮へ、三週間の見学に出す」


 説明は、説明の形をしていなかった。宣言だった。


「甥の教育のためだ。もう馬車は用意してある」


 レオンは階段の上にいた。唇を引き結び、頬は白い。反対したいのか、それとも大人に任せていいのか、まだ決められない顔だった。


 マルグリットは名乗って一礼した。怒鳴る相手には、最初の一言を低く置く。王宮で長年使ってきたやり方だった。


「ヴィクトル様。――旅券を、拝見できますか」


「候補にすぎない君が、私の命令に口を出すのか」


「写しで結構です。――家宰殿、お手数ですが、控えを」


 家宰は、今朝ヴィクトルから預かった旅券の控えを保管箱から取り出した。それを見せると決めたのも、今は家宰自身だった。


 マルグリットは預かった紙面を静かに追った。


 命令者。ヴィクトル・フェルゼン。


 目的地。王都、学寮。


 宿泊先、同行する大人、本人の希望――いずれも空白だった。


 押されているのは、発行者の私印ひとつ。審理院の許可印は、どこを探してもなかった。


「ありがとうございます。では、審理院の受付印がある仮管理決定書も、皆様の前で確認させてください」


 家宰がもう一度応じ、一枚の公文書を出した。彼女はそれを受け取り、権限の欄を、指でゆっくりたどった。


 そこに認められていたのは、給料や食費など、日々の支払いだけ。子どもを二泊以上屋敷の外に泊まらせるには、別の許可が必要だった。


「仮管理人の権限は日常の支出まで。三週間の見学には別の許可が要ります。この旅券には、その許可印がありません」


「おかしなことを言うな。私は、この子の叔父だ」


「親族であることと、審理院から許されていることは別でございます」


 ヴィクトルの眉が寄った。マルグリットは背を向けず、近くの書き物机に紙と羽ペンを乞うた。書き始めた手は、止まらなかった。


「審理院へ、無許可の移送を試みた事実を照会いたします。わたくしには出発を禁じる権限はございません。ですが、強行すれば明日の予備審理に記録が残ります」


 玄関にいた門番は、閉じた門の方を見た。マルグリットが門番へ直接命じれば、叔父と同じく権限のない命令になる。


 彼女は家宰へ書面を示し、判断を待った。


 家宰は一度、旅券の空欄を見返した。


「出発は見合わせる。私の管理責任で、そうする」


 ヴィクトルは御者を呼びつけかけた。だが、目の前には許可のない旅券と、宛先まで書かれた照会状がある。今ここで押し通せば、明日の審理では言い逃れが難しくなる。


「……御者、下がっておれ」


 車輪の音が、門の外へ遠のいていった。ヴィクトルも別宅へ引き上げた。荷を抱えた使用人たちが、安堵と困惑を半々の顔で散っていく。


 マルグリットは書き上げた照会状を家宰に託した。家宰はその日のうちに使いを審理院へ出し、旅券の控えを施錠箱に保管した。照会状の受理控えは、翌日の予備審理までに受け取る手はずになった。


 階段の上で、レオンは一部始終を見ていた。


「……なかなかの働きだった」


 咳払いをひとつして、続ける。


「褒美として、明日の蜂蜜を一さじ増やしてよい」


「恐れ入ります。ただ、その褒美を受け取るのは閣下の方でございますね」


「……あ」


 レオンは慌てて姿勢を正した。


「い、いまのは取り消す。当主の発言は慎重でなければならん」


「では蜂蜜は、先ほど伺った量のままに」


「……一さじ増やしてもいい」


 それだけ言うと、少年は足早に廊下へ消えた。


◇


 その日の午後、家政執務室で。


 家宰が、鍵のかかる棚を開けた。開けた上で、彼女に向き直った。


「この棚を開けるのは、私の判断です。後見候補のお方に見せるべきか迷っておりましたが、今朝の旅券の一件を拝見しましたので」


「恐れ入ります」


 広げられたのは屋根の修理見積もりと積立金の帳簿だった。修理には三千金貨。使える積立は五千金貨。


「雪が来る前の応急修繕なら、三千で足ります」と家宰が言った。


「積立には五千ありますね」


「ええ。取り崩しに問題はありません」


 三つ目に、家宰がためらって出したのは、叔父の許可申立てに添えられた契約草案だった。


 北林の十年伐採権。一万二千金貨。


 マルグリットは、ページをめくる手を一度止めた。


 買主は、ノルト材木社。草案の代理人欄には、同社の社員の氏名と、社の印。


 そして、買主側の承認欄に――ヴィクトルの私印が押されていた。


 マルグリットは家宰に、午前中の旅券控えをもう一度見せてもらった。二つの私印を並べると、縁の小さな欠けと摩耗痕が一致する。王宮で印章を管理していたころ、こうした傷は何度も見てきた。


「……家宰殿。これは、売り手側の確認の欄ではないのですね」


「さようで。買主の、ノルト材木社の側の承認欄でございます」


 契約を確認しただけだと叔父は言い張れるだろう。だが、なぜ売主である公爵家の欄でなく、買主側の承認欄に押したのか。押印だけで罪を決めるわけにはいかない。そこで彼女は、会社そのものを調べると決めた。


「ノルト材木社を実際に動かしているのは誰なのか、登記所の正式な証明を取り寄せてください」


「証明書が届くのは、最終審理の朝になりましょう」


「間に合えば十分です」


 印影は手がかりにすぎない。決め手は公の記録だ。


 家宰はその日のうちに使いを出した。


 帳簿を閉じたとき、執務室の戸が小さく開いた。


「……庭へ、行ってもいい?」


 レオンが立っていた。彼女の返事を待つ顔は、玄関で見たときより幼く見えた。


「今日はまだ危険が残っています。明日にしていただけますか」


「当主のぼくが、自分の庭に入る許可も出せないの?」


「当主の安全に関することは、少々別でございます」


「……当主って、思ってたより不自由だな」


 レオンは肩を落として帰っていった。


 庭は屋敷の内側だ。叔父の馬車も去っている。マルグリットは、そのことより万一の危険を重く見ていた。


 マルグリットは窓の外を見た。秋色の庭。壁の陰に、細い苗木が数本。


 二年前、レオンが六歳の春に、母と植えた苗木だ。母の手紙には、息子が泥だらけになって穴を掘ったとあった。


 マルグリットは窓辺を離れ、書類へ目を戻した。


◇


 夕食の卓には、亡き公爵夫妻が使った二脚の椅子が、今も空けてあった。マルグリットはそこに座らず、レオンから少し離れた客席についた。燭台の火が、二人と二つの空席を照らしている。


 レオンは昼から口数が少なかった。スープを匙で何度もかき回すばかりで、使用人たちは主と客の顔色を交互に窺っていた。


 中でも若い給仕は、食器を下げるたびに扉の方を気にしていた。給仕の賃金を決めるのは今の仮管理人、ヴィクトルだ。


 マルグリットはレオンの皿を見た。


「お口に合いませんか」


「当主は好き嫌いをしない」


「立派なお心がけです。では、ニンジンも召し上がれますね」


 少年の匙が止まる。


「……当主は、たまには外交上の譲歩を求める」


「料理長との交渉は、明日にいたしましょう」


 レオンは小さく鼻を鳴らした。だが、ニンジンには手をつけず、ほかの料理もほとんど食べなかった。


 朝の馬車を止められたからといって、彼の心まで落ち着いたわけではない。


 食後、彼女は家宰を呼び、三つの「お願い」をした。命令ではなく、あくまで依頼として。だからこそ、断りにくかった。


「閣下を訪ねてくる方のお取り次ぎを、慎重になさっていただけますか。まずお名前を伺い、わたくしへ一報を」


「……承知いたしました」


「お手紙も、危険な差出人でないか確かめるまで、いったんわたくしのところへ届けてください。確認したら、必ず閣下にお返しします」


「……お手紙を、ですね」


「お庭に出るときも、どなたかに付き添っていただけますか」


 家宰は少しためらったが、朝の旅券の一件を思い出したのか、やがて頷いた。


「私の裁量で、従います」


 家宰の「私の裁量で」という答えには、信頼と、断りにくさが同時に混じっていた。


 その夜、レオンの書斎を訪ねた。窓際には勉強机、壁際には母の形見の鍵付き書き物机があり、勉強机には書きかけの学習帳が広がっていた。


「閣下。――お母様の机の鍵を、わたくしに預からせていただけませんか」


 レオンの手が、止まった。


「……なんでだ」


「不審な者が出入りした場合に備えたいのです。審理が終わるまで、大事なお品をまとめて守りたいと思いまして」


「母の机を、開けようとするのか」


「開けません。絶対に」


 子どもは長いこと返事をしなかった。目を伏せ、勉強机の引き出しを開ける。そこから母の机の鍵を取り出すと、差し出した。


「……なくさないでね」


「ええ。必ず」


 真鍮の鍵は、マルグリットの手のひらに収まった。渡すときのレオンの指が、なかなか離れなかった。


 これで母の遺品は守れる。マルグリットは鍵を手巾に包んで懐にしまい、レオンの固く結ばれた口元には目を向けなかった。


 夜、マルグリットは先ほど夕食を給仕していた若い男がレオンの部屋を出るのを、廊下の端で見かけた。盆は空で、なぜ訪ねたのかは分からない。


 声をかけかけたが、翌日の予備審理へ持参する書類を揃えるため、執務室へ戻った。


◇


 翌日、家門後見審理院で予備審理が開かれた。


 審理官エマ・リュセルは、書類の束を前に、どちらにも与しない表情をしていた。レオンは屋敷に残っている。ここにはマルグリットとヴィクトルだけが呼ばれていた。


「甥本人が書いた希望書です」


 ヴィクトルが、最初にそれを出した。


 一枚の紙。全面を占めるのは、ぎこちない筆致。


『こうけんにんは、おじ上がいいです。この家は、いきぐるしいから。』


「本人の字だ。偽造というなら、この場で言い直しをどうぞ」


 マルグリットは、紙を受け取った。


 見覚えのある筆跡だった。昨日、書斎で少年が開いていた学習帳と同じ紙で、切り口も不揃いだ。あれほど取り次ぎと手紙を管理しておきながら、少年がこんな紙切れに助けを求めていたことを、彼女は知らなかった。


 偽造だと主張してしまえば、この子が書いた『いきぐるしい』まで嘘にしてしまう。


「本人の自筆書面として記録します。ただし、この一枚だけで後見人が決まるわけではありません」エマが告げた。


「閣下はまだ喪中です。二時間も馬車に乗せ、この場で大人の話を聞かせるのは酷ではありませんか。面談は、どうか免除を」


 エマはペンを置き、マルグリットを見た。


「面談はご本人が望んだときだけ行います。強制はしません。ただ、この書面も本人の言葉です。『息苦しい』という訴えは、黙っていても消えません。再審理になれば、あなたに不利な資料として残ります」


「……はい」


「たとえヴィクトル殿が不適格と判明しても、現状ではあなたをすぐに任命できないかもしれません。その場合は審理院の保護官が同じ屋敷で十四日間、日常管理を担当し、改めて審理します。お子様をどこかへ移すことはありません」


「――待ってほしい」ヴィクトルが割り込んだ。「七十二歳の候補に、十年間の後見が務まるとでも?」


「年齢だけで判断はしません。現在の健康、支援する人員、毎年の監督で判断します。継続が難しくなれば、審理院が交代を審査します」


 エマは申立ての際に提出された診断書の写しを指で押さえた。


「診断書は、今日の能力を示すもので、十年後の健康を保証するものではありません。どなたの場合も同じです」


 ヴィクトルは口を閉じた。


「会社の支配関係は公簿の認証写しを待って判断します。提出期限は、明日の午前十一時半。正午から最終審理です」


 エマは記録を閉じた。席を立ちながら、マルグリットは窓の外を見た。本人を案じてレオンを屋敷に残したが、あの希望書に何があったのかを尋ねることすらしていなかった。


 帰りの馬車で、マルグリットは自分の手を見ていた。


 守るつもりで手紙を預かり、庭を禁じ、鍵まで持った。母の便りには、レオンは三度考えてから話す子だとあった。そんな子が口を開く前に、彼女は安全だと判断してしまった。


 女官長のころ、「お願い」という形の命令を何度も使った。断る自由があるように見えて、相手は断りにくい。家宰も、八歳のレオンも。


 あの『いきぐるしい』は叔父に都合よく使われた言葉だ。だが、少年が感じた息苦しさまで嘘にはならない。


 マルグリットは懐にある手巾越しに鍵を確かめた。帰ったら、まずこれを返す。今度はあの子の返事を待とう。


◇


 屋敷へ戻った夜、レオンの書斎の前で。


 マルグリットは、まず家宰を呼んだ。


「昨日お願いした、訪問者と手紙の取り次ぎ、それに庭への付き添いの件は撤回します。お引き受けいただいたのは家宰殿のご厚意でしたが、そもそもわたくしが頼むべきことではありませんでした」


 家宰は黙って聞き、それから、頷いた。


「承知しました。取り次ぎも、もとの形に戻します」


 昨日は家宰の裁量に甘えていた。今日はその判断を尊重するために、彼の答えを待った。


「もう一つ、明日の審理のためにお願いがあります。正式後見になった場合、今後も会計と屋敷の管理を担っていただけるか。お考えを文書にしていただきたいのです」


「喜んで書きます。私が仕えているのは、ヴィクトル様ではなく、この家ですから」


 家宰はひと呼吸置き、付け加えた。


「私もその頼みを自分の判断で引き受けました。閣下を息苦しくさせた責任は、私にもございます」


「では、二人で改めてまいりましょう」


 老人は微かに笑い、廊下の向こうへ消えた。


 書斎へ入ると、レオンは勉強机に向かっていた。マルグリットが手巾を開いて真鍮の鍵を取り出すと、少年の視線がそこに止まった。


「……返すのか」


「返します。閣下のものですから」


 マルグリットは勉強机の上に鍵を置いた。返す前に、それを握りしめてしまいたい衝動があった。鍵を持っていれば、母の遺品は安全だ。だが、守るものを彼女が選ぶのと同じように、レオンにも選ぶ権利がある。


「昨日は安全のためだと申し上げました。けれど、本当はあなたがどうしたいか、聞く手間を省いてしまったのです。申し訳ありません」


「……」


「この鍵は閣下のものです。手紙もご自身で受け取れます。庭に行く日も、まずあなたの希望を伺います。安全が心配なら、その理由をお話しします」


「……嫌だ」


 レオンの声が、静かな書斎にこぼれた。


「おばあさんの、その、やりかたが。嫌だ」


 彼女は、頷いた。


「庭へも行けないし、お母様の机の鍵も取られる。……ぼくが嫌だって言ったら、また一人になるかと思った」


「聞こえています。もう一度聞かせてください」


「……それから、叔父上が給仕をよこしたの。『冬庭は残してやる。後見人は叔父上がいい、この家は息苦しいって書きなさい』って。『息苦しい』は叔父上が教えた言葉だけど……ぼくも、そう思った。庭に出られないし、鍵もなくなったから。だから、書いた。ぼくの字で。学習帳から切った紙に」


「そうでしたか」


 叔父が書かせた言葉とレオンの本音は、同じ紙に混ざっていた。マルグリットには、それを今まで区別しようともしなかった責任がある。


「叔父上は本当に庭を残してくれるの?」


 マルグリットは家宰から借りた契約草案の搬出図を広げた。印象だけで叔父を嘘つきと断じるのは簡単だ。しかしそれも、自分が代わりに結論を出すことになる。


「これは叔父上の申立てに添えられた図面です。太い線は、木材を運ぶ道の予定地です」


 少年が線をたどるのを、彼女は見守った。太い線は、母と植えた木のある冬庭の外縁を横切っていた。


 レオンは長いこと図を見ていた。やがて小さく唇を動かした。


「……お母様の木のところを、通る」


「明日、審理官に会うこともできます。会わないこともできます。会わなければ、審理院の保護官がこの屋敷で十四日間暮らしを見守り、それからもう一度決めます。どちらを選んでも、ここから追い出されることはありません」


 レオンは図面を見たままだった。


「叔父上が後見人になれるかどうかと、わたくしが後見人になるかどうかは別です。あなたが今どう思うかを、審理官はまだ知りません」


「ぼくが……言わないと?」


「言う義務はございません。ただ、あなたの言葉を聞いてくれる方がおります」


 何を言うべきか教えるのは、しなかった。少年の決断を急かすために、明日の書類提出の期限を持ち出すこともしなかった。


 レオンは勉強机の上の鍵に指を伸ばし、引っ込めた。もう一度伸ばして握りかけ、また手を開く。三度目に、ようやく鍵を持った。


「明日、行く。……ぼくが書いた手紙のこと、ぼくの口で言いたい」


 母が手紙に書いたとおりだった。考えて、考え直して、彼は自分の言葉にたどり着いた。


「おやすみなさいませ、閣下」


 レオンは鍵を自分の掌で包み、勉強机の引き出しに戻した。マルグリットは、その手を止めなかった。


◇


 三日目の朝、レオンは蜂蜜をたっぷり混ぜた麦粥を食べた。マルグリットは何も言わず、匙が進むのを見守った。


 そこへ登記所から使者が戻った。証明書に載っていたのは、ノルト材木社の議決権の七割を叔父ヴィクトルが持つという事実。マルグリットは家宰と印や番号を確かめ、必要な資料をそろえた。


 正午の最終審理に間に合わせるため、マルグリットとレオンはすぐ馬車に乗った。


 レオンは馬車の中で何度も口を開きかけた。マルグリットは急かさずに待った。


「……ぼく、審理官の人に一人で話すんだよね」


「はい。わたくしも叔父上も、同席しません」


「何を言ったらいいか、教えてくれないの?」


「教えられません。あなたが見たこと、感じたことをお話しください」


 レオンは困った顔で窓を見た。


「王宮では、言うことを教えてくれたんでしょう?」


「ええ。けれど、あの方々はご自分のお言葉で話せるまで、ずいぶん時間がかかりました」


「じゃあ、ぼくの方が上手かもしれない」


「大いに、その可能性がございます」


 少年はほんの少し笑い、また窓の外へ向き直った。


 審理院に着いたのは、提出期限のわずか前だった。


 マルグリットは、叔父の会社支配を示す証明書、積立金の帳簿、伐採契約の草案と搬出路の図面、無許可の学寮行きを示す旅券控えと照会状の受理控えを提出した。自身の健康を確認する医師の書面と、家宰が働き続けるという申述書も添えてある。


 係員がすべて受け取り、マルグリットはようやく息を吐いた。ただし、証拠だけで後見の結論が出るわけではない。


 正午、最終審理が始まった。レオンは隣の控室で待っている。大人たちのやりとりに同席するよう求める者はいなかった。


「屋根を修理しなければ冬を越せない。だから北林の伐採権を売る必要があるのです」


 ヴィクトルは、昨日と同じ調子で言った。


「十年間で一万二千金貨。この機会を逃せば、家計が立ち行かなくなる」


「修繕見積もりは三千金貨。緊急修繕積立には、すぐ使える五千金貨がございます」


 マルグリットは二枚の数字を並べて示した。


「少なくとも、今すぐ十年分の伐採権を売る理由にはなりません」


 エマはそこで、登記所の証明書を開いた。


「証明書によれば、ヴィクトル殿はノルト材木社の議決権の七割を保有しています。ところが、後見の申立てにはその事実が記されていません」


「売却額は相場どおりだ。買い手が私の会社でも、公爵家に損はない。冬支度を急いだだけだ!」


「価格が妥当かどうかより前に、買い手から利益を得る立場を申告する義務があります。それを伏せて後見人になろうとし、甥御様の財産処分の許可も求めた。この点を重く見ます」


 エマは旅券控えと照会状の受理控えにも目を向けた。


「審理中に許可なく三週間の移送を図った事実も、あわせて判断します」


 エマが書類を閉じても、後見人の任命は告げられなかった。レオンの自筆書面には、まだ「この家は息苦しい」と残っている。


「ご本人が面談を望まれるか、確かめてください」


 エマが係員を控室へ向かわせた。戻ってきた係員は、レオンが面談を希望していること、ただその前に叔父へ一つだけ確かめたいことがあると伝えた。エマは本人に無理強いがないことを確かめ、短い発言を許した。


 レオンは審理室に入ると、提出された搬出図に目を向け、叔父に向き直った。


「叔父上。庭を残すって言ったよね」


「もちろんだ、レオン。あれは――」


「じゃあ、なんでお母様の木のところに、道ができるの?」


 少年は図面の線を指した。大人の書類が、八歳の問いによって、ひとつの庭の話になった。


 ヴィクトルは答えようと口を開いたが、言葉が続かない。レオンは答えを待たず、エマを見た。


「……お話しします」


「お望みなら、別室でお聞きします」


 エマはそう答え、少年を隣の面談室へ案内した。ヴィクトルとマルグリットは審理室に残り、少年と審理官だけが隣室に入る。書記官が扉を閉めた。


 扉の向こうの声は聞こえなかった。


 マルグリットは目の前の空席を見た。彼が何を話すのか、彼女にも分からない。以前の自分なら、聞くべきことを紙にして渡しただろう。今はただ、少年が言葉を選ぶのを待った。


 ヴィクトルが苛立たしげに靴を鳴らす。マルグリットはそちらを見なかった。


 やがて、扉が開いた。


◇


「――裁定を申し渡します」


 エマ・リュセルは立って、決定を読み上げた。


「第一に、ヴィクトル・フェルゼン殿は、未申告の会社支配による利益相反が認められるため、後見人には不適格とします。また、無許可の学寮移送の企図も踏まえ、仮管理を本日付で解除します。北林の十年伐採権については、契約未締結であり、緊急に処分する必要も認められないため、許可申立てを却下します」


「第二に、レオン閣下の希望書はご本人が書いたものです。しかし、ヴィクトル殿が冬庭を残すという条件を出していたこと、現在はヴィクトル殿の後見を望んでいないことを、本人から確認しました。一方、『息苦しい』という訴えも事実です。なかったことにはしません」


 その言葉は、マルグリットに向けられていた。


「本人面談がなければ、この訴えは次回も、あなたの適格性に不利な資料として残るところでした」


 彼女は深く頭を下げた。書類を揃えても、少年を苦しめた事実まで消えるわけではない。


「第三に、先代夫妻の推薦、マルグリット殿の健康状態、家宰の継続勤務による支援体制、そしてご本人の現在の自由意思を総合し、マルグリット・ヴァルネ殿を正式な後見人に任命します。以後、会計と健康については毎年監督します」


「待て。あの金は、この家のために――」


 ヴィクトルが立ち上がりかけた。


「必要な修繕には、すでに積立金があります。裁定は以上です」


 エマは書面を閉じた。


「屋敷の管理鍵の束はここで、新たな後見人に引き渡してください。管理簿も本日中に引き継ぐこと」


 ヴィクトルは腰から管理鍵の束を外した。小さな金属音が、静かな審理室に響く。係員の立ち会いのもと、叔父はそれをマルグリットへ渡した。


 ヴィクトルがレオンへ視線を投げた。少年はその目を追わず、マルグリットの隣に立った。叔父に勝ったと騒ぐのでも、泣いてすがるのでもない。もう自分の行き先を決めた顔だった。


 叔父はそれ以上の言葉をのみ込んだ。北林の売却も、レオンを学寮へ連れ出す計画も、これで止まった。


 ただし、母の机の鍵はその束にない。昨夜、すでに持ち主へ返してある。


 帰りの馬車で、レオンが小さく口を開いた。


「……言えたよ。叔父上が庭を残すって言ったから、手紙を書いたんだって。今は叔父上の後見は嫌だって」


「そうですか」


「それから、おばあさんに後見人になってほしいって。鍵を返してくれたし、ぼくの話を聞いてくれたから」


 マルグリットは膝の上の手を動かせなかった。


「……おばあさんは、ぼくがそう言うって、分かってた?」


「いいえ。何をおっしゃるか、分かりませんでした」


「じゃあ、もしぼくがおばあさんにも『嫌だ』って言ってたら?」


「そのときは、その言葉を受け止めます」


 レオンはしばらく考え込み、やがて頷いた。


「……そっか」


 それきり二人は話さなかった。沈黙が、昨日までとは違っていた。


 屋敷へ戻ると、レオンは玄関で立ち止まった。


「庭へ行きたい。……今から、いい?」


 マルグリットは辺りを見て、安全に問題がないことを確かめた。


「ええ。日が沈む前に参りましょう」


「『参りましょう』じゃなくて、ぼくが先に行っていい?」


 昨日までの彼女なら、まず転倒の危険を考えて先回りしただろう。


「どうぞ。ただし、暗くなる前には帰りましょうね」


 レオンは駆けだした。小さな足音が冬庭へ遠ざかる。


 庭の苗木は、二年前に彼と母が植えたものだった。少年は一本ずつ土を確かめ、折れた小枝を拾った。彼女が追いついたとき、レオンは土のついた手をズボンで拭こうとして、思いとどまった。


「……お母様が、手は洗いなさいって言ったから」


「そうでしたか」


「ぼく、お母様のこと、忘れたくない」


「忘れなくてよろしいのです。わたくしが来ても、お母様の場所を奪うことはございません」


 レオンは立ったまま、しばらく苗木を見つめていた。やがて自分で屋敷の方を向いた。


「夕飯、まだ? 甘いお菓子が食べたい」


「料理長に相談しましょう」


「蜂蜜のやつ」


 彼女は頷いた。少年の望みを叶えるのに、仮管理決定書も審理院の許可印もいらなかった。彼の声を聞けばよかった。


◇


 十年後。


 十八歳になったレオンが成年の署名を終えた翌朝、マルグリットは朝食の席で荷物をまとめるつもりだと告げた。八十二歳になった彼女の後見は、昨日で終わった。


「お暇をいただきます。もう、閣下の後見人ではありませんから」


 青年は、蜂蜜の壺を脇へ寄せた。かつて椅子から足を浮かせていた少年が、今は当たり前のように床に足をつけている。


「仕事が終わったから、出ていくの?」


「そのつもりでございました」


「じゃあ、今度は僕からお願いするよ」


 レオンは亡き両親のために空けてある二つの席を見て、それから彼女の席に視線を戻した。


「役目はなくていい。家族として、ここで暮らしてほしい。ただし、嫌なら断って。僕が勝手に決めることじゃないから」


 レオンは真面目な顔で付け加えた。


「……マルグリットおばあさまに、いてほしいんだ」


 彼女の手が椅子の背で止まった。


 かつてこの少年に、嫌だと言うことを教えた。今度はその言葉が、自分のために差し出されている。


「……一つ、確かめてもよろしいですか。食卓の席は、増やさなくてもよいのでしょうか」


「増やさないよ。父上と母上の席は、そのまま。あなたの席も、ずっとあったでしょう」


 マルグリットは小さく笑った。


「では、残らせていただきます。頼まれたからではなく、わたくしも、ここで暮らしたいので」


「よかった」


 レオンはそこで、昔のように少し得意そうな顔になった。


「それに、いまなら『君を愛するつもりはない』なんて言わない。家族として、大好きだから」


「存じております。あのころは閣下も、随分難しいご挨拶をなさいました」


「……忘れてくれないんだね」


「忘れたくないことは、残しておく家ですから」


 レオンは二人分の麦粥に、蜂蜜をたっぷりかけた。


 空いている二つの席も、そのままに。


(完)

最後までお読みいただき、ありがとうございました!


八歳のレオンと七十二歳のマルグリット、二人の物語はいかがでしたでしょうか。


今回は短編として完結させましたが、もしご好評をいただけるようでしたら、二人が家族として過ごした十年間を、長編として描くことも検討したいと考えています。


「この二人の続きをもっと読んでみたい!」と思っていただけましたら、ぜひ感想で教えていただけると嬉しいです。


また、少しでも楽しんでいただけましたら、下の★評価で応援していただけると、今後の創作の大きな励みになります。


最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました!

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