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短編小説

『愛など不要』とおっしゃったはずの辺境伯様、毎日定時に帰ってきて私の手料理を完食するのはなぜですか?

作者: おでこ
掲載日:2026/03/30

本作は、全九章で構成された異世界恋愛短編小説です。


一気に読んでいただいても、お気に入りの場面で一度閉じて続きを楽しんでいただいても、どちらも大歓迎です。どうか、ご自分のペースでゆっくりお付き合いください。(*‘ω‘ *)/


━━━━━━━━━

第一章 道具でいい

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結婚式の夜、私は自分が「家具」として迎えられたのだと理解した。


ギルベルト・ヴァルト辺境伯。その名は北の要塞都市で知らぬ者のいない武将であり、政治家であり、二十八歳にして敵国三つを封じ込めた鉄壁の男だ。


婚姻の誓いを交わした直後、彼は私の顔をほとんど見なかった。祝宴の席でも、乾杯の盃を掲げる時も。隣に座っている女が誰であっても、おそらく関係なかったのだと思う。


初夜の寝室で、彼は窓の外を眺めたまま言った。


「はっきり言っておく。愛は期待するな。情も不要だ。私が求めるのは、邪魔をしない妻だ。家の管理だけを任せる。それだけでいい」


私の名はアデル・クレスト。没落寸前の伯爵家の一人娘だ。父の莫大な借金、兄の放蕩、母の長い病。そのすべてを一枚の婚姻契約書で解決してもらう代わりに、私はここへ来た。


どうやら私には、家を切り盛りする実務の才だけはあったらしい。彼はその一点のみを評価し、私を買い取ったのだ。


だから彼の言葉に傷ついたかと問われれば、正直に言えばそうでもなかった。


(わかっていた。最初からわかっていた)


今まで「道具」としてずっと扱われている。慣れている。


前の婚約者も似たようなものだった。私の実家が傾き始めた頃、他の令嬢を選んで去っていったあの人は、別れ際に笑って言った。「君を利用できると思っていたのに、残念だ」と。あの笑い声を、私は今でも時々夢に見る。


だからもう、期待するだけ無駄だとわかっている。そうわかっているのに、この男の顔が気になる自分が少し、不思議だった。


それでも一つだけ、気になることがあった。


彼の顔だ。


眉間の皺。目の下の濃い隈。乾いた唇。どれも、長い間まともに眠れていない人間の顔だった。仕事で磨り減った人間の、静かな疲弊がにじんでいた。


「わかりました」と私は答えた。


「ただ、一つだけ確認させてください。お茶を持っていくことは、邪魔になりますか」


彼は初めてこちらを向いた。


「……何?」


「お仕事中に差し入れをするのは、ご迷惑でしょうか」


短い沈黙の後、「随意に」とだけ言って執務室へ消えた。


私はランプを持って台所へ向かった。



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第二章 深夜のハーブティー

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辺境伯邸の台所は広かった。料理人も三人いた。だが夜中の一時を過ぎると、台所には誰もいない。


棚を漁り、見つけたものを一つずつ確かめた。カモミール、レモンバーム、生姜の乾燥スライス、そして小瓶のハチミツ。


(あった。よかった)


深夜の書類仕事で酷使した喉には、刺激の強いものより優しいものがいい。前世の記憶がそう教えてくれる。私はこの世界に生まれる前の記憶を、ほんの少し持っていた。どこか遠い場所で、似たような夜に温かいお茶を飲んだ記憶。あの安堵感を、今夜この人にも届けられるかもしれない。


小さなティーポットにカモミールとレモンバームをそれぞれ小さじ一杯ずつ。生姜の乾燥スライスはひとつまみ多めに——体の芯から温める力を借りたかった。


お湯は沸騰してから少し待つ。熱すぎると繊細な香りが飛んでしまうから。ゆっくりとポットに注いで蓋をして、三分。待つあいだ、台所はしんと静かだった。廊下の先から、ページをめくる音だけが聞こえた。


最後にハチミツをたっぷり、スプーンで底から溶かすように混ぜる。カップに注ぐと湯気がふわりと立ち上がり、甘い香りが暗い廊下に広がった。


執務室の扉をそっとノックすると「入れ」という低い声。


机の上には書類が山のように積まれていた。ランプの灯りが揺れる。彼は顔も上げなかった。


私はカップを机の端に静かに置いた。


「……なんだ、これは」


「ハチミツと生姜のハーブティーです。喉に優しいので、深夜のお仕事の供にいかがかと思いまして」


「いらん。下がれ」


「そうですか」と私は答えた。


そして下がった。


扉を閉める直前、背中越しに音がした。


カップを手に取る、小さな音。


(……飲んでくれた)


翌朝、空のカップを回収しに行くと、彼は机のそばで眠っていた。普段より深く、穏やかな顔で。


執事のエルンストが廊下で目を丸くしていた。


「奥様、今朝は旦那様がご自分でお目覚めになりまして。私が三度呼ばなくては起きられないのが常でしたのに、初めてのことで……」


(やっぱり)


夕刻、廊下ですれ違った彼は歩みを止めた。


「……明日も、同じものを頼む」


それだけ言って、また歩き出した。


(……はい)


私の胸の中で、何かがほんの少し、温かくなった気がした。


翌朝、台所へ向かうと、棚の中身が変わっていた。


昨日まで半端だったハーブの瓶が補充されている。生姜も、ハチミツも、新しいものに替えられていた。


「エルンスト、これは……」


「旦那様のご指示にて、今朝早くに。奥様がお使いになりやすいようにと、わざわざご指示を賜りまして」


私は棚の前でしばらく動けなかった。


昨夜、「いらん」と言って追い返しておきながら。


(……この人は)


合理的な判断だろうと、打ち消してみた。差し入れを許可した以上、準備に支障が出ないよう整えただけだ、と。


でも、やっぱり胸の中に、温かいものが残った。



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第三章 コンソメスープの奇跡

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それから一週間が経った。


ギルベルト様は相変わらず言葉が少なく、笑顔を見たことはない。朝は夜明けより早く起き、夜は日付が変わるまで執務室から出てこない。


食事を「作業」だと思っているらしかった。食べるべきものを、必要な量だけ。表情一つ変えず皿を空にして、また仕事に戻る。まるで機械のように。


ある昼、料理人のマルタが困り顔で私の部屋に来た。


「奥様、旦那様が今日も昼食はいらないと仰って……。もうずっとこのような調子で、私どもも心配しておりまして」


私は立ち上がった。


「厨房をお借りできますか」


まず牛骨と香味野菜を、オーブンでじっくりと焼く。表面に焼き色がつくことで、スープに深い色と香りが生まれる。玉ねぎは断面を直火で焦がして甘みを引き出し、人参とセロリは大きめにざく切りにした。


鍋に移して水から火にかけ、沸騰する寸前の微妙な温度を保ちながら、灰汁をひたすら丁寧にすくい続ける。急ぐと白く濁る。それだけは絶対にしてはいけない。月桂樹の葉と黒胡椒を数粒落として、さらに弱火で二時間。鍋の中がゆっくりと黄金色に変わっていくのを、私はずっと眺めていた。


(前世で一番時間をかけて覚えたのがこれだ。この透明感を出すには、焦ってはいけない)


布で丁寧に漉して、透き通った黄金色のスープが完成した。


小さなカップに注いで執務室へ運んでいくと、彼は「昼食はいらんと言った」と視線を書類から外さずに言った。


「軽食ですので」と私はカップを置いた。


「スープだけです。飲み物のようなものと思っていただければ」


そして、また下がった。


廊下でこっそり聞き耳を立てる。


数秒の沈黙。スプーンがカップに触れる音がした。


それから——しばらく間があって——また、スプーンの音。


(……全部、飲んでくれたかな)


空のカップを回収に戻ると、彼は珍しく私の顔を見た。


「……このスープは、どこで習った」


「家で作っていました。母が好きだったので」


「……そうか」


しばらく間があった。彼は何か言いたそうに見えたが、また書類に視線を落とした。でもその横顔が、さっきとほんの少し違う気がした。張り詰めていたものが、僅かに緩んだような。


その日の夜、エルンストが少し興奮した様子で教えてくれた。


「奥様、旦那様が夕食を早めにと仰いまして。このようなことは、私が仕えて以来、初めてのことでございます」


私はその夜、一人で少しだけ笑った。


(食べることを、楽しみにしてくれたのかな)



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第四章 定時退勤の謎

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それが始まりだった。


一か月が経つ頃には、辺境伯邸の使用人たちの間に奇妙な現象が起きていた。


「今日も旦那様が定時にお戻りで……」


「……先月まで外出時は、日付が変わるまで戻られなかったのに」


廊下の端でひそひそ話すメイドたちが、私に気づいていない。


ギルベルト様は確かに、最近早く帰るようになっていた。最初は「視察が短縮された」と言い、次の週は「書類を効率化した」と言い、その次は何も言わなかった。


        ◆


今日は、騎士団長のクラウス様が作戦会議のため、邸を訪れる日であった。


「……お茶は」


「今ちょうど用意しておりました」


スコーンの生地は、冷たいバターが命だ。小麦粉の中に細かく刻んだバターを指先で押し込むようにして砂状にする。温まったら終わり。だから手早く、でも丁寧に。牛乳を少しずつ加えてひとまとめにし、こねすぎずにそっと形を整える。あとはオーブンが仕上げてくれる。


ベリージャムは前日から仕込んでいた。潰したベリーと砂糖を弱火にかけ、木べらで静かに混ぜながら煮詰めて、仕上げにレモン果汁を数滴。酸味が甘さを引き締めて、ぐっと深みが出る。


焼きたてのスコーンを割ると、ほろりと崩れる断面が現れた。バターたっぷりの生地が焼ける香りが廊下まで漂っていた。


「あいつは、まだ来ない。……それまで、付き合え」


「分かりました……」


テーブルに二人で座るようになったのは、いつからだっただろう。最初は私だけ立っていた。少し前に、彼が「座れ」と短く言った。それ以来、向かい合って座る習慣ができた。


彼はスコーンを一口食べて、目を細めた。眉間の皺が、わずかに緩んだ。


「……甘いな」


「ベリーが少し多かったかもしれません。ジャムを乗せすぎましたか」


「……いや。ちょうどいい」


また沈黙が続いた。


でも以前の沈黙と違う。重くない。空気がやわらかい。


しばらくして、彼がカップを置いた。


「……台所のハーブは、足りているか」


思わず顔を上げた。彼は窓の外を見ていた。


「はい。先日から、とても充実しておりまして。あれは……旦那様が」


「随意に使え」


答えになっていない。でも、それが答えだとわかった。


「……ありがとうございます」


彼は何も言わなかった。カップを持ち直して、もう一口、静かに飲んだ。


「この邸に来て、しばらく経つな」


「はい」


「不自由なことはないか」


(……聞いてくれている)


「特には。皆さん、よくしていただいています」


「そうか」


また沈黙。でも今度は、問いかけを終えたような、満足した沈黙に見えた。


(怖い人だと思っていた。でも……)


胸の中で、何かがまた動きかけた。慌てて目を皿に落とした。


        ◆


「ギル邪魔するぞ、今夜の作戦会議は——」


と言いかけて、応接室で私と向かい合ってスコーンを食べているギルベルト様を見て、完全に固まった。


「……ギ、ギル……? お前が、スコーンを……?」


「何か問題があるか」


「い、いや……ないが……お前がそんな顔で飯を食っているのを、俺は十年で一度も見たことがない……」


「そんな顔とは何だ」


クラウス様は絶句した後、私に向かってぺこりと深く頭を下げた。


「奥様、ギルのことをどうかよろしくお願いします。本当に……本当によろしくお願いします」


ギルベルト様が「余計なことを言うな」と不満そうに言ったが、その耳がほんのわずか赤かった。


私はその耳の赤さを、見なかったことにした。


(……契約を結んでいるだけ、勘違いしてはいけない)


「仕事を始める。席を外してくれ」


「承知いたしました」


        ◆


その夜。

部屋で荷物を少し整理しながら、ぼんやりと考えた。


(期待してしまいそう……どうしよう)


彼は「愛は期待するな」と言った。契約のための結婚だ。いつかは終わる。


(でも、期待してはいけない。これは契約なのだから)


私は小さな旅行鞄に、いつか出て行く日のために必要なものを少しずつ入れ始めた。



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第五章 アデルの失敗

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「奥様は……旦那様との距離を、ご自分で作っておいでではないかと」


お茶の後、ティーカップを台所に下げていると、執事のエルンストがそっとそう言った。


「旦那様が歩み寄ろうとされるたびに、奥様がわずかに引かれる。旦那様はそれを敏感に感じ取っておいでのようで」


私は手を止めた。


(そうかもしれない)


ギルベルト様が最近、また少し無口になっていた。ティータイムは続いているが、以前より早く席を立つ。私が話しかければ答えるが、自分からは喋らない。まるで私の壁に気づいて、壁の外で黙って待っているような。


(でも……どうすればいいの)


前の婚約者の言葉が頭の隅に残っている。「君を利用できると思っていたのに」と笑ったあの顔が。夜中に一人になると、決まってその声が蘇る。ギルベルト様が優しくしてくれるたびに、その次の言葉がどんなものか怖くて、先に壁を作ってしまう。


(私は……また同じことを繰り返しているのかもしれない)


そうわかっていながら、止められなかった。怖いということと、怖いとわかっているということは、全然別のことだ。


その日の夕方、執務室から彼が出てきた時、私は思わず言ってしまった。


「今日はお疲れでしょうから、お茶は部屋にお持ちしましょうか」


彼は少し間を置いた。


「……そうしてくれ」


向かい合うテーブルではなく、一人の部屋で飲むお茶。


私はカップをドアの前に置いて、ノックだけして引き返した。


翌日から、ティータイムはなくなった。


ギルベルト様はまた遅くまで仕事をするようになった。定時退勤も、いつの間にか止まっていた。


(やっぱり……こういうものなんだ。はじめから、そういう契約だったのに。なのに、なぜこんなに……胸が痛いんだろう)


自分でつくった壁の向こうに、自分で閉じこもって、それを誰かのせいにできるわけがない。


私は旅行鞄への荷物詰めを、少し急ぎ始めた。



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第六章 赤ワインと煮込みの夜

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雨が三日続いた。


四日目の夜、視察から戻ってきたギルベルト様は、私がこれまで見た中で最も疲れた顔をしていた。泥の跳ねた外套。強張った肩。唇は白に近いほど乾いている。目を細めて玄関に立っている様子は、もうそのまま倒れてしまいそうだった。


私は何も言わずに台所へ走った。


(これを出すなら、今しかない)


朝から仕込んでいた赤ワインと牛肉の煮込みを、火にかけ直す。


三日前、塊肉を大きく切り分けて赤ワインに漬け込んだ。ローズマリーとタイムの枝を一本ずつ、潰した黒胡椒を数粒。昨朝、鍋を強火にして漬け込んだ肉の表面を丁寧に焼き付けた。全面に焦げ目がつくと、旨味が中に閉じ込められる。同じ鍋に刻んだ玉ねぎと人参を加えて甘い香りが立ったところで、漬け込み液ごとワインを注ぎ入れた。月桂樹の葉を二枚落として、あとはひたすら弱火で。


柔らかく崩れるほど煮込んだ肉の旨味が、赤ワインの香りとともに食堂に漂い始めた。料理人のマルタが「この匂いだけで、もうお腹が鳴ります」と言いながら手伝ってくれた。


彼が着替えを済ませて食堂へ来た。


「お帰りなさいませ。……本日の公務も、お疲れでいらっしゃったと思います。本日のため、丹精込めて一皿を仕上げました」


返る言葉はなく、ただ彼のまとう硬質な沈黙があった。


「……召し上がっていただけますか?」


彼は無言で椅子に座った。


私はスープ皿に盛った黒毛牛のワイン煮込みをバゲットをテーブルに並べた。


フォークを手に取り、肉をそっと崩す。


ナイフを取らなかった。必要なかったから。肉はフォークの先端だけで、ほろりと崩れた。


一口食べた瞬間、彼の手が止まった。


「……」


私は横から静かに見ていた。彼が何も言わないまま、次の一口を取るのを。そしてまた。また。


いつの間にか、彼はバゲットを千切って、ソースの残った皿の底を丁寧に拭き始めていた。完食だった。


「……旨い」


かすれた声で出てきた言葉だった。


「ありがとうございます」


彼はしばらく何も言わなかった。窓の外では雨が続いている。暖炉の火が揺れていた。


「……アデル」


初めて名前を呼ばれた。


「はい」


「お前は……ここを出て行くつもりか」


息をのんだ。


「……なぜ、そのようなことを」


「荷物をまとめているのを見た。エルンストから聞いた」


(見られていた)


「私は……その、契約なので。いつかは捨てられるので……」


「そんな期限を設けた覚えはない」


「でも、あなたは愛は期待するなと——」


「馬鹿なことを言うな」


彼は立ち上がった。机を回り込んで、私の正面に立つ。見下ろされると、眉間の皺がよく見えた。でも目が、今日は少し違う。怒っているのではない。


「私が早く仕事を終えるのが、なぜだと思っていた」


「……効率化、したと」


「違う」


沈黙。


「……お前のお茶を、飲みたかったからだ」


声が、かすかに震えていた。


(……え)


「それだけではない。お前が作る食事を食べながら、お前の向かいに座って、他愛ない話をする時間が……」


彼は途中で口を閉じた。言葉が続かないらしい。


「……居心地が良かった。初めて、そう思った。なのにお前が壁を作るから……私は、どうすればいいのかわからなかった」


私は、そこで初めて泣きそうになった。


(怖かった。でも……怖くて失いそうになっているものが、あった)


「私も……」と声が出た。


「私も、あなたの帰りを待っていました。玄関で音がするたびに、嬉しくて……仕方がありませんでした」


彼の眉間の皺が、ゆっくりと消えていった。


そのあとは沈黙が続いた。


だが、お互いの想いを整理できる時間であった。



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第七章 嵐の来訪

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翌日の午後、馬車が邸の前に止まった。


エルンストが険しい顔で私の部屋に来た。


「奥様、クレスト伯爵家のご令息と……もう一方、ロルフ侯爵家のご子息が」


私は直感した。


(兄が来た。そして……)


応接室に入ると、兄のヴィクターが立っていた。そしてその隣に、かつて私の婚約者だった男——レオナルド・ロルフ侯爵の嫡男——が座っていた。


「アデル、よかった。元気そうだな」


ヴィクターは笑っていたが、その笑顔に疲れが滲んでいた。都合の悪い時だけ現れる兄の、いつもの笑顔だ。


「……お話は何でしょう」


「直接言う。ギルベルト辺境伯との婚姻は、白紙に戻してほしいんだ」


私は言葉を失った。


「父の借金のことは、レオナルドが肩代わりしてくれると言っている。お前をロルフ家に嫁がせれば、うちは——」


「待ってください」


私は遮った。


(今になって。今になって、何を)


レオナルドが口の端を持ち上げた。昔から変わらない、自信たっぷりの笑顔だ。


「アデル、私はお前に悪いことをしたと思っている。あの縁談は父に言われて断っただけで、お前のことは——」


「嘘は結構です」


自分でも驚くほど平静な声だった。


「あなたが別の方を選んだのは、私の実家が没落しかけていたから。そうでしょう。今更、借金が返せると知って戻ってきても……」


「なんと生意気な」


レオナルドの顔が、すっと冷たくなった。


「辺境伯などという僻地の男の妻に収まって、それで満足かと思っていたが……ずいぶん高慢になったものだ」


「そちらのお嬢様は連れて帰る」


ヴィクターが私の腕を強く掴んだ。


「この婚姻は家の都合で結ばれたものだろう。解消すればいい。辺境伯もそれを望むはずだ。あの男は仕事以外に興味がないと——」


「その手を離せ」


声は廊下から聞こえた。



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第八章 辺境伯の宣言

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扉が開いた。


ギルベルト様が立っていた。


外套も着ていない。騎士服のままだ。視察から戻ってきて、すぐにここへ来たのだとわかった。廊下の端にエルンストが青い顔で立っている。


「旦那様、定時より三時間も早く……」とエルンストがつぶやいた。


ギルベルト様の眼が、氷のように冷たかった。


「もう一度言う。その手を離せ」


ヴィクターは息をのみ、手を放した。


「ギルベルト辺境伯……失礼しました。ただ、これは家族の問題でありまして——」


「私の妻のことが、なぜ他家の問題になる」


一歩、踏み込んだ。


(……妻)


部屋の空気が固まったような気がした。


ヴィクターは観念したように、早口で続けた。


「も、申し上げます。クレスト家の経営が昨年より持ち直しまして。その折に、ロルフ家より話がございました。両家の関係をより強固なものにするために、妹のアデルとレオナルド様を改めて婚姻していただければ、政治的にも経済的にも双方に利がある、と。辺境伯との婚姻は当初から家の都合によるもの。解消すれば慰謝料も——」


「解消する理由がない」


即答だった。ヴィクターが口を閉じた。


「自分たちの都合で手放し、自分たちの都合で取り戻せと言う。私の妻を何だと思っている」


レオナルドが立ち上がり、声を上げた。


「辺境伯、失礼ながら申し上げます。あなた様と彼女の婚姻は所詮形ばかりのもの。わざわざこのような僻地に縛り付けておく理由など——」


「縛り付けている?」


ギルベルト様の眉が、わずかに動いた。


「お前は今、何と言った」


レオナルドが言葉を止めた。


「私が毎日定時より早く仕事を終えて帰る理由がわかるか。夜中に目が覚めることが減り、また眠れるようになった理由が。三年ぶりに食事に味があると感じた夜のことを——お前たちには分かるまい」


部屋が静まり返った。


ギルベルト様は私に向き直った。


それまで氷のように冷たかった目が、私を見た瞬間だけ、わずかに変わった。


「アデル・ヴァルト」


名前を、呼ばれた。


(……ヴァルト)


胸の奥が、じわりと熱くなった。涙がにじみそうになって、必死にこらえた。


「お前は俺の妻だ。それは絶対に覆らない」


「……はい」


「いいな」


「……承知いたしました」


声が、わずかに震えた。それだけで限界だった。


ギルベルト様はヴィクターとレオナルドへ向き直った。


「クレスト家の経営が持ち直したことは、結構なことだ。今後も支援は変わらず続ける。だが——」


言葉を切り、ゆっくりと二人を見渡した。


「私の妻を連れ戻しに来たという事実は消えない。二度とこの門をくぐるな」


ヴィクターは蒼白になり、深く頭を下げた。


「も、申し訳……」


レオナルドがまだ何か言いたそうにした。だがギルベルト様の眼が一度向けられると、言葉を失った。見る見る縮んでいくようだった。かつて私に「残念だ」と笑ったあの口が、今は何も言えずに歪んでいる。


二人が足早に退出した後、エルンストが静かに扉を閉め、廊下へ消えた。


部屋には、ギルベルト様と私だけが残った。


長い沈黙。


ギルベルト様は私に向き直った。


「アデル。私はお前に謝らなければならない」


「え……」


「最初の夜に言ったことだ。愛は期待するな、と」


眉間に皺が寄っていた。いつもの険しい皺ではなく、困っているような、珍しい皺だった。


「……あれは、正確ではなかった。私が言いたかったのは、私には人の愛し方がわからない、ということだ。上手くできないと、そう思っていた」


彼の声が、少しだけ低くなった。


「だがお前が帰りを待っていてくれると知ってから。お前の作る食事を、食べる夜を楽しみにするようになってから」


ギルベルト様は私の前で、膝を折った。


応接室にいた全員が息をのんだ。


「……少しずつ、わかってきた気がする。これが何なのかを」


私は泣いていた。いつの間にか、涙が流れていた。


「……ギルベルト様」


彼は少し黙った後、口の端が動いた。


笑っていた。


初めて見た笑顔だった。眉間に皺がなくて、目の端に細かな皺が寄って、年相応に見えた。それだけで、涙がまたあふれてきた。


「……愛している」


「え」


彼は少し間を置いた。


「お前が作るものは、旨い。お前といる空間は、心地がいい」


彼がゆっくり、私の前に手を差し出した。


「何より、お前と一緒にいると心が休まる。安心する」

「誰かが俺のために、時間をかけて作ってくれたということが……俺には、ずっとなかった。お前が、初めてだ」


声が、わずかに詰まっていた。


「だから……わかったんだ。これが、そういうことなのだと」


私は差し出された、その手を取った。


「私も、あなたのことが好きです。帰ってきてくれる音が聞こえるたびに、嬉しくて仕方がありませんでした。お茶を出すたびに……少しでも長く、一緒にいたいと思っていました」


私は深く息を吸った。


「私は、今まで誰かの道具として扱われてきました。でも、あなたは違った」


ギルベルトの瞳が、とても優しかった。


それから、私は何も言えなかった。


言葉が出てこないのではなく、何も言わなくていいと思った。


部屋の中はしんと静かだった。暖炉の火が揺れていた。


暖炉の爆ぜる音だけが、止まったままの時間を刻んでいる。私たちはただ、部屋を満たす静寂を分かち合っていた。



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終章 余白の朝

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それから一年が経った。


辺境伯邸の台所は、相変わらず私の一番好きな場所だ。


朝、ギルベルト様が起き出す前に、ハーブティーの仕込みをする。お湯が沸く音と、生姜の香りで目が覚める朝は、今でも好きだ。エルンストが最近こっそり教えてくれた。「旦那様は奥様が台所にいらっしゃる朝は、いつもより早く起きてこられます」と。


「また早起きか」と廊下から声がした。


「お茶の準備をしていました」


「俺の分もあるか」


「もちろん、用意しております」


彼は台所の入り口に寄りかかって、腕を組んでいた。眉間の皺は、今はほとんどない。昨日まで視察でいなかったのに、昨晩もう戻ってきていた。「予定より早く終わらせた」と彼は言った。その顔が少し嬉しそうだったのは、気のせいではないと思う。


私が来てから、彼は食事を「作業」だとは言わなくなり、食事を途中で切り上げることも、なくなったらしい。騎士団長のクラウス様が先日、苦笑いで言っていた。


「アデル」


「はい」


「今夜の夕食は何にする」


「黒毛牛のワイン煮込みはいかがですか。三日前から仕込んでいますので、そろそろいい頃です」


彼が目を細めた。


(楽しみにしているんだ)


「……わかった。ならば今日は定時より少し早く帰る」


「少しって、どれくらいですか」


「……五時間ほど」


「それは定時より早いというより、お昼ですよ」


「うるさい」


彼は顔を背けた。耳が、またほんの少し赤い。


私は笑いを噛み殺しながら、飲み終えたハーブティーのカップを受け取った。


「いってらっしゃいませ」


「……ああ」


それだけ言って、玄関へ向かった。その背中が廊下の角に消えるまで、私はずっと見ていた。


窓の外に、今日も柔らかな朝の光が差し込んでいた。ハーブティーの湯気が立ち上る。台所はまだ、生姜と蜂蜜の香りで満ちている。


夕刻には煮込みを温め直そう。三日分の手間が、彼の疲れをほんの少し和らげるなら——それだけで、十分だと今の私は思う。


その夕方、玄関の扉が開いた。


「ただいま」


外套の裾に、まだ日中の風の名残がある。約束通り、いつもより少し早い時間に彼は帰ってきた。


台所から駆け出しかけて、でも少しだけ堪えて、廊下の端で待った。


「おかえりなさいませ」


彼は私を見て、少し間を置いた。


「ただいま」


それだけだった。説明も、飾りも、何もない。


でもそれで、十分だった。


暖炉の火が揺れていた。テーブルには、もうじき仕上がる煮込みの香りが漂っている。二人で食卓につく、いつもの夜が始まる。



ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました!


「『愛など不要』とおっしゃったはずの辺境伯様」、いかがでしたか?


面白かった!と少しでも思っていただけたなら、評価(下の方にある☆☆☆☆☆)やリアクションで応援いただけると、本当に飛び上がって喜びます!


また他の作品でも、お会いできることを楽しみにしております(*‘ω‘ *)

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