『愛など不要』とおっしゃったはずの辺境伯様、毎日定時に帰ってきて私の手料理を完食するのはなぜですか?
本作は、全九章で構成された異世界恋愛短編小説です。
一気に読んでいただいても、お気に入りの場面で一度閉じて続きを楽しんでいただいても、どちらも大歓迎です。どうか、ご自分のペースでゆっくりお付き合いください。(*‘ω‘ *)/
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第一章 道具でいい
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結婚式の夜、私は自分が「家具」として迎えられたのだと理解した。
ギルベルト・ヴァルト辺境伯。その名は北の要塞都市で知らぬ者のいない武将であり、政治家であり、二十八歳にして敵国三つを封じ込めた鉄壁の男だ。
婚姻の誓いを交わした直後、彼は私の顔をほとんど見なかった。祝宴の席でも、乾杯の盃を掲げる時も。隣に座っている女が誰であっても、おそらく関係なかったのだと思う。
初夜の寝室で、彼は窓の外を眺めたまま言った。
「はっきり言っておく。愛は期待するな。情も不要だ。私が求めるのは、邪魔をしない妻だ。家の管理だけを任せる。それだけでいい」
私の名はアデル・クレスト。没落寸前の伯爵家の一人娘だ。父の莫大な借金、兄の放蕩、母の長い病。そのすべてを一枚の婚姻契約書で解決してもらう代わりに、私はここへ来た。
どうやら私には、家を切り盛りする実務の才だけはあったらしい。彼はその一点のみを評価し、私を買い取ったのだ。
だから彼の言葉に傷ついたかと問われれば、正直に言えばそうでもなかった。
(わかっていた。最初からわかっていた)
今まで「道具」としてずっと扱われている。慣れている。
前の婚約者も似たようなものだった。私の実家が傾き始めた頃、他の令嬢を選んで去っていったあの人は、別れ際に笑って言った。「君を利用できると思っていたのに、残念だ」と。あの笑い声を、私は今でも時々夢に見る。
だからもう、期待するだけ無駄だとわかっている。そうわかっているのに、この男の顔が気になる自分が少し、不思議だった。
それでも一つだけ、気になることがあった。
彼の顔だ。
眉間の皺。目の下の濃い隈。乾いた唇。どれも、長い間まともに眠れていない人間の顔だった。仕事で磨り減った人間の、静かな疲弊がにじんでいた。
「わかりました」と私は答えた。
「ただ、一つだけ確認させてください。お茶を持っていくことは、邪魔になりますか」
彼は初めてこちらを向いた。
「……何?」
「お仕事中に差し入れをするのは、ご迷惑でしょうか」
短い沈黙の後、「随意に」とだけ言って執務室へ消えた。
私はランプを持って台所へ向かった。
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第二章 深夜のハーブティー
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辺境伯邸の台所は広かった。料理人も三人いた。だが夜中の一時を過ぎると、台所には誰もいない。
棚を漁り、見つけたものを一つずつ確かめた。カモミール、レモンバーム、生姜の乾燥スライス、そして小瓶のハチミツ。
(あった。よかった)
深夜の書類仕事で酷使した喉には、刺激の強いものより優しいものがいい。前世の記憶がそう教えてくれる。私はこの世界に生まれる前の記憶を、ほんの少し持っていた。どこか遠い場所で、似たような夜に温かいお茶を飲んだ記憶。あの安堵感を、今夜この人にも届けられるかもしれない。
小さなティーポットにカモミールとレモンバームをそれぞれ小さじ一杯ずつ。生姜の乾燥スライスはひとつまみ多めに——体の芯から温める力を借りたかった。
お湯は沸騰してから少し待つ。熱すぎると繊細な香りが飛んでしまうから。ゆっくりとポットに注いで蓋をして、三分。待つあいだ、台所はしんと静かだった。廊下の先から、ページをめくる音だけが聞こえた。
最後にハチミツをたっぷり、スプーンで底から溶かすように混ぜる。カップに注ぐと湯気がふわりと立ち上がり、甘い香りが暗い廊下に広がった。
執務室の扉をそっとノックすると「入れ」という低い声。
机の上には書類が山のように積まれていた。ランプの灯りが揺れる。彼は顔も上げなかった。
私はカップを机の端に静かに置いた。
「……なんだ、これは」
「ハチミツと生姜のハーブティーです。喉に優しいので、深夜のお仕事の供にいかがかと思いまして」
「いらん。下がれ」
「そうですか」と私は答えた。
そして下がった。
扉を閉める直前、背中越しに音がした。
カップを手に取る、小さな音。
(……飲んでくれた)
翌朝、空のカップを回収しに行くと、彼は机のそばで眠っていた。普段より深く、穏やかな顔で。
執事のエルンストが廊下で目を丸くしていた。
「奥様、今朝は旦那様がご自分でお目覚めになりまして。私が三度呼ばなくては起きられないのが常でしたのに、初めてのことで……」
(やっぱり)
夕刻、廊下ですれ違った彼は歩みを止めた。
「……明日も、同じものを頼む」
それだけ言って、また歩き出した。
(……はい)
私の胸の中で、何かがほんの少し、温かくなった気がした。
翌朝、台所へ向かうと、棚の中身が変わっていた。
昨日まで半端だったハーブの瓶が補充されている。生姜も、ハチミツも、新しいものに替えられていた。
「エルンスト、これは……」
「旦那様のご指示にて、今朝早くに。奥様がお使いになりやすいようにと、わざわざご指示を賜りまして」
私は棚の前でしばらく動けなかった。
昨夜、「いらん」と言って追い返しておきながら。
(……この人は)
合理的な判断だろうと、打ち消してみた。差し入れを許可した以上、準備に支障が出ないよう整えただけだ、と。
でも、やっぱり胸の中に、温かいものが残った。
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第三章 コンソメスープの奇跡
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それから一週間が経った。
ギルベルト様は相変わらず言葉が少なく、笑顔を見たことはない。朝は夜明けより早く起き、夜は日付が変わるまで執務室から出てこない。
食事を「作業」だと思っているらしかった。食べるべきものを、必要な量だけ。表情一つ変えず皿を空にして、また仕事に戻る。まるで機械のように。
ある昼、料理人のマルタが困り顔で私の部屋に来た。
「奥様、旦那様が今日も昼食はいらないと仰って……。もうずっとこのような調子で、私どもも心配しておりまして」
私は立ち上がった。
「厨房をお借りできますか」
まず牛骨と香味野菜を、オーブンでじっくりと焼く。表面に焼き色がつくことで、スープに深い色と香りが生まれる。玉ねぎは断面を直火で焦がして甘みを引き出し、人参とセロリは大きめにざく切りにした。
鍋に移して水から火にかけ、沸騰する寸前の微妙な温度を保ちながら、灰汁をひたすら丁寧にすくい続ける。急ぐと白く濁る。それだけは絶対にしてはいけない。月桂樹の葉と黒胡椒を数粒落として、さらに弱火で二時間。鍋の中がゆっくりと黄金色に変わっていくのを、私はずっと眺めていた。
(前世で一番時間をかけて覚えたのがこれだ。この透明感を出すには、焦ってはいけない)
布で丁寧に漉して、透き通った黄金色のスープが完成した。
小さなカップに注いで執務室へ運んでいくと、彼は「昼食はいらんと言った」と視線を書類から外さずに言った。
「軽食ですので」と私はカップを置いた。
「スープだけです。飲み物のようなものと思っていただければ」
そして、また下がった。
廊下でこっそり聞き耳を立てる。
数秒の沈黙。スプーンがカップに触れる音がした。
それから——しばらく間があって——また、スプーンの音。
(……全部、飲んでくれたかな)
空のカップを回収に戻ると、彼は珍しく私の顔を見た。
「……このスープは、どこで習った」
「家で作っていました。母が好きだったので」
「……そうか」
しばらく間があった。彼は何か言いたそうに見えたが、また書類に視線を落とした。でもその横顔が、さっきとほんの少し違う気がした。張り詰めていたものが、僅かに緩んだような。
その日の夜、エルンストが少し興奮した様子で教えてくれた。
「奥様、旦那様が夕食を早めにと仰いまして。このようなことは、私が仕えて以来、初めてのことでございます」
私はその夜、一人で少しだけ笑った。
(食べることを、楽しみにしてくれたのかな)
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第四章 定時退勤の謎
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それが始まりだった。
一か月が経つ頃には、辺境伯邸の使用人たちの間に奇妙な現象が起きていた。
「今日も旦那様が定時にお戻りで……」
「……先月まで外出時は、日付が変わるまで戻られなかったのに」
廊下の端でひそひそ話すメイドたちが、私に気づいていない。
ギルベルト様は確かに、最近早く帰るようになっていた。最初は「視察が短縮された」と言い、次の週は「書類を効率化した」と言い、その次は何も言わなかった。
◆
今日は、騎士団長のクラウス様が作戦会議のため、邸を訪れる日であった。
「……お茶は」
「今ちょうど用意しておりました」
スコーンの生地は、冷たいバターが命だ。小麦粉の中に細かく刻んだバターを指先で押し込むようにして砂状にする。温まったら終わり。だから手早く、でも丁寧に。牛乳を少しずつ加えてひとまとめにし、こねすぎずにそっと形を整える。あとはオーブンが仕上げてくれる。
ベリージャムは前日から仕込んでいた。潰したベリーと砂糖を弱火にかけ、木べらで静かに混ぜながら煮詰めて、仕上げにレモン果汁を数滴。酸味が甘さを引き締めて、ぐっと深みが出る。
焼きたてのスコーンを割ると、ほろりと崩れる断面が現れた。バターたっぷりの生地が焼ける香りが廊下まで漂っていた。
「あいつは、まだ来ない。……それまで、付き合え」
「分かりました……」
テーブルに二人で座るようになったのは、いつからだっただろう。最初は私だけ立っていた。少し前に、彼が「座れ」と短く言った。それ以来、向かい合って座る習慣ができた。
彼はスコーンを一口食べて、目を細めた。眉間の皺が、わずかに緩んだ。
「……甘いな」
「ベリーが少し多かったかもしれません。ジャムを乗せすぎましたか」
「……いや。ちょうどいい」
また沈黙が続いた。
でも以前の沈黙と違う。重くない。空気がやわらかい。
しばらくして、彼がカップを置いた。
「……台所のハーブは、足りているか」
思わず顔を上げた。彼は窓の外を見ていた。
「はい。先日から、とても充実しておりまして。あれは……旦那様が」
「随意に使え」
答えになっていない。でも、それが答えだとわかった。
「……ありがとうございます」
彼は何も言わなかった。カップを持ち直して、もう一口、静かに飲んだ。
「この邸に来て、しばらく経つな」
「はい」
「不自由なことはないか」
(……聞いてくれている)
「特には。皆さん、よくしていただいています」
「そうか」
また沈黙。でも今度は、問いかけを終えたような、満足した沈黙に見えた。
(怖い人だと思っていた。でも……)
胸の中で、何かがまた動きかけた。慌てて目を皿に落とした。
◆
「ギル邪魔するぞ、今夜の作戦会議は——」
と言いかけて、応接室で私と向かい合ってスコーンを食べているギルベルト様を見て、完全に固まった。
「……ギ、ギル……? お前が、スコーンを……?」
「何か問題があるか」
「い、いや……ないが……お前がそんな顔で飯を食っているのを、俺は十年で一度も見たことがない……」
「そんな顔とは何だ」
クラウス様は絶句した後、私に向かってぺこりと深く頭を下げた。
「奥様、ギルのことをどうかよろしくお願いします。本当に……本当によろしくお願いします」
ギルベルト様が「余計なことを言うな」と不満そうに言ったが、その耳がほんのわずか赤かった。
私はその耳の赤さを、見なかったことにした。
(……契約を結んでいるだけ、勘違いしてはいけない)
「仕事を始める。席を外してくれ」
「承知いたしました」
◆
その夜。
部屋で荷物を少し整理しながら、ぼんやりと考えた。
(期待してしまいそう……どうしよう)
彼は「愛は期待するな」と言った。契約のための結婚だ。いつかは終わる。
(でも、期待してはいけない。これは契約なのだから)
私は小さな旅行鞄に、いつか出て行く日のために必要なものを少しずつ入れ始めた。
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第五章 アデルの失敗
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「奥様は……旦那様との距離を、ご自分で作っておいでではないかと」
お茶の後、ティーカップを台所に下げていると、執事のエルンストがそっとそう言った。
「旦那様が歩み寄ろうとされるたびに、奥様がわずかに引かれる。旦那様はそれを敏感に感じ取っておいでのようで」
私は手を止めた。
(そうかもしれない)
ギルベルト様が最近、また少し無口になっていた。ティータイムは続いているが、以前より早く席を立つ。私が話しかければ答えるが、自分からは喋らない。まるで私の壁に気づいて、壁の外で黙って待っているような。
(でも……どうすればいいの)
前の婚約者の言葉が頭の隅に残っている。「君を利用できると思っていたのに」と笑ったあの顔が。夜中に一人になると、決まってその声が蘇る。ギルベルト様が優しくしてくれるたびに、その次の言葉がどんなものか怖くて、先に壁を作ってしまう。
(私は……また同じことを繰り返しているのかもしれない)
そうわかっていながら、止められなかった。怖いということと、怖いとわかっているということは、全然別のことだ。
その日の夕方、執務室から彼が出てきた時、私は思わず言ってしまった。
「今日はお疲れでしょうから、お茶は部屋にお持ちしましょうか」
彼は少し間を置いた。
「……そうしてくれ」
向かい合うテーブルではなく、一人の部屋で飲むお茶。
私はカップをドアの前に置いて、ノックだけして引き返した。
翌日から、ティータイムはなくなった。
ギルベルト様はまた遅くまで仕事をするようになった。定時退勤も、いつの間にか止まっていた。
(やっぱり……こういうものなんだ。はじめから、そういう契約だったのに。なのに、なぜこんなに……胸が痛いんだろう)
自分でつくった壁の向こうに、自分で閉じこもって、それを誰かのせいにできるわけがない。
私は旅行鞄への荷物詰めを、少し急ぎ始めた。
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第六章 赤ワインと煮込みの夜
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雨が三日続いた。
四日目の夜、視察から戻ってきたギルベルト様は、私がこれまで見た中で最も疲れた顔をしていた。泥の跳ねた外套。強張った肩。唇は白に近いほど乾いている。目を細めて玄関に立っている様子は、もうそのまま倒れてしまいそうだった。
私は何も言わずに台所へ走った。
(これを出すなら、今しかない)
朝から仕込んでいた赤ワインと牛肉の煮込みを、火にかけ直す。
三日前、塊肉を大きく切り分けて赤ワインに漬け込んだ。ローズマリーとタイムの枝を一本ずつ、潰した黒胡椒を数粒。昨朝、鍋を強火にして漬け込んだ肉の表面を丁寧に焼き付けた。全面に焦げ目がつくと、旨味が中に閉じ込められる。同じ鍋に刻んだ玉ねぎと人参を加えて甘い香りが立ったところで、漬け込み液ごとワインを注ぎ入れた。月桂樹の葉を二枚落として、あとはひたすら弱火で。
柔らかく崩れるほど煮込んだ肉の旨味が、赤ワインの香りとともに食堂に漂い始めた。料理人のマルタが「この匂いだけで、もうお腹が鳴ります」と言いながら手伝ってくれた。
彼が着替えを済ませて食堂へ来た。
「お帰りなさいませ。……本日の公務も、お疲れでいらっしゃったと思います。本日のため、丹精込めて一皿を仕上げました」
返る言葉はなく、ただ彼のまとう硬質な沈黙があった。
「……召し上がっていただけますか?」
彼は無言で椅子に座った。
私はスープ皿に盛った黒毛牛のワイン煮込みをバゲットをテーブルに並べた。
フォークを手に取り、肉をそっと崩す。
ナイフを取らなかった。必要なかったから。肉はフォークの先端だけで、ほろりと崩れた。
一口食べた瞬間、彼の手が止まった。
「……」
私は横から静かに見ていた。彼が何も言わないまま、次の一口を取るのを。そしてまた。また。
いつの間にか、彼はバゲットを千切って、ソースの残った皿の底を丁寧に拭き始めていた。完食だった。
「……旨い」
かすれた声で出てきた言葉だった。
「ありがとうございます」
彼はしばらく何も言わなかった。窓の外では雨が続いている。暖炉の火が揺れていた。
「……アデル」
初めて名前を呼ばれた。
「はい」
「お前は……ここを出て行くつもりか」
息をのんだ。
「……なぜ、そのようなことを」
「荷物をまとめているのを見た。エルンストから聞いた」
(見られていた)
「私は……その、契約なので。いつかは捨てられるので……」
「そんな期限を設けた覚えはない」
「でも、あなたは愛は期待するなと——」
「馬鹿なことを言うな」
彼は立ち上がった。机を回り込んで、私の正面に立つ。見下ろされると、眉間の皺がよく見えた。でも目が、今日は少し違う。怒っているのではない。
「私が早く仕事を終えるのが、なぜだと思っていた」
「……効率化、したと」
「違う」
沈黙。
「……お前のお茶を、飲みたかったからだ」
声が、かすかに震えていた。
(……え)
「それだけではない。お前が作る食事を食べながら、お前の向かいに座って、他愛ない話をする時間が……」
彼は途中で口を閉じた。言葉が続かないらしい。
「……居心地が良かった。初めて、そう思った。なのにお前が壁を作るから……私は、どうすればいいのかわからなかった」
私は、そこで初めて泣きそうになった。
(怖かった。でも……怖くて失いそうになっているものが、あった)
「私も……」と声が出た。
「私も、あなたの帰りを待っていました。玄関で音がするたびに、嬉しくて……仕方がありませんでした」
彼の眉間の皺が、ゆっくりと消えていった。
そのあとは沈黙が続いた。
だが、お互いの想いを整理できる時間であった。
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第七章 嵐の来訪
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翌日の午後、馬車が邸の前に止まった。
エルンストが険しい顔で私の部屋に来た。
「奥様、クレスト伯爵家のご令息と……もう一方、ロルフ侯爵家のご子息が」
私は直感した。
(兄が来た。そして……)
応接室に入ると、兄のヴィクターが立っていた。そしてその隣に、かつて私の婚約者だった男——レオナルド・ロルフ侯爵の嫡男——が座っていた。
「アデル、よかった。元気そうだな」
ヴィクターは笑っていたが、その笑顔に疲れが滲んでいた。都合の悪い時だけ現れる兄の、いつもの笑顔だ。
「……お話は何でしょう」
「直接言う。ギルベルト辺境伯との婚姻は、白紙に戻してほしいんだ」
私は言葉を失った。
「父の借金のことは、レオナルドが肩代わりしてくれると言っている。お前をロルフ家に嫁がせれば、うちは——」
「待ってください」
私は遮った。
(今になって。今になって、何を)
レオナルドが口の端を持ち上げた。昔から変わらない、自信たっぷりの笑顔だ。
「アデル、私はお前に悪いことをしたと思っている。あの縁談は父に言われて断っただけで、お前のことは——」
「嘘は結構です」
自分でも驚くほど平静な声だった。
「あなたが別の方を選んだのは、私の実家が没落しかけていたから。そうでしょう。今更、借金が返せると知って戻ってきても……」
「なんと生意気な」
レオナルドの顔が、すっと冷たくなった。
「辺境伯などという僻地の男の妻に収まって、それで満足かと思っていたが……ずいぶん高慢になったものだ」
「そちらのお嬢様は連れて帰る」
ヴィクターが私の腕を強く掴んだ。
「この婚姻は家の都合で結ばれたものだろう。解消すればいい。辺境伯もそれを望むはずだ。あの男は仕事以外に興味がないと——」
「その手を離せ」
声は廊下から聞こえた。
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第八章 辺境伯の宣言
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扉が開いた。
ギルベルト様が立っていた。
外套も着ていない。騎士服のままだ。視察から戻ってきて、すぐにここへ来たのだとわかった。廊下の端にエルンストが青い顔で立っている。
「旦那様、定時より三時間も早く……」とエルンストがつぶやいた。
ギルベルト様の眼が、氷のように冷たかった。
「もう一度言う。その手を離せ」
ヴィクターは息をのみ、手を放した。
「ギルベルト辺境伯……失礼しました。ただ、これは家族の問題でありまして——」
「私の妻のことが、なぜ他家の問題になる」
一歩、踏み込んだ。
(……妻)
部屋の空気が固まったような気がした。
ヴィクターは観念したように、早口で続けた。
「も、申し上げます。クレスト家の経営が昨年より持ち直しまして。その折に、ロルフ家より話がございました。両家の関係をより強固なものにするために、妹のアデルとレオナルド様を改めて婚姻していただければ、政治的にも経済的にも双方に利がある、と。辺境伯との婚姻は当初から家の都合によるもの。解消すれば慰謝料も——」
「解消する理由がない」
即答だった。ヴィクターが口を閉じた。
「自分たちの都合で手放し、自分たちの都合で取り戻せと言う。私の妻を何だと思っている」
レオナルドが立ち上がり、声を上げた。
「辺境伯、失礼ながら申し上げます。あなた様と彼女の婚姻は所詮形ばかりのもの。わざわざこのような僻地に縛り付けておく理由など——」
「縛り付けている?」
ギルベルト様の眉が、わずかに動いた。
「お前は今、何と言った」
レオナルドが言葉を止めた。
「私が毎日定時より早く仕事を終えて帰る理由がわかるか。夜中に目が覚めることが減り、また眠れるようになった理由が。三年ぶりに食事に味があると感じた夜のことを——お前たちには分かるまい」
部屋が静まり返った。
ギルベルト様は私に向き直った。
それまで氷のように冷たかった目が、私を見た瞬間だけ、わずかに変わった。
「アデル・ヴァルト」
名前を、呼ばれた。
(……ヴァルト)
胸の奥が、じわりと熱くなった。涙がにじみそうになって、必死にこらえた。
「お前は俺の妻だ。それは絶対に覆らない」
「……はい」
「いいな」
「……承知いたしました」
声が、わずかに震えた。それだけで限界だった。
ギルベルト様はヴィクターとレオナルドへ向き直った。
「クレスト家の経営が持ち直したことは、結構なことだ。今後も支援は変わらず続ける。だが——」
言葉を切り、ゆっくりと二人を見渡した。
「私の妻を連れ戻しに来たという事実は消えない。二度とこの門をくぐるな」
ヴィクターは蒼白になり、深く頭を下げた。
「も、申し訳……」
レオナルドがまだ何か言いたそうにした。だがギルベルト様の眼が一度向けられると、言葉を失った。見る見る縮んでいくようだった。かつて私に「残念だ」と笑ったあの口が、今は何も言えずに歪んでいる。
二人が足早に退出した後、エルンストが静かに扉を閉め、廊下へ消えた。
部屋には、ギルベルト様と私だけが残った。
長い沈黙。
ギルベルト様は私に向き直った。
「アデル。私はお前に謝らなければならない」
「え……」
「最初の夜に言ったことだ。愛は期待するな、と」
眉間に皺が寄っていた。いつもの険しい皺ではなく、困っているような、珍しい皺だった。
「……あれは、正確ではなかった。私が言いたかったのは、私には人の愛し方がわからない、ということだ。上手くできないと、そう思っていた」
彼の声が、少しだけ低くなった。
「だがお前が帰りを待っていてくれると知ってから。お前の作る食事を、食べる夜を楽しみにするようになってから」
ギルベルト様は私の前で、膝を折った。
応接室にいた全員が息をのんだ。
「……少しずつ、わかってきた気がする。これが何なのかを」
私は泣いていた。いつの間にか、涙が流れていた。
「……ギルベルト様」
彼は少し黙った後、口の端が動いた。
笑っていた。
初めて見た笑顔だった。眉間に皺がなくて、目の端に細かな皺が寄って、年相応に見えた。それだけで、涙がまたあふれてきた。
「……愛している」
「え」
彼は少し間を置いた。
「お前が作るものは、旨い。お前といる空間は、心地がいい」
彼がゆっくり、私の前に手を差し出した。
「何より、お前と一緒にいると心が休まる。安心する」
「誰かが俺のために、時間をかけて作ってくれたということが……俺には、ずっとなかった。お前が、初めてだ」
声が、わずかに詰まっていた。
「だから……わかったんだ。これが、そういうことなのだと」
私は差し出された、その手を取った。
「私も、あなたのことが好きです。帰ってきてくれる音が聞こえるたびに、嬉しくて仕方がありませんでした。お茶を出すたびに……少しでも長く、一緒にいたいと思っていました」
私は深く息を吸った。
「私は、今まで誰かの道具として扱われてきました。でも、あなたは違った」
ギルベルトの瞳が、とても優しかった。
それから、私は何も言えなかった。
言葉が出てこないのではなく、何も言わなくていいと思った。
部屋の中はしんと静かだった。暖炉の火が揺れていた。
暖炉の爆ぜる音だけが、止まったままの時間を刻んでいる。私たちはただ、部屋を満たす静寂を分かち合っていた。
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終章 余白の朝
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それから一年が経った。
辺境伯邸の台所は、相変わらず私の一番好きな場所だ。
朝、ギルベルト様が起き出す前に、ハーブティーの仕込みをする。お湯が沸く音と、生姜の香りで目が覚める朝は、今でも好きだ。エルンストが最近こっそり教えてくれた。「旦那様は奥様が台所にいらっしゃる朝は、いつもより早く起きてこられます」と。
「また早起きか」と廊下から声がした。
「お茶の準備をしていました」
「俺の分もあるか」
「もちろん、用意しております」
彼は台所の入り口に寄りかかって、腕を組んでいた。眉間の皺は、今はほとんどない。昨日まで視察でいなかったのに、昨晩もう戻ってきていた。「予定より早く終わらせた」と彼は言った。その顔が少し嬉しそうだったのは、気のせいではないと思う。
私が来てから、彼は食事を「作業」だとは言わなくなり、食事を途中で切り上げることも、なくなったらしい。騎士団長のクラウス様が先日、苦笑いで言っていた。
「アデル」
「はい」
「今夜の夕食は何にする」
「黒毛牛のワイン煮込みはいかがですか。三日前から仕込んでいますので、そろそろいい頃です」
彼が目を細めた。
(楽しみにしているんだ)
「……わかった。ならば今日は定時より少し早く帰る」
「少しって、どれくらいですか」
「……五時間ほど」
「それは定時より早いというより、お昼ですよ」
「うるさい」
彼は顔を背けた。耳が、またほんの少し赤い。
私は笑いを噛み殺しながら、飲み終えたハーブティーのカップを受け取った。
「いってらっしゃいませ」
「……ああ」
それだけ言って、玄関へ向かった。その背中が廊下の角に消えるまで、私はずっと見ていた。
窓の外に、今日も柔らかな朝の光が差し込んでいた。ハーブティーの湯気が立ち上る。台所はまだ、生姜と蜂蜜の香りで満ちている。
夕刻には煮込みを温め直そう。三日分の手間が、彼の疲れをほんの少し和らげるなら——それだけで、十分だと今の私は思う。
その夕方、玄関の扉が開いた。
「ただいま」
外套の裾に、まだ日中の風の名残がある。約束通り、いつもより少し早い時間に彼は帰ってきた。
台所から駆け出しかけて、でも少しだけ堪えて、廊下の端で待った。
「おかえりなさいませ」
彼は私を見て、少し間を置いた。
「ただいま」
それだけだった。説明も、飾りも、何もない。
でもそれで、十分だった。
暖炉の火が揺れていた。テーブルには、もうじき仕上がる煮込みの香りが漂っている。二人で食卓につく、いつもの夜が始まる。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました!
「『愛など不要』とおっしゃったはずの辺境伯様」、いかがでしたか?
面白かった!と少しでも思っていただけたなら、評価(下の方にある☆☆☆☆☆)やリアクションで応援いただけると、本当に飛び上がって喜びます!
また他の作品でも、お会いできることを楽しみにしております(*‘ω‘ *)




