絆
飛び降りた銀朱は瑠璃のいる壁の内側へ、難なく着地する。と、すぐに瑠璃は嬉しそうに駆け寄ってきた。
「銀朱!」
抱き着いてくる柔らかな身体を剣を持たない左手で抱き留める。
「馬鹿な子。逃げればよかったのに」
「あなたがわたくしに、祭文か男か選ばせようとするから悪いのよ。温情など向けずに最初からわたくしを祭文に掛けるべきだったわ」
「何を言うのだか。いずれにせよ、あなたは調略で私にあなたを選ばせようとするでしょうよ、謝瑠璃」
「当たり前だわ。わたくしはあなたの軍師なのだから。どんな窮地にせよ、どんな勝利にせよ、わたくしがあなたにもたらすの。だから、あなたはわたくしを傍に置かなくては」
「だから、響王よりもあなたを選んだでしょう。――さぁ、私の軍師どの、策を授けてもらうわよ。祭文を切り抜け、圭国を救うための調略を」
銀朱の言葉に瑠璃は得意げに笑った。そのときだ。廟の扉がバチリと音を立てて開く。祭文が始まる時刻になり、廟の封印が解けたのだ。暗い廟の中からずるずると、地面をはいずるような音が響いてくる。銀朱は瑠璃を庇いながら剣を構えた。が、瑠璃がすぐにその手を下げさせる。
「剣は要らないわ」
「どういうこと? 戦わなければ、私たちは蛇神に喰われてしまうわよ」
そう警告するものの、瑠璃は手にしていた剣を地面に捨てた。
「祭文に関する文書をきちんと読んだことはある? 初代圭王は、蛇神を討伐したわけではないの。圭王の娘が器一杯の自らの血を捧げ、蛇神と盟約を交わした。圭国の守護神となる代わりに夏家が続く限り蛇神を祀り、あがめていくと」
「……でも蛇神に祈るだけで、助けてくれるなんて都合のいいことがあるわけないわ。だって、今まで祭文で何人も蛇神に喰われているのよ」
「それは当然だわ」瑠璃は平然と答えた。「だって、祭文に掛けられるのは、基本的に罪人――多くの場合、謀反人よ。つまり、夏家や圭国に仇為す者。盟約に縛られた蛇神にとって、滅すべき対象だった。でも、今回は違う。蛇神の前に立っているのは、あなたよ――夏家の姫・夏銀朱」
つまり、瑠璃は蛇神を味方に付けろと言っているのだろう。
――無茶を言うわね……。
広場の中央まで出てきた巨大な蛇を見ながら、銀朱は心の中で呟いた。蛇神と言われるだけあって、相手は成人の男を丸呑みにできそうな大きさだ。蛇神の両目はザクロのような赤で、まるですべてを見透かすかのよう。口からはチロチロと長い舌が見え隠れする。このような異形の存在を前に、剣を捨てて祈るだけなんてあまりに無力だ。とてもではないが、そんなことできそうにない。
銀朱は手の中の剣を握りしめた。瑠璃が励ますように、銀朱の腰に回した腕に力を込める。
そうだ、と銀朱は思う。自分はもう、選んでしまったのだ。響王に嫁げば、圭国が無くなったとしても民だけは守れたかもしれない。だが、その道を捨て、響王との婚姻を蹴って瑠璃を選んだ――彼女が提示する未来を。もはや何かを恐れているような暇はない。勝機があるのならば、この身も魂もすべて賭けて、掴み取らなければ。
手にしていた剣を捨てて、銀朱は蛇神の目を見つめたままゆっくりとひざまずいた。瑠璃もともに地面に膝を着く。
《……覚悟ヲ決メタカ、夏家ノ姫ヨ》
頭の中に不思議な声が響いてきた。男のようでも女のようでも、老人のようでも子どものようでもある、そのいずれでもないような声。まさしく異形の声だ。
「蛇神様、かつて夏家があなたと交わした盟約を、改めて確認したく思います。私が生涯あなたを祀りますゆえ、どうか引き続きこの圭の国をお守りくださいますよう」
《ソレニハ代償ガ必要ダ。封ジラレタ我ハ何モ食ベテイナイ。魂ヲ喰ラワネバ》
「……それでは、私の、」
「蛇神様、わたくしたちの魂を、半分ずつ捧げます」
銀朱の言葉を制して瑠璃が声を発した。蛇神はわずかに目を見開き、瑠璃へ視線を向ける。
《面白イコトヲ言ウ》
「文献で読みました。かつて夏家の姫に恩のある侍女が彼女とともに魂の半分を差し出した。それで二人は寿命をまっとうし、生を終えるそのときまであなた様を祀ったと。わたくしの魂を、銀朱の魂とともに捧げます。どうか危機にある圭国をお救いください」
《……カツテ交ワシタ盟約ハ今モ生キテイル。良カロウ。二人ノ魂ヲ半分ズツ喰ラオウ》
蛇神の言葉に、銀朱は瑠璃を抱く腕に力を込めた。瑠璃もぴたりと彼女に寄り添う。蛇神は二人の前に近づいてきて、大きく口を開いた。次の瞬間、二人の身体から淡い光が立ち上り、蛇神の口の中に吸い込まれていく。
身体から力が抜ける感覚を覚えて、銀朱はふらりと地面に手を突いた。瑠璃は耐えきれなかったのか、そのまま地面にくずおれていく。銀朱は彼女を抱き留めて、自分の膝の上に抱えこんだ。蛇神はといえば、満足したのか口を閉じ、周囲を取り囲む壁の上を睨みつける。そうして、響王に向かって声を発した。
《――去レ、北ノ王ヨ。夏家ノ姫ハ生涯、我二仕エル。誰ノ妻ニモナラヌ。我ガイル限リ、コノ地ハソナタノ支配ヲ受ケヌ》
「なっ……なんだと!」
「響王様、そういうことですので、婚姻はお受けできませぬ!」
銀朱は意気揚々と壁の上に向かって叫んだ。それを聞いた響王も朝廷の重臣たちも、突然の事態に慌て始める。
《響王ヨ、特別ニ教エテヤルが、凌ガソナタノ国ヲ攻メル準備ヲシテオルゾ。イツマデモ、圭ニ関ワッテイテヨイノカ?》
「……響王様。実のところ、私は今後、婚姻することが叶いません。次代の圭王には、兄の遺児がなります。その子を産んだ兄の正妃はあなた様の妹君。響国が圭を吸収することは叶いませぬが、それでも次代のこの国はあなた様に近い存在となる。それで、満足していただけませぬか」
宥めるように銀朱が言う。響王はしばらくこちらを睨んでいたが、小さく舌打ちをして、身を翻した。それを見送って、蛇神も廟に戻っていく。
「……勝ちましたね、銀朱。青雲も、きちんと動いてくれたようです」
銀朱の膝の上で、瑠璃が満足そうに呟いた。銀朱はその頬を優しく撫でて言う。
「今回はね。でも、まだこれからよ。私の幼馴染、片割れ、最愛の軍師。私は圭国で初めて、女として王になってしまった。まだ赤子の東宮にいつか王座を渡す日まで、圭を護らなくてはならない。あなたも嫁げないわよ、蛇神様に魂を半分捧げたのだし、私の傍にいなくてはならないんだから!」
「望むところですよ、我が君!」
笑顔でそう答えた瑠璃は、身を起こして抱き着いてくる。銀朱は柔く温かな血の通うその身体を、強く強く掻き抱いた。
了




