7.
髙橋善作は目の前のモニターに映し出された人魚の姿をじっと見つめながら、ヘッドホンの奥から聞こえる彼女の歌に耳を傾けていた。
モニターの中の人魚は展示水槽の上部に設けられた擬岩に座ってしばし歌うや、思い立ったように水中へ潜り、うろうろと泳いだのちに再び岸へ上がってくる。そして、また歌う。
「……やっぱり、何か探しとる」
そんな人魚の記録映像をなおも注視しつつ、善作は皺とシミだらけの両手を伸ばして、薄くなった頭髪の上からヘッドホンをそっと下ろした。そうしながら眼鏡越しに、いつになく真剣な眼差しでパソコンの画面を見つめる。歌う人魚の動画は再生したままタスクバーに格納し、再生ウィンドウの後ろに隠れていた本日分の飼育日誌を改めて読み返した。記入者は今年から人魚の担当飼育員となった福浦夏帆だ。
妣之島水族館では十四年前の東日本大震災のあとから、飼育員たちが毎日つける飼育日誌や獣医の診察記録など、飼育生物に関するすべての記録を電子化し、クラウド上に保管するようになった。
それまで縁のなかったIT用語を理解するのには大層苦労したものの、あの震災では海沿いの立地が災いし、館が浸水の被害に遭ったためだ。おかげで当時はまだ現役だった紙媒体の記録の一部がダメになり、飼育下における人魚の研究記録もいくつか失われてしまった。
これに懲りた善作は、地震と津波の影響をもろに受けた水族館を修繕するついでに、運営体制もがらりと一新することにしたのだ。
幸い人魚のいる妣之島水族館が被災したと知るや、世界中から続々と義援金が集まったおかげで、館のデジタル化はトントン拍子に進んだ。今では来館者の入場管理も半分はインターネット経由で行っているし、セキュリティ面もかなり改善したと言える。
何より、こうしていつでもどこでも館内の記録を簡単に探し出して閲覧できる便利さは、紙の時代からは考えられない革命だ。まったく苦労して導入した甲斐があったなと目を細めながら、今やマウスの扱いにもすっかり慣れた善作は、福浦がつけていった日誌の画面をゆっくりとスクロールしながら顎を摩って「ふむ……」と息を漏らした。
「館長、お疲れ様です。お戻りだったんですね」
と、そこで社長室の入り口がノックされ、善作の意識はふと電子の世界から連れ戻される。見れば飼育展示係主任の木戸が、扉のない入り口の向こうからひょっこり顔を覗かせて、明かりもつけずに画面に見入る善作をちょっと驚いたように見つめていた。
「ああ、うん、さっき戻ったとこだ。今日の宿直は君かい」
「いえ、今日の当番は寺下と長田ですよ。私はそろそろ退勤しようかと……祭の打ち合わせはどうでした?」
「なーんもなんも。まーた協賛金ば出してけれって話だっちゃ。我々ももうギリギリの額ば払ってんだから、これ以上は出せねって言ってんのに聞がねンだ。やっとコロナ明げで客が戻ってきたとこだってのに、そんな金あるわけねえべやなァ」
「ははは、やっぱ揉めたんですね……お疲れ様でした。じゃ、ウチが参加するのは今年も変わらずクイズラリーだけって感じですかね? クーポン加盟店への参入は見送りってことで?」
「ん~、分がんね。明日、もっかい根守ンとこさ行って話す合ってくるわ。ところで今日、福浦君が事務所さヘンな子ども連れてきたって聞いだけども、君も見だっしゃ?」
「あー、閉館後に福浦が応接室に通してた子ですか? 私はちらっと顔を見ただけですけど、しばらく話し込んだあとに〝実家の手伝いをさせる〟って言って、福浦が連れて帰ったみたいですよ」
「実家っつーと、拓海君とこの民宿かや。しっかし、なしてほだごどさなったのっしゃ?」
「さあ……私が聞いたのは、とりあえず彼は島の子ではないって話だけですね。何でも、閉館時間を過ぎてもひとりでリィンの水槽前に居座ってたとか」
「ほお……リィンのとこにか」
木戸の話を聞いた善作は小さくそう呟きながら、タスクバーに収っていた動画の再生ウィンドウを改めて拡大した。そこには日中、水槽の向こうの何かを気にするようにうろうろと泳ぎ回っていたリィンの姿が記録として残っている。さらに福浦のつけていった日誌によればあの人魚は、今日は計八回も客前で歌声を披露したようだ。
普段は開館中に歌うこと自体稀なリィンが、一日に八回も。
しかもうち一回は閉館後、館内を見回っていた福浦が水槽前に差しかかったところで歌い始めたと記述されていた。だが今の木戸の証言が本当ならば、リィンが八回目の歌声を響かせていたとき、展示場には福浦だけでなく、島の外から来た子どもがいたことになる……。
「……やっと掴めるかもしんねえな」
「え? すみません、何かおっしゃいました?」
「いや、いや、何でもね。こっつの話だ。とりあえず、今日はもう上がっていいど。俺もリィンの給餌ば済ませたらすぐ帰えっから」
「あ、はい。じゃあ、お疲れ様でした。お先に失礼します」
作業着姿のままそう言ってぺこりと頭を下げた木戸は、帰り支度を急ぐべく、いそいそと男子更衣室へ引き取っていった。
それを見送った善作は館長の管理者権限を使い、今日のリィンの飼育記録一式をダウンロードすると外づけのUSBメモリに保存する。
ほどなくデータの移動が完了するや、引き抜いたUSBはジャケットの胸ポケットへ突っ込み、しっかりとボタンを閉めた。
そうしてからパソコンの電源を落として席を立ち、ちらほらと残業している従業員にねぎらいの言葉をかけつつ事務室を通り抜ける。
向かった先は、有限会社妣之島水族館の関係者と業者だけが出入りできる区画にある調餌室だった。調餌室とは読んで字のごとく、館内で飼育されている生物のためのエサを調理する台所だ。
調理と言っても、ほとんどがエサとなる魚介を食べやすい大きさに切り分けたり、ペースト状にしたり、オキアミや貝の殻を剥いたりする程度だが、飼育生物の年齢や体調に合わせて毎日エサの量や種類を調整する、いわば〝献立〟を考える作業もここで行われていた。
扉の横の電子錠を解除して中へ入れば、既に消灯されており人気はない。魚や海獣たちの夕食は、毎日飼育員が定時前に給餌を終えていくし、明日の朝食の下拵えも調餌係が定時までにしっかり終わらせていったのだろう。
善作はシンと静まり返った調餌室の明かりをつけ、ぐるりと室内を見回したのち、迷いのない足取りで奥へと向かった。
そこには飼育生物たちのエサを保管しておくための冷蔵室と冷凍室が並んでいるが、善作の目当ては前者の方だ。
分厚い金属製の扉を開けて中へ入れば、様々な魚介入りの段ボールやらバケツやらが乱雑に置かれたスチールラックの足もとに青いクーラーボックスが置かれていた。プラスチック製のボックスの蓋には、油性ペンで大きく書かれた『人魚(夕食用)』の文字。
屈んでその蓋を開けると、中には小分けにしてラップをかけられた精肉パックがふたつ入っていた。片方は今日、一日かけて庫内で自然解凍されたものであり、もう片方は退勤前の調餌係が、解凍のために冷凍室から移しておいてくれたものだ。
冷凍室から出されたてのものはまだカチカチに凍っているので、どちらが解凍済みの肉であるかは迷うまでもない。善作はそちらを手に取り、さらに冷蔵室内の棚の前へと移動した。そこから『人魚』と書かれた空のバケツを手に取り、解凍された肉をパックごと放り込む。
次いで『ホタテ』と書かれた段ボールの中から殻つきのホタテを六つほど掴み出すと、そちらもバケツへ放り込んだ。
それらを調理台へ運んだのち、いつものナイフを取り出して、慣れた手つきでホタテの殻を抉じ開ける。身が大きくてぷりぷりのホタテは宮城が誇る世界三大漁場のひとつ、三陸から仕入れているものだ。
而して殻の中身に異常がないことを確認したのち、今度は身の方にナイフを入れる。殻からははずさないまま、ハンバーガーのバンズを切る要領で、横一文字の切れ込みを入れた。
そうしてから精肉のパックを開け、スプーンを使って取り出した挽き肉をホタテの切れ込みの中へと押し込む。
リィンの好物はホタテやサザエ、カキなどの貝類なのだ。ゆえに単独で出されるとなかなか手をつけようとしない他のエサや栄養剤なども、こうしてホタテやカキの身の中に仕込めば食いつきがよくなる。
されど六つすべてのホタテに挽き肉を詰め終えたところで、善作はしばし作業の手を止め、考え込んだ。
それから少時の沈黙ののち、深くため息をついて首を振るや仕込みを終えたホタテを携え、先代館長だった父から「決して怠るな」と言われ受け継いだ、忌まわしき日課を終えるために歩き出す。
「おう、リィン。今日はご機嫌だったみてえだなや」
ほどなくリィンの展示水槽のバックヤードを訪ねれば、善作の足音を聞きつけたリィンが水中から上がってきて、乳房のあたりを覆う玉虫色の鱗を嬉しそうにキラキラさせた。
ほぼ毎日、リィンの夕食だけは館長が用意し、彼女の体調などを入念に確認しながら与えるというのが先代館長時代からのしきたりだ。
歴代の担当飼育員を信頼していないわけではないものの、人魚の存在は妣之島を潤す宝。ゆえに万が一にも失ってはならないという父の厳格な教えを、善作は今も堅く守っていた。
海洋研究家としての飽くなき探求心と、一個の人間としての「このままでいいのか」という迷いの狭間で揺れながら。
「……ほれ、今夜のメシだ。こっちさ来て食え」
善作がそう話しかけながらしゃがみ込み、運んできたバケツを床に置けば、夕食の時間だと察したらしいリィンが尾鰭を振って床に乗り上げてくる。
そこへバケツから取り出した殻つきのホタテを一枚、手渡しで差し出すと、リィンはまず自らの手で閉じたホタテを器用に開いた。
而してその中に鎮座した大振りの身を見つけるや、殻ごと自らの顔に押し当てるようにしてちゅるんと口の中へ吸い込み、咀嚼する。
一体何故かは知らないが、リィンはこうして殻ごと与えないと貝を食べないのだった。長年彼女を観察してきた感想として、人魚には恐らくタコとイルカの中間程度の知能があり、殻がなければ貝と認識できない……などということはないはずだと思う。人魚神を祭神とする湊上神社の宮司からは、過去に「人魚はあらゆるものが自然のままであることを好むのだ」などと有り難い説法を賜ったものの、果たしてそんな理由なわけがあるだろうかと、善作は今も首を拈っていた。
「……だいたい、自然のままがいいっつうんなら、いづまでも大人しく水槽さ居んのはおがしいべや」
とリィンが次々エサをたいらげていく様を見つめながら、善作は記憶の中の幼馴染みに悪態をつく。が、それに気づいたリィンが食事の手を止めて不思議そうに見つめてくるので、善作もつい、彼女のビー玉のような瞳をじっと見つめ返した。
「なあ、リィン──いや、うみ。おめえ……親父さんとこさ行ぎでえか?」
当然、人魚は答えない。彼女の無垢な瞳はただ、ただ、老いて疲れ切った孤独な男の、虚ろな眼差しを映すばかり。