5.
妣之島水族館の人魚の名は、リィンといった。
水晶でできた鈴の音のような歌声を奏でることから、人魚の飼育実現に人生を捧げた先代館長が名づけたらしい。
動物には哺乳類とか爬虫類とかいう分類があるが、人魚はいわゆる『亜人類』と呼ばれる生き物だ。亜人類には人魚の他にもギリシャのハーピーやエジプトのスフィンクス、インドのナーガなどが属しているものの、いずれも現代では急速に数を減らし、ほとんどが絶滅したと考えられている。中には文献などの記録に残っているだけで、実在したかどうか怪しい亜人類もいるようだ。
人魚はそんな亜人類の代表格であり、棲息地は世界中に散らばっている。とりわけ日本は四方を海に囲まれた島国であるため、他国に比べて人魚の棲息数が格段に多いことで知られていた。
中でもここ妣之島は、国から人魚の特別保護区に指定されるほど人魚の多い島だ。島に人が住み始めた江戸時代初期には既に人魚の棲息が確認されており、当時このあたり一帯を治めていた仙台藩主の伊達政宗から徳川家へ献上された人魚細工──人魚の鱗を使った小箱や、髪で編まれた根付など──が今も現存しているという。
……というようなことを璃久が知り得たのは、妣之島水族館の『人魚の海』エリアには、座って人魚を眺めるためのちょっとしたホールのような場所があり、そこに人魚の生態や歴史に関する解説パネルが掲示されていたためだ。妣之島水族館は現在飼育しているリィンの研究を通じて、世界的な人魚の保護活動に寄与する使命を帯びているとかで、こうした展示にもかなり力を入れているようだった。
『人魚の生態は謎に包まれており、詳しい体の構造や、繁殖方法も分かっていません。このため人魚はどんどん数を減らし、2001年には国際自然保護連合(IUCN)により、絶滅危惧IA種(ごく近い将来、絶滅する危険性が極めて高い生き物)に指定されました。今のままだと、100年後には人魚の美しい歌声を聞くことはできないかもしれません。マリンピア妣之島水族館では今後も世界中の研究者と協力し、人魚を保護するための活動を続けていきます』
壁面に掲げられた解説パネルの最後の一枚は上のような文章で締め括られ、子どもでも読めるよう丁寧に振り仮名が振られていた。
以前、リィンをたった一匹で水槽に閉じ込め、近海で暮らす仲間から引き離して飼育することに反対する動物愛護団体が、仙台の県庁前で傍迷惑なデモ活動をしていたことがあったが、これを見れば人魚の飼育が彼らを守るためにどれだけ大切なことかがひと目で分かる。
だいたい、水族館や動物園で飼われる生き物が本当に不幸かどうかなんて、飼われている当人──いや、より厳密には〝当魚〟とか〝当獣〟とか言うべきか──にしか分からないことだ。
それを人間の、しかも、ごくごく個人の主観で「かわいそう」だの「生き物を金儲けの道具にするな」だのと決めつけて喚き散らすことの馬鹿馬鹿しさに、璃久は今日、初めて気がついた。
だってここで飼われていることが苦痛でしかないのなら、人魚はあんな美しい声で歌ったりしないだろうと思うから。
『ご来場のお客様にご案内申し上げます。本館は間もなく閉館のお時間となります。お忘れ物のないようお手回り品をご確認の上、お気をつけてお帰り下さい。本日はご来場、誠にありがとうございました』
意識の外、どこか遠くでそんなアナウンスが聞こえる。けれども璃久は、さすがに客足もまばらとなった館内でなおもぼうっと座り込んでいた。『人魚の海』の観察ホールには青く塗られたプラスチック製のベンチが並んでおり、今や腰かけているのは璃久ひとりだ。
最後の来館者たちが名残惜しそうにホールを出ていく後ろ姿を視界の端に認めながら、璃久は立ち上がることもせずに目の前の水槽を見上げていた。そこでは岩場に腰かけたリィンが澄んだ歌声を響かせている。彼女は璃久が『人魚の海』に足を踏み入れた直後から、歌っては泳ぎ、泳いでは歌いを繰り返し、多くの来館者を感動させていた。
されど彼らはひとしきりリィンの歌を聞き終えると、皆、満足してさっさと『人魚の海』を去ってしまう。あれからずっとここに留まっているのは璃久だけだ。空腹も喉の渇きも、島に来た目的さえも忘れて、璃久はもう何時間もリィンの独唱に耳を傾けていた。だというのに、まるで飽きがこないのが不思議だ。何ならこのまま夜もすがら、眠る間も惜しんでリィンの歌を聴いていたいとさえ思う。
何故ならリィンの唇が奏でる歌は、歌われるたびに旋律が変わる。
すなわち人魚は一度歌ったら、二度と同じ歌は歌わない。
背後の解説パネルによれば、人魚は何故毎回異なる歌を歌うのか、また〝鳴き声〟と称するにはあまりに言語じみたあの歌が何を歌っているのかは、今もまだ分かっていないらしい。
世界中の研究者があらゆる人魚の歌を録音し、何年ものときをかけて旋律や歌詞らしきものの比較を続けているものの、やはり同じものはひとつとして存在しないのだという。
『人魚の歌は私たち人間の「言葉」と同じ、仲間とコミュニケーションを取るためのものだと考えられています。しかし仲間と交信するために歌っているのなら、鳥の鳴き声やイルカの超音波のように、ある一定のパターンが存在するはずだ、との意見もあります。今のところ、人魚の歌にそういったパターンは見つかっていません。みなさんもぜひ、リィンの歌に耳をすませてみてください』
人魚の歌は、言葉。解説の内容を頭の中で反芻しながら改めてリィンの歌に耳を傾けてみる。けれどそれは璃久の耳には、言葉というより子守唄のように聞こえる。不安がって泣く子をあやしながら、大丈夫、大丈夫と、優しく頭を撫でる母のぬくもりが、記憶の底から引きずり出されてくるような……。
──だけど、俺にそんな記憶、あったっけ。
「あの、お客様」
と、璃久がぼんやりそう自問したところで、不意に至近距離から声がした。途端にはっと我に返り、水槽上部の岩場で歌うリィンから視線を引き下ろした璃久は、いつの間にかすぐ傍に水族館の従業員らしき女が立っていることに気づく。
「申し訳ありませんが、本日はもう閉館しました。閉館後の点検などもありますので、お帰りいただけますか?」
そう声をかけてきたのは齢二十六、七歳ほどの作業服を着た女だった。足には黒い長靴を履いているところを見るに、どうやら水族館の飼育員らしい。恐らく館内に居残っている客がいないか見回りに来て璃久を見つけたのだろう。扱いに困ったように、ほんのちょっと首を傾げた彼女がまとうライトブルーのつなぎの胸もとには、より濃い青色の糸で『福浦』と刺繍されていた。
「え……あ……す、すんませんっ」
それが彼女の名前だろうか、と思うと同時に、カアッと顔に熱が上がってくるのを感じながら弾かれたように立ち上がる。
その段になってようやく、先程意識の外で聞いた館内アナウンスの意味を理解した。リィンの歌に夢中で完全に聞き流していたが、あれは閉館を告げる放送だったのだ──やらかした。
「ああ、いえ、こちらこそすみません。たまにいるんですよ、リィンに引き留められて帰るのを忘れちゃう方」
「引き……留める?」
「はい。リィンの歌、綺麗でしょう? おかげでずっと聴いてると、時間の感覚がなくなっちゃうお客様が稀にいらっしゃるみたいなんです。今日はリィンがやけに歌うな、とは思ってたんですよね」
「い……いつもは、こんなにたくさん歌わない……ですか?」
「ええ。お客様がいる時間帯に歌い出す方が珍しいくらいですよ。運よく歌ってくれたとしても、一日に一回とか、二回とか……なのでスタッフの間では、気に入ったお客様を見つけると引き留めたくて歌うんじゃないか、なんて言われてるくらいで。一応、実験の結果、人魚も人間の顔は見分けられることが分かってますし……」
璃久の予想に反し、福浦は閉館アナウンスを聞いても帰らない客がいたことに腹を立てている風ではなかった。むしろ「やっぱりね」という感じで、あっけらかんとしながらリィンの水槽を振り返る。璃久もそこでようやく彼女の歌が止んでいることに気がついた。見ればリィンはいつの間にか、岩場から水中へするりと飛び込み、こちらに向かって「気づいて、気づいて」とでも言うように忙しなく泳ぎ回っている。巨大な円筒状の水槽の中を、右へ左へ行ったり来たり。
「ほーら、リィン。リィンもそろそろ寝室に戻る時間だよ」
そんな人魚の様子を見た福浦は笑いながら水槽へ近づき、慣れた様子で硝子面に手をついた。するとリィンも嬉しそうに寄ってきて、硝子越しにそっと、水掻きのついた手を福浦の右手と重ねる。驚いた。
あれはどう見ても、水族館のスタッフである福浦を認識しての行動としか思われない。何せ璃久が数時間に渡って『人魚の海』に留まる間、同じように人魚の興味を引こうと水槽に手を触れたり叩いたりする客はたくさんいたが、リィンはそのうちの誰にも興味を示さなかった。だのに福浦が来た途端、彼女は歌うのをやめて水中へ飛び込み、逆に福浦の興味を引こうとするかのような行動を示したのだ。
ということは先刻福浦が言っていた「人魚は人間の顔を見分けられる」という話は本当なのだろう。
「あ……あの」
「はい?」
「に、人魚って、人間になつく……んですか?」
「うーん、そうですね……タコと同じくらいですかね」
「……え?」
「あ、えっと、あんまり知られてないんですけど、実はタコも人間の顔を見分けられるんですよ。で、好きな人には寄ってくるし、嫌いな人には水をかけたりもするし」
「た、タコ……が?」
「ええ。かく言う私もリィンの前はミズダコの担当だったので、よく嫌いなエサを水槽から投げつけられました。〝このエサは嫌いだって言ってるだろ!〟みたいな感じで。今のところ、リィンとは何とかうまくやれてますけどね」
そう言ってあははと笑う福浦を前に璃久は思わず目を見張り、息を呑んだ。そういえば以前何かで、動物園や水族館の飼育員は、それぞれ飼育を担当する生き物を振り分けられると聞いたことがある。
つまり飼育員全員ですべての生き物の面倒をまんべんなく見ているわけではなくて、おまえは魚、おまえはタコ、おまえはペンギン……というように、生き物ごとに専属のスタッフがつくのだ。
そして福浦は、自分の現在の担当はリィンだ、と言った。
璃久は動物を飼ったことなどないし、飼育員なる仕事のことは想像でしか知らない。けれども人魚の担当飼育員になれば、毎日ほとんどの時間を彼女と──リィンと共に過ごせたりするのだろうか?
「あ……あのっ」
そう思ったとき、璃久は、
「し……飼育員って、どうやったら、なれますか。俺でも……なれますか?」
と気づけば上擦った声でそう尋ねていた。もちろん直後になって、
──あれ。何言ってんだ、俺。
と、我に返ったことは言うまでもない。だって自分は今日、死ぬのだ。死ぬはずだ。死ぬためにここへ来た。県内でも有数の自殺の名所と謳われる産津女岬から飛び下りるために遥々海を渡ってきたのだ。
なのに、
「なれますよ」
ところが混乱した璃久の思考は、やはりどこかあっけらかんとした福浦の返事に断ち切られた。
「まあ、動物園や水族館の飼育員ってかなり倍率高いので、狭き門ではありますけど……でも、本気でなりたいと思って諦めなければ、誰でもなれます。私もそうでしたから」
「誰でも……?」
「はい。大学か専門学校に行って、獣医学とか海洋学とかを勉強すれば、飼育員になるための就職活動ができますよ。妣之島水族館は民営なので民間企業に入るのと同じ感じだけど、公営の水族館を希望する場合は公務員試験を受けることになりますね」
「大、学……」
瞬間、誰でも、という言葉を聞いて爆発的に膨らんだ期待が、一気にしぼんでいくのを璃久は感じた。大学。専門学校。いずれも中卒の璃久にはまるで縁のないものだ。そもそも璃久は中学すら満足に通っていない。義務教育だから年月が過ぎると共に自動で卒業できただけで、もう何年もまともに勉強なんてしていなかった。
だから先刻読み耽った人魚の解説パネルだって、幼児向けに振られた振り仮名がなければ半分も読めなかったのだ。そんな自分が大学まで行ってまっとうに就職するだなんて、夢のまた夢。
──だいたい、進学する学費を出してくれる親ももういないしな。
内心そう吐き捨てながら、璃久はうっすら自嘲した。
やはり何をどう考えたって、自分には未来などないのだ。
だのに何を色めき立っていたのだろう。非日常という名の熱に浮かされていた思考は、ようやく冷静さを取り戻した。
もう行こう。斜めがけしたショルダーバッグのストラップを握り締めながらそう誓い、黙然と踵を返そうとする。ところが、刹那、
「リィン」
と背を向けかけた先で、福浦が人魚の名を呼ぶのを聞いた。
思わず足を止めて振り向けば、直前まで璃久たちの目の前にいたはずのリィンの姿が消えている。彼女はまたあの岩場に戻っていた。そうして珠のごとき水飛沫をまといながら陸へと上がり、歌い出す。
優しい、優しい、喜びも悲しみも包み込むような子守唄を。
「……あの、お客様。もしかしなくても……訳あり、ですかね?」
ほどなく振り向いた福浦にそう尋ねられたとき、璃久は自分で自分が分からなくなるほど、ぐしゃぐしゃに泣いていた。何度も袖で涙を拭い、懸命に泣き止もうとしてもまったく制御がきかない。
ただ、ただ、リィンの歌声を聴くほどに込み上げてくる切なさ。痛み。苦しみ。不安。そういうものたちの濁流の中で、リィンの歌は星の標のごとく輝き、そっと寄り添ってくれる。そう感じるのだ。
おかげで、つい、死にたくない、と思ってしまった。
ほんの一瞬。けれど、確かに。