4.
よくよく思い返してみると、璃久が水族館という場所に足を運んだのは、これが生まれて初めてのことかもしれない。
小学校時代の遠足の行き先は仙台の八木山動物公園だったし、修学旅行は内陸の会津若松で、中学の修学旅行には参加しなかった。家族がまだひとつだった頃にも、旅行らしい旅行に行った記憶がない。
璃久が小学三年生に上がる頃には、両親の関係は冷え切っていて、五年に進級する直前に父と母は離婚した。
とても一家団欒の旅行などできるような家庭ではなかったのだ。
だのに何故だかほんのりなつかしいような、不思議な気持ち。そんな奇妙な感慨に包まれながら、璃久はひとりで妣之島水族館のゲートをくぐり、館内を見学していた。時折ふと思い立って、注意深くあたりを見回してみるものの、あの少女の姿は見当たらない。そもそも館内は璃久の想像とは違って薄暗く、他の客の顔を見分けるのは至難の技だった。どうも飼育されている生き物を見やすくするためにあえて館内の照明を絞り、水槽の中だけライトアップしているようだ。
ゲートをくぐった先にある屋外ホールを抜けて建物の中へ踏み込むと、まず最初に現れたのが『黒潮の海』エリア。そこでは壁の中に大小様々な水槽が埋め込まれていて、見たことも聞いたこともないような魚が何種類も展示されていた。唯一璃久にも分かったのは、タコとカニとエビくらいだ。それらもテレビやスーパーで見たことがあるから知っていただけで、生きて動いている姿を見たのは初めてだった。
しかし館内はものすごい人出で、狭くて暗い通路はほとんどぎゅうぎゅう詰めと言っていい。おかげで立ち止まって水槽を眺めていると列が閊えて後ろの客に睨まれるため、あまりゆっくりしてはいられなかった。まあ、世間は既に夏休みシーズンに入っていることを思えば当然の混雑だ。やはり来るべきではなかったかと若干の後悔を抱きつつ、璃久は人波に流されるがままに館内を進んだ。
ところが、その後も熱帯の淡水魚や生物を集めた『ジャングルゾーン』だの、ヒトデやらカブトガニやらに触れる『ふれあい広場』だのを通り過ぎ、順路に沿って二階へ続く階段に差しかかると、途端に列が進まなくなった。ただでさえ建物同様年季の入った空調設備が館内の熱気に音を上げかけているというのに、人が鮨詰めになった階段はとんでもない蒸し暑さだ。
一体何故みなここで立ち止まっているのだろうと、不快な暑さに眉をひそめながら璃久は思わず上階を睨んだ。そこでふと、相も変わらず薄暗い階段の上にぶら下がる吊り看板が目に入る。
『人魚の海』
手作り感満載の安っぽい看板に記された四文字が、渋滞の原因を教えてくれた。ああ、そうか。この階段を上った先に、お目当ての人魚の水槽があるのだ。これまで世界中の水族館が幾度となく挑戦し、されど誰にも成し得なかった人魚の飼育展示。こんなオンボロ水族館に人々が殺到する理由など、はっきり言ってそれしかない。
とすれば、ここで皆が足を止めるのも納得というものだ。
「おい、まだかよ。さっさと進めよ!」
「おかあさん、あつい~、つかれた~」
そんな野次やら子どものぐずる声やらに囲まれながら、辛抱強く待つことおよそ三十分。行列と共にじわり、じわりと進んでいた璃久はいよいよ二階に到達し、前方、黒山の人だかりの向こう側に、ひと際青く巨大な水槽の存在を認めた。
途端に水槽を囲む群衆からわあっと歓声が上がるのが聞こえる。璃久の位置からはまだ見えないものの、何かの影が水槽の中をサッとよぎったのが分かる。すると柄にもなく、璃久の心臓までドキドキと高鳴り始めた。別に人魚を見るのは今回が初めてというわけではない。
宮城に住んでいれば、テレビのローカル番組でしょっちゅう人魚の特集やら何やらを目にするし、無料で見られるネット上の動画サイトにだって人魚の動画は腐るほど上がっている──それでも。
それでも、やっぱり、生きた人魚を生で見るのは初めてで。
璃久は再び列が動き出すのを感じながら、緊張のあまりごくりと生唾を飲んだ。そうしてついに、青く光る大きな円筒状の水槽の前に立つ。瞬間、全身が総毛立った。いる。分厚い硝子の壁の向こう、そこに満たされた水の中、日の光を浴びてきらりと閃く虹色の尾鰭。
螺鈿を細く梳いたような、光り輝く長い髪。アジア人とも欧米人とも違う、いかなる人種のにおいもしない白い顔、白い肌。
そして、オパールを嵌め込んだような玉虫色の瞳。
それが、妣之島水族館にいる人魚の姿だ。
下半身は魚で、上半身は人間の女性。実は精巧に作られたCGか何かなのではないかと疑ってしまうほど、あまりに奇妙で、幻想的で、神々しさすら感じる造形の生き物だった。彼女は広い水槽の中を、空でも飛ぶような滑らかさで優雅に泳ぎ回っている。
筒状の水槽は上部が吹き抜けになっており、見上げると、水の揺らぎに合わせて波打つ空が見えた。そこから燦々と降り注ぐ夏の陽射しが、光のカーテンとなって人魚と戯れている。
ただ、水槽の構造はあまりにも無機質で、擬似的に造られた岩礁もなければ他の生物の姿もなかった。青く塗られたコンクリートと硝子の壁の中に海水を注いだだけといった感じの、風情もへったくれもない水の檻だ。璃久は沖縄の珊瑚礁のような美しい海底をイメージした水槽で、人魚が様々な海の生き物と共生する『リトルマーメイド』のような姿を勝手に想像していたから、これには少しがっかりした。
「わあ……! ほんまに綺麗~……!」
「すごいなあ。上半身はまんま人間やな」
「でも人魚って、人の言葉、喋られへんのやろ? 日本語教えても分からへんらしいし、見た目ほとんど人間やのに不思議やなあ……」
「え? けど、人魚って歌うやん。あれって人が教えてるんとちゃうの?」
「あはは! なんや、知らんの? 人魚の歌はウグイスの〝ホーホケキョ〟みたいなもんらしいで?」
「え~っ!? ってことはアレ、鳴き声なん!? せやけどめっちゃ歌やんか!」
「うん。でも、人魚の歌ってどこの国の言葉でもないし、誰に教わらんでも勝手に歌い出すんやって。ここの水族館の人魚も、運がいいとあっこに上がって歌ってくれるらしいで」
「えっ、ほんま!? 何それめっちゃ聴きたい~!」
しかしそんな璃久の落胆とは裏腹に、すぐ隣で黄色い声を上げているふたり組の若い女性がいる。璃久は生の人魚を見るのはもちろん、生の関西弁を聞いたのも生まれて初めてだった。
そこでふと、ふたり組のうちの片方が指差した先を見上げれば、璃久たちの頭上、一メートルほどの高さのところに岩場が見える。
確か人魚はイルカやアシカなどの海獣と同じ肺呼吸する生き物であるはずなので、あそこに上がって休むこともあるのだろう。
「あっ、見て、見て! こっち来た!」
ところが、直後、例のふたり組がさらに甲高い声を上げるのを聞いて、璃久もはっと視線を引き下ろした。と同時に心臓がドキリと音を立てる。何故なら落ち着きなく水槽内を泳ぎ回っていた人魚が、璃久たちの目の前まで来たところでぴたりと制止したためだ。
いや、それだけではない──目が、合った。
璃久たちの目線よりもやや高い位置。そこにゆらりと浮かんだ人魚は、まるで人間を観察するような眼差しでこちらを見下ろしていた。
一方、人魚が至近距離までやってきたことに狂喜した群衆はわあっと声を上げ、手に手にスマホやカメラを構えてシャッターを切り始める。そうして誰も彼もが目の前に浮かぶ人魚ではなく、四角く切り取られた矮小な画面に夢中になっている間。
唯一文明の利器を持たない璃久は、確かに人魚と目が合っていた。
瞬間、ヒュッと呼吸が止まったのは、オパールの瞳を七色にきらめかせた頭上の人魚が、ふっとやわらかく微笑んだためだ。
彼女は人間そっくりの手を──いや、違う。目を凝らせば指と指の間に油膜のような、透明の水掻きがある──伸ばすと、そっと硝子の壁に触れ、水槽と通路の境目にさらに顔を寄せてきた。
而して、じっと璃久を見つめたかと思えば、にわかに力強く尾鰭を振って、宇宙を目指すロケットのごとく水中を昇ってゆく。
ほどなく彼女は真珠のような水飛沫を上げて、あの岩場の上にするりと身を滑らせた。水から飛び出した勢いのまま陸へ上がる姿は、先程ペンギンホールで見かけた身軽なイワトビペンギンのようだ。
彼女はそのまま岩場の縁に座り、鱗で覆われた下半身を、ちょうど人間が脚を曲げるように行儀よく折り畳んだ。
次いで再び眼下の人間たちを見下ろすや、やはり口の端に微笑みを滲ませたまま、すぅっと大きく息を吸う。
「えっ……もしかして──」
刹那、隣のふたり組が息を呑んで零した言葉は、天井のスピーカーから流れ始めた歌声によって掻き消された。細く、高く、透明で、されど群衆のどよめきにも負けずによく通る歌声。
生まれてこの方、声楽などとはついぞ縁のなかった璃久でさえ、全身に鳥肌が立つような旋律だった。
それを人魚の唇が奏でている。璃久がまったく知らない言語で。
果たして彼女が何を想い、何を歌っているのかは分からない。
けれども人魚の喉が儚く震えるたびに、いつか何かで見かけた硝子の共振のごとく、璃久の魂にも震えが走った。
彼女の歌声は、もう何年も前から腹の底で硬く凍った、真っ黒な感情を溶かしていく。そうして浄化された何かが輝き揺れる気泡のようにゆらゆらと、璃久の肺を、気道を、鼻の奥を通り抜け、やがて人魚の歌声そっくりの透明な雫になった。
気づけばあれほど騒がしかった『人魚の海』は静まり返り、彼女の独唱だけが響いている。岩場に備えつけられているらしいマイクはきらきら光る水音と、人魚の歌声だけを拾い続けた。
それ以外の醜い雑音はすべて、世界から消えてしまったみたいに。