3.
世界的にもこれほど有名で、国内外から年に百万人を超える観光客が訪れるというのだから、妣之島水族館というのは大層立派で手入れの行き届いた建物なのだろうと、璃久は勝手にそう思っていた。
が、実際に水族館の前までやってくるや否や、その予想は悉く打ち砕かれて、ぽかんと立ち尽くしてしまったことは言うまでもない。
「うっわ。マジでクチコミどおりじゃん。ボロいな~、この水族館」
「ねー。でも一応、震災のあとにあちこち修繕されたらしいよ」
「修繕してコレなの? こんなに客が来てんのに、儲かってないんかな?」
「さあ。知らないけど、人魚飼うのってお金かかるんじゃない? なんか特別なエサとか設備とか必要そうじゃん」
「あー、そういうこと? だとしても今の時代、クラファンとかもあるんだし、もうちょっとこう見映えよくしたりする気ないのかね?」
と、建物の前まで来て固まっている璃久のすぐ横を、若い男女のそんな会話が通り過ぎてゆく。だが、彼らの言うとおりだ。これは確かに、古い。見るからに建物全体が老朽化していて、しかも思ったよりずっとこぢんまりしている。いかにも昭和の水族館といった風情だ。
さっきのカップルの会話によればここも十四年前の震災で被災したようだが、きっともっとずっと前から時間が止まっているのだろう。
しかし、次にまた東日本大震災級の地震が来たらたちまち倒壊してしまいそうな外観とは裏腹に、屋外に設けられた入場券売り場は大繁盛している。この猛暑にもかかわらず、五つある窓口はいずれも長蛇の列で埋まっていた。一応、窓口の前には陽射しを避けるためのタープテントも設営されているものの、そこから派手にはみ出すほどの人数が入場券を求めて待機している。
中にはその列を経由せずに入り口をくぐっている客もいるものの、彼らはみな一様にゲート内の装置にスマホを翳しているところを見るに、ネットで前売り券か何かを購入した人々であるようだった。
「うわ……これに並ぶのか……」
と、すさまじい熱気を立ち上らせる行列を前にすると、さすがに若干の迷いが芽生える。が、ここへ寄るためにわざわざバスを途中下車したというのに、諦めるというのも業腹だ。
ゆえに璃久は覚悟を決めて、カンカン照りの太陽の下、窓口に向かって一番右の列に並んだ。そうしながら改めて、水族館の入り口を飾るアーチ状の看板を見上げてみる。
『ようこそ マリンピア妣之島水族館』
よく言えばレトロ、悪く言えば陳腐なフォントの文字が並ぶその看板には、魚や貝、甲殻類、そして人魚のシルエットをかたどった色とりどりの装飾がくっついていた。
しかし残念なのは、看板設置からあまりにも長い年月が経ちすぎたためかいずれも色褪せ、また風雨に晒され続けた影響で、黒ずんだ雨垂れの跡があちこち残っていることだ──つまり、小汚ない。
外壁も屋根も同じような印象で、目を凝らせばところどころに細かな亀裂が入っているのも気になる。館内からは生温い風に乗って、潮の香りとスーパーの魚介売り場の香りが混ざったようなにおいも漂ってくるし、果たしてこんなところで本当に人魚が飼われているのだろうかと、璃久は何だかだんだん不安になってきた。
「ねえ、君。ひとり?」
ところが、いつもなら暇潰しに付き合ってもらうスマホも今は傍になく、手持ち無沙汰にぼうっと建物を眺めていると、突然横合いから声がした。何となく気になって振り向けば、隣り合う列同士を仕切るロープの向こうから、知らない少女が笑顔で璃久を見つめている。
それを知ってぎょっとすると同時に、混乱した。
何せ璃久がいるのは五列あるうちの右端なので、背後に別の誰かがいる可能性はない。さらに言えば、璃久の前に並んでいるのは幼い兄弟を連れた家族連れ。後ろはどこの国の言語とも知れない、謎の異国語で談笑している外国人の三人組だ。
ということはもしや、彼女は自分に向かって話しかけている?
頭がそう理解するまで、数秒の時間を要した。
が、その間も、恐らく璃久と同年代と見える少女は、何らかの期待を込めた眼差しでなおも璃久を見つめている。
「え……あ、えっと……俺?」
「うん! 君、もしかしてひとり? あたしもそうなんだ。観光?」
「う、うん……まあ、そんなとこ」
「へー! どこから来たの?」
「せ……仙台」
「えっ、ほんと!? あたしも仙台! ちょうど今朝、島に着いたとこなんだ~! 君は?」
「お、俺も……九時過ぎの船に乗ってきた」
「そうなんだ! じゃあ、さっき着いたばっかだよね? 妣之島は初めて?」
「う、うん……」
「あはは、宮城に住んでると意外と来ないよねぇ、松島! でも、ひとりで観光なんて珍しいね?」
「……そういう自分もひとりなんじゃ?」
「そうだけど、あたしは観光じゃなくて親戚ん家の手伝いに来たの! ただ、手伝いは明日からでさ。今日は一日フリーでいいよって言われちゃって、暇だったからイトコに会いに来たんだ。うちのイトコ、ここで働いてんの! だけど今朝、あたしが着いた頃にはもう出勤してて、会えなかったんだよね~」
やたらくるくると表情の変わる少女だった。黒いショートヘアに、ほどよく日に焼けた肌。動きやすそうなTシャツにデニムのホットパンツという、どことなくボーイッシュないでたち。すらりと伸びたサンダル履きの両足は健康的に引き締まっており、もし学校に通っているなら、きっと運動部員なんだろうなと璃久は思った。
しかし活発な性格なのは身なりから伝わってくるものの、だからと言ってまったく知らない赤の他人に躊躇なく声をかけるなんて、正直ちょっと変わっている。順番待ちの列がなかなか進まず退屈しているのだとしても、人見知りしないにもほどがあるのではなかろうか。
璃久としてはできれば放っておいてもらいたいのに、同じ仙台出身と判明したことで、ますます興味を持たれてしまったらしい。
こちらは黒いシャツに黒いクロップドパンツ、黒スニーカーに黒いショルダーバッグという、ひと目で根暗と分かるコーディネートで、他人とは関わり合いになりたくないと必死にアピールしているのに。
「ねーねー、ちなみに高校生? あたしは尚絅の一年! あ、もちろん高校の方ね?」
「……じゃあ、たぶん同い年だけど、こっちは中卒」
「えっ!? そうなんだ……ってことは、もしかして働いてる?」
「まあ……一応」
「えー! すごー! あたしと同い年なのに就職して社会人やってるとか、考えらんない! 偉いね!」
「……そうか?」
「そーだよ! だって普通、せめて大学出るまでは遊んで暮らしたいと思うもんじゃない? かく言うあたしもそれまでは親のスネ囓る気満々だし!」
「別に……うちは親ガチャ大ハズレだっただけだから」
「そうなの? あ……ひょっとして実家が超貧乏で、働いてお金入れなきゃいけない的な? でも、だとしたらやっぱ偉くない? だって家族のために頑張って働いてるってことじゃん!」
「いや、そういうんじゃなくて……ただ、早く独り立ちしたかったっていうか……だから、親とも一緒に住んでないし」
「えー!? じゃあもしかしてひとり暮らし!? やば、憧れる! っていうか尊敬するわ~!」
会話の間中、璃久がずっとうつむいて目も合わせようとしないのもお構いなしに、少女は爛々と目を輝かせ始めた。
おかげで璃久はいっそう居心地が悪くなり、どう反応したものかと足もとのアスファルトを見つめて目を泳がせる。そもそも璃久は同年代の、しかも女子と口をきくなんて、かなり久しぶりのことなのだ。
おまけに、偉い、とか、憧れる、とか、尊敬する、だなんて。こちらの事情も心中も知らずに、ずいぶん無責任な放言を吐いてくれる。
言うまでもなく、彼女は璃久がこの世で最も苦手とするタイプの人間だ。だって、そんなこと──今まで誰からも言われたことないし。
「ねーねー、あのさ、もしよかったら、一緒に水族館の中見て回んない? あたし、ほんとは友達連れてくる予定だったんだけど、その子が直前でコロナになっちゃって、仕方なくひとりで来ることになったんだよね。おかげでつまんなくってさー」
「わ……悪いけど」
「え?」
「俺……こういうとこ、ひとりで回りたい派だから」
「あー……そっか。だよね、じゃなきゃ最初からひとりで来たりしないよね! こっちこそ、いきなり話しかけてごめんね」
まるで気を悪くした様子もなく、むしろ申し訳なさそうに、少女は形のいい眉を下げてへにゃっと笑った。
その笑い方が直前までの闊達さとはまた違った印象をもたらして、ギクリとした璃久はそれきり黙り込んでしまう。
少女の方も、以降は話しかけてこなかった。窓口の順番が回ってくるまで、スマホを眺めて暇を潰していたようだ。
彼女の誘いに乗るべきだっただろうか?
内心そう自問して、されどすぐさま邪念を振り払った。
何しろ璃久は恐ろしかったのだ。
少女の唇が無邪気に紡ぐ耳触りのいい言葉たちが、今日、現実を飛び出してここまで逃げてきた己の覚悟を呆気なく、彼女のあの笑顔のように、ふにゃふにゃに溶かしてしまいそうで。