epilogue.
「──りっくんりっくん、見て見て! じゃじゃーん!」
と、こちらの返事も待たず、ものすごい勢いで引き戸を開けたあおいが、福浦邸二階の廊下で得意げに両手を広げてみせた。
そうして彼女が見せびらかしたのは、海の波をイメージしたと思しい模様が泳ぐ、青いグラデーションの浴衣だ。
帯留めは貝のモチーフで、飾りに人魚の鱗の根付けがついている。
対する璃久は、波と霞の紋様が描かれた甚平の丈の長さを、日路江に確認してもらっているところだった。
「あら、あおいちゃん、もう着付け終わったの? 素敵ねえ、その浴衣」
「えへへー、でしょでしょ! 去年までは夏帆姉のおさがりだったから、今年は自分の浴衣着たい! って、お母さんに無理言って持ってきてもらったの!」
「無理言って、って……なんでわざわざ……」
「だって、毎年おんなじ浴衣じゃつまんないじゃん? せっかく高校デビューしたんだし、今年からはもうちょっと大人っぽい浴衣がいいなーと思って……てか、りっくんの甚平、なつかしっ! それ、昔、航兄が着てたやつだよね?」
「そうそう。仙台でお義母さんに買っていただいたものだから、捨てられなくて取っておいたのよ。サイズも問題なさそうね」
「はい。なんか、すみません……ありがとうございます」
「ふふ、いいのいいの。甚平も久しぶりに押し入れから出してもらえて喜んでると思うわ。あとで写真を撮って、池本さんに送って差し上げたら? きっと喜んでくださると思うわよ」
「あーっ! いいねいいね、それサンセー! けど、どうせなら真愛人さんにも生で見てもらいたかったな、この浴衣……そんで〝かわいいね〟って、あの顔で微笑んでほしかったな……」
「……まあ、来年、また頑張れば?」
「えっ、来年? ってことはりっくん、来年も真愛人さんと一緒に島に来てくれるってこと!?」
「……」
「ちょっと、なんで黙るの!? 来てくれるんだよね!? ねえ、ねえ、ねえ!」
……うっかり藪蛇をつついてしまった。
璃久が内心そう思いながら失言を後悔していると、ふたりのやりとりを聞いた日路江が可笑しそうに笑い出した。
八月十三日。今日は旧盆の初日であると同時に、璃久の誕生日だ。
先日負った刀創が順調に回復し、先週末、璃久が無事退院したのを見届けた真愛人は、既に仙台へ帰っていた。
が、そんな彼から今朝早くスマホに送られてきた十六歳を祝うメッセージは、無言でスクリーンショットを撮って保管してある。
ひと足先に島を離れた真愛人と入れ替わるように、現在は里帰りに来たあおいの両親が福浦邸に滞在中だ。
以前拓海が言っていたとおり、あおいの母の白浜美波は、顔も言動もあおいにそっくりの女性だった。彼女があおいの母であり、拓海の妹だと言われて疑う者はどこにもいないに違いない。
その美波も含めた福浦家の人々から、璃久は今日、誕生日を祝われた。自分が生まれてきたことを誰かから祝福してもらえたのは、両親が離婚する前の夏以来だった。璃久は自分の誕生日の話など、島に来てから誰にもしたことがなかったのに、どうやら真愛人が島を離れる直前、拓海に耳打ちしていったらしい。おかげで昼間、今日の昼食は茶の間ではなく民宿側の食堂で取るからと言われて足を運ぶなり、クラッカーの破裂音と紙吹雪を浴びせられ、心臓が止まるかと思った。
けれどあのときの皆の笑い顔を思い出すと、笑われたという恥ずかしさや怒りではなく、自分は本当に生まれてきてもよかったのだな、という想いが胸を満たしてゆくのだから、不思議だ。
「あおいー? 璃久くんも、準備できた? そろそろ行くよー」
と、そこへ、階下から夏帆の呼ぶ声が聞こえて、あおいがすかさず「はあい!」と返事をした。今日の午後から明後日にかけて、妣之島では湊上神社を中心に、島を挙げての『人魚祭』が開催される。
初日の今日は水曜日で、今年はちょうど水族館の休館日に当たるので、夏帆も休みを取って一緒に祭へ行くことになっているのだ。
「うわっ! 夏帆姉、その浴衣、何!? 初めて見るんだけど!」
「そりゃそうでしょ。去年の夏の終わりに、たまたまセールになってるのを見かけて買ったやつだもの」
「えー! 何それ、裾のところのサンゴ礁、めっちゃキレイでカワイイ! どこで買ったの!?」
「通販よ通販。わざわざ浴衣買いに本土まで行ってられないからね」
先にあおいが階段を駆け下りて行った先から、そんな会話が聞こえてくる。璃久も日路江と並んで一階へ下りると、玄関先に佇む夏帆の浴衣姿が目に入った。紺色の生地に、あおいのものよりもさらに細かい波の模様が入った浴衣だ。
一見すると年相応の落ち着いた雰囲気に見える浴衣だが、彼女がちらと衽を捲ってみせれば、下前の裾の部分に色とりどりの珊瑚の絵柄と、泳ぐ魚のシルエットがあしらわれていた。
いかにも水族館の飼育員らしいデザインの、洒落た浴衣だ。
あおいはそれが羨ましくて仕方がないようで、夏帆の周りをうろうろしながらしきりに「いいなー、いいなー!」と騒いでいた。
「おう、お前たづ! もう行ぐのっしゃ?」
「あ、お父さん。うん、そろそろ出ようと思うんだけど、宿の方はほんとに手伝わなくて大丈夫?」
「いいっちゃいいっちゃ! 今夜はお客さんもみな祭の方さ行ぐっつうし、細けえこどは美波さ手伝わせっから……おっ。香山君、またなづかしいもんば着でんな! 何だべ、男前だごだ、似合ってっど!」
「伯父さん、あたしは!? あたしの浴衣もおろしたてなんだけど、かわいい!? ねえ、かわいい!?」
……相変わらずこの家は騒がしい。妣之島へ上陸してから間もなく三週間になろうとしているのに、璃久は未だに、彼らの騒々しさには慣れなかった。まあ、自分の人生がこんなに賑やかだったことなど、今までなかったのだから仕方がない。島での暮らしは残り二週間。
その間に少しは慣れるだろうか、と騒ぐ一家を眺めながら璃久が思案していると、背中に優しく手を添えた日路江が「楽しんでらっしゃい」と、微笑んで送り出してくれた。
「あっ、夏帆姉、館長さんたちいたよ! ほら、あそこあそこ! 館長さーん!」
「おう、来だか、あおいちゃん。何だべ、ずいぶんめんこい浴衣ば着でっこだ。福浦君と璃久君も、お疲れさん」
「お疲れ様です、館長。すみません、この暑いのに、なんかちゃっかり場所取りをお願いすることになっちゃって……」
「わははっ、どうせ暇しでたんだ、気にせんでいいっちゃ。神社まで歩いて上がってくんのも、ナギの散歩ば兼ねたいいリハビリさなっからな」
「ナギ~! 館長さんが帰ってきてくれてよかったねぇ。稲村教授と張さんも、ちょっとだけお久しぶりです!」
「ええ、そうね。何だかんだで一週間ぶりくらいかしら。香山君の怪我はもう大丈夫?」
「はい。おかげさまで……その節は、ありがとうございました」
「ていうかていうか、教授は浴衣着ないんですか? 張さんと一緒に浴衣と甚平で来てくれるの、ひそかに楽しみにしてたんですけど!」
「バカ、あおい! アメリカから来てる教授が、わざわざ浴衣なんて持ってきてるわけないでしょ? 張さんに至っては日本に来たのも初めてなんだから、バカ言わないの!」
「ちょ、夏帆姉、そんなバカバカ言わなくてもいいじゃん!? あたしだってこう見えて結構繊細なんだよ!?」
と、善作の足もとでお座りしている白柴を撫で回しながらあおいが抗議すれば、善作たちも愉快そうに哄笑した。そこは湊上神社の神楽殿前。時刻は間もなく午後六時を回ろうかという頃で、青と白の提灯が灯り始めた境内には、大勢の見物客が詰めかけていた。
麓に設けられた人魚資料館の駐車場にはたくさんの屋台が出ているし、境内ではこれから『人魚神楽』と呼ばれる、宮城で最も有名な神楽が舞われる。結局二週間前のあの事件以来、崇と斎の行方は分かっていないものの、湊上神社主宰の人魚祭は当初の予定どおり行われることになったようだ。
一方、同じく遭難しながらも一命を取り留めた善作は、璃久が退院したのと同じ頃に妣之島へ帰ってきた。幸い大きな怪我もなく、感染症に罹った様子もないと診断されて、無事退院となったそうだ。
とはいえ六十二歳と高齢の彼が、海で溺れて半日も漂流したのである。妣之島水族館の従業員一同は皆、退院後も彼を心配し、せめて盆が明けるまではと強制的に休みを取らせた。善作が先刻「どうせ暇していた」とぼやいていたのはそのためだろう。
だが、あおいの腕の中で舌を出し、ぶんぶんと尾を振るナギは本当に嬉しそうだ。善作が本土で入院している間、彼女は一時的に福浦家に引き取られていたから、ようやく本物の主人と、しかも毎日一緒に過ごすことができて、この上なく幸せなのだろう。
対する善作は口や態度にこそ出さないものの、崇の消息が分からないことに、未だ心を痛めているようだ。休みの間も毎日「ナギの散歩だ」と言って網子屋港まで足を運んでは、祈るように海を眺めているらしいと、先日夏帆が痛ましそうに話していた。
「善作さんはたぶん、崇さんば止めでやりだかったんだべな。あの人は昔っからそういう人なんだ。んだけど、人魚ば海さ放しちまっだ上に、今までのこども全部一人で抱えで生ぎていぐと決めだ以上、善作さんにとってはこっからの方が大変だべ。んだから──夏帆。おめえは妣之島水族館の従業員として、これがらもしっかりあの人ば支えでやらい」
とは、そのとき一緒に話を聞いていた拓海の言だ。
それを、夏帆も心に刻んだのだろうか。
今も善作に寄り添い佇む彼女の頭の後ろでは、簪から下がった人魚の鱗が、西日を受けてチカチカと瞬いていた。
「あ! お囃子、始まったよ!」
ほどなく神楽殿の奥から、神楽囃子の音色が聞こえてくる。
すると笛や太鼓の音に合わせ、湊上神社の伝統的な舞衣をまとったふたりの神楽女が舞い出でた。大波が描かれた錦の羽織に、青袴。
さらに袴の腰のあたりからは、数珠つなぎのごとく紐に通された人魚の鱗飾りが何本も垂れ下がり、巫女が舞うたびシャラシャラと擦れて音を立てた。加えてふたりの巫女はどちらも、本物の人魚の髪を集めて作られた螺鈿色の鬘を被っており、鈴を鳴らして踊る、踊る。
そこへ今度は青い龍の模型がうねりながら現れて、客席は喝采に包まれた。善作の解説によれば、ふたりの巫女は妣之島神話に登場する深水迦比売と産津姫を、龍は彼女たちの夫であり父である底津涅神を表しているらしい。
「...Oh my gosh. It's so amazing」
「Yeah, I agree. 髙橋館長、あの鬘はリィンの擬髪から作られたものですか?」
「いや、どうだべな。館から提供しだこどもあっけども、うぢの島では時々、浜に人魚の死骸が上がるこどがあっからやあ。ほとんどはそいづば供養すっとぎに、神社で取っておいだもんだと思うど」
「ブラッシングのときに抜けたリィンの髪は、大抵、ストラップとか根付けとかにして水族館で売ってましたもんね。あれ、結構人気商品だったんだけどなあ……」
と、団扇を扇ぎながら苦笑した夏帆の横顔は、やはりどこか寂しげだった。納得した上での別れだったとしても、もうリィンはいないのだから無理もない。
されど、たとえ水族館から人魚がいなくなろうとも、妣之島の人々は変わることなく人魚と共に生きていく。舞台の上で何度も閃く鱗の輝きが、璃久には、そんな未来を物語っているように見えた。
「……あの、稲村教授。教授は、これから、どうされるんですか?」
それからおよそ一時間後。璃久たちは海上を走る船の上にいた。船を操縦しているのは他でもない善作だ。今日の海は穏やかで、あの晩のような激しい揺れはない。周囲には他にもちらほらと、沖に向かって漕ぎ出していく船舶の影がある。今夜は日暮れと同時に花火大会が始まるため、善作が自身の船を特等席として提供してくれたのだ。
打ち上げは、島の南に浮かんだ台船から行われるらしい。
今、沖に出ている船のほとんどは、その花火を見るために出航した島民や観光客を乗せているのだろう。
夕日がきらめく海上で、そうした船影を眺めながら璃久の質問を受けた稲村は、グレースモークのサングラスをはずして言った。
「そうね。とりあえず、私と凱は、明後日には島を離れるわ。予定を繰り上げる形にはなるけれど、髙橋館長が協力してくださったおかげで、必要なサンプルはほぼ手に入ったし……せっかくこの時期に帰ってきたんだもの。日本を発つ前に、久しく足を運んでなかった母のお墓へ寄っていこうかと思ってね」
「墓参り……ですか」
「ええ。私は……本当に、親不孝な娘だったの。だからどんな顔をして墓前に手を合わせればいいのか分からなくて、ずっと忘れたふりをしてたのよ。けれど妣之島へ来て……あなたたちと出会って、考えが変わったの。私の過ちを許してほしいと言うつもりはないけれど──感謝しているわ。本当にありがとう」
落日を背に微笑んだ稲村の表情には、出会ったときのような冷たさや鋭さはもうなかった。
彼女もまた、この島へ来て生まれ変わったのだな、と璃久は思う。
妣之島。
ここは本来交わるはずのない、生と死とが溶け合う島だから。
「じゃあ、その……教授の、研究って……」
「ああ、もちろん人魚の研究は今後も続けるわよ。だって私は科学者だもの。科学者の使命は、世界の真実をひとつでも多く明らかにすること。母を死に追いやってまで選んだその使命に、今更背を向けるわけにはいかないわ。人魚の謎を解き明かすことは、同じ研究者だった父の悲願でもあったしね」
「……」
「だけど、あなたたちが当初危惧していたようなことには絶対にならない。それだけは、神に誓って約束するわ」
「……。科学者って、神様とか、そういうの……信じないと思ってました」
「ふふっ……そうね。まったく信じてなかったわよ。この島へ来るまではね」
遠い水平線を見つめながらそう言って、稲村はまぶしそうに瞳を細めた。彼女が日本語で何を話しているのか、傍らにいる張にはきっと分からなかったことだろう。
けれども彼もまた、そんな彼女をちらと見やって、安堵したように同じ水平線を眺めた。人魚の謎を最初に解き明かしてくれたのが彼女でよかったと、璃久もまた、内心胸を撫で下ろす。
「ほーら、ナギ! 花火だよ~! たーまやー!」
かくして、夏の太陽が完全に海の彼方へ隠れた頃。
妣之島花火大会は満を持して開会され、橙色から濃紺へ移ろうグラデーションの夜空に次々と、大輪の花火が打ち上げられた。
毎年、人魚をイメージして制作されるという花火の数々が、七色の光を頭上で弾けさせ、流星のごとく降ってくる。それが天空のみならず、海の波の揺らぎの上に反射するさまは、璃久が想像した以上に美しかった。甲板に座ったあおいに抱きかかえられたナギも、白い毛並みを色とりどりの光に染めながら遠吠えしている。
「……?」
ところがそのとき、夜空を震わす花火の音とナギの遠吠えとの合間に、璃久は何か、別の音を聞いたような気がした。
気になって耳を澄まし、はっとして、甲板に敷かれたレジャーシートから思わず立ち上がる。
「へっ? りっくん、どしたの?」
「……聴こえる」
「え?」
「聴こえませんか? 人魚の歌」
振り向いて璃久がそう尋ねると、皆も揃って顔色を変えた。
彼らは銘々立ち上がり、璃久を追って船縁までやってくる。
「あっ……! 見て、あそこ!」
やがて真っ先に声を上げたのは、船の手摺から身を乗り出したあおいだった。既に日は落ちてしまい、目を凝らさないと分からないが、暗い空に花火が打ち上がった瞬間、見える。あおいが指差した先、そこには海中から突き出た低く小さな岩場があった。
その上に座って、夜空を見上げる人影がある。いや、あれは人間ではない。ただ座っているわけでもない。人魚だ。一匹の人魚が、月夜に咲き乱れる花火に照らされながら歌っている。刹那、璃久の脳裏には、妣之島に来てから今日までの記憶が走馬灯のごとく駆け巡った。
それらはいずれも星屑のように輝いていて、温かい。
「リィン」
ゆえに璃久が思わず名前を呼べば、人魚がこちらを振り向いた。
果たして、彼女はリィンなのだろうか。璃久にはどうしても見分けがつかない。されど正体を見極めるよりも早く、人魚は船上の璃久たちに気づくや微笑んで、すぐに海へと飛び込んだ。
虹色に瞬く尻尾が、虹色にきらめく水面を叩いてするりと消える。
それはきっと、別れの挨拶だった。
最後に聴いた彼女の歌は、やはりどこまでも透徹な、玻璃の鈴のようだった。
(完)
参考・引用文献:
マイケル・レヴィン「Life after Death: in Another World, at Another Scale.」Thoughtforms (ブログ), 2024年
(URL:https://thoughtforms.life/life-after-death-in-another-world-at-another-scale/)
聖書「箴言 21章12節」
英語訳『New American Standard Bible』1995年
日本語訳『口語訳聖書』日本聖書協会、1955年
ジム・クウィック『Limitless: Upgrade Your Brain, Learn Anything Faster, and Unlock Your Exceptional Life』Hay House Inc. 2020年




