20.
妣之島には、客船などを受け入れる西部の成瀬港と、漁船が集まる南東部の網子屋港のふたつがある。このうち、比較的産津女岬に近い網子屋港には、時折人魚が姿を見せることがあった。
特に港の東端、波止場と海岸の境界より先は岩礁になっていて、泳ぎ疲れた人魚たちが岩に上がってひと休みしている光景を稀に見ることができるのだ。そして彼女らは陸に上がると、気まぐれに歌う。
父の拓海は十四年前の東日本大震災のあと、よく網子屋港へ行ってその歌を聴いていた。太平洋に向かって突き出た細長い埠頭の縁に腰かけては、日が暮れるまでぼんやりと岩礁を眺めて過ごすのだ。
津波が生んだ災害ゴミが粗方片づけられ、港が機能を取り戻し、海水を被った家々の解体もようやく済んで、やっと震災前の日常が少しずつ戻ってきた、という頃のことだった。
「親父さあ……あのまま海に飛び込んだりしないよな? 最近、気づくとふらっといなくなってるから、さすがに心配なんだけど」
当時、父のいないところで、兄の航がよくそんな不安を零していたことを思い出す。あの頃、兄は高校受験を控えていたから、彼も彼で色々と不安定な時期だったのだろう。兄がそうやっておどかすものだから、夏帆も次第に不安になって、父の姿が見えなくなるとよく網子屋港まで迎えに行った。そうして脱け殻のように座り込む父の隣に自分も腰かけ、よくふたりで海を眺めたものだ。
父娘の間に、会話らしい会話はなかった。それでも、夏帆は構わなかった。ただ、父が優しかった祖父や伯父のように、ある日突然いなくなってしまうことが恐ろしかったのだ。だから同じ時間を共に過ごすことで、父はまだここにいると確かめたかった。そして自分もまだここにいると、父に思い出してほしかった。忘れないでほしかった。
「……夏帆。おめえ、将来は何さなりてんだ?」
そんなある日、太陽がそろそろ西の水平線へ潜ろうかという頃に、父からそう尋ねられたことがある。夏帆はちょっと考えたのち、
「分かんない。まだ決めてないよ」
と、セーラー服のスカートから覗く両足を、無意味にパタパタさせて答えた。
「……親に遠慮してんだったら、ほだごど考えねぐていいんだど。人生ってのはなあ、一度きりだ。いづ、どこでいぎなり終わっか分がんねんだ。んだから、おめえもおめえのやりでえごどをやっだらいいっちゃ」
「うん……」
「なんかあんのか? やりでごど」
「分かんない。私、何となくだけど……将来はお父さんたちのお店を手伝うことになるんだろうな、って思ってたから。航はたぶん、本土に行っちゃうんだろうし……そしたら私がお婿さんを取って、お父さんたちの店を継ぐのかなって」
「……それが、おめえのやりでごどだったのか?」
「うーん……ほんとにやりたかったのかって言われると、違うかもだけど。でも、そういう人生もいいかもなって、ずっと思ってたよ」
「……んだか」
「お父さんはなんかないの? やりたいこと」
「……俺か?」
「うん。だって、人生まだまだこれからでしょ。店はなくなっちゃったけど……たとえば、今度は本土で新しい店を始めるとかさ」
オレンジ色にキラキラ光る波間に目を落としながら、中学生の夏帆は言った。福浦家は家こそ無事だったが、父と母がふたりで切り盛りしていた食堂は跡形もなくなってしまったし、役所から受け取った義援金も、命をつなぐ足しにはなっても、新しい人生をもう一度始められるほど潤沢でないことは当時の夏帆も理解していた。
けれどたとえば自分が大学へ行くことを諦めて、高卒で働きに出れば父と母を助けられるのではないか。それが自分の「やりたいこと」ではないか。拙いながらに、そんな思いを巡らせたこともある。
夏帆はあの震災を経て、家族が元気で笑っていてくれたなら、自分はたぶん、それだけで充分なのだと理解したから。
「そうだなぁ。俺は……」
だから、父がせめてもう一度、生きる理由を見つけてくれたら。
そう思って紡いだ言葉に、拓海が何か答えようとしたときだった。
ふたりが腰かけた場所からそう遠くないところで、突然、パシャリと水の弾ける音がする。はっとして顔を上げた夏帆は直後、驚きのあまり絶句した。何故ならそこに人魚がいたのだ。
遠い岩礁の上ではない。父娘が腰かけた埠頭から、五メートルほど離れた水面に顔を出し、人魚はこちらを見つめていた。下半身はすっかり水中に隠れていたから、人魚を知らない者が見たら、沖から泳いできた人間が海中から現れたと思ったかもしれない。しかし妣之島で生まれ育った夏帆は、見間違えるはずもなかった。人魚は皆リィンと同じ、螺鈿を梳いたような髪をしていると知っていたから。
「お、お父さん、人魚!」
が、さすがの夏帆も、これほど近くで野生の人魚を目撃したのは初めてのことだったので、思わず立ち上がって人魚を指差した。
そんなことをしなくたって、父も気がついていただろうに。
現に拓海の視線は既に人魚を向いていて、両者はしばし無言で見つめ合った。かと思えば、人魚は不意にクルルッと喉を鳴らし、まるでなつかしいひとと再会したかのように、愛おしそうに目を細める。
一拍ののち、人魚はすぅと大きく息を吸い込むや、夕空に向かって歌い始めた。長い睫毛に縁取られた瞳を閉じて、セピア色に染まった空に吸い込まれてゆくような、透明な歌声を響かせる。
彼女たちが何のために、何を歌っているのかは今も知らない。
それでも、夏帆の頬には涙が流れた。
人魚の歌声はどこかなつかしく、温かで、何故だか祖父が生きていた頃、幼かった自分を抱き上げてくれたときのことを思い出した。
「夏帆、お前は本当にめんこいなや。拓海さ似なぐて良がったなぁ。あいづは誰に似だんだか、落ち着ぎねぐてダメだ。んだから、お前もおっきぐなったら、日路江さんば見習っで、しっかりあいづの尻ば叩いでやんだど」
日焼けした顔をくしゃくしゃにしながらそう言って、笑っていた祖父の声が甦る。
本当にすぐそこに、あの日の祖父が帰ってきてくれたみたいに。
「……お父さん、」
人魚の歌を聴いて、こんな気持ちになったのは生まれて初めてのことだった。ゆえに止まらない涙に困惑し、どうしたものかと震える声で父を呼んだ。けれども次の瞬間、夏帆は息を飲んで沈黙した。何故なら、歌う人魚を見つめた父の頬もまた、涙で濡れていたから。
「……俺はまだ、こごさ居でえなあ……」
「え……?」
「また、この島でやり直してえ……こごさ居っど、昔のこどばっか思い出して、つれえんだけどよ。んだけど、やっぱり……親父とお袋が居た島ば離れたぐねえ。忘れたくねんだ……」
それは父にとって、茨の道ではないのかと夏帆は思った。
失ったものの記憶ばかりが散らばる島で、その破片を踏んでは血を流しながら、逃げずに留まり続けるというのは。
されど、同時に嬉しかった。父が島に残りたいと言ってくれたことが、何だか無性に嬉しかった。だからあの日、
「いいんじゃない? だって、人生は一度きりなんでしょ?」
と、笑ってそう言ったのだ。
すると、歌い終えた人魚も満足げに微笑んで、くるりとふたりに背を向けた。直後には再び水に潜り、二度と姿を現さなかった。
けれど、夏帆は今でも覚えている。最後の瞬間、別れを告げるように海面を叩いた人魚の尻尾の、虹色の瞬きを。
♪
今にして思えば、夏帆が水族館の飼育員を志すようになったのは、あの出来事がきっかけだったのかもしれない。
父から尋ねられた「やりたいこと」を考え続けた結果、夏帆はいつしか、絶滅の危機にあるという人魚を守りたいと思うようになった。
それが妣之島を守ることにもつながると、そう考えたからだ。
ゆえに大学を卒業後、何度採用面接に落ちようと、めげずに夢へ挑み続けた。父と母が新たに始めた民宿を手伝いながら。
だから夏帆は、認めない。認めたくない。
森谷樹里。高校に入ったときからずっと一緒だった、一番の親友。
彼女を殺したのが、人魚だなんて。
夏帆は絶対に、認めない。
※めんこい:宮城弁で「かわいい」「愛おしい」の意。




