1.
※この作品は、東日本大震災に関する描写を含みます。ご注意ください。
その夏、人魚に恋をした。
彼女の名は、リィン。
名前のとおり、リィンは水晶でできた鈴のような声で歌う。
分厚い硝子の向こうから響く人魚の歌声は透明で、無邪気で、伸びやかで、だけどどこかちょっと切ない。
そんな彼女の歌声に、俺はすっかり魅了されてしまったんだ。
だってリィンの歌声は、全部壊れてガラクタみたいになった俺の人生の中で唯一、美しい、と思えたものだったから。
♪
自殺するなら、海がいい。
何故そんな風に思ったのかは、璃久自身にもよく分からない。
夏。照りつける太陽の下、白波を立てて進む水上バス『梵天丸』の窓辺にぼうっと頬杖をつきながら、璃久は翼を広げてご機嫌に歌うウミネコの群を眺めていた。優に二百名以上が乗り込める『梵天丸』の客席は、海開き直後の時期なのも手伝って満員だ。
むしろ乗船予約が殺到するこの時期に、単身とはいえよく滑り込めたものだなと、璃久は己の強運に感心していた。
ろくに下調べもせず衝動に任せてやってきたというのに、たまたま予約にキャンセルが出たからという理由で乗せてもらえるなんて、これまでの自分の人生からは考えられないラッキーだ。ひょっとしたら今の今まで下振れし続けてきた分の揺り戻しが、今頃のこのことやってきたのかもしれない。まあ、今更来たところで手遅れだけど。
空調をも麻痺させるほどの熱気に包まれた船内はとても賑やかだった。誰も彼もがこれから向かう神秘の島への期待に胸を膨らませ、一緒に乗船した家族や友人や恋人と楽しげに談笑している。
ひと目で外国人と分かる乗客の姿も多く、船内では絶え間なく、多言語が無秩序に投げ交わされているような状態だ。
そのあまりの賑々しさに璃久は耳を塞いでしまいたかったが、あいにくスマホは寮のトイレに沈めて置いてきてしまった。
おかげでいつものようにヘッドホンを深く被り、場違いな自分と世界とを隔絶することができない。ゆえに仕方なく、ここはおまえの居場所じゃないよと笑うようにチカチカ光る波間を睨んで、じっと素知らぬふりを決め込んでいるのだ。振り向けばすぐそこまで迫っているのではないかと震えが来るほどの、恐怖や焦燥や後ろ暗さに。
『お客様にご案内申し上げます。本船は間もなく妣之島、妣之島へ到着いたします。着岸の際、船が大きく揺れる場合がございますので、お立ちのお客様は座席にお戻りいただくか、手摺にしっかりとお掴まり下さい。Attention please……』
そうして船着き場を離れてから、どれほどの時間耐え忍んだだろうか。不意に意識へ滑り込んできた船内アナウンスではっと我に返った璃久は思わず、窓辺に身を乗り出した。
ひんやりとした硝子に頬を押しつけると、船の進行方向に見え始めた島影に、ここへ来た目的も忘れて胸が高鳴る。
「あれが、妣之島……」
宮城県松島町の観光船発着場から東へ二キロ。
無数に浮かぶ松島群島の東端に妣之島はある。
別名──『人魚島』。
そう、そこは日本が誇る世界有数の人魚の棲息地。
そして人類史上唯一の、人魚を飼育する水族館がある島だ。