そばつゆの郷愁
しいなここみ様『麺類短編料理企画』参加作品
K社の広報部のオフィスに営業部の山本がドカドカと入り込んで来た。
「世良いる?あっ、いたいた!頼む、お前の知恵と無駄知識を貸してくれ!」
そう言いながら、山本は世良が作業をしていたデスクまで来る。
「貸したくない言い方っすね・・・」
呼ばれて世良はムスっとする。
「すまん。大口の取引が掛かっているんだ。頼むよ」
そう言って山本は事情を説明した。
取引先の社長が無類の蕎麦好きで、彼を満足させる蕎麦を食べさせたら大口の取引に繋がるとのこと。
「なんですか?そのグルメ漫画みたいな条件。。。もっと真面目に仕事してください!」
と世良。
「真面目だよ。糸魚川社長は真面目に不真面目なんだ」
「糸魚川さん?めずらしい名字ですね。新潟出身なんですか?」
糸魚川は新潟にある地名だ。
「そう。お前同郷だろ?なんか新潟人が好む蕎麦を教えてくれよ。知ってる名店はどこ連れて行ってもダメなんだ」
山本は拝むゼスチャーをする。
「そんなこと言ってもなぁ・・・新潟と言っても広いし、それに新潟県民は別に蕎麦に拘りないですよ・・・しいて言えば、万代シティバスセンターの立ち食い蕎麦ですかね?」
「それは新潟市限定だろ?社長は新潟市出身じゃないんだ。ちなみに、へぎ蕎麦は試したけどダメだった」
へぎ蕎麦とは、蕎麦のつなぎに海藻を練りこんだものである。
「あれは、地元民は特別好んで食べないですよ。あとはどんなもの試したんですか?」
世良が尋ねる。
「ひょっとして家庭料理かと思い、蕎麦つゆを自作してみた。地元の醤油や越乃寒梅などを贅沢に使い、我ながら会心のものが出来たんだけど・・・」
「けど?」
「旨いけど、これじゃないと言われた」
「でしょうね。そんなことする新潟県民は見たことない。だいたい越乃寒梅は端麗にもほどがあるから蕎麦つゆには向かないんじゃないかな・・・料理酒を贅沢に使うなら鶴の友とかの方が・・・あっ、こんなのメモらないでください!」
ペンを取り出した山本を慌てて世良が制する。
「なんで?なんか試した経験ありそうじゃないか?」
「ありますけど、趣味です。地元民はそんなことしません。。。あっ!」
世良が何かに気が付いた。
「分かったかもしれません!」
後日、糸魚川社長はK社の社員食堂に招かれた。
「どうぞ」
世良が出したものは、金笊に山盛りの蕎麦、それにガラス製の透明な椀に入ったそばつゆ、そして輪切りの長ネギと山葵だ。
「ほう」
それだけ言うと、糸魚川社長は蕎麦をたぐってつゆに浸し、勢いよく啜った。
ほぼ咀嚼せず飲み込むと、椀に口を付けて、つゆを一口味わう。わずかに社長の口角が上がったように見えた。
「いかがでしょう?」
と世良。
「悪くないですね。しかし、私には少し薄いかな」
「かしこまりました。それではお好みで」
そう言って世良が差し出した物を見て、糸魚川社長は感嘆の声を上げる。
「おおっ!これこれ!よく分かりましたね!」
世良が差し出したのは市販品と思われるめんつゆ、そしてグラスに入った水だった。
それらを糸魚川社長は自身で希釈し、すさまじい勢いで蕎麦を食べ始めた。
「これは何だ?」
山本はめんつゆのボトルを手に取って眺めた。
「甲信越地方で愛用される『ビミサン』というめんつゆです」
「そんなに旨いのか?」
「旨いけど、ビックリするほどじゃないですよ」
そう言って世良は別の器に少量入れたビミサンを差し出した。
「たしかに」
舐めてみた山本は、これの何がいいんだ?という顔をした。
「初見だとそんなにインパクトないでしょ?香りも甘さも他に比べて控えめですから。でもこれが良いんですよ」
糸魚川はすっかり上機嫌で、饒舌になる。
「クセが強くないから、どんな料理にも使えるんです。醤油代わりに使えばだいたいの物が旨くなるから、地元じゃ何にでもこれを使います。納豆、冷奴、卵かけご飯に炒飯、丼もの、それに・・・」
「こんなのですよね」
世良が小皿を差し出した。
「そうそう!このホウレンソウにカツオ節とビミサンかけただけのヤツ!」
糸魚川社長は狂喜する。
「何にでも使うから、この味が舌に染みついているんですよ。自分もオフクロの味ってこれのことです」
世良が言った。
「本当にそうです。都会の人は田舎の家庭料理というと、手の込んだ伝統料理みたいなのを想像するんですよね。でも今時そんなことしませんよ。これが家庭の味です」
糸魚川の言葉に世良が何度も頷く。
その後も二人は意気投合し、ビミサンレシピの話で盛り上がった。
取引は無事成功した。
その後K社の営業部では全国のローカルめんつゆが、ちょっとしたブームになるのだが、それはまた別の話。
ー了ー
実際、自分は地元を離れて久しいですが、たまに通販でビミサン買ってます。