努力は裏切らない
「ごめんなさい、ラカン……私」
震える声だった。
旅支度を終えたイザベラは、今にも泣き出しそうな顔で俺を見つめている。
けれど、その瞳の奥に宿る決意だけは揺らいでいなかった。
「いいんだ、イザベラ」
俺は無理やり笑った。
「君が決めたことだ。だったら俺は応援する。勇者様を支えてあげてくれ」
「……うん」
イザベラが唇を噛む。
白い指が、胸元の聖印を強く握りしめていた。
聖女。
世界に災厄をもたらす魔王を討つため、神に選ばれた存在。
幼い頃からずっと一緒だった彼女は、遠い場所へ行こうとしている。
「あなたと離れるのは辛いけど、私、頑張るから。だから……」
潤んだ瞳がまっすぐ俺を射抜いた。
「戻ってきたら、結婚しようね」
胸の奥が、熱く痛んだ。
「ああ。約束だ」
「手紙、ちゃんと書くから」
「……待ってる」
言葉にした瞬間、喉が詰まりそうになった。
本当は行ってほしくなかった。
ずっと隣にいてほしかった。
でも、それを口にして彼女を困らせることだけはしたくなかった。
「じゃあ、行くね」
イザベラが勇者一行のもとへ駆けていく。
朝日を浴びた白銀の法衣が、やけに眩しかった。
「勇者様」
俺は最後に、先頭へ立つ青年へ頭を下げる。
「イザベラを、頼みます」
勇者は短く沈黙したあと、静かに頷いた。
「……ああ」
そして、旅立ちの日。
俺は、生まれた時からずっと一緒だった恋人を見送った。
◇
辛かった。
イザベラのいない毎日は、思っていた以上に空っぽだった。
朝になっても、もう彼女は起こしに来ない。
パンを焼く匂いもしない。
他愛もない話をしながら並んで歩く帰り道もない。
代わりに届くのは、数週間に一度の手紙だけだった。
『今日は勇者様がね――』
『旅先のお菓子、美味しかったよ』
『ラカンにも食べさせてあげたいな』
何度も、何度も読み返した。
紙が擦り切れそうになるくらい。
その文字だけが、離れていても彼女を感じられる唯一のものだったからだ。
けれど__。
村に届く噂は、嫌でも俺に現実を突きつけてきた。
『聖女様はすごいらしい』
『魔物の大群を奇跡で退けたとか』
『勇者一行は、もう王都でも英雄扱いだ』
皆が誇らしそうに語るたび、胸の奥がじくりと痛んだ。
嬉しい。
誇らしい。
なのに、置いていかれている気がした。
俺だけが、何も変われないまま。
何もできないまま。
__そして、ある日。
俺はようやく気づいた。
「……俺が弱かったからだ」
強ければ、隣に立てた。
強ければ、一緒に旅へ出られた。
少なくとも、見送るだけの男にはならなかった。
イザベラは言ってくれた。
『ラカンは優しいだけでいいんだよ』
だけど俺は、その言葉に甘えていたんだ。
強くなろうとしてこなかった。
戦うことから逃げていた。
だから、彼女を送り出すことしかできなかった。
拳を強く握りしめる。
爪が掌に食い込む痛みが、鈍く残った。
「……次に会う時は」
もう、後ろから見送るだけは嫌だった。
彼女の隣に立ちたい。
胸を張って、その手を取れる男になりたい。
「次に会う時は、必ずお前の隣に立ってみせる」
そうして俺は、剣を取った。
◇
「よろしくお願いします!」
緊張で喉を強張らせながら頭を下げると、筋骨隆々の男が豪快に笑った。
「おう。お前が入団希望のラカンか。今日からベアウルフ傭兵団の一員だ。死ぬ気で食らいついてこい」
「はい!」
王国騎士団直属__その下部組織であるベアウルフ傭兵団。
俺は、そこへ身を投じた。
理由は単純だった。
少しでも、イザベラに近づきたかった。
◇
訓練は地獄だった。
朝から晩まで剣を振り、走り込み、叩きのめされる。
才能のある連中には最初から敵わなかった。
何度も泥に転がった。
手の皮は破け、骨に響く痛みで眠れない夜もあった。
それでも俺は食らいついた。
強くなりたかった。
聖女として戦うイザベラの隣に立てる男になりたかった。
「まだやれるだろ、ラカン!」
「立て! そこで終わりか!」
怒号を浴びながら、何度も立ち上がった。
諦めるという選択肢だけは、最初からなかった。
その結果、一年後には小隊長を任されるまでになっていた。
「ラカン隊長ー! また訓練ですか!? 少しは休んでくださいよー!」
「うるさい。お前らがサボるから付き合ってるんだろ」
「絶対違いますよね?」
からからと笑うのは、後輩の女性隊員だった。
仲間たちは皆気のいい連中ばかりで、いつしか俺の恋の話は傭兵団内で半ば公然の秘密になっていた。
「聖女様と結婚とか、夢ありすぎでしょ」
「叶えてみせるさ」
「おー、言った言った!」
笑われても、不思議と嫌じゃなかった。
あの頃の俺には、前へ進んでいる実感があったからだ。
三年後。
俺はついに大隊長を任されるまでになった。
剣を握る手にも、自信が宿り始めていた。
___そして。
魔族との境界防衛線で、俺は再びイザベラと再会した。
◇
白銀の法衣。
陽光を受けて輝く金髪。
遠目でも、一瞬で分かった。
「……イザベラ」
胸が熱くなる。
懐かしさと嬉しさが一気に込み上げ、気づけば駆け出していた。
会いたかった。
ずっと。
ずっと会いたかった。
けれど――。
数歩進んだところで、俺の足は止まった。
イザベラの隣に、一人の男が立っていたからだ。
勇者だった。
二人は何かを話し、自然に笑い合っていた。
その距離は近く、長い旅路を共にしてきた時間を感じさせた。
胸の奥が、冷たく軋む。
(ああ……)
怖くなった。
イザベラが遠い。
自分の知らない時間を、知らない場所で積み重ねてきた彼女が、ひどく眩しく見えた。
そして同時に思ってしまった。
__取られる。
そんな醜い感情が、頭をよぎった。
◇
その夜、俺は酒場で潰れた。
「うわっ、副団長泣いてる……」
「放っとけ。今は男として死んでる時だ」
「いやいや、放っとけないでしょこれ」
部下たちに囲まれながら、みっともなく泣いた。
情けなかった。
嫉妬している自分が。
イザベラを信じ切れない自分が。
勇者に勝手に劣等感を抱いている自分が。
でも翌朝、頭が冷えた時、俺は理解した。
結局、自信がないんだと。
イザベラを取られると思ってしまうのは、自分がまだ足りないと思っているからだ。
彼女の隣に並べる男になれたと、自分で信じ切れていないからだ。
「……だったら」
やることは、一つしかなかった。
もっと強くなる。
もっと前へ進む。
その日から、俺はさらに訓練と任務に没頭した。
◇
その成果は、確かに形になった。
俺たちフェンリス傭兵団は、王国騎士団への正式編入を打診されたのだ。
抜擢したのは、“白銀騎士”の異名を持つ騎士団長――ジャンヌ・リベイオス。
民衆から熱狂的な支持を集める英雄だった。
気高く、美しく、そして圧倒的に強い。
初めて共闘した時、俺は本気で憧れた。
こんな風に誰かを守れる強さがあるのかと。
「お前は伸びるな、ラカン」
団長にそう言われた時は、素直に嬉しかった。
認められたかった。
強くなったと証明したかった。
イザベラに相応しい男になりたかった。
気づけば、俺は騎士団副団長の地位まで上り詰めていた。
__けれど。
この頃からだった。
イザベラからの手紙が、少しずつ減っていったのは。
一ヶ月。
二ヶ月。
待っても届かない。
代わりに耳へ入るのは、魔王軍四天王との激戦の噂ばかりだった。
嫌な予感が、胸の奥で膨らんでいく。
だから俺は、ジャンヌ団長へ頭を下げた。
「お願いします。聖女イザベラの援護へ向かわせてください」
団長は渋い顔をした。
「……副団長であるお前が抜けるのは痛い」
「それでも、行かせてください」
「私情だぞ」
「承知の上です」
何度も頭を下げた。
騎士として失格だと笑われてもよかった。
それでも、行かなければならなかった。
長い沈黙の末、ジャンヌ団長は深く息を吐いた。
「……死ぬなよ、ラカン」
「はい!」
だから俺は来た。
最前線へ。
愛する人を、取り戻すために。
___なのに。
どうして。
「んっ……もっと、勇者様ぁ……!」
甘く蕩けた声が、扉の隙間から漏れていた。
思考が止まる。
心臓が脈打つ音だけが、やけに耳についた。
嫌な予感がした。
けれど、確かめずにはいられなかった。
震える手で扉を押し開ける。
そして___見てしまった。
一糸まとわぬ姿で、勇者に抱かれるイザベラを。
白い肌。
熱に浮かされたような表情。
勇者へ縋りつく腕。
そのどれもが、俺の知らない彼女だった。
「あ……」
喉が、掠れた。
頭の中が真っ白になる。
理解したくないのに、目の前の現実だけが残酷なほど鮮明だった。
何年も。
何年も、追いかけてきた。
隣に立てる男になりたくて。
剣を握って。
傷だらけになって。
死ぬ思いで戦って。
ようやくここまで来たのに。
なのに___。
(なんでだよ……)
胸の奥で、何かが壊れる音がした。
「ラカン隊長……」
後ろから、マリアンヌの震える声が聞こえる。
「なんでだよ……イザベラ……」
問いかけても、届かない。
イザベラは俺に気づきもしない。
勇者に夢中で、熱っぽい吐息を漏らし続けている。
その姿が、どうしようもなく現実だった。
「っ……隊長、戻りましょう」
マリアンヌが俺の腕を掴む。
「ここにいても、辛いだけです」
「……ああ」
自分でも驚くほど、声は空っぽだった。
◇
そこから先の記憶は曖昧だった。
宿へ戻って。
何かを飲まされて。
誰かに肩を支えられて。
気づけば、俺は王都へ戻ってきていた。
「ラカン」
ジャンヌ団長と目が合う。
普段は決して崩さないその表情に、痛ましげな色が浮かんでいる。
隣にはマリアンヌもいた。
二人とも、ずっと俺についていてくれたらしい。
だが、その頃の俺は、ほとんど抜け殻だった。
食事の味もしない。
眠っても、脳裏に焼き付いた光景が離れない。
勇者に抱かれ、蕩けた顔を見せるイザベラ。
あの声。
あの熱。
あれほど愛しかった思い出が、全部、刃になって胸を抉ってくる。
「……っ」
気づけば、吐いていた。
情けなかった。
惨めだった。
何より、自分が空っぽになってしまった気がした。
俺は何のために戦ってきた?
何のために強くなった?
全部、彼女のためだったはずなのに。
◇
それでも。
数日後、近隣の村が魔族に襲われたという報せを聞いた瞬間、俺の体は勝手に動いていた。
「副団長!?」
「ラカン様、まだ休まれた方が――」
「準備しろ」
短く告げ、剣を取る。
落ち込んでいるから戦えません、なんて理由で、人が死ぬのを見過ごせるほど器用にはなれなかった。
村へ辿り着いた時には、魔物たちが家々を蹂躙していた。
泣き叫ぶ子供。
燃える家屋。
血の臭い。
___考えるな。
剣を振れ。
「■■■■ッ!!」
飛びかかってきた魔族の首を、一閃で刎ねる。
返り血が頬に散った。
もう一体。
さらに一体。
次々に斬り伏せる。
戦っている間だけは、何も考えずに済んだ。
イザベラを忘れられた。
胸を抉る痛みを、怒号と鉄の音で塗り潰せた。
だから俺は戦った。
来る日も。
来る日も。
魔族を殺し続けた。
守るために。
何も考えなくて済むように。
◇
気づけば、“英雄”と呼ばれていた。
魔族討伐の功績により、王国から勲章を授与される。
さらに爵位まで与えられた。
「ラカン・フェンリス卿。貴殿の功績を称え___」
式典の最中、周囲は喝采に包まれていた。
けれど。
(……今さらだろ)
そんなものを貰ったところで、何になる。
欲しかったものは、もう二度と手に入らないのに。
授与された勲章は、やけに重かった。
戦のない日は、屋敷へ引きこもった。
カーテンも開けず、酒だけを飲んで一日を終える。
そんな日も少なくなかった。
騎士団から届く報告書にも目を通さず、剣の手入れすら放置する。
以前の俺なら考えられない有様だった。
それでも、ジャンヌ団長とマリアンヌは何度も屋敷を訪ねてきた。
「ラカン、いるんだろう。開けるぞ」
「隊長ー! 生きてますかー!」
返事をしなくても勝手に入ってくる辺り、この二人らしい。
けれど、その気遣いすら、当時の俺には鬱陶しく感じてしまっていた。
「……放っておいてくれ」
顔も上げずに言う。
「一人にしてくれ」
「いつまでそんな調子でいるつもりですか!」
珍しく、マリアンヌが声を荒げた。
「女々しいですよ隊長!! もう忘れてくださいよ、あんな浮気女!」
「マリアンヌ」
ジャンヌ団長が窘めるように名前を呼ぶ。
だが、その団長も静かに続けた。
「……ラカン。この世界には女などいくらでもいる。お前ほどの男なら、放っておいても寄ってくるだろう」
その言葉が、引き金だった。
「何が分かる……!」
気づけば、怒鳴っていた。
二人の目が見開かれる。
「何が分かるんだよ!!」
抑えていた感情が、一気に噴き出した。
「俺とイザベラは、ずっと一緒だったんだ! 生まれた時から、ずっと……!」
幼い頃から隣にいた。
笑う時も。
泣く時も。
未来を語る時も。
全部、一緒だった。
「彼女は……特別だったんだよ……!」
吐き出した瞬間。
部屋に、痛いほどの沈黙が落ちた。
そして。
ジャンヌ団長とマリアンヌが、ひどく傷ついた顔をしていることに、ようやく気づいた。
「……っ」
マリアンヌが唇を噛む。
ジャンヌ団長も、苦しげに目を伏せた。
そのまま二人は何も言わず、部屋を飛び出していった。
扉が閉まる音だけが、やけに大きく響く。
◇
頭が冷えたのは、その後だった。
一人きりになった部屋で、俺は深く項垂れる。
「……最低だ」
二人とも、俺を心配してくれていた。
慰めようとしてくれていた。
それなのに俺は、自分の痛みばかりを押しつけて、傷つけた。
八つ当たり以外の何でもない。
だから、その日の夜。
俺は二人のもとを訪ねた。
謝罪の品を抱えて。
◇
「……入ります」
ジャンヌ団長の執務室へ入ると、彼女は書類仕事の手を止め、じっとこちらを見た。
その視線には、まだ少しだけ棘が残っている。
「何の用だ」
「謝罪に来ました」
そう言って差し出したのは、小箱だった。
「これは……」
「前に欲しいと言っていたでしょう。『戦乙女の指輪』です」
一瞬、ジャンヌ団長が目を見開く。
王都でも滅多に出回らない希少な魔道具。
以前、店先で彼女が珍しく眺めていたのを覚えていた。
「……馬鹿者」
呆れたように笑いながらも、その声は少し柔らかかった。
「こんな高価なものを簡単に買うな」
「許してもらえますか?」
「……最初からそこまで怒ってはいない」
そう言って視線を逸らす辺り、この人は本当に不器用だ。
◇
マリアンヌの方は、もっと分かりやすかった。
「隊長の馬鹿!!」
顔を見るなり怒鳴られた。
「なんであんな言い方するんですか! 私たち、本気で心配してたのに!」
「悪かった」
「本当にそう思ってます!?」
「思ってる」
そう言って差し出したのは、『疾風の指輪』だった。
彼女が前々から欲しがっていた品だ。
「……っ、え?」
「詫びだ。受け取ってくれ」
マリアンヌはしばらく固まっていたが、やがて顔を真っ赤にしながら叫んだ。
「こ、こういうので誤魔化されませんからね!?」
だが、指輪はしっかり握りしめていた。
その姿に、思わず笑ってしまう。
久しぶりに、自然と笑えた気がした。
◇
その後。
巡回で訪れた村で、俺は多くの感謝を向けられた。
「いつも守ってくれてありがとう、ラカン様」
「これ、畑で採れた野菜です。よかったら持っていってください」
そんな何気ない言葉が、胸に沁みた。
そして。
「ありがとー! えいゆーしゃん!」
小さな女の子が、満面の笑みで抱きついてくる。
その無邪気な笑顔を見た瞬間。
視界が滲んだ。
「……隊長?」
マリアンヌが驚いた声を漏らす。
俺は咄嗟に顔を逸らした。
__ああ。
そうか。
俺が今まで積み上げてきたものは、無駄なんかじゃなかったんだ。
イザベラのために始めた道だった。
だけど。
戦ってきた時間も。
守ってきた命も。
築いてきた絆も。
全部、ちゃんと意味があった。
そう思えた。
◇
そこからだった。
俺が本当の意味で前を向けるようになったのは。
巡回のついでに畑仕事を手伝い。
子供たちに剣を教え。
老人の荷運びをし。
村人たちと酒を酌み交わす。
交流を深めるたびに思う。
強くなってよかったと。
努力してきてよかったと。
この力は、誰かを守るためにあるのだと。
ようやく俺は、自分の剣に意味を見つけられた気がしていた。
___それから、数か月後。
ついに魔王討伐の報せが王都へ届いた。
人々は熱狂した。
街は昼夜を問わず祭り騒ぎとなり、酒場では勇者一行を称える歌が鳴り響く。
当然だ。
世界を脅かしていた魔王が倒されたのだから。
その頃には、俺の中でも気持ちの整理はついていた。
イザベラが勇者を選んだのなら、それでいい。
きっと凱旋の後、正式に婚約破棄を告げられるだろう。
王都では既に、“勇者と聖女は恋仲”という噂が広まり切っていた。
最初は胸が痛んだ。
けれど今は、不思議と穏やかだった。
彼女が幸せなら、それでいい。
そう思えるくらいには、俺も前へ進めていた。
「盛大に振られてきなさい」
執務室で書類を捌きながら、ジャンヌ団長が淡々と言う。
「落ち込んだら、私が酒くらい付き合ってやる」
「団長、それ絶対朝までコースですよね?」
「当然だ」
「じゃあ私も付き合います! 朝まで飲み明かしましょう、隊長!」
マリアンヌが笑いながら拳を握る。
その様子に、思わず苦笑が漏れた。
本当に、良い仲間を持ったものだと思う。
◇
「勇者様ご一行が帰還したぞーー!!」
城下へ響き渡ったその声に、王都全体が歓声に包まれた。
窓の外を見れば、人、人、人。
花びらが舞い、子供たちが駆け回り、民衆は英雄の帰還を祝福している。
「やあやあ、みんなー! 国の英雄が帰ってきたぞー!」
馬上から大きく手を振る勇者。
後ろには勇者一行。
そして___イザベラ。
以前よりも美しく成長した彼女は、勇者に腰を抱かれながら寄り添っていた。
幸せそうだった。
その笑顔を見れば、二人の関係など説明するまでもない。
胸が少しだけ痛む。
けれど。
(……うん。大丈夫だ)
ちゃんと祝福できる。
そう思えた。
俺は窓から視線を外すと、ジャンヌ団長と共に踵を返した。
向かう先は、王城の謁見の間。
魔王を討った勇者一行を、陛下の御前へ迎え入れるためだ。
歩く途中。
ぽん、と。
ジャンヌ団長が、軽く俺の背中を叩いた。
何も言わない。
だが、その無骨な気遣いだけで十分だった。
◇
謁見の間へ到着すると、既に大勢の貴族たちが並んでいた。
俺とジャンヌ団長も、王座へ忠義の礼を示した後、下座へ控える。
しばらくして、城兵が声を張り上げた。
「勇者一行、到着いたしました!」
陛下が静かに頷く。
重厚な大扉が、ゆっくりと開かれた。
赤い絨毯の上を、勇者一行が進んでくる。
剣士の女。
魔術師の男。
そして勇者とイザベラ。
皆、以前より遥かに強者の風格を纏っていた。
やがて王座の前へ辿り着く。
剣士と魔術師は即座に膝をつき、頭を垂れた。
だが___。
勇者とイザベラだけは、立ったままだった。
ざわり、と貴族たちがどよめく。
空気が変わった。
そんな中。
勇者は、軽薄な笑みを浮かべたまま口を開いた。
「うっす、王様! ただいま戻りましたぁ!」
__凍りつく。
謁見の間から、音が消えた。
剣士の女と魔術師の男が、信じられないものを見るように勇者を凝視している。
二人とも顔色を失いながら、慌てて頭を深く下げた。
額には脂汗が滲んでいる。
当然だ。
今のは、無礼などという言葉で済まされる行為ではない。
いくら魔王を討った英雄とはいえ、勇者はあくまで王国の臣下。
この国の頂点は、あくまで国王陛下だ。
だが。
勇者はそんな空気すら読まず、さらに続けた。
「褒美はエリシア姫でいいっすよ? あとデカい屋敷もよろしく~」
「陛下に対して無礼であろうが!! この無礼者が!!」
一人の老貴族が怒声を上げる。
当たり前だった。
むしろ剣を抜かなかっただけ理性的と言える。
だが次の瞬間。
勇者の顔が苛立ちに歪んだ。
「あぁ? うるせえな」
抜剣。
そのまま、老貴族へ斬りかかる。
「___っ!」
瞬間。
俺の体は反射的に動いていた。
抜剣。
鋼が激突する轟音が響く。
勇者の刃を受け止め、そのまま老貴族の前へ割り込んだ。
「あんた、マジかよ」
勇者が眉を顰める。
「あ? てめぇ……どっかで……」
俺の顔に見覚えがあるらしい。
だが、そんなことはどうでもよかった。
「剣を納めろ」
低く告げる。
「ここは陛下の御前だ」
「あぁ? 俺に指図してんじゃ__ねぇ!!」
勇者の剣へ、膨大な魔力が宿る。
強引に押し切る気だ。
なら__。
「__ッ!」
ジャンヌ団長直伝の斬り払い。
さらに踏み込みと同時に放つ足蹴り。
勇者の体勢を崩し、そのまま王座前まで叩き戻した。
「がっ!?」
勇者が床を転がる。
貴族たちが息を呑んだ。
無理もない。
一瞬だった。
目で追えた者がどれだけいたか。
勇者は立ち上がりながら、怒りに顔を歪める。
「てめぇぇ……!!」
だが俺は、冷めた目で勇者を見るだけだった。
(……何も分かっていない)
ここがどこなのか。
誰の前なのか。
理解すらしていない。
俺は静かに跪き、陛下へ視線を向けた。
「陛下。発言をお許しください」
「許す」
「勇者殿は乱心のご様子。制圧しても構いませんでしょうか」
玉座の上で、陛下は静かに頷いた。
「うむ。その方がよかろう」
鋭い眼光が俺へ向けられる。
「城兵では勇者の力に及ばぬ。“竜殺しの英雄”の力、余に見せよ。ラカン副団長」
「__御意」
全身へ魔力を巡らせる。
空気が震えた。
勇者が鼻で笑う。
「はっ! 俺とやろうってか? いいぜ――」
次の瞬間。
「__ガッ!?」
勝負は終わっていた。
勇者の腕を捻り上げ、床へ叩き伏せる。
魔力による制圧。
呼吸すら許さぬ体勢。
謁見の間が静まり返る。
誰も、俺の動きを視認できていなかった。
勇者は白目を剥き、そのまま気絶した。
「兵たちよ」
陛下が冷然と命じる。
「勇者を牢へ入れよ」
「はっ!」
城兵たちが慌てて勇者を拘束していく。
俺は剣を納め、列へ戻った。
そして。
陛下の視線が、もう一人の無礼者へ向けられる。
__イザベラ。
彼女は未だ状況を理解できていないのか、呆然と勇者を見つめていた。
その時。
勇者パーティーの女剣士が、怒気を滲ませながら声を上げた。
「イザベラ! 頭を下げな!!」
鋭い叱責と同時に、女剣士__サラがイザベラの肩を掴み、無理やり床へ跪かせた。
「きゃっ!?」
ようやく現実へ引き戻されたのか、イザベラの顔から血の気が引いていく。
サラはそのまま深く頭を垂れた。
「陛下。我々のパーティーメンバーが、大変な無礼を働きました。どうかお許しください」
重苦しい沈黙。
やがて、玉座の上から低い声が響く。
「……よい。その方らに罪はなかろう」
だが次の瞬間。
「ただし、癒し手イザベラ。その者から“聖女”の称号を剥奪する」
「………え?」
イザベラが顔を上げる。
「な、なんで……!?」
「馬鹿! 口答えするな!!」
サラが慌ててイザベラの頭を押さえつけた。
「ひゃっ!?」
そのやり取りに、陛下は深く息を吐く。
「……これ以上は時間の無駄か」
そして視線をサラと魔術師テオへ向けた。
「剣士サラ、及び魔術師テオ」
「「__ハッ」」
「其方らには魔王討伐の功績として、“銀翼勲章”及び名誉男爵位を授与する。さらに褒賞金として金貨三百枚を与える。今後も王国のため尽くせ」
「「ありがたき幸せ! より一層尽力いたします!」」
「下がるがよい」
「「ハッ!」」
二人は一礼し、そのまま謁見の間を退出していく。
残されたのは、イザベラだけだった。
彼女はようやく自分の立場を理解したのか、床へ伏したまま小刻みに震えている。
そんな姿を見て。
俺は、少しだけ胸が痛んだ。
全部吹っ切れたと思っていたのに。
やはり、一度は本気で愛した相手だった。
◇
「さて__癒し手イザベラよ」
陛下の声が静かに響く。
「魔王討伐の功績は称えよう。先ほどの無礼も水に流してやる」
そこで言葉が止まる。
「だが、“聖女剥奪”は撤回せぬ」
イザベラの肩が震えた。
「な、なぜ……でしょうか……」
掠れた声。
陛下は冷ややかに問い返す。
「分からぬか?」
「ゆ、勇者様が……陛下のお怒りに触れたから……?」
「違う」
空気が重く沈む。
「では聞こう。其方、“契約精霊”はどうした?」
「__っ!」
イザベラが大きく肩を跳ねさせた。
俺も、その時ようやく違和感の正体に気づく。
イザベラの周囲に、いつも飛んでいた小妖精がいない。
村にいた頃から、彼女のそばには常に契約精霊がいたはずだ。
まるで妹のように懐いていた、光の小妖精が。
「答えよ」
「そ、それは……き、急にいなくなって……」
「違うな」
陛下の声が鋭くなる。
「其方は、“見捨てられた”のだ」
「え……?」
「聖女とは、女神へ仕える純潔の使徒。契約精霊は、その信仰と魂に惹かれ寄り添う存在だ」
静かな声だった。
だが、その一言一言には重みがあった。
「だが其方には、もはや精霊がいない」
陛下の眼光が、イザベラを射抜く。
「__勇者と契ったな?」
「__ッ!!」
図星だった。
イザベラが息を呑み、顔を真っ青にする。
「……魔王討伐が成功したからまだよいものを。もし敗れていたらどうするつもりだった」
「…………」
「答えられぬか」
陛下は静かに首を振る。
「女神に仕える資格を失った者を、聖女と呼ぶわけにはいかぬ。それは女神への冒涜に等しい」
そして最後に。
「理解したなら、退出せよ」
イザベラは返事をしなかった。
ただ、俯いたまま立ち上がる。
「……っ」
泣いているのかもしれない。
だが最後まで、彼女は顔を上げなかった。
そのまま、逃げるように謁見の間を去っていく。
扉が閉まる。
それで、魔王討伐の凱旋式は終わった。
◇
途端。
張り詰めていた空気が一気に崩れた。
「最初からあの勇者、気に食わなかったのだ」
「力だけ与えられた成り上がりめ」
「とはいえ、使い道はある。飼い殺しが妥当では?」
貴族たちの声が飛び交う。
勇者の処遇について、既に政治的な思惑が動き始めていた。
そんな中。
「ラカン殿」
不意に声を掛けられ、俺は弾かれたように振り返る。
そこにいたのは__陛下だった。
「はっ!」
慌てて跪く。
「其方がいて助かったぞ」
「恐れ多きお言葉。陛下のお役に立てたのなら、臣下としてこれ以上の誉れはございません」
陛下は満足そうに頷き、立派な髭を撫でる。
どうやら機嫌は悪くないらしい。
だが次の瞬間。
「ところでラカン殿。エリシアのことなのだが__」
「へ、陛下!!」
突如、ジャンヌ団長が割って入った。
「ラカンはこの後予定がございますので!!」
「お、おお? そうであったか?」
「はい!! ですのでこの話はまた後日!!」
有無を言わさぬ勢いだった。
陛下も苦笑する。
「……まあよい。では、またの機会にしよう」
「ありがとうございます! ほらラカン! 行くぞ!」
「え? あ、はい!?」
俺は半ば引きずられるように、その場を後にした。
ちらりと振り返ると、王妃様が面白そうに笑っている。
……たぶん、不敬にはなっていない。
そう思いたい。
◇
騎士団へ戻ると、待ち構えていたマリアンヌが駆け寄ってきた。
「隊長ー!! ジャンヌさんもお帰りなさい!」
「ああ、ただいまマリィ」
「えへへ~♪」
「ちょっと待ちなさい!? “ただいまマリィ”って何!? ずるいんだけど!?」
ジャンヌ団長が即座に食いつく。
俺は苦笑しながら、飛びついてきたマリアンヌの頭を撫でた。
「んへへ……」
完全に子犬だった。
隣ではジャンヌ団長が不満そうにマリアンヌをぽかぽか叩いている。
そんな二人を見て、自然と笑みが漏れた。
__だが。
ふと脳裏に浮かぶ。
謁見の間から走り去った、イザベラの背中。
やはり少し、気になってしまう。
すると。
突然マリアンヌが俺の頬を掴んだ。
「隊長」
「うおっ!?」
「だめです」
「え、何が」
「とにかくダメです」
「いや意味が分からん」
「いいから私を見て!!」
「は、はい」
勢いに押されるまま頷く。
その様子を見て、ジャンヌ団長がさらに頬を膨らませていた。
「団長……? すごい顔してますよ?」
「誰のせいだと思ってるんだ!!」
ぽかぽか。
本当に痛くない程度に叩かれる。
だが、不思議と嫌じゃなかった。
◇
数日後。
イザベラが屋敷へ訪ねてきたと、使用人から聞かされた。
だが、その日は既に任務が入っており、俺はすぐ出立しなければならなかった。
だから使用人へ伝言を頼んだ。
『勇者殿とお幸せに』
『俺のことは気にしなくていい』
『どうか、幸せになってくれ』
その手紙を残し、俺は再び戦場へ向かう。
守るべきものは、もう見失っていない。
国のために。
人々の笑顔のために。
俺はこれからも剣を振るう。
努力は決して裏切らない。
___今なら、そう胸を張って言えた。




