ただただどうか、一つだけ、私が願うとするならば
昔書いたやつを書き直そうとしたけど気力が続かず…そのまま載せてます。
深緑色の黒板上に、滑らかに文字を書きだしていく、カツカツと小気味よい音。ボールペンから芯をカチャリと出す音。シャーペンのカリカリとした音色。
窓の隙間から吹き込む風が、頬を撫でる。
すべてが、私を眠りへと誘い出す。
眠りの箱に意識を投げ込めば、快楽にも似た睡眠欲に包み込まれ、意識はいともたやすく消え失せた。
* * *
「みーさーき、未咲ってば! 」
机の上で安らかに寝息を立てる友人を起こそうと、少女は先程から友人の名を呼ぶが、一向に返事はない。
「いい加減に起きなさいよ、未咲! 」
そう言って痺れを切らした少女が、眠りこける友人の肩を激しく揺さぶれば、彼女はようやく目を覚ました。
「ゆ、百合ちゃん、ど、どしたの? 」
きょとんとした表情で、友人、石田 百合を見つめる彼女の視界は、寝起きのせいなのか、まだすこしぼやけている。
「どうしたもこうしたもないわよ……。あんた、今何限だと思う? 」
「んー、さっき寝てたのが一限だからー、二限前! 」
「残念、三限後の昼休みよ」
「あちゃー、惜しかった」
「どこがよ……」
百合は一周まわってあきれ始めている。そんな友人の気持ちは彼女に届く訳もなく、未咲はぼんやりと窓の外を見つめていた。
「いい天気だねー」
「またそんなおばあちゃんみたいなこと言って。まぁ、梅雨だし、こんなに天気良いのは久しぶりよね」
「いい天気だねー」
「そうだ、今日の放課後どこか行かない? 」
「いい天気だねー」
「ちょっと、人の話聞いてるの、未咲」
百合が未咲の顔を覗き込むと、案の定未咲の瞼は閉ざされている。
「また、この子は……」
百合が思いっきり未咲の両頬を引っ張ると、ようやく眠気が冷めた未咲が目をパチクリさせる。
「痛しだよ、百合ちゃん」
「何が痛しよ。で、今日の放課後は暇? 」
「忙しい」
未咲の忙しい理由になんとなく見当がつく百合だが、念のため内容を確認してみる。
「どうして? 」
未咲は曇りのない眼で百合を見た。
「ぐーたらするので」
百合は軽く殺意を覚えたが、このままでは昼休みが終わってしまう。
未咲は親猫に運ばれる子猫の様に、購買へズルズルと引きずられていった。
* * *
「未咲、起きて、下校! 」
百合の声で再び未咲は目を覚ました。
そんな馬鹿な、と思いつつ未咲が顔を上げれば、教室の壁に掛けられた時計は、午後四時を示していた。
「もう、未咲ったら」
「あ、ごめん」
「じゃあ、また明日ね」
「うん、また明日」
未咲がそう言えば、百合は手を振って教室を去って行った。
最近、前にも増して寝る回数、時間が多くなっている。
少し不安に似た感情を覚えつつ、まだ人気の多い教室で友人に一人取り残された彼女には、帰るという選択肢以外残されてはいなかった。
* * *
一歩、また一歩、さらに一歩。ゆっくりと、歩み出して行く。少しでも疲れが溜まらないよう、ゆっくりと。
未咲は通学路を歩き出す。
いつからこんなにも寝ることが多くなったのか、彼女は歩きながら考える。このままでは百合ちゃんにあきれられてしまうという危機感を添えて。
しかし彼女には全くもって理由が思い当たらない。毎日十時間睡眠をモットーとする彼女にとって、睡眠不足の四文字とは、本来縁遠い存在のはずだ。単に周りへの興味が薄れていっているだけなのだろうか。
十分くらい歩きながら考えた時、彼女は一つの結論に達した。
とにかく、のんびりすることが大好きなだけなのだと。
「スリル」とは彼女にとって、天敵であるようだ。
* * *
それにしても、我が家と学校はあまりにも遠すぎやしないか、と彼女は思う。
平均にして徒歩二十分、本来なら雪でも降らない限り辛くないであろうその距離は、彼女の省エネに徹した歩き方によって、徒歩一時間にまで膨れ上がっていた。
やっと、半分位の距離に差しかかったときだった。
ポツリ、ポツリ、と彼女の肩を雨が濡らし始めた。
「まじか」
次第に本降りへと足を進めていく雨に焦りを感じた彼女は急いでカバンを漁りはじめる。
しかし、折り畳み傘は一向に見つからない。これなら百合ちゃんと遊びに行っていた方が良かったのではないか、と彼女は後悔し始める。
完全に本降りとなってしまった雨によって、彼女の制服には勢いよくシミが広がってゆく。
だが、こんなときであっても省エネ思考は変化を拒む。
走って家まで帰るという選択肢は、彼女の頭の中に毛頭存在しないものだ。
周りを見渡してみるが、そこに広がるのは住宅街で、コンビニなどといった気軽に雨宿りできそうな建物は無さそうだ。
いつもより急ぎ足の彼女の目の前に、立派な門構えの日本家屋があった。
彼女の普段の登下校の記憶の中には、こんな立派な屋敷があっただろうか。平安貴族でも出てきそうな出で立ちである。
いつも足の先を見て歩いている彼女ならば、今まで気が付かなかったと言っても不思議ではないのかもしれない。
先ほどよりも勢いを増した雨に追われるようにして、彼女はその立派な屋敷の門の軒下で、少し雨宿りすることにした。
「うわぁ、びしょ濡れだ」
彼女はいつから鞄に存在したかもわからないハンカチで水気を帯びた制服を拭うが、焼け石に水だ。
「どうしよう……」
五分ほど経ったが、雨の勢いに変化はない。
いつまでも人様の家の門前で雨宿りするわけにもいかない。
そろそろ『走る』という最悪の選択肢を彼女が視野に含めた時だった。
パシャパシャ、と水に覆われた地面を蹴る音が聞こえる。丁度彼女が歩いてきた方向からだろうか。
その音がどんどんこちらへ近づいてくると、彼女はようやくそちらに視線を向ける。
どうやら男性の様だ。彼女同様傘を持っていない、しかし、走っている。一刻も早く濡れない場所を求めているのだろう。
自分も見習わなければいけないか、彼女はようやく走るという選択肢を選ぼうとする。
男性が彼女の前を通り過ぎようとした時だ。
その男性は急に走る速度を緩めたと思うと、彼女のいる軒下に潜り込んできた。
男性は不思議そうに彼女を見つめる。
彼女は不審そうに男性を見つめる。
先に口を開いたのは、男性の方からだった。
「君、家に何か用?」
別に、相手を牽制するわけでもなく、追い払おうとするわけでもなく、ただ単純に自分の中に沸いた疑問を男性は彼女に問いかけた。
「えっと、その」
一方彼女の方はといえば、ただ単純に、焦っていた。
どうしよう、この家の人だったとは。いくら雨がひどいとはいえ、見ず知らずの人様の家の門前で雨宿りとは、捉え方によっては不審者である。しかし、幸い自分は制服姿だ。不審者には見えまい。
彼女は胸を撫で下ろす。
「雨宿り、してました」
すいません、と彼女が謝罪の言葉を口にするより先に、男性は言う。
「あぁ、そうか。酷いからね、雨」
男性はそう言うと、彼女の腕を引っ張る。
「おいで」
随分と重そうな門は、意外にも男性の右手によって軽々と開かれた。
二十歩も歩かないうちに、玄関先へとたどり着く。
不用心にも鍵はかけておらず、そのまま横にずらすだけで戸は開かれる。
少し待ってて、男性はそう言うと未だ混乱の中を彷徨う彼女を置いて、廊下の奥へと姿を消した。
今、一体何が起きているのだろう、残念ながら彼女の頭の中では現状すら把握できていなかった。
少しすると、男性が再び彼女の前へ戻ってきた。
「はい、タオル」
男性が差し出した真っ白なタオルを、彼女はなすがままにそれを受け取った。
「ありがとう、ございます」
あぁ、この人は自宅の軒下で雨宿りしている少女に、手を差し伸べてくれているのか。ようやく状況が呑み込めた彼女は、その真っ白なタオルに顔をうずめた。
* * *
一通り制服などをふき終わった彼女は、今一度、男性の方を見た。
「あ、もう大丈夫? 」
「はい、ありがとうございました」
世の中には親切な人もいるもんだな、と彼女は思った。
そしてたっぷりと水気を含んだタオルを受け取った男性は言った。
「このまま傘でも渡せたら、君は今すぐにでも帰れるんだろうけど、生憎家には傘が無くてね」
男性は一呼吸置いてから続ける。
「まぁ、この調子だと通り雨だと思うから、あと一時間もすれば上がるんじゃないかな。それまで、君さえ良ければ上がっていきなよ」
男性の親切な申し出に彼女は目を輝かせる。
「いいんですか? 」
男性は頷いて言った。
「あぁ、もちろん」
そのままきちんと靴を揃えて家に上がり、部屋へ案内される未咲だが、この場を百合が見ているのであれば卒倒したであろう。
* * *
彼女が案内された部屋は、随分と散らかっていた。
「汚くてごめんね、ただ他の部屋はしばらく使ってないもんだから、ほこりがすごくて」
部屋の中には、あちらこちらにくしゃくしゃに丸めた紙屑が散らかっていた。
「いえ、お構いなく」
「まぁ好きにくつろいでてよ」
彼女は散らばった紙屑を少しどけ、そこに座ることにした。
「あの」
彼女は男性に声を掛けた。
「ん?」
部屋の隅に置かれた机の前に、男性は座った。
「その、助けてくれて、ありがとうございます」
すると、男性はふふっと笑っう。
「いいんだよ、むしろ今日で良かった。僕はあまり外に出る方ではないから、いつもだったら気が付かなかったよ」
「あんまり、外には出ないんですか? 」
彼女は首を傾げる。
「うん、外は嫌いでね」
「そう、ですか」
男性の返答により、特に返すことが無くなった彼女はそれ以上何も言わない。
すると、男性の方から口を開いた。
「僕は、二ノ瀬徹。君の名前を聞いても? 」
彼女は俯いた顔を上げて言う。
「未咲、古青未咲」
すると彼は言う。
「それはいい名前だね。響きがとてもいい」
彼女がふと畳へ目をやると、くしゃくしゃの紙屑では無い、沢山の文字が綴られた原稿用紙が落ちていた。
「えっと、これは何ですか? 」
彼女は畳に落ちていた原稿用紙を指さして言う。
「あぁ、原稿だよ。没のやつだけど」
「小説家さんですか? 」
彼女の問いに、彼は答える。
「うん、その通り。君は高校生だね」
「はい、二年生です」
「本は好き? 」
彼の問いに彼女は首を振る。
「そう、まぁ花の高校生ともなれば文学なんてつまらないものか」
彼のその言葉に、彼女はもう一度首を振った。
「違うんです、本って読むとなると沢山時間がいるでしょ? 私寝ることが大好きだから、その時間が惜しいっていうか、なんというか」
彼女はしどろもどろにそう答えた。
彼は顔を机にうずめた。時折、笑いをこらえるかのような声が聞こえてくる。
「どうかしました? 」
しばらくの沈黙の後、彼は顔を上げた。
「いや、ごめんごめん。あまりにも聞いたことのない意見だったから。そうかそうか、寝るのが好きなのか」
そんなに寝るのが好きというのはおかしいだろうか、彼女は疑問に思った。
「いや、人の趣味に失礼だったね。ただ、あまりにも君が真剣な顔で言うから、余計面白くって、ふ、くくっ」
そういうとまた彼は笑い始める。変わった人だ、と彼女は思った。
「寝るのは、嫌いですか? 」
ようやく落ち着いた彼は答える。
「あぁ、嫌いだ」
この瞬間この人とは分かり合えないな、と彼女は思った。
「今、僕と分かり合えないな、って思ったでしょ」
彼女の一瞬ひきつった表情を彼は見逃さなかった。
「ほらね」
彼女は一度深呼吸してから言う。
「なぜ、寝るのがお嫌いなのでしょうか」
「少しでも起きていたいからだよ。起きてこの部屋でのんびりしていたい」
「なるほど、一理ありますね」
「でしょ、あぁ、あと敬語は別に外してもらっていいよ」
「ほんとですか」
「君、さっきから敬語のイントネーションがぎこちなくてね。なれてないでしょ」
「あたりです」
すると彼は不意に立ち上がったかと思うと、部屋を出て、しばらくすると再び戻ってきた。待っている間に彼女が「変人小説家」とボソッとつぶやいたのはきっと聞こえていないだろう。
戻ってきた彼の手には先ほどまでなかったお盆が乗っていた。
彼がその盆を机に置くと、柔らかな緑茶の香りが部屋の空気を包み込んだ。
「君、緑茶飲める? あと、アレルギーとか」
特にない、と彼女が答えれば、彼女の目の前に上品な湯呑と菓子器が置かれ、その中にはふわふわと湯気をたたせる緑茶と、飴細工のようなきれいな和菓子が置いてあった。
「お菓子、学校帰りで疲れてるでしょ」
彼女は軽く礼を言い、飴の様な菓子を一つ手に取った。
「これは? 」
「あぁ、それは琥珀糖と言ってね、砂糖菓子だよ。勿論、緑茶にもよく合う」
それをひとつ口に放り込めば、最初は口の中で転がすも、そこまで甘味は感じられない。しかし、その琥珀糖をかみ砕こうとすれば、しゃりっとした砂糖の膜に包まれた、程よい甘みのゼリーが顔を出す。
それを一つ頬張っただけで、彼女の目はきらきらと輝いた。
「どうやら、お気に召してくれたようだね」
「とっても、おいしい」
彼女はほうっと息を零した。
「君は結構感情が顔に出るね」
そういえば、同じことを百合ちゃんにもいわれたな、と彼女は頷く。
* * *
「雨が止んだみたいだよ」
空模様を確認してきた彼はそう言った。
「そうですか、じゃあ帰ります」
「うん、気を付けて」
畳から立ち上がれば、先ほどまでの姿勢がほぐされ、少し足がしびれそうになる。
彼女は再び玄関まで案内されると、少し湿っぽくなった靴に足を通した。再び、ありがとうございましたと言って去ろうとするが、玄関の戸に手をかけたところで、勢いよく彼の方へ振り返った。
「あの」
彼女はしっかりと彼の目を見つめて言う。
「また、来てもいいですか」
その問いに彼は頬笑んで答える。
「うん、ぜひ来てよ。ただしひとつ条件」
首を傾げる彼女に彼は言う。
「僕と一緒にお茶を飲んで雑談すること」
「そんなことでいいんですか」
「うん、案外君とのおしゃべりは楽しくってね。そのかわりといってはなんだけど、いつでもおいで。僕は外出しないから大抵ここにいる。面倒くさくて学校を早退した日でもいい、放課後だっていい。君が来たい時、ここは好きに使っていいよ」
「お昼寝しても? 」
「あぁ、もちろん」
彼女は戸に手をかけた。そしてほんの少し後ろを振り返って言う。
「雨の日に、また来ます」
彼は笑って手を振った。
* * *
翌日、
「おはよー、百合ちゃん」
未咲が手を振って言う。
「お、おはよう。あんた妙に機嫌いいわね、なんかあったの? 」
「なんもないー」
未咲がそう言えば、百合はそれ以上は追及しなかった。
「そういえば、未咲昨日の雨大丈夫だったの? あんた傘なんて持ってないでしょう」
未咲はギクリと肩を震わせる。
昨日のことを百合ちゃんに言おうものなら、殺される。不用心だの、なんのなんの。
「だ、大丈夫だよ。おばあちゃんが、迎えに来てくれたから」
「そう、なら良かった。って未咲? あんた、昨日、スマホ家に忘れたって、あ、ちょ、なに逃げてんのよ! 」
未咲は、普段は絶対にしない、『走る』という選択肢を取ったが、生憎とその三分後に百合に捕まるという結果を迎えた。
無論、その後には昨日のことを全て吐かされ、説教されたことだろう。
* * *
その日は三日ぶりに、雨だった。
未咲はふと先日のことを思い出した。
『雨の日に、また来ます』
そうだ、今日がその日ではないか。
その日は珍しく、授業中、一度も寝ることは無かった。
* * *
彼女は再び、あの屋敷の門の前にいた。
しかし、辺りを見回してみるも、呼び鈴の様なものは見当たらない。いっそのこと入ってしまえ、と思い、門を両手で押す彼女だが、門はゆっくりとしか開かない。あの時気軽に開けていた彼を思い出す。あの貧弱そうな体のどこにそんな力があるというのだろう。
余計なことを考えながらやっていると、ようやく門は開き、閉じるのにもまた苦労したが、ようやく、玄関までやってくることが出来た。
しかし、またどこにも呼び鈴のようなものは見当たらない。
仕方ないから、失礼しようと思い、戸をあけ、前に彼に案内された部屋へ行けば、そこの障子は半開きになっている。
彼女がそこから中を覗き込めば、中では、原稿用紙の束と睨み合っている二ノ瀬徹がいるではないか。
前は掛けていなかった眼鏡をかけたその姿は、以前と変わらぬ寝癖と相まって、野暮ったい印象を与えると思いきや、その容姿には一点の曇りも見当たらない。さらに言えば、その硝子は彼の容姿を引き立たせる以外の何物でもないように感じた。改めてみてみれば、整った容姿である。
すると、彼女の視線に気が付いたのか、彼は彼女の方を向く。
それと同時にそこそこ大きな叫び声をあげた。
「うわぁ! って、なんだ、君か……」
「なんだとはなんです、失礼な」
「ごめんごめん、我家ってインターホンとかついてなかったっけ? 」
彼女はあきれた様子で言う。
「私の見た限りでは無いっぽかったです」
「あ、そうか、やっぱり」
どうやら話を聞く限り、この家には滅多に人が来ないらしいのだ。そしてこの男はこのだだっ広い屋敷に一人暮らしだという。
「今度、来るときは戸を殴ってほしい、心臓に悪い」
「ノックというのでは? 」
「そんな生易しいもんじゃ、執筆中の僕の頭に響かない」
「あ、了解です」
せっかく集中していただろうに、少し悪いことをしたな、と彼女は前回よりも少し掃除した後の見られる畳に、腰を下ろした。
* * *
その後しばらくして、前回同様、お盆に緑茶と菓子を乗せて、彼は部屋に戻ってきた。
「今日は水無月だよ」
「水無月? 」
聞いたことのない菓子の名に彼女は首を傾げる。
「そう、京都とかだと今の時期に食べるんだ」
「ほへー」
間の伸びた返事をする彼女の目の前に置かれた菓子器の上には、その水無月とやらが乗っていた。
餅の様な生地の上に、小豆を乗せたケーキのような形のそれは、控えめな甘さの小豆と、もちもちとした求肥が絡み合い、じめじめとした梅雨を連想させる水無月という名前とは対照的に、さっぱりとしていた。
「おいしい、です」
「良かった、僕もこれを食べるのは久しぶりだよ」
「そういえば、外に滅多に出ない『先生』がなんで女子高生の為に和菓子を常備してるんですか」
「最近は前より外に出るようにしてるの、ってその呼び方は何? 」
和菓子をつつく手を止め、未咲は自信満々に答える。
「小説家ですから。あとは一応年上ですし、敬意をこめて? 」
彼はまたいつかのように噴き出した。
「き、君の、センスは、最高だな」
笑いをこらえながらそういう彼に、そんなにおもしろいかと、問い詰めると、予想外の問いが返される。
「君、僕のこといくつに見える? 」
急な問いに、未咲は少し考えたのち、答えた。
「に、二十代? 」
すると彼はまた噴き出している。あぁ、やっと先生が笑いのツボから抜けだそうとしてたのに。
ようやく落ち着いたのか、彼はお茶を口に含んでから言った。
「僕ね、こうみえて三十路なんだよ。三十才。君の約、『倍』だね」
そう言われた彼女は、驚きつつも思ったことをつい口に出してしまう。
「顔も良くて、そこそこ稼いでそうなのに、生活能力無くて、広い屋敷に一人暮らし、三十路でですか? 」
「なにそれ一つも否定できない、悔しい」
「顔がいいと稼ぎがいいは謙遜した方がいいですよ」
じゃないといつまでたっても結婚できませんよ、という彼女の言葉に先生は返答する。
「今はよく猫が遊びに来てくれるから、しばらくはいいかな」
「え、この家猫来るんですか、いいなぁ」
「そうそう、和菓子が好きで、僕の将来まで案じてくれる愉快な猫が、ね」
徹の小声の呟きは、縁側まで猫を探しに行った彼女に聞こえることは無かった。
そしてその日は、暗くなる前に、と未咲は早めに帰って行った。
勿論、次の雨の日も、その次も彼女は来るだろう。
* * *
その日は、雪だった。
放課後、雪の降る道を歩いて、彼女はいつもの場所へ行く。彼曰く、雪は雨の一種らしい。
最初に彼女が彼に会った時から、数か月がたった。今でも寝すぎる癖は健在だ。
彼はいつもお菓子を彼女に用意している。ほとんどが和菓子だが、ときに洋菓子の時もある。
今日はどんなお菓子だろう、先生と何を話そう、そんなことを考えながら、玄関の戸を殴る。これが案外良い音で、彼女が殴ればすぐに家主がでてくる。
しかし、今日は一向に出てこない。
三回ほど叩いた辺りで、戸に手をかければ、そこはいつもと変わらず空いていた。
「せんせー、入るよー。驚かないでねー」
すっかり冷え切った手をさすりながら、いつもの部屋へ足を進める彼女だが、そこにはいつもの彼の姿はない。
むしろ、いつも紙屑だらけで散らかっているそこは、塵ひとつなく、きれいに片づけられていた。
「せんせ?」
そこには彼女の声だけが無意味に響く。
彼女の脳裏を嫌な予感が遮った。
彼女は急いで広い屋敷の障子を片っ端から開けて行く。
六個目辺りの障子だっただろうか、そこに彼女の求める彼はいた。しかし、すやすやと寝息を立てている。
少女はその場に崩れ落ちるようにして、座った。
* * *
暫くすると、徹は目を覚ました。そして同時にいつのまにか彼女がいることについて驚くも、この数か月でそんなことには慣れたのか、いつのまにか寝てしまっている彼女の体をゆする。
「おーい、起きて―」
そんなことをしばらく続けていると、ようやく彼女は目を覚ました。
「あれ、せんせ、なぜに……」
寝ぼけつつもようやく状況を理解した彼女は、もう夕方だというのに寝間着姿の彼に問いかける。
「先生なんでいつものとこじゃないの? 」
「あぁ、ごめんごめん。風邪ひいちゃって」
なんだ、そんなことか、安堵した彼女は、彼に風邪がうつると悪いから、と言われ、追い立てられるようにして屋敷を後にした。
「ばれてない、よね……」
風邪やインフルエンザにしてはかなり量の多い錠剤や注射器まで入った薬達を、今後彼女が見ないように戸棚の中へ隠した。
* * *
ある雨の日、
「ねぇ、未咲」
お茶を運びながら彼は彼女へ問いかける。
「今みたいな日常が、この先ずっと続けばいいな、って思うのは、やっぱり傲慢かな」
彼女は緑茶を啜りながら言う。
「思うだけなら、自由ですよ」
彼はほんの少し微笑んで、彼女の頭を撫でた。
その日が、徹と未咲が会った最後の日だった。
だからなのだろうか、彼が自分の想いを『傲慢』と称したのは。
* * *
次の雨の日も、そのまた次の雨の日も、雨が降っていない日も、彼女は何度も彼を訪ねたが、彼が笑顔で迎えてくれることは、二度と無かった。
いつもは開けっ放しの玄関も鍵がかかっていた。
* * *
「みーさーき、今日帰り遊びに行かない?」
百合がいつものように未咲に声を掛けるが、それもまた、いつものように断られる。
しかし、百合の方も長い付き合いだ。未咲の変化ぐらい、簡単に見つけられる。
未咲の雰囲気が前と変わって少し変わったことも。
だが、そこに踏み入っていいほど未咲が百合に心を許していないのを、百合はよく、知っている。
「もう、仕方ないわね、未咲ったら。気を付けて帰るのよ。それじゃあ、バイバイ」
* * *
あぁ、また百合ちゃんの誘いを断ってしまった、そんなことを考えながら、未咲はいつもの屋敷へ向かう。
最早、彼女にとっての日課となりつつあることだった。
一回だけ玄関の戸をノックして、帰る。ただそれだけのことだった。
あのころの日常に少しでも近づけるように。
重たい門を開き、玄関の戸を殴るようにしてノックする。
勿論、あのころの急いだ足音や、彼の返事が聞こえてくるわけでもない。
今日も特に変わったこともなく、帰ろうとしたとき、玄関の戸の鍵が開いていることに気が付いた。
彼女はゆっくりと戸を開け、しばらく中をうろついていると、一人の男がいた。
しかし、彼女の求める『先生』ではない。
「あの」
彼女が男に声を掛ける。
すると、男は少し驚きつつも、彼女を上から下まで見てから言う。
「あぁ、君がか」
男の正体を問う前に、彼女の疑問は解消された。
「俺は二ノ瀬徹の弟だ。君が、古青未咲、であってるか? 」
彼女は頷く。
「兄がいろいろと世話になったな」
「いえ、それで今、せ、彼はどうしているんですか」
やっぱり知らなかったか、そうつぶやいた後、男は一呼吸置いてから言った。
「兄さんは、亡くなった」
「そう、ですか」
不思議と、涙は出てこなかった。
「あぁ、結構重い病気でな。君の話をたくさん聞いた。あんなに嬉しそうに話す兄さんは見たことが無かったよ」
「そう、ですか」
二人の間に、長い沈黙が流れる。
「この家は俺が相続することになる」
彼女の意識が少し目の前の男に向く。
「だが、俺は兄さんとは趣味が合わなくてな。君が好きに使うといい。そのほうが、兄さんも喜ぶ」
「ありがとう、ございます」
それじゃあな、と男は去って行った。
* * *
彼女は広い屋敷をぐるぐると回った。
不思議と、彼が死んだという実感が、彼女には湧いてこない。
遺体を見ていないから? お墓参りに行っていないから?
きっと、彼女にとっては全て違うのだろう。
丁度、縁側の辺りに差し掛かった。
もう四月、後二ヶ月もすれば、あのころが戻ってくるのではないだろうか。
彼女は無気力に、埃っぽい縁側に腰掛けた。
もう彼はいないというのに。
いつもの縁側に腰掛けていると、後ろから先生の声が聞こえてく
る気がして、息が詰まった。
いつもの和菓子の甘さが、口の中に広がる様な気がして、喉に熱いものがせりあがってくる。
自分の他に誰もいない広い縁側に寝転べば、いつも顔を覗き込んでくる先生は、もういなくて。
いつのまにか、先生の死を、もう存在しないという虚無感を、感じていた。
いつのまにか、自分の声を押し殺すようにして、泣いていた。
* * *
「未咲、最近寝なくなったじゃない」
百合が言った。
「でしょ、褒めて褒めて」
未咲が言った。
「はいはい、すごいすごい」
百合は友人を適当にあしらう。
そのまま百合は用事があるからと、先に帰って行った。
前に比べると、未咲は友人たちとよく遊ぶようになった。
反対に、あれだけ大好きだった昼寝は、しなくなった。
あぁ、あなたに、先生に、頭を撫でられながら、お昼寝するのが好きでした。一人のお昼寝も楽しいけれど、先生が、あなたが、いないのなら、お昼寝なんて、空しいだけ。