マーシャの秘密
(集中……セシリー集中よ……!)
ガレイタム王国に来て三日目の夜。セシリーはひどく緊張した面持ちでラウンジのテーブルに腰掛けて、小さな棒を手に一心に念じていた。対面にはマーシャの姿があるが、そちらは薄っすら微笑みをたたえている。
(緑の兵を二体、五番の場所へ……!)
セシリーは手を震わせながら、手元にある小さな箱にその棒の先を触れさせた。中に入っていた緑色の小さな兵隊の人形が二体先端に吸い付き、小刻みに揺れながら吊り上げられる。
彼女はしめしめという顔で、それらをマーシャとの間にあるテーブルに置かれた、ひとつの正方形の板の上に運んだ。そこには様々な絵と共に、一から十二の番号が描かれて、既にいくつかのところで人形が配置されている。
(よしよし……いける!)
ゆっくりと人形を指定された位置に近づけてゆく。棒を五の数字の真上の位置に付け、後はそのまま下ろしてしまえば、この『作戦』は成功する……。セシリーがそれを半ば確信していた時だった。
「あなたたち~、もうそろそろお終いにしなさい。消灯時間になるわよ――」
外野からの声で、集中が乱れた。
――ぱちこーん。
「いたぁっ!」
たちまち魔力のコントロールを誤ると、人形の一体がセシリーの額を直撃し、そしてもう一体は目的地とは遠く離れたあらぬところに転がってしまう。途端、失敗のペナルティとして幻影の火花が散るとともに、いくつかの人形がセシリーの側の小箱へとひとりでに戻ってゆく。
「きゃあああああっ……またやった! うそーっ!」
「あら~残念。あたしは今の間にさらに追加で兵を送らせていただきますよ」
マーシャが頭を抱えるセシリーをくすくす笑うと、手元にあった山札から一枚のカードを引き、棒を構えた。するとセシリーの時とは違い、彼女側の小箱から兵隊がひとりでに板の上を移動し、カードに記された位置にぴたりと納まる。
すると、これもまやかしなのだが……間抜けな音楽と共にセシリーの頭の上にぽこんと白旗が立った。マーシャが勝利条件を満たし、セシリーの敗北が決まったのだ。
「レミュールさぁん……」
「なによ、仕方ないでしょう。決まりは決まりなんですもの……」
涙目のセシリーが後ろ側から現れたレミュールに抗議の視線を送るが、彼女はツンと鼻を背け、取り合ってくれない。
ちなみに、マーシャとふたりで何をしていたのかというと……その名も《大魔法戦略》なる遊戯盤で遊んでいただけだ。しかしこれはただのお遊戯ではない。れっきとした魔法使い用の訓練器具も兼ねている。
ルールはそう複雑ではなく、互いに十二個ある盤上の陣地にそれぞれが王様を潜ませ、それを山札から引く作戦カードの指示に従って、送る兵士で順番に探り合い、先に王様を見つけた方が勝ちというもの。ちなみに、兵の操作は先程ふたりが手にしていたロッドという棒で、魔力を通して行わなければならないのだが、これが繊細な力加減が必要で中々難しいのだ。
夕食後にマーシャに誘われたことにより始められたこの遊び。気がつけば数時間も経つほど夢中になってしまっていた。だが運の要素も多分にあり、存分に手加減してもらったにもかかわらず、セシリーは一度もマーシャに勝てなかった。
一度だけレミュールと交代してもらったのだが、その時は盤上で別次元の戦いが繰り広げられ、兵士たちが戦場を縦横無尽に駆けまわり、小爆発や旋風、氷塊や落雷などの迫力ある幻影が飛び交っていた。どうやら、玄人向けのルールや、魔力を込めることで豪華になる演出などが多数用意されているらしい。
この商品自体はセシリーもクライスベル商会で取り扱っていたのを見た事があったが、魔導具扱いだったので実際には遊んでみたことはなかった。ファーリスデル国で販売されている物とは、ところどころ細部が異なっているように感じる。
「も、もう一回だけ! そろそろコツが掴めてきたところで……」
「レミュールもああ言ってますし、今日はここまでにしましょう。そのうちすぐ勝てるようになりますよ。ここで暮らす内に魔力の扱いにはすぐに慣れますから。なんせ、生活用品のほとんどが魔道具ですもの」
マーシャが言うようにここでは、筆記具から部屋の鍵、風呂や水道、ランプに至るまでが定期的に自ら魔力を補充する必要がある代物で、侍女たちに多くのことを任せられず、清掃なども自分たちでこなしているのはこのせいもあるようだ。
その甲斐あってか、マーシャもレミュールも魔法騎士団の面々にも劣らぬくらいの立派な魔法使いだ。聖女の血筋など引いていなければ、もしかしたら母のように宮廷魔術師として働いていたのかもなどとセシリーは思う。
レミュールはきっちりとした性格で少しきついところもあるが、その実誰かが困っているのを見過ごせないような人格者だ。侍女たちにも頼りにされており、いつもこの時間帯になると館内を見回って異常がないか確かめてくれているらしい。セシリーのことも何くれと気に掛けてくれて、その姿は頼りになるお姉様といった風情があり、なんとなく向こうにいるエイラのことを思い浮かばせた。
そして一方マーシャと言えば性格はとても穏やかで優しく、レミュールほどの華やかさはないけれど、野の花が咲いた様なような、人を自然と温かい気持ちにさせる笑顔や雰囲気が魅力的だ。彼女は伯爵令嬢にあるまじくお菓子作りが大好きだそうで……実家の料理長や侍女たちに頼み込んで教わったという努力の結晶を、ここではいかんなく発揮している様子。セシリーはこのまま彼女の傍にいると餌付けされて次第にふっくらしそうなのを恐れている。
しかしそんな彼女は、時折ひとりでぼんやりと考え込んでいるとことがあった。ジェラルドとそう頻繁に会えないことに胸を痛めているのかとも思ったが……何となく違う気がする。それはまるで何か大事な物をどこかに置き去りにしてしまったかのような切ない表情だった。
レミュールもそれを見て、辛そうに視線を落としていることがあった。もし先日のジェラルドとの会話を最後まで聞いていれば何かわかったのかも知れないが……先日来たばかりのセシリーが軽々しく立ち入ってはいけないことのように感じて、簡単には聞けそうにない。
(今は、それよりも目の前のことに集中しよう……。もらった聖水も鞄の中にあるし、ふたりにも色々教えてもらって……二度と、あの時みたいにならないようにしなくちゃ……!)
あの……力を誤って発揮した時の津波に飲まれたような感覚は今でも鮮明だ。もう二度とあんな事態を起こさないように、まずはここでまともな日常生活を送ることを目標に定めると、セシリーは考えを追い払うように遊戯盤を棚に収納し、テーブルを綺麗に片していたマーシャを手伝おうとする。
そこでレミュールがセシリーの肩に手を置いてぐっと引き寄せ、マーシャに断わりを入れた。
「ごめんなさいマーシャ、セシリーを少し借りて行くわね。ジェラルド様から二週間後に控えた婚約披露パレードについて、色々教えてあげて欲しいと言われてるの。片付けが終わったら先に休んでおいて」
「はぁい、お気になさらず。後はあたしがやっておきますから」
《風よ、其を羽衣にて包み浮かせよ》――そんな歌うような詠唱でふわふわとティーセットを浮かせると、マーシャは快くキッチンへ片付けに入った。そんな後ろ姿に小さく頭を下げ、婚約披露パレードなどという言葉に大層浮かない気持ちになったセシリーはレミュールに続く。
「どうぞ、そこに掛けてくれる?」
訪れた彼女の――恐ろしく整頓された淑女の私室に少しドキドキしながら入ると、セシリーはテーブルの前の小さな椅子に座らされた。机上に置かれた小蠟燭が煙をたなびかせ、心を鎮めるいい香りをもたらしてくれる。
レミュールは自分も小さなスツールに腰を落ち着け、姿勢を正してセシリーに話しかけた。
「すまないわね、こんな夜更けに。実はさっきのは半分嘘なの。パレードがあるらしいのは聞いたけれど、ジェラルド様には何も頼まれていないわ。マーシャ抜きで話がしたくて呼んだだけなの……」
「そうなんですか? 私は……全然構いませんけど、なんでしょう」
首を傾げるセシリーにレミュールは、今も迷っている様子だったが、少しずつ口を動かし始める。
「ジェラルド様から……ラナという人について聞いたかしら?」
「……この離宮で、たったひとり聖女としての資格を示した人だったって。この間は、丁度その辺りで話は終わってしまって。あの……勘違いでなければ、亡くなられたって言っていたような」
レミュールは淡く微笑み返しただけで、静かに頷く。
「そう……ジェラルド様はそう伝えたのね。その通り、彼女はもうこの世にはいない」
「残念です。話だけでもお伺いしたかったんですが……」
どうしてそうなってしまったのか――つい物問いたげな視線を送りそうになったセシリーは自分を諫め、視線を床に伏せた。だが、それを察したようにレミュールは苦笑する。
「気にしなくてもいいわ。私があなたを呼んだのも、そういった経緯を説明するためだもの。ラナは……私たちととても仲良しだった。いつも三人一緒に居たわ。知り合ったのは、王国立の魔術校に入ったのがきっかけ。同じ月の聖女の血筋を引くということで、私は一方的に彼女を好敵手と見なしたりもしていたけれど……いつしか共に学び舎で長い時を過ごす内、距離も近くなり一緒に卒業して離宮へと入ったの。もちろんマーシャもね」
「えっ……でも、マーシャ様は、年が違うって言って……ませんでしたっけ?」
記憶違いでなければ、レミュールはマーシャの三つ上だと言ったはずだ。冗談で言った様子もなく、ふたりの間ではそれが当たり前のように真実として受け取られていた。
どういうことなのか、セシリーが問うまでも無く、レミュールはその理由を告げる。
「マーシャは……おかしくなってしまったの。ある事件がきっかけで……私たちと過ごした三年間のことを全て忘れてしまった。そしてラナはその時に死んでしまったから……マーシャは覚えていないのよ。自分の本当の年齢も、ラナがいたことも……自分がしてしまったことも」
静かな夜、薄明かりが照らす部屋の中で……レミュールは古い記憶を掘り起こすかのようにゆっくりと、当時の様子を語ってくれた――。
彼女の話によると……十四歳で王国立魔術校の中等部を卒業した翌年、揃って離宮へと入り切磋琢磨していたレミュールとマーシャの内心には強い焦りがあったのだという。それは同期のラナだけが、聖女としての力を発揮し始め、彼女よりひとつもふたつも先へと進んでしまったからだった。
それでも、少なくともレミュールはもしラナがジェラルドに見初められ、月の聖女と王妃というふたつの特権を手に入れようとも、ずっと友人でいられると信じていた。ラナは権力を笠に着て、人に何かを強いるような人間では無かったし……マーシャもともすればぶつかりがちな自分とラナの間に立って、よく間を取り持ってくれる優しい心を持つ少女だったから。
だから……あの日、王国立魔術校の創立祭に招待されたラナが、あんな目に遭うとは予想もしていなかった。
数日前から少し体調がおかしいと言って、課業を休みがちだったマーシャの様子をレミュールはこのところずっと見ていた。マーシャは数日前からよく熱を出し、寝ている最中もうわごとを呟たりしていて、目を離す気にはならなかった。
医者にも見てもらったが原因は分からず、精神的な過労ではないかということでゆっくり休み、様子を見るように言われたものの……マーシャは、時折汗びっしょりで飛び起きて、レミュールにしがみ付いて泣くのだ。
何があったのか彼女に尋ねてみても、「夢の中で赤い蛇が、私を丸呑みにしようとするの……それが怖くて」と、涙ながらに訴えるばかり。
創立祭の日までそんなことが続き、ラナも心配して頻繁に見舞には来ていたが……彼女が年下の大切な友人に招待されているという話を前もって聞いていたレミュールは、半ば強引に離宮から送り出した。もしジェラルドと結ばれ王妃ともなるなら、これ以降そう自由な時間は取れまい……だから少しでも思い出作りに協力してあげたかったのだ。
護衛と共に出発したラナを見送った後、今日もマーシャの面倒を見るため、レミュールが彼女の部屋に戻った時だった。
扉を開けた時、すぐに異変を感じた。紫の霧が頭を包み、猛烈な眠気にレミュールは膝を落とす。足元には魔法陣が描かれ、音も立てずにすっと起動して消えたのは《睡霧》の魔法。
(どう、して……)
今鍵の使用権を預かっているのはレミュールだから、部屋にはひとりしかいないはず――あの優しいマーシャが、悪戯で人にこんなことをするわけがない。
だが、消え入りそうな意識を繋ぎ止める中で、彼女は倒れ込んだ自分を部屋に引きずり込むマーシャの顔を見てしまった。目深に外套のフードを被り、操り人形のようになったその顔は、目が合っても何の反応も示さなかったが……瞳の奥が普段とは違い、強く紅い光りを灯していた。
『――いるのよねマーシャ、ねえマーシャ、開けるわよ!』
(うるさい……なにを言ってるの……)
次に、意識が途切れた彼女を覚醒させたのは強く扉を開いた音だった。
誰かがレミュールの被っていたブランケットを剥ぎ取り、大きく肩を揺さぶる。ベッドに寝かされた、背格好も髪の色も同じレミュールの後ろ姿を見て、マーシャだと勘違いしているのだ。無理もない……ここは彼女の寝室なのだから。
(マーシャは外に……っ!)
なにが起こったのか思い出したレミュールは跳ね起き、驚いた様子で自分を見てきた同じ聖女候補の少女に掴みかかる。
『マーシャは……あの子はどこに行ったの!』
『レミュール!? なんであなたがここにいるの!? じゃああの噂は本当!?』
『噂!? と、とにかく、マーシャを探して!』
『……こっちに来て』
少女はレミュールをラウンジへと連れて行く。そこでは離宮のほぼ全員が集まって騒然となっていた。
『――本当なのよ、あたし見たんだから! 血が、地面にぶわって広がってさぁ……あっ』
大袈裟な身振り手振りで話す、これもまた聖女候補のひとりに、レミュールは駆け寄る。
『一体何があったの!? ねえ、誰かマーシャを見てない!? あの子、様子がおかしくて……』
『…………え~と』
口ごもる少女を見て強く胸が騒いだ。噂好きで、いつも真偽の定かでもない話を臆せず吹聴する彼女のような人が口を噤むほどの、なにか恐ろしい事態が起こったのを知り、レミュールは強い口調で話を迫った。
『話しなさい!!』
『わ、わかったから、私に怒んないでよ! 魔術校の創立祭が今日開かれてるのは知ってるでしょ? そこで、ラナが――』
それを聞いて、レミュールは離宮を飛び出した。
(そんなはずない……そんなはずない! 信じないから!)
彼女は聞き間違えようもなくこう言ったのだ――「マーシャが、ラナを刺した」と。
マーシャは確かにジェラルドに恋心を抱いていた。だが、同時にラナを得難い友人だと思い、二人の仲を応援していたはずだ。あの控えめで優しい彼女が、ラナを傷つけるなんて……。
半狂乱だった彼女は離宮の入り口で兵士に止められちょっとした騒ぎが起きる。かくなる上は魔法を使ってでも……レミュールがそうまで思い詰め行動を起こそうとした時、外側から掛けつけた背の高い青年が間に割って入った。
『止めろレミュール。事情は今から皆に話す……離宮へ戻れ』
『ジェラルド様……でも』
『戻るのだ』
彼は青い顔で、ぞっとするような低い声を出す。そして手を掴まれ、レミュールは強引に離宮へと戻された。急遽、未だ部屋に残るものまで全員がラウンジに呼び寄せられ……創立祭で何が起こったのかを、聞いた。
『ラナが亡くなった……下手人は捉え、後日処刑する。皆にはこの件について、詮索することを固く禁ずる……もし不用意な発言を行えば、必ず国家が制裁を下すであろう。肝に命じよ』
無感情で簡潔に報告するジェラルドの迫力にも怯まず、レミュールはマーシャのことを尋ねた。しかし彼はそれ以上何も言わず、後から来た法務省の役人たちに彼女たちの部屋を捜索させ、事情聴取を行わせた。レミュールも知り得る限りのことを話したが、それも一度きりのことで……その後なにも無かったかのように、日常は再開された。
亡くなったラナと、消えたマーシャ。一気にふたりの友を失い、レミュールは沈んだ日々を送る……。聖女の力の源泉は強き願いだと知ってはいたが、こんな自分が……友のために何もしてあげられなかった自分が何を望もうというのか。かと言って、何もかも忘れて外の世界に戻ることが果たして正しいのかと、胸に重たい思いを抱えたまま。
多くの同輩が聖女になることを諦める中、ジェラルドは離宮を後にする者を止めなかった。そればかりか生活を保障する多くの金銭を与え、自分たちの都合で若い彼女たちの多くの時間を奪ったこと詫びて送り出した。それからしばしの時が経ち、ある日ジェラルドがひとりの女性を伴い離宮へと訪れた。
その姿を見たレミュールは、大きく動揺せざるを得なかった。事件から三年が経ち、少し雰囲気は大人びたものの、それは、マーシャ・レード本人に違いなかった。
懐かしさと再会の嬉しさや、無力だった自分への後悔に突き動され、レミュールはマーシャに駆け寄ると強く抱きしめていた。だが……。
「あの……どこかでお会いしたこと、ありましたでしょうか?」
その言葉と、マーシャのきょとんとした表情が痛切に胸に刺さる。
隣に立つジェラルドの顔をすぐに仰いだが、彼は若い聖女候補にマーシャを部屋へと案内させて休ませるように命じ、当時のことを知るもの全員を呼び寄せてこう言った。
「三年前あったあの事件の下手人がマーシャであったと、噂で聞いたものもいるだろう。しかし、あの事件で彼女に決して咎はなかった。事情があってここ数年ほどの記憶が失われてしまっているが、お前たちもどうか、これまでどうり接してやって欲しい……頼む」
ジェラルドは真摯に頭を下げ、それを拒める者はいなかった。しかし……それでも納得がいかなかったレミュールは何度も彼に問い詰め、事実を特別に明かしてもらった。
それによると、事件の後拘束されたマーシャには、怖ろしい強度の精神操作魔法を掛けられていた痕跡が見つかったという。
数日間抵抗できていたのは、彼女が受け継いだ聖女の血と、一重に友人を守りたいと願う強い意志の賜物で……しかし最後にはそれすらも飲み込まれ、心の中にあったラナへの嫉妬心を強く刺激し増幅させられたマーシャは、ついにはあのような凶行に及ぶに至ったのだと、ジェラルドは未だ苦渋の滲む表情で語った。
そしてラナを死に追いやったマーシャが自死を選ぶほど思い詰めたため、ジェラルドは宮廷魔術師に彼女の記憶を封じさせたという。ラナやレミュールと出会ってからの辛くも楽しい……こんなことがなければいつまでも心の中で宝石のように仕舞われていたはずの、あの輝かしい三年間を含んだ長い時間の記憶を……。
「――情けないことに、子供みたいに一晩中泣いてしまったわ。そんな私をジェラルド様は、ずっと傍にいて慰め、謝ってくれた。彼はなにも悪いことはしていないのに……。全部の責任を自分で背負って、見捨ててもよかったマーシャの命を掬い上げて、この場所に戻してくれたのに……」
レミュールは悲しそうに笑うと、セシリーの手を取った。
「お願い、セシリー。あの人を幸せにして上げて……。ラナを失って、それでもマーシャを罰することもできなくて、きっと今もあの人は私たちをここに集めた王家と自分をずっと責め続けているのよ。このままじゃ誰もあの人を救ってあげられない。ラナと同じ聖女の資質を持つ、あなたにしかもう、できないの……!」
気丈そうに見えたレミュールの瞳から、大粒の涙が溢れ出すのをセシリーは何も言えずに黙って見ていた。彼女の痛ましい思いはセシリーの胸にしっかりと届いたけれど、それでも……自分などにジェラルドを救える資格と力があるとはとても思えない。
結局、うんともすんとも言えずにセシリーはレミュールを慰め、ベッドに入るのを見届けて自分の部屋に戻る。その手には、レミュールから渡された一冊の日記があった。親元に送り返されたの遺品の中にあった物をジェラルドが譲り受け、三年前の再会の時に渡してくれたのだという。
セシリーは自室のベッドに潜り込みながら、白銀の手鏡と共に枕元に置いて、それを眺めた。
日記には、等身大の十代前半の少女の想いが綴られていて、時には親元を離れた寂しさや、厳しい魔法の修練の苦しみなども書かれていたが、彼女の素直で芯の強い性格を表すように最後は必ず明日の自分への励ましで終わっていた。ジェラルドや第二王子であるレイアムなる人物についてや……もちろんレミュールやマーシャとの関わりも本当に楽しそうで、日々のひとつひとつを克明に切り取って、大切に保管したいという彼女の想いが感じ取れる気がした。
最後のページに挟まれた、花の形をした銀の小さなお守りが可愛くて口元を緩ませた後、ベッドの傍に置かれた魔道灯を操作して消してセシリーは思い耽る。
この先……自分は一体どう動くべきなのだろう。月の女神から明かされた事情、心に決めた約束、ジェラルドたち三人の複雑な過去。そして……自分自身の望み。
色々な人がセシリーに願い、頼み、命じ、求める中……大狼は決めるのはセシリーだと言ってくれた。だから、自分でとことん考えなければ。
色々な出来事をバターになりそうなくらい、形になるまで頭の中で、ぐるぐるぐるぐる回し続ける。そんなことしていると、いつしかその夜、不思議な夢をセシリーは見ることになった。




