昔日の話
宮廷での生活というと、茶を嗜み、花を愛で、詩歌や音曲に耽るような華美な生活が想像されるが、ここでの生活はそれとはだいぶ異なるものだった。
衣装の召し替えや食事の用意こそ侍女たちが来てやってくれるものの、それ以外は全て自分たちでやる。掃除も、庭の手入れも、午後のお茶の用意も……彼女たちは手ずから、しかも魔法を使ってやるのだ。
セシリーは部屋中を飛び交うはたきや雑巾を見上げつつ、自らも少しでも何か真似してみようと体から魔力を呼び出す。あたかも触手のように両手から伸ばすと、バケツに入った雑巾を絞ろうとしたが、それが失敗だった。
――きゅっぽん。
という音がしたかは知らないが、魔力の手から雑巾はすぽっと逃れ、セシリーの顔面に思いっきり打ち付けられた。繊細な力加減はまだまだセシリーには難しい。
「うぇぇ……」
「あらら……やっちゃいましたね。よしよし」
マーシャはそんな彼女の顔を優しくタオルで拭ってくれ、レミュールはおかしそうにくすくすと笑う。
「困った聖女様ねぇ……。でもそれだけ魔力があるのに、魔法が使えないだなんて……ファーリスデルでもちゃんと魔法の素養のある人間は民間からも拾い上げてるでしょう?」
「実は……私、自分に魔力があるって知ったの、最近でして……」
後ろ手で頭を掻くセシリーにふたりはさもありなんと頷く。
「ふ~ん、なるほど。道理であなた、魔法使いっぽくない目をしてるものね」
「黒味の強い灰色ですもんね。でも多分、しばらくしたら私たちと同じように変わって来ると思いますよ」
「ほ、本当ですか!?」
マーシャが顔を寄せ、自分の顔とセシリーの顔を並んで映す。もしかして、自分も将来彼女たちや母のような、銀に近い灰色の瞳になるのだろうか……そんな事を思うと少し嬉しくなった。
「わ、私頑張ります! 絞れないけど、拭くくらいならっ! ……うわわわわっ!」
再び魔力を形にし、今度は床に雑巾を貼り付かせて、部屋の出口から通路に向かって走り出したセシリーだったが、今度は水に濡れた床に足を滑らせて前のめりにすっ転ぶ。
「きゃぁぁっ!」
「――危ないっ!」
あわや地面に頭突きというすんでのところで抱え上げたのは、この離宮の主、ジェラルドだった。
「ふう……何をやっている馬鹿者め。今の勢いで突っ込んでいたら洒落にならぬぞ。元々高く無い鼻がさらに引っ込むところだったではないか、セシリー」
「あ、ありがとうございます……」
「お前は軽いなぁ。女らしくなるには、もっと食わぬとな」
彼はセシリーの体をぐっと持ち上げると、両足から地面に下ろしニッと太い笑みを浮かべた。その言い方に、なんとなく素直に感謝する気持ちになれないセシリーの頭をジェラルドはまた掻き回す。
「……止めてくださいよ」
「すまん、ついこんな色だから、昔宮殿で飼われていた犬を思い出してな。はっはっ」
本当かどうか分からないことを言って笑うジェラルドを見上げ、手櫛で髪を直しているとレミュールとマーシャが近づいてくる。
「お久しぶりですわ、ジェラルド様」
「御機嫌よう、ジェラルド様。セシリー様に会いに来られたのですよね?」
「その口振りでは、オレが普段お前たちのことを構ってやっていないようであろうが」
「そう思われるのでしたら、もっと小まめにおいでになってくださったらよろしいのです」
「わかったわかった、努力する」
参ったように笑うジェラルドと、嬉しそうなふたりを見て、セシリーは少しほっとした。彼女たちも言っていた通り、決して彼らの中が険悪だったりすることはなさそうだ。
しかしふたりは目を見合わせると、セシリーをジェラルドの前へと追いやる。
「でも、せっかくですから今日はセシリーの御相手をなさってあげて下さいまし」
「そうそう。セシリーさんもこちらに来てばかりで不安でしょうから……ジェラルド様、ゆっくりとお話を聞いてあげてください。さ、どうぞどうぞ」
ふたりはセシリーとジェラルドの背中を押してサロンへと追い立ててゆくと、後でお茶を持って行きますからごゆっくりと笑顔で扉を閉めそのままどこかへ行ってしまった。
少しずつその顔に慣れてはきたものの、依然緊張は拭い切れないセシリー。
王太子はそんな彼女に差し向かいからじっと見つめてくる。
「そう警戒するな。少なくとも正式に婚姻を結ぶまで、こちらから何かをするつもりは無い」
「まあ、わかりますけど……あんなにお綺麗な方々にも手を出さないなんて……あ、もしかして」
「名誉のために言っておくが、男色家ではないぞ」
「……すみませんです」
とっても失礼なことを思ってしまったのがばれて、セシリーは素直に頭を下げた。だが、レミュールたちの話によれば、もう彼は二十七にもなるはずだ。それだけの長い期間お手付きになる女性がいないとすると、そう勘繰られることもままあるだろう。
「王妃は……レミュール様たちではいけないのですか?」
「そなたの言いたいことは分かる。オレも早く世継ぎを作らねばならんのは分かっているが……少々時期が悪いのだ。……少しばかり話を聞いてもらえるか?」
「は、はぁ。全然構いませんけど……」
「一世代前ならば、別に彼女たちでも構わなかったのだ。実は《月の聖女》の資質を顕せなくとも、歴代で王妃となった者はいくらでもいる。だが……お前も知っている通り《大災厄》の復活を控えた今、国の存続のために王家が必要としているのは姿形だけをなぞっただけの美姫ではなく……確固たる資質をその身に備えた本物の月の聖女だけなのだ」
ソファに深くもたれ、物憂げな視線を上に上げた後、ジェラルドはセシリーに問う。
「ふたりからは、この離宮のことをどのように聞いている?」
「……ええと、彼女たちが十年ほど前に、大勢の聖女候補のひとりとしてここに集められたけれど、結局はひとりを除き、資格を持つ者は現れなかった……そのことだけです。だとすれば、そのひとりというのは、おふたりのどちらでもないのですよね? ……教えていただけませんか、なぜこの国に今、月の聖女の資格を満たす者が私だけなのか」
セシリーとジェラルドの真剣な瞳が交錯し、彼は重たい決意を吐き出すように声を低くした。
「そうだな。お前も当事者だ……どうしてこのような経緯に至ったのか聞く資格は十分に有るだろう。かつて……月の聖女あることを、お前と同じように証してみせたひとりの少女がいた。しかし――」
ジェラルドは、両手の上に乗せた顔を俯かせる様にして視線を隠すと、静かな声で告げた。
「彼女は……齢十五という若い年にして亡くなったのだ。それが今から十年ほど前、あの離宮が作られた、次の年だった」
◆
ジェラルドはそこから、自らの生い立ちも含め、彼らに起きた出来事を時系列に並べ語ってくれた。
――月の聖女に守られし我が国と、太陽の聖女に守られしファーリスデル王国。両国の関係は五百年の長きにも渡り続いてきた。両国がこれほどまでに固く友好を守り続けることができたのは、皮肉にも遠き未来に……封印が破られることが、確定していたからだ。
その要因となった悪王リズバーンの脅威は、それほどまでにふたつの国を戦慄させていた。もう遠い昔のことであまり記録は残されていないが、一説には、この国の総面積の半分程度が、数日で草も生えぬ不毛の土地へと姿を変えたということだし、名残として今もあの砂丘が残っている。それだけで影響は推し量ることができよう……。
長く平和は保たれた方だろう……しかし万物は永遠たり得ぬものだ。着々と、《大災厄》の復活が迫るそんな時代にオレはこの国、ガレイタム王国の王太子――第一王子として命を授かった。
幼き頃から父はオレに、厳しく体を鍛えさせた。その理由は言わずもがな、災厄の復活の折に《月の聖女》の隣に立ち、彼女の守り役として剣を振るうためだ。聖女は大きな力を扱う際、祈りにより無防備な姿を曝け出す……それを護衛するため、偉大な祖先の後継として、務めを果たせ――父の言いつけに従い、オレは物心ついた頃から鉄剣を握らされ、兵と共に鍛錬に勤しんだ。
おそらくお前は知らぬだろうが……そんな幼いオレを一時期鍛えてくれたのが、オーギュストだったのよ。といっても一年か二年と言った短い期間だったがな。ちなみにその頃、お前の母君も宮廷魔術師として王宮で働いていたのが……ついにふたりが顔を合わすことはなかったようだな。容姿ならず心も、真に美しい女性であった。
話が脇道に逸れてしまったな……。王家に生まれたのはオレだけではなく、弟がひとりいた。四つ年下の、ひ弱な弟だ。父はオレの予備としてあやつも鍛えようと思ったようだが、当時弟は体が弱く、少し体に無理をさせただけですぐに熱を出し倒れる始末だ。結局諦めた父から奴は不出来の烙印を捺されて放置された。
しかし一方であやつは稀有な魔法の才を持ち合わせており、それも国家の役には立つ。……オーギュストが出奔した後もオレが国内を回り剣を修めんと修練に励む中、奴もまた魔法を必死に学んでいた様子だった。たまに宮殿に戻り会う時、奴はオレに言っていたのだ――将来はかならず兄上のお役に立てるように、宮廷魔術師となってみせますなどと殊勝なことをな。その頃までは兄弟仲は決して悪くはなかったのだ。
しかし、少しずつ不穏は迫っていた。
時計塔……ファーリスデルにも同じものがあるであろう。あれが刻む時間のずれが、その頃には無視できぬほど大きくなっていた。国民の多くが知らぬことだが、実は時計塔は建物自体が巨大な魔道具である。周囲から吸い上げた魔力を隣国との境目へ、封印の地へと送信し、それを維持している。王家は事実を隠蔽したまま今まで必死に長い間保存を図ってきたが、しかし……限界が訪れてしまった。
もちろん我々も手もこまねいていたわけではない。この五百年の間に進化した技術を使い、ファーリスデルとの共同研究の成果を惜しむことなく、部分的に改修を行ってきた。
しかし驚くべきことに、邪竜となった悪王リズバーンは長らく封印を受ける内に耐性を身に付け、影響下から少しずつ逃れようとしている。抑え込むための魔力がより多く必要となるのは言うまでも無く、このままでは奴は遠からず封印を破り目覚めることになるだろう。宮廷魔術師の長たちからも、そんな見解が下された。
同時に別の問題も発生していた。周辺に漏れ出した邪悪な魔力は大地や大気を伝って広がり、近年の魔物たちの大規模な発生にも繋がっている。
このまま次の世代に託すわけにはいかない――国家の上層部はそう判断した。一度現在の封印を解除し、再び新たなものを施す……それが両国が協議の上に至った結論だ。
それにはまず第一に、聖女の力の覚醒が不可欠。ファーリスデルでは既に、マールシルト家から太陽の聖女の血筋を受けた優秀な娘が選ばれたということでガレイタム王家は焦った。そこで国王は本筋のレフィーニ家だけではなく、長い歴史の内に血筋を繋げた傍系の家からも聖女の血脈を受け継ぐ者を探し、より優秀な資格者を得るため、候補の娘たちをひとところに集めて教育させることになった――。
「――その場所が、この離宮であったというわけだ。それがもう、今から十年前のことになる」
腕を組んでいたジェラルドは、瞑目していた瞼を広げた。
きっと当時は、多くの少女たちがここで学び、言葉や心を交わしていたのだろう……。セシリーはその年月を思いやるように、目の前のテーブルに刻まれた小さな傷にそっと手を触れた。
「だがな……思った以上に聖女としての血が薄められていたのか、それとも偶然か。適正な資格を示したのは、当時その中のひとりだけだった。お前も聞いたかもしれんが……ラナという少女がそうだった」
愛おしさと寂しさを宿らせた瞳は、彼が面を上げ扉の方をちらりと見ると同時に平常へと戻っていた。微かな足音がする……ふたりがこちらに向かっているのだろう。
「今日はここまでにしておくか……」
「は、はぁ……」
ジェラルドは気配を緩め、もう話すつもりもないようだ。一番核心となる部分を前に気勢を削がれ、セシリーは残念な顔をしながらも、レミュールとマーシャが入って来るのを待った。
「失礼しますね、ささどうぞ……。甘い物もありますよ」
「ちょうど喉が渇いたところであった。いただこうセシリー」
「はい」
「何の話をしていましたの?」
ちょっとした昔話だとジェラルドはレミュールに答え、彼女は少し顔を曇らせた。相変わらず笑顔で隣に座ったマーシャと何故か少し温度差が有るのを疑問に感じつつも、セシリーは彼らの談笑に加わり、楽しい一時を過ごした。




