離宮とふたりの令嬢
『――うむ! これをもって認めよう、セシリー・クライスベル、そなたが月の聖女の血脈を受け継ぎし者であると!』
『――ジェラルドと婚姻を結び、共にガレイタムの繁栄に尽くしていってもらいたい!」
そんな声が何度も繰り返し頭の中で流れ、周囲の人々の笑いが、セシリーを追い詰めるようにわんわんと頭を揺らす。
「……聖女……王妃……知らない。来ないで……うう……うぁぁぁぁっ!」
――そんな悪夢。
目覚めたセシリーは飛び起きると、じっとりと濡れた額を拭って、ぼんやりと視線を漂わせた。
「はぁ……はぁ……ゆ、夢、かぁ」
とんでもない恐ろしい夢だった。
綺麗な服を着せられ、巨大きなお城に連れて行かれた後、なにもかもわからないまま聖女だということを証明しろとか言われ……やったらやったで、今度は王太子と結婚しろとか言われるのだ。夢見がちな少女が読むお伽噺じゃあるまいし、そんな唐突も無い出来事が現実に存在してたまるものか。
「そうよ……たまらないわよ。急激な環境変化に生き物は適応できないんだから……元庶民が王妃なんかになったら精神に異常をきたすわ」
深々とベッドに沈み込んだ自分の体を抱え、セシリーはぶるりを震えた後……その窪みから這い出ようとしたが、縁に手が届かない程その面積は広い。
(うちのベッド、こんな広かったっけ? 私、知らない間に体が縮んだりしてないよね)
ずりずりと体を引きずり、ようやく手元が布の海から出されたという時、指先がしっかりと掴まれぐいっと引っ張られる。それを支えにしてベッドから顔を出したセシリーの前には、見知らぬ女性の顔があった。
「おはよう、セシリー・クライスベル」
銀の髪と瞳をした、美しい女性……涼しげな左目の下ある小さなほくろが色っぽい。そんな気品のある女性がしっとりと微笑むのに、セシリーは、ああと手を打ち鳴らした。
「お父様が新しく雇った侍女の人ね?」
「違います……。あなた、記憶は確か? ジェラルド様から頭は打っていないはずだと聞いていたけれど……ここかどこかわかる?」
「クライスベル家のお屋敷……ではない?」
セシリーは周囲を大きく見渡し、ようやくそのことを認識する。壁紙から絨毯、そして今自分の座しているこの天蓋付きのベッドからシーツの一枚に至るまで、おそらく全て職人が手ずから造り上げた一級品だ。こんなものがたかが成金貴族であるクライスベル家の屋敷に有るわけがなかった。
「どこですかここ?」
「本当に頭がおかしくなってしまったのかしら? 私も詳しくは存じ上げていないけれど、あなたジェラルド様にこの王宮へと連れてこられたのでしょう? 隣国のファーリスデル王国から」
「ああ!」
彼女の言葉にじんわりと記憶が刺激され、数日前に王国を発った事、母の墓へと訪れたことやガレイタム王国軍に拘束されたこと、そしてジェラルドに事実を聞かされ、この場所まで引っ張られてきたことが数珠つなぎに思い出された。
そして、つい何時間前かに起きた衝撃の出来事も。
「ちゃんと思い出せた?」
「いいえ。頭が痛むのでもう一度寝かせてください」
「嘘おっしゃい。丸一日も眠っていたのだから頭はすっきりしてるはずよ」
再び現実逃避を試みるべく後ろを向いた肩をはっしと掴み、再びセシリーを正対させると、彼女は名乗りを上げた。
「私は、レミュール・ホールディ公爵令嬢。あなたと同じ王妃候補ということになるかしら。そしてここは……ジェラルド様のための離宮の離れ。王妃候補たちの修養所にあたるわね」
「し、修養所……? 王妃候補たちの……」
聞くだけで何だか恥ずかしくなってしまったセシリーが両手をこすり合わせるのを見て、レミュールはくすっと笑った。
「心配しなくていいわ。今ここに居るのはあなたを含めて三人だけだし……ジェラルド様は王太子としてその辺り弁えていらっしゃるから、未だにここの女性とはそういう関係にはなっていない。それがあなたがお手付きにならないという保証にはならないのでしょうけど」
「はあ……」
普通に考えて、十人の男性にレミュールとセシリーどちらと付き合うかと聞けば、ほぼ十人ともセシリーのような珍獣ではなく、目の前の美しいレミュール嬢を選ぶだろう。ならば身の安全は心配あるまいと妙な納得をしたセシリーの鼻を、とてもよい香りが刺激し、部屋の扉がカチリと開く。
「あっ、目が覚めたんですね。丁度お茶を淹れて来たところですから、よかったらどうぞ」
カートを押しながら入って来たのはこれもまた銀髪銀目の女性だった。セシリーよりかはやや上に見える可愛らしい雰囲気の女性で、頭の上でマフィンのように丸くまとめた髪が似合っている。
彼女は手際よくテーブル席に茶菓子と茶を用意し、セシリーたちを手招きした。
「どうぞどうぞ。お話はお茶をいただきながらゆっくりしましょうね」
「おぉ……」
丸一日何も食べずにいたセシリーは、きゅるきゅるとお腹を鳴らしながら両手をふらふら伸ばし、テーブル席ににじり寄っていく。そんな彼女を見かねたレミュールが腰に手を当て短い息を吐く。
「呆れた子。王妃候補たるもの、自制心を失くしては務まらないわよ。マーシャもせめて、身なりを整えさせてから呼びなさいな」
「いいじゃないですか。よっぽどお腹が空いてたんですよ。ねぇ?」
「ふぁい。美味しいれす」
はぐはぐとマフィンを幸せそうに頬張るセシリーを撫でながら、マフィン娘は名乗ってくれた。
「あたしはマーシャ・レード。あなたと同じ伯爵家の娘ですよ……セシリーさん、これからよろしくお願いします。よかったら隣の国のこと、色々教えてくださいね?」
(はい、頑張ります……!)
セシリーがふかふかのマフィンを口いっぱいに頬張ったせいで返事もできず、ぶんぶんと首を縦に振るのを、彼女はとても嬉しそうに見つめた。
◆
それから、心ゆくまで菓子を貪り一息ついたセシリーは、マーシャに髪を梳かして貰いながらふたりの話を聞いていた。レミュールの年は二十四、マーシャは十九と、今年十八になるセシリーとは少し離れているようだ。
「では、レミュール様と、マーシャ様はもう十年近くもこちらにいらっしゃるのですか?」
「ええ。私たちがここを初めて訪れた時には、もっとたくさんの娘たちがいたの。ここは王妃候補としての教育の場というだけではなく、聖女としての修業の場も兼ねていた。しかし、今までひとりを除いて誰も資格を示せず、少しずつ家へと戻されて行ったわ。今となっては形だけのそんな場所……」
今まで資格を示したのはひとりだけ……ということはレミュールかマーシャがそれに当たるのだろうか。しかし彼女たちはそれについてはっきりとは述べず、儚い笑みで口元を彩る。
「ま、色々あったんですのよ。女同士の醜い争いも……それを下らないと撥ねつけ、育まれたささやかな友情も。けれど結局はすべて実りはしなかったわね。最後には誰も、国から認められジェラルド様と番になることはできなかった」
レミュールは立ち上がると、ベッドに手を伸ばし、何かを持ち出してきた。
在りし日の姿を取り戻した、銀白の手鏡。セシリーはそれを見てうっと表情を曇らせる。差し出してくれた手鏡を彼女たちの手前突っ返すこともできず、それに映る自分の顔を見るがピンと来ない。
「そんな顔しないで……ある事件の後、これまで離宮を訪れた多くの人がこの鏡の真の姿を望んだけれど、ついに誰も取り戻すことは叶わなかった。それを成し得たのだから、あなたは間違いなく、月の聖女なのよ」
「そうですよ……あたしたち、セシリーさんが来てくれてこれまで諦めていた気持ちに希望が持てたんです。ジェラルド様があなたと結ばれたら、もうこの場所は必要なくなります。そうすれば、彼はあんな悲しそうな顔をしに、ここに来なくてもよくなりますから」
マーシャが少しだけ沈んだ顔で俯いたが、彼女たちばかりを心配しているわけにもいかない。セシリーにはセシリーの事情があるのだから。
これまでは成り行きに従うほかなく、こんなところまで連れられて来てしまったが、月の聖女として国を救う云々はともかく……ジェラルドと結婚して王妃となるなど、断固として拒否したい。
しかしこの場でセシリーの味方になってくれそうな人間はひとりもいない。ならば……自分の手でなんとかやってみるしかない。
なるべく王妃としてふさわしくない振る舞いを示しつつ、月の聖女として大災厄の復活は阻止し、事が済んだ後にガレイタム王国からの脱出を図るのだ。
果たしてそれが可能なのかどうか考えるよりも、今は周りから情報を得るべきだとセシリーは気持ちを切り替えた。騎士団の皆と約束した、彼らの元へ戻るという言葉を嘘にしないためにも。
「レミュールさん、マーシャさん、わたし頑張ります! ですからこの国の色んなこと、ぜひ教えてください!」
「それじゃあまずこの建物を案内しますね! ここにはあまり侍女たちも来ないので、色々なことをセシリーさんにもやってもらいますけど、大丈夫ですか?」
「はいっ!」
「なんだか急に調子よくなったわね。なにか別のことを企んでないかしら……?」
空元気を出すべく大きな声で返事し、手招きするマーシャに続くセシリーをレミュールは不審そうに見つめたが、無闇に疑うのも面倒に思えたのかそのままふたりの後を追う。
こうして予期せぬセシリーの離宮での生活は幕を開けた。




