王太子ジェラルド
馬車に乗せられ、座席に座らされたふたりは、対面の黒髪の男が口を開くのを待っていた。リルルも捕らえられ、別の場所に詰め込まれたようだが、危害は加えないと彼は約束してくれた。心配になりつつも、今セシリーにきることは男の話を黙って聞くことくらいしかない。
その馬車はすさまじく豪華な内装をしている。ところどころに置かれた純金細工の調度品、毛足の長い絨毯の滑らかな光沢などはいずれも、クライスベル商会で扱う最上級品より一回りも二回りも高価な品だ。天井のランプが写るほどに磨かれた古木製のテーブル置かれた茶も、立ちのぼる香りだけで一級品だと予想できる。そも馬車自体もおそろしく揺れが少なく、まるで高級宿の一室をそのまま間借りしているかのような錯覚さえ覚えられた。
そんな空間においても男はごく自然に足を組み、余裕のある笑みでこちらを見下げている。明らかにただ者ではなく、言葉を選ぶ必要があるとセシリーは感じた。
「おい、娘……名乗れ」
「……ご存じかとは思いますが、隣にいる父オーギュスト・クライスベル伯爵の娘で、セシリー・クライスベルと申します。ねえ、お父様……この方はどなたなの?」
慇懃な態度に眉をひそめそうになったセシリーに、オーギュストは黙っているよう視線で訴えかける。
「リーシャにはあまり似ていないな。悪くはない顔立ちだが……。よく男で一つでここまで育て上げたものだ、なあグスタフ」
男のその呼び方に、オーギュストは抗議した。
「そろそろ昔の名を呼ぶのはやめていただきたい。リーシャいう女も、グスタフという男ももう今はどこにもいない」
「わかったわかった、そう怒るな。そこのオーギュストとやらとは顔見知りだが、娘、お前とは初対面だ。一応名乗っておこう。オレは、ジェラルド・セルキス・ガレイタムという」
そこで彼は一旦言葉を切り、発した名前の意味が、少しずつ彼女の頭の中に沁みこんでくる。
「……まさか。ガ、ガレイタム王国の……!?」
「そう、この国の王太子を務めている」
「そ、そんな――失礼致しましたっ!」
セシリーは座席に座った状態で、可能な限り頭を下げた。しかし彼はつまらなそうに手を振っただけだ。
「楽にするがいい。しかるべき場ならともかく、お前らに礼儀など期待しておらんわ」
いくらそんなことを言われても、セシリーの緊張は消えない。まさか何の準備もせずこの国の次期最高権力者と会話することになるなんて……背筋が震える。
だが勇敢にもオーギュストは自分から口を開いた。そういえば、王太子は父とは初対面では無いと言った。王都にいた頃に何らかの関わりがあったのだろうか……。
「どうやって、私どもの場所を知ったのです?」
「国を甘く見過ぎだ……一度追跡を逃れた手腕は見事なものだったが、お前が国外に逃れたこと、そして幾度か身を隠し、あの場所を訪れていたことはとうに知っていたさ」
母の墓がそこまで寂れた感じがしていなかったのは、やはり父が忙しい仕事の合間をぬって定期的に手入れしていたおかげなのだとセシリーは知った。同時に彼女は、気まずそうなオーギュストの顔を見て、これまでぼんやりとしていた違和感の正体に今更気付く。
(そういえば、どうしてファーリスデル王国の魔法騎士団が、月の聖女を探していたの? だって、ファーリスデルには太陽の聖女様がいらっしゃるじゃない……)
こうして冷静になって考えてみると、おかしな話だった。
オーギュストの話から、セシリーがレフィーニ家の、月の聖女の血を引くことは分かった。けれど、本来災厄を封印を行う月の聖女の身柄は探すまでもなく、こちらの国で確保されているはずだ。レフィーニ家の血を引く者なら他にいてもいいはずだし、父は他の貴族家も聖女の血を取り入れたと説明してくれた。しかしあの時キースは、封印を行う資格を持つのは現在セシリーだけだと、断言するとまで言った。
それがどういうことなのか、疑問は彼女の表情から隠せていなかったらしい。
「オーギュスト、貴様のことだ。知りつつも教えていなかったのだろう? 月の聖女の血を一番色濃く受け継いでいた、レフィーニ侯爵家の血は途絶えた。そして、傍系となった他家の内にも聖女の資格を満たす者は今、いない……」
感じていた圧迫感がふと揺らぎ、ジェラルドが疲れたような表情をした。だがそれは一瞬だけで、彼はすぐに気を取り直すとセシリーに一方的に通告する。
「セシリー・クライスベル。お前に選択権は無いのだ。今代の月の聖女として、再度《大災厄》の封印を行うため……王都まで来てもらおう」
セシリーは戸惑いながらも必死に頭を働かせる。
「ちょ、ちょっと待って下さい! な、なら……ファーリスデルの魔法騎士団にこの事を知らせて、協力し合って下さい! 彼らは、リュアン・ヴェルナー団長はその事態を止めようとずっと私を探して……」
「ヴェルナー家の……、あいつが魔法騎士団団長だと……?」
途端にジェラルドの顔が険しくなり、彼はセシリーの言葉を強く跳ねのけた。
「必要ない。あのような出来損ないの手を借りずとも……オレが次の王として、必ず役目は果たす。月の聖女の守り役として……お前の隣に立つのは、このオレだ」
「……痛っ」
今までの余裕をかなぐり捨て、ジェラルドはセシリーの手首をつかみ強引に引き寄せようとする。だがそれを、オーギュストが間に入り諫めた。
「ジェラルド様……そこまでにしていただけませんか。娘は、誰のものではない」
「ふん。どう足搔いたところで、こいつもオレも所詮逃れることは叶うまいよ。血筋が持つ……生まれ持った宿命からはな」
忌々しそうに自分を止めたオーギュストの手を振り払うと、ジェラルドはゆったりと背を深く座席に押し付ける。その顔には隠し切れない苦悩が滲んでいた。
そのままジェラルドは瞳を閉じ、しばし馬車は北へと走る。色々と尋ねたいことはあるものの、オーギュストも深く考えに沈んでいて、セシリーは口をつぐみ視線を小窓の外へ移す。
気がつけば、空からは小雨がぱらつき始め、灰色の暗雲が視界の上半分を覆っている。セシリーはふいに心細くなった。それはこれから訪れる苦難を暗示し、困難な道のりになることを警告しているように思えたのだ……。




