変えたい自分
「お父様ーっ!!」
ここは、王都に建てられたある伯爵のお屋敷だ。そしてその一室……一番奥の書斎に怒りのまま飛び込んでゆくのは、たった今婚約破棄を受けてきたばかりの伯爵令嬢セシリー。そう、ここは彼女の実家、クライスベル邸なのである。
「おお、なんだいセシリー。お前、その格好はどうした……」
騎士団長を引っぱたいた勢いのもと街中を走り回ったおかげで、いくらか気持ちをすっきりさせた彼女は、部屋の中央で両手を広げ、待ち構えていた男性に詰め寄ると……。
「問答無用っ!」
「ぐはっ……」
勢いのまま、どてっぱらを拳で貫き、絨毯の上にうずくまった彼を苛立たし気に見下ろした。
言わずもがな、この茶髪で小洒落た感じに細髭を整えている紳士こそがクライスベル伯爵こと、セシリーの父オーギュスト・クライスベルなのだが……いかにもひょうきんそうなその顔は今、鳩尾への打撃のせいで強い苦痛にゆがめられている。
「ぐ、お、ぉぉっ……む、娘よ! なんてことするんだ!」「なんてことするのよ!!」
わけのわからない内に殴り倒された父親と娘の声が同時に重なったが、怒りはセシリーの方がずっと強い。父の胸倉をがしっとつかみ上げると、彼女はマイルズの婚約破棄について矢継ぎ早にまくし立てた。
「ねえ、慰謝料をもらうってどういうこと!? 私に相談もせず婚約破棄を認めたって……なんなの一体! 事と次第によっちゃ、ただじゃおかないから! その似合わない口髭、片側だけ全部剃り落としちゃうわよ!?」
「やめてくれ!! そんなことをされたら人前に出られなくなる……! 仕方なかったんだ、聞いてくれ娘よ!」
すると、オーギュストは泣く泣く婚約破棄を受け入れた経緯を語り始めるのだが……その前に。
――実は、クライスベル家は元から爵位を持っていたわけではない。
しがない貿易商だったオーギュストがセシリーと仲間をを引きつれ、貿易でこつこつと溜めた財貨で各地に商店を作り、ついに王都にまで『クライスベル商会』の看板を掲げることになったのは、つい最近のこと。
しかし彼の野望はそれにとどまらず、その商売の手を社交界へまで拡げるべく、ある公爵に相談を持ちかけた。
ファーリスデル王国では爵位の売買は認められていないものの、一定以上の階級を持つ貴族の強い推薦により、王国から審査を受けた上で稀に譲渡を認められることがある。その口利きをしてくれたのが、実はマイルズの父親……イーデル公爵だったのだ。
魔物の出現が増えて人口が減り、税収の見込めなくなった辺境領と伯爵位という微妙な取り合わせではあったが、しかし爵位は爵位。譲渡は円満に進み、晴れてクライスベル家は伯爵家を名乗ることが許された、というわけであった――。
そんな折に舞い込んできたのが、あのマイルズとの婚約話だ。これはイーデル家やその派閥との繋がりを深めるためのもので、彼らから取引先を紹介してもらう代わりに、クライスベル家からもイーデル公爵家へいくらか出資するという条件を盛り込んだ、結構がちがちの政略結婚、であるはずだったのだが……。
「少し前に急にイーデル公爵様がこちらにいらっしゃって、今回の結婚を白紙にしたいとおっしゃってなぁ……」
遠い目をしたオーギュストが少し憐れに思えて、セシリーはつかんでいた襟首を離してやる。すると彼は、こてんと横倒しになったまま告げた。
「私も当然抗議はしたさ、さすがにもう結婚まであと半年を切っていたし。でもな、彼はこの話を呑まなければ、伝手で紹介してくれた太筋の顧客との取引をすべて引き下げさせると脅してきたんだぞ。そんなことになれば、商会は終わりだよ……」
「ひっどいわね。もしかして、あの、イルマって女の家が悪いの?」
「さあなぁ。彼女はオースティン侯爵家の娘だという話だが、そこがイーデル家に働きかけたのか、マイルズ君がイルマ嬢を気に入ったのが先なのかは分からないんだ。だがとにかく、クライスベル商会を存続させ、従業員たちを養うためには婚約を解消させるしかなかったのだよ。すまない、すまない娘よ、どうかわかってくれ……」
オーギュストは体を起こすとうつむき、涙ながらに謝罪してくる。しかし……。
――スパスパン。スパパパパパ。
セシリーはそれでも納得がいかず、父をすわった目で見つめつつ、再度無言で平手を往復させた。
「や、やめふぇくれっ! ここは誤解が解けた親子が、お互いを慰め合うのが様式美ってものだろう!?」
「知るもんですかそんなの! そのせいで私がどんなひどい目にあったと思ってるの!? この怒りをお父様は全身で受け止める義務があると思うの! 愛する娘でしょうが!」
せめて事前に知らせてくれれば、多少なりとも溜飲が下がったはずなのに。そんな気持ちからか、彼女の行動には容赦がない。最後に強烈なのを一発お見舞し、倒れ込ませたオーギュストの背中を、まるでマットのように踏んづける。
「す、すまん~。だが各所へ結婚が流れたことを釈明したりで、本当に時間が取れなかったんだって! だから……痛い! 裸足で蹴るのはやめてくれ! ああ妻よ、どうして我が娘はこんなに暴力的に育ってしまったのか。でも、体だけはものすごく丈夫に育ったから、心配しないでく……ぶぎゅっ!」
「はーっ、はーっ……。今度やったら承知しないからね」
全国の商会員や、使用人を含む一家全員が路頭に迷った可能性があるのだから仕方のないことと、セシリーの怒りはやっと一旦の鎮火をみた。
ずたぼろの姿で、亡くなった母サラの肖像が入ったペンダントを拝む父にとどめを刺すと、彼女は書斎を飛びだす。
そして呼び止めたのは、通路で額縁にはたきをかけていたひとりの侍女だ。
「エイラ、こんな時間に申し訳ないけど、湯浴みの用意をしてくれる?」
「あらあら~。御嬢様、ひどい御格好ですね~?」
目尻を柔らかく下げ微笑んだ桃色髪の彼女は、エイラ・バーキンスという。元商家であったころにオーギュストが雇い入れた女性で、セシリーとの付き合いは使用人の中でも一番長い。少し年の離れた姉のような存在で、穏やかな表情や間延びした声からは予想できないくらいのしっかり者である。
「ちょっと色々あってね……」
「かしこまりました~。すぐに着換えを持ってまいります」
エイラは浴室にてテキパキと準備を済ませてくれて、セシリーは早速汚れた服を脱ぐと汗を流し、湯船に飛び込む。
(むふぅ~。まったく、やってらんないわ)
疲労と怒りでがちがちに固まった身体がほぐれ、口元がやっと緩んでくる。未だ気分は憂鬱だが、理由が分かったことで少しだけ自分の中で心の整理がついた。
婚約破棄や人さらいの件については終わったことで、もう考えても仕方がない。エイラにぶちぶちと愚痴を聞いてもらって、とりあえず頭の中から追いやると、残ったのは自分を救ってくれたあの騎士団長のこと。
「……でさ、送ってくれるって言ったのに派手にひっぱたいて飛びだして来ちゃった。我ながらちょっと、あんまりだなって思ってね……」
「でもそれは、あちらの殿方が悪いのですよ~。恋人を奪われた直後の女心など、罅割れたガラス玉のようなもの……下手に触れれば割れて傷つくのは当然。私が御嬢様でも、同じようにしておりましたとも」
エイラはそんな風に優しく、セシリーの肩を揉みながら労わってくれる。すると逆に募るのが、冷静でいられなかったことへの自己嫌悪だ。あの場で感情を抑えきれなかった事実に、セシリーは自分が人として未熟なことを大いに実感させられた。
(……きっと、苺ジャム女くらい美人だったら、世の中も変わって見えるだろうなぁ)
湯に映るのは自分の、激しく『並!』と主張する、特徴のないのっぺり顔。その下だって起伏のとぼしい体つきで、自慢できるものは何もない。
ベタベタ苺ジャム女ことイルマの憎たらしい笑顔が水面に浮かんで怒りが再燃し、セシリーはそれ目掛けて顔をドボンと沈めた。そして顔を半分だけ浮き上がらせ、恥ずかしそうに言う。
「ばばばぼぼぼ、ぼぼぼぼ」
「そうですね、悪いと思ったなら早々に謝罪する。それがよろしいかと思いますよ」
「よく分かったわね!?」
「何年御嬢様のお側に付いていると思っているのです~?」
『あやまろうとおもうの』と浴槽でぶくぶく泡を立てて言ったのを、有能な侍女は当たり前のように聞き取り、思わず戦慄するセシリー。それを事も無く流すとエイラは、彼女の肩をぎゅっと握ってささやいた。
「大丈夫です。懇切丁寧に説明すれば、大抵のことは分かってもらえるものですから~。明日にでも魔法騎士団の本部に赴いて、その騎士様にお目通りを願うのがよろしいかと。僭越ですが、不安であれば私も同行させていただきますよ?」
「……ううん。今回はひとりで頑張ってみる。私、もうちょっと自分で何でもできるようにならないと。じゃないと恥ずかしいし、悔しいもん」
セシリーは拳を握ると、決意を込めて肩越しにエイラを見つめた。すると彼女もにっこりと頷いてくれる。
「エイラは御嬢様のよいところをたくさん知っておりますよ~。輝くような派手な才能は無くとも、そうやって落ち込んでも立ち直りが早いところとか、いつも元気で素直なところとか、人様に偉ぶったりしないところとか、他にもたくさん。ですから、焦らずゆっくり頑張ってくださいませ」
「……ありがと、エイラ」
セシリーはあの時、自分を応援してくれるエイラや、まあ一応大事にしてくれる父の姿が頭に浮かばなかったのを残念に思った。大切にしてくれている人は、ちゃんと身近にいるのに。
「でも、相談には乗ってほしいな。お土産を持っていこうと思うんだけど、男の人ってなにをもらうと喜ぶのかなぁ?」
「騎士団の御方なのでしょう? 今回のお詫びも兼ねお薬をお渡しするのは当然として……これこれこういったものなどはいかがでしょう」
「なるほど、相手をよく知らないんだし、実用的なものの方が好まれるかもね……」
エイラは商会で取り扱う商品をよく知っているので、いくつかの候補を挙げてみせる。その中で、セシリーは聞いている内にピンとくる物があって、目を輝かせた。
「うん、決めた! 相談事はやっぱりエイラよね、頼りになるわ!」
「御嬢様のお悩みを解決できたなら本望ですよ。ささ、元気が出たら殿方に向ける笑顔の練習でもなさってくださいませ」
湯船から上がり、拭き上げた体に丁寧に香油を刷り込んでもらいながら、セシリーは鏡の前でにっと笑顔を作ってみる。
(……やっぱり、嫌だよね。このまま人任せの人生を送るのは)
今回の一件でセシリーは目を逸らしていた自分の本心に気づかされた。いつだってこんな自分には大したことなんてできないと言い訳して来たけど、本当は精一杯色々なことに挑戦し、何かを成し遂げて誰かに認めてもらいたかった。
攫われかけて、ああもうこれで自分の人生は終わりなんだ、と悟った時……心の中に湧き上がったのは強い後悔だった。あんな思いは、二度とするまい。
(何かをできるようにならなくちゃ……この先悔やんでばっかりの人生を送りたくないなら私が変わらなきゃいけないんだ。納得できる生き方をしないと、生んでくれたお母様に顔向けできないじゃない……)
セシリーは服を着換え、父から幼少期に渡された母の形見の髪留めをそっと握った。記憶はほとんど残っていなくて顔もおぼろげだけれど、自分のことをとても大事にしてくれていたのだと、父からは何度も聞かされている。
「さあ、御嬢様綺麗になりましたわ。明日に備えて今日はゆっくりしてくださいませ」
「ううん。時間は大事だし、部屋でちょっとでも勉強するわ。エイラ……私今日から頑張るからね。ただでは転ばないんだから!」
「その意気です……!」
エイラの応援を受けて力強く頷くと、セシリーは自室に戻り気持ちを新たに机に向かう。
いつか、大切な人に胸を張って自分を誇れるように。少しでもいいから何かをして返せるように。国の歴史や一般教養、実家の商売のことまで……今はなんでもいいから羽根ペン片手に頭を悩ませるのだ。こうした小さな努力の先に求めるものがあると信じて。