第三章 青いドラゴン Ⅲ
「ほんとに見られるものなのか」とマイがつぶやいた。
「あなたの眼鏡を使ったほうが早かったのでしょうけど」
「それじゃ意味ないだろ」
マイは眼鏡をあげる。
「これじゃ、なんにも見えない。目の前にいるってわかってるのに。見えなくなったとたん、声が聞こえなくなるんだ」
王女には、確実に“見える”力が必要だったのだ。
エレイナはラティカを見ている。しかしかたわらのリーシェンには目もくれない。
「ぼくのことは見えていないようだね。残念だけど」
「どうして見えないの」
「見えない理由のほうが、見える理由よりたくさんあるよ。“見る”力がとくに優れていないといけない。だから妃になれる人間は少ないんだ」
「じゃあ、もしエレイナさまがあなたを見ることができたら」
リーシェンは首肯した。
「彼女に妃になるように言うよ」
なにも自分でなくともよかったんだ、とカリンは思った。
リーシェンを見る力があれば、妃など誰でもいいのだ。そう思うと気が楽になる。
あたしじゃなくてもいい――。
同時にかすかな胸のうずきをおぼえた。恋愛感情はないとはいえ、誰かに求婚されたのははじめてのことだったのだ。
「どうしてあたしにはあなたが見えるんでしょうね」
「それはきみがぼくに呼びかけ、ぼくもそれに応えたからだよ」
その言葉の意味は、カリンにはまだわからなかった。忘れているんだね、とリーシェンが言った。何を、とカリンが問うことができなかったのは、エレイナがラティカの前に膝を折るのが見えたからだ。
「エレイナさま?」
エレイナは王族の身分でありながら、臣下の礼をとることをためらわなかった。ラティカもそれを止めなかった。
「すべてわかったのです」とエレイナは言う。
「あなたの心が。あなたは私たちと契約された精霊の主。私の主と同じ」
「エレイナ・マリオン・アスティーナ・キシリヤ。あなたを契約主のもとへ連れて行く。いいな?」
エレイナはうなずく。
「よければ、カリン。あなたも一緒に」
「おれは?」
「おまえは私の背に乗る資格を持たない」
マイが文句を言ったが、ラティカはそれを無視する。
「その資格って、その、あたしが妃候補だから?」
「いいえ。私があなたを好ましく思うからです」
ラティカは気まぐれだからね、とリーシェンが言う。
妃候補だからという理由だったら辞退しようと思っていたのだが、そう言われては断る理由はなくなる。
「では私の背に乗って」
ラティカの身体が光に包まれる。一瞬ののちに彼女の姿が一変した。
ラティカの本性を見て、カリンもマイもエレイナも絶句する。
それはおとぎ話に出てくる伝説の生き物によく似ていた。青い鱗に覆われた大きな体、その体の二倍近くはある翼、鋭い牙と爪、長い尻尾。
「ドラゴン……」
物語のドラゴンは決まって悪役だ。人間を食らうドラゴンは勇敢な戦士に倒される。だがラティカは、悪の印象とはかけ離れていた。美しかった。
「早く乗るように、と」
魂だけのエレイナには、ラティカの意志がわかるようだ。
「乗るって言っても、どうやって」
ラティカが姿勢を低くした。硬い鱗を足掛かりにして、エレイナが先にラティカの背をまたぐ。カリンもそれにならって、やっとのことでエレイナの後ろに座ることができた。
「しっかりつかまっているようにって。振り落とされないように」
「えっ」
待って、という前にラティカが地面を蹴った。翼をはばたかせる音がすぐ近くで聞こえる。どんどん小さくなっていくマイとリーシェンの姿。
「カリン、私につかまって」
死にものぐるいでカリンはエレイナに抱きついた。
いったいどこに行くのだ。ここはどこだ。しばらくの間、カリンはぎゅっと目をつぶっていた。
「すごい。島が見えなくなってしまった。ほら、カリン見て」
おそるおそる目を開ける。エレイナの背中から、下方へとゆっくり視線をずらす。青い海が広がっているのが見えた――のかどうかカリンにはわからなかった。
声にならない悲鳴をあげて、カリンは意識を失った。
「カリン!」
カリンの身体がラティカの背からずり落ちる。
大丈夫だ、とラティカは王女に伝えた。
「ですが……」
王女は心配そうに見下ろし、それから顔を明るくさせた。
カリンの身体が浮かび上がってくる。たくさんの小さな精霊に持ち上げられて。