第三章 青いドラゴン Ⅱ
ラティカがディーレン支部に戻ってきたのは、その日の夜になってからだった。
ラティカは憤慨していた。帰ってくるなりリーシェンに詰め寄ったが、彼女はひとことも発しなかった。精霊は言葉を使わなくとも意志の疎通がはかれる。彼女が何に対して怒っているかまではわからないが、原因の一端はリーシェンにあるようだということはカリンにも理解できた。
「どうして、ぼくの呼びかけに応えなかったの。きみがすぐに来てくれればよかったのに」
「事が起こるまで、いや依頼を受けるまで気がつかなかった馬鹿が何を言う!」
「気がつかなかったのはきみも同じでしょう、ラティカ」
リーシェンの言葉に、ラティカはぐっと息をのんだ。それからエレイナの姿に気づいたらしい、緑の目を大きく見開いた。
「彼女が今の契約主か……!」
エレイナにはラティカの姿が見えていない。声も聞こえていない。嘆かわしいことだ、とラティカは言った。
「彼らが怒るのは無理もない。契約が反故にされたのだから」
「契約ってどういうものなの?」
カリンは問う。
「エレイナさまに心当たりはありますか」
「あるはずだ」
ラティカは責めるような口調だ。
「黄金の契約――王国の平和を約束するかわりに、黄金をさしだすこと」
黄金の契約、とカリンがつぶやいたとたん、エレイナが顔色を変えた。
「まさか」
「ご存じなんですか」
エレイナがうなずく。
「古い言い伝えだ。私の先祖が王国の繁栄を願って、神の使いに黄金を献上したという。それが関係するのか?」
神の使いは精霊のことに違いないだろう。神が使役するのは精霊ではないが、普通の人々にはわからないはずだ。またリーシェンの話が本当なら、精霊の王も神のひとりである。精霊が神の使いであるというはあながち間違ってはいない。
「本当の契約内容は忘れられているようだ。キシリヤの月が赤く染まるときに黄金を捧げること、それがキシリヤ王家と彼らの契約だ」
「なるほど。それとエレイナさまの身体だけが連れ去られたことの関係性は」
マイが考え込む。
「精霊は自分の姿を認識してくれない人間に触れることはできない。ということはエレイナさまにはその精霊の姿が見えていたのか。いや、ちがうな」
「彼らを見る目があれば、私のことも見えるだろうからな」
ラティカが言った。
「ラティカも彼らも『翼の眷属』だからね」
リーシェンがつけ加える。
「なにかひとつでも『翼の眷属』を見ることができれば、ほかの『翼の眷属』も見ることができるんだよ。マイ・オリオンのように結界を通して、つまり本来の自分のものではない力を借りて、どんな一族でも見られるようなひとにはあてはまらないけれど。カリンはそういうふうにぼくたち精霊を見ている」
たとえば『毛玉族』を一回見ることができたから、その後は別の『毛玉族』でも姿をとらえることができる――。
「そうなると、やっぱりエレイナさまには精霊が見えていなかった。だったら考えられることはひとつだけだな。精霊たちはエレイナさまの身体を運ぶために、邪魔な魂を肉体から離した」
魂がなければ、肉体はただの物だ。物になら精霊たちも触れることができる。
「そんなことできるの?」
「できるよ。力のある精霊はね」
リーシェンが答えた。
「ラティカやイーズだってできるよ。イーズは一族の長だし、ラティカは長の子だから、とくに力のある精霊なんだ」
「リーシェンは?」
「ぼくには力がほとんどないと言ったでしょう、カリン」
「それで王か。笑えないね」
「言っておくけれど、その影響を受けるのはきみたち人間なんだよ、マイ・オリオン。ぼくはすべての精霊の一族を従えているわけではない」
ほとんどが敵だ、とささやいたのはラティカだ。
「今、こいつの側についているのはイーズの一族だけだからな」
「ラティカは?」
「私も長もこいつが王だとは認めていない」
ほかの精霊たちもそれと同じ意見なのだろう。
精霊王とは名ばかりで、実際はろくに力をもたない。リーシェンは従うに値しないと考えられているのだ。
カリンは胸の奥が痛むのを感じた。
力がなければ――カリンもないがしろにされる存在だったのだ。リーザイン魔法学園に入学できる力を持たなかったら、いやリーザインの主席でなかったら認められなかったのだ。
ほんのわずかだがリーシェンの微妙な立場は理解できる。しかしカリンには彼の力になってやることはできない。
「人間の魂を身体から引っこ抜くことができる精霊がいるのに、王さまはそれを止めることはできない。精霊が人間に敵対したらやっかいなのはたしかだな。エレイナさまのことも、害と言えば害だ」
「明らかに人間が悪いけれど。だけどね、精霊は人間を愛することしかできないんだ。精霊は、オルフェリア女神の願いを体現したものだから。ぼくたちには人間を憎む心はないよ。悪の心を持つということは、魔物になったも同じ」
エレイナが空に向かって手をのばした。
「そういえば、私には王太子の証があった」
言うと同時に、エレイナの腕に金でできた腕環があらわれる。溶接されたそれは、けして抜けることがない。永遠の証だ。今まで身につけていなかったということは、エレイナが腕環を普段気に留めていなかったからだろう。
「私にも見えたらいいのに」
エレイナがつぶやいた。
「私の先祖には見えていたのだから、見えてもおかしくないはずなのに」
その言葉にもっとも驚いたのは、リーシェンとラティカだった。精霊は相手の心を感じ取れる。彼女の「見たい」という思いの強さに圧倒されていたのだ。
「きっと見えるはずです」
思わずカリンは口走っていた。
「見える、と信じてください。ここにいるんです。あなたには“見える”んです――!」
エレイナが息を飲む音。
「あなたが、精霊」
まっすぐとラティカを見つめて、エレイナは彼女の手を取った。