第五章 眠れる王 Ⅰ
創世神オルフェリアは愛した人間のために、新しい世界をつくった。緑あふれる美しい世界とかよわき人間は、オルフェリア女神のこどもたちによって守られている。そう神話は語る。
夢幻をつかさどる男神ディーレンスは、女神の力を受け継ぐ十二の神々のひとりである。この世界でそれを知らない人間は、生まれたばかりの赤ん坊くらいであろう。カリンもまた、例に漏れない。
「あなたが……ディーレンス?」
その答えを聞くのは恐怖に等しかった。
神はいる。しかしカリンの信じる神は、人間の目には見えない聖なる存在だ。リーシェンは格別に美しいが、それだけである。畏怖しなかった。もしも神を感じたとしたら、聖なるものに対して平然としていられないにちがいないとカリンは思っていた。
それなのにリーシェンは、自分のことをディーレンスだと言う。今まで信じてきたものが急に俗なものになってしまうのが、カリンにはおそろしかった。先ほどの発言を否定してほしいと切に願った。
リーシェンは苦笑した。
「ぼくはまだ神じゃないよ。いずれ神になるけれど、今はただの精霊だ。それもなんの力も持たない、とても非力な存在」
「神さまは、何千何万年も前にオルフェリアが生み出した。それなのに、リーシェン。あなたはディーレンスを継ぐと言ったわね。神さまというのは不変の存在でしょう? あたしにはあなたの言っていることがわからないわ」
「……他の神を見たことがないから断言はできないけれど」
そう前置きしてリーシェンが言う。
「世代交代をするのはディーレンスとリリエラだけだよ。千年ごとに変わるんだ。ぼくがいったい何代目になるか知らないけれど、でも、そうやって変わってきた」
リリエラとは真実をつかさどる女神だ。創世神オルフェリアの十二の子神は男女一人ずつ対になっている。夢幻の神ディーレンスの対がリリエラである。
「どうしてディーレンスとリリエラだけ……」
「空や海は変わらないけど、人間も精霊も変化するものだ。不変ではいられない。だから精霊の王であるディーレンスと人間の王リリエラは、時の流れによって変わっていく――そう、きみが思った通り。ディーレンスは精霊の中から、リリエラは人間の中から選ばれる。今のリリエラも、もとは人間だったんだ。知りたくなかった?」
顔をこわばらせたまま、カリンはうなずいた。
「でも、今は神にちがいない。ぼくたち精霊にはリリエラの姿が見えないし、カリンたち人間にも見えない。見ることができない存在。それはきみの思う神でしょう?」
「それはそうだけど……」
考えもしなかった事実はいまだ腑に落ちない。
「それを証明できる力がぼくにはない。嘘だと思われてもしかたがないことだ。だけど、ほんとうにぼくにはきみの力が必要なんだ。神になるための力を手に入れなくちゃいけない」
「どうして」
「ディーレンスとリリエラは対の存在。今のリリエラは前のディーレンスの対であって、ぼくの対じゃない。新しいリリエラが必要なんだ。だからカリン、きみがリリエラになってくれれば――」
それは突拍子もない話だった。
「ばかなこと言わないでちょうだい」
驚きをとおりこして、怒りがこみあげてくる。
「ええと、だから、きみに妃になってほしいと言っているんだ」
「それがばかげているのよ。妃って奥さんのことでしょう? あなたはあたしのことを愛しているわけじゃない。力が欲しいだけなのよね? それならあたしじゃなくたっていいじゃない。百歩ゆずってリリエラが人間の王なら、ほんとうの王族から選べばいい話でしょう。さいわいリディル王国のマリアンナ王女は婚約者に逃げられて独り身よ。ちょうどいいじゃない」
「よくないよ。きみはぼくを見ることができる。だから」
「結局、あたしが精霊だとか魔物だとかが見える『異端』だからでしょ? たったそれだけじゃない」
もしもリーシェンがほんとうに自分を愛していてくれたなら、答えは変わっていたかもしれない。しかし彼と出会ってからの日は浅く、カリンは彼のことをよく知らない。だから、その仮定は無意味だった。都合よく利用できる存在だと考えられてしまったことに、一縷のさみしさをおぼえた。
「あたしは愛のない結婚なんてまっぴらごめんよ。あたしにだって理想はあるわ。ばかにしないで」
リーシェンの表情に困惑の色が浮かぶ。
「きみの気持ちはわかるのに。どうしてきみがそう考えたか、ぼくにはわからないよ。なぜきみはそんなにも悲しく怒るんだ。ぼくの何がきみを傷つけたの?」
そんなことくらい察してほしい――そこまで考えて、カリンの思考は停止した。リーシェンに向きなおる。
彼は理解の範疇を超えてしまったものを前にして、対処するすべをもたないようだった。すがるようにカリンを見つめてくる。
「あたしは、あたしを愛してくれるひとと結婚したい。それなのにあなたはあたしの人格をまったく考えずに、あたしの精霊とかを見える力だけを求めた。あなたの発言はあたしの人間性を無視したものだったわ。だから怒るしさみしいのよ」
今まで一度も、自分の感情の原因をいちいち説明したことはなかった。相手がどのような思考を経たのか考えるのがふつうのことだった。
リーシェンは目をしばたたかせた。
「つまり、ぼくがきみの――きみの中身を好きできみを妃に望んだわけじゃないから」
「ひらたく言えば、そうよ」
「人間の考えることって複雑だね。ちゃんと説明されないとわからないよ。表面にあらわれてくることだけわかったつもりでいてもだめなんだ」
なるほど、とカリンは思った。
「精霊は相手の思考を読めるのね」
「精霊は魂だけの存在のようなものだからね。きみたち人間のように、絶対的な肉体の壁に邪魔されることがない。そうだね、今きみは『おもしろい』と思っている」
カリンはうなずいた。
「だから精霊どうしだと、言葉を介さなくても意思の疎通がはかれる。人間はそうじゃないから、言葉を必要とする。だけど、ほら、さっきみたいにわからないことだってあるよ。ねえ、カリン。『好き』ってなんなんだろうね? よく人間は『好き』という言葉をよく使うけれど、そんな感情なんて見えてこないんだ。それって、おかしいよね」
「それもそうね」
これがリーシェンの考え方なのだと気づいた。
「しかたないわ」
「何が?」
「なんでもない。あと、さっきのディーレンスやらリリエラやらなんとかのことは、お断りさせてもらうわね。あたしには夢があるし、めんどうくさいことに巻き込まれたくないの。他をあたってちょうだい。そんなことよりも、早くリオンのもとに連れていって」
わかった、とリーシェンはなかば不本意そうにつぶやく。