第四章 かたちのない国 Ⅶ
恐怖が薄らいできたと思えば、別の原因がカリンの鼓動をはやくさせた。
「放してくれない? リーシェン」
「どうして」
「いいから!」
カリンはリーシェンの腕をふりほどいた。
兄たちにはもう五年も会っていない。五年もの間、男に触れることのなかったカリンは、抱きしめられるという行為に慣れていなかった。おまけにリーシェンは若く、カリンの知っている男の中でいちばん美しい顔立ちをしている。
「わからないなあ。ぼくの何がそんなに怖いの? きみにとって魔物とぼくは同じ存在なのかな」
「怖いっていうか――ああ、もう、こんなことはどうでもいいじゃない! どうしてあなたがこんなところにいるのよ?」
リーシェンが目をまるくした。
「ぼく? どうしてって、それはここにぼくが住んでいるからだよ」
「住んでる? こんなところに?」
うん、とリーシェンはうなずく。
「見張ってないと、魔物がなにをするかわからないんだ」
「……魔物」
「そう、きみがおそれているのと同じ、魔物。きみが見ているものはまぼろしなんかじゃない。魔物はちゃんといるんだ」
それは、カリンがもっとも聞きたい言葉のひとつだった。
今までにも魔物がいる、と言った人間はいた。だが、その多くはカリンをだまして、笑いものにしようとした者たちだった。自分と同じものが見えていると喜び、それまで見てきたものを話しはじめたカリンを、彼らは嘲笑する。魔物がいるなんて嘘だ、見えるわけがない、魔物なんていないんだ、カリン・アルバートは頭のおかしい子だ、と。
マイの言葉は信じられなかったのに、なぜだかリーシェンの言葉は自然と心に入ってきた。
「あなた、あたしの知っているひとに似ている気がするの。そのせいかもしれない。あのひとは嘘を言うようなひとじゃなかった」
そのひとと最後に会ったのは、何年も前のことだ。年齢を考えるとリーシェンのはずがないのだが、それでもその人を思い出さずにはいられなかった。顔もおぼえていない、命の恩人のことを。
「そのひとがぼくだったらいいのに」
リーシェンがカリンの頭に手をおいた。それは先ほどの抱擁とはちがって、どこか安心するようなものだった。
「行こう、カリン。きみの目的を果たしに。きみが探している子の居場所を知っているから」
「……どうして、それを知っているの」
リーシェンには何も言っていないはずだ。こういうことは前に出会ったときもあった。
「どうして、あたしの考えていることがわかるの」
「どうして、きみはぼくの考えていることがわからないの」
もどかしそうにリーシェンが言う。
「どうして」
「そんなのわからないわよ。他人が考えてることなんて」
それがわかったら今まで苦労しなかっただろう。
「そうだね、わからないほうがいいってこともあるよ。ほら、きみはぼくをおぼえていない。こんなこと、本当は知りたくなかったんだ」
リーシェンの言葉の意味が理解できなかった。前に出会ったことを、ちゃんと覚えていたではないか。
「カリン、ぼくについてきて」
歩き出したリーシェンについて、森の中を進む。だれかひとりでもいれば心強いということを、カリンは実感した。こんなことではだめだ、と思う。強くならなくちゃ――。
「この子だよね」
リーシェンが地面を指さす。そこにはリオンがうつぶせに倒れていた。カリンはいそいで少年に駆け寄る。無事かと思ったのも束の間、彼が息をしていないことに気がつく。
「大丈夫、この子はまだ生きているよ。まだ、大丈夫。魂が抜けてからっぽになっているだけだから」
「……どういうこと」
「彼は“国”に行ってしまったんだ。止めたくても、ぼくじゃ止められなかった。ぼくの声は彼に聞こえないから」
聞きたいことがたくさんありすぎて、カリンは壊れてしまいそうだった。
「いったい、あたしはどうすればいいのよ?」
やっとのことで問いかける。
「ぼくと一緒に“国”へ行こう。大丈夫、きみのことなら見つけられる。手を出して、カリン」
カリンは彼の言葉に従うほかなかった。
言われたとおりにカリンが広げた手のひらをさしだすと、リーシェンはその上の自分の手を重ねた。闇夜に浮かび上がるくらい白い。力仕事も家事も知らない手だった。
「ぼくの目をよく見て。ぼくがここにいることを信じて」
リーシェンの言葉の意味を理解できないまま、カリンはひたすらに彼の目を見つめ続ける。黄金の瞳になにか魔法がかかっているだろうか、海の水に浮かんだときのような頼りない感覚がカリンを襲う。
「それでいったいどうしろって……」
「まわりをみてごらん」
リーシェンが手を下ろした。それがきっかけとなり、不思議な浮遊感が消えてなくなる。辺りを見わたし、カリンは息を飲んだ。
「何も……ない?」