第四章 かたちのない国 Ⅱ
子どもたちが帰ると、ディーレン支部は水をうったように静まりかえった。先刻のシセルを見て、いつもどおりに過ごせるはずがなかった。
しばらくしてイーズの不在に気がつく。
「シセルさまについてったんじゃないか」
「まさか」
「だってほら、強そうだろあいつ」
「見た目はそうだけど……」
毎回の食事を作るイーズがいないため、カリンが厨房に立つこととなった。
十二歳で学園に入ってから自分で食事を作ることと疎遠になっていたカリンだが、包丁を一度も持った経験がないというマイにまかせるよりかはいくぶんましであろう。
食料庫と記憶の中にある母から教わったレシピを照らし合わせ、食材を取り出す。
「おい、なんだか手つきが危なっかしいぞ」
野菜を切るカリンの手元をのぞきこみ、マイが言う。
「包丁持つのなんて、もう五年ぶりくらいよ」
「もしかして、おれがやったほうがうまいんじゃないか。ちょっと貸して」
手を切らないように、と注意をうながしカリンは調理台の前をゆずったが、その心配は必要なかった。
「ほんとうに、はじめてなの?」
ゆっくりではあるが、確実な包丁さばきだった。カリンはマイの包丁を持つ手を見て、これが正しい持ち方だったと思い出す。
「はじめてだけど、初級のときにずっと厨房に入りびたってたからさ。そこで見てなんとなく覚えた」
「そういえばマイ、あなたお師匠さまがいるのよね。中級試験に受かるまで、いったいどこにいたの?」
なんとなく興味を持ってカリンが尋ねると、マイは片眉をあげた。
「カリンって、おれのことにまったく興味がないと思ってたよ」
「一応パートナーなんだから、知っておいてもいいと思っただけ」
「ふうん」
しばらくの間、野菜を切る音だけが部屋にこだました。
「……リディル支部だよ。師匠がそこに配属されてたから必然的に、ね。弟子入りしたのは十三のときで、それまではアデレードにいた。これでいいかい」
「ええ」カリンはうなずく。
「もしかして言いたくなかった? それなら謝るわ」
「べつにそんなことはないけど、ただ」
「ただ?」
「いや、なんでもない」
マイは言葉をにごした。人間だれしも言いたくないことのひとつやふたつくらいある。カリンはそれ以上問いたださなかった。
アデレード公国はオルフェリア大陸の中央部――『女神の腕』に位置する。めぐまれた気候の中で育った果物から作られた酒は名品と名高く、国益の多くを担っている。リディル第一王女がアデレード第一公子の婚約者となったり、アデレード第二公子がリディル王国に留学するなど、両国の親交は年々深いものになってきているという。
だが、そのアデレード公国には魔法組合支部がない。アデレードにいながら魔法使いとなることは不可能なのである。
アデレード人が他の国で師となる魔法使いを見つけ、弟子入りするのはめずらしくもない話だった。
「ほんとうはさ、リーザインに入りたかったんだ」
だしぬけにマイが言った。
「カリンみたいに入学金授業料タダにつられたわけじゃないんだけど――あ、悪い」
少しむっとしたが、事実なのでカリンは黙ったままでいた。マイがつづける。
「とにかく入りたかったんだよ。卒業したら中級魔法使いの資格までくれるのなんてリーザインくらいだし。でも、おれはすぐに魔法使いにならないといけなかった」
「どうして」
「どうしてだと思う?」
マイは視線をカリンに向けた。
「ま、正解は求めてないから――ん」
ざくざくという音が止まる。
「よそ見できるほどうまくはなかったな」
「そうね。早く手当てしたほうがいいわよ」
カリンは苦笑した。