十三年前
さあ、行こうか。
やさしい声が、彼女の意識を現実の世界へと引き戻した。兄のものかと一瞬錯覚したが、よく考えてみればまったくちがう。兄たちはやさしいけれど、末っ子の彼女のことを大切に思ってくれているけれど、今のように話しかけてくれたことはない。
恋だの愛だのという言葉は知らなかった。
「行こう、お兄さんたちのところへ」
彼女を腕に抱きかかえると、声の主は彼女の目元にたまった涙を指でぬぐった。
「本当は泣き虫なんだね、カリン」
どうしてあたしの名前を知っているの。恐怖から逃れることのできた安堵と、知らないひとが名乗ったはずもないのに自分の名前を知っていることへの戸惑いが心の中で相反し、言葉は声にならなかった。かわりに嗚咽がもれる。泣いちゃだめなのに。喉のふるえをおさえようとしたが、かなわない。
泣き虫カリン。兄さんの背中に隠れてばっかり。もう、そんなふうに言われたくないのに。もっと強くなりたいのに。
「……きみのことなら、なんでも知っているよ」
あたたかくて大きな手が頭に置かれた。
「ずっと、ずっときみのことを見てきたから。きみが何を考えているかだって、今なら、少しだけわかる。でも、カリン。今は――今だけは泣いてもいい。きみが泣いたこと、誰にも言わない。秘密にしておく。だから」
その先の言葉は聞こえなかった。彼女は声をあげて泣いた。彼女を助けてくれたひとはだまって彼女の背中をさすりつづけてくれた。
しばらくして、大声で泣いた自分が恥ずかしくなった彼女は、照れかくしに恩人の胸に顔をおしつけた。鼻の奥がつんとするような不思議なにおいがする。それに加えて少しだけ土くさいにおい。いい香りとはいえないが、嫌いではないと思った。遠い国の、知らないところの、彼女の手が届かないところのもの。
「あなたはだれなの?」
少し好奇心をもって尋ねる。
「どこから来たの」
「……きみは、どう思う」
顔をあげて、そのひとの顔を見ようとしてはっと気づいた。あたりは闇で染まっている。月あかりを背後にしたそのひとの顔はぼんやりとして輪郭すら曖昧だった。顔が見たい。その一心で彼女は目を細める。苦手だったはずの夜は、なぜかもう怖くなかった。
いったいだれなんだろう。
怖いものから助けてくれたひと。悪いひとではないとはわかる。彼女の前に颯爽とあらわれて、息をつくひまもないうちに、あのつめたい世界から助け出してくれた。それは、まるでおとぎ話のような。
「……おうじさま」
そのひとが息をのんだのがわかった。
「王子、ね。そうか」
「おうじさまはおひめさまを悪い魔物からたすけてくれるの。あなたもあたしを、たすけてくれた」
そうか、と彼はくりかえす。
「残念だけど少しちがう」
頭に置かれた手が、熱い。
「ぼくは――魔法使いみたいなものだ。よかったり悪かったりする。気まぐれなんだよ」
「じゃあ、ここにいるのも」
ただの気まぐれだ。彼はそう言った。
それは本当に現実だったのか。夢ではなかったのか。
何が現実で、何が夢なのだろうか。
気がつくと彼女はいつものように、粗末な藁の上に横たわっていた。
*
今、ここに存在していることは、はたして、本当に真実なのだろうか。