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砦に吹く風は、おおよそ季節とは見合わない寒さであった。その風もが、少年の心を締め付けるようである。塔の壁に寄りかかり、大きくため息をつく。視線を、己の左手へと移す。
それに握られるは、小さな石。その石をぎゅっと握りしめ、何かを小さく唱える。
青白い微かな光が灯るも、はかなくもそれは直ぐに消え去ってしまった。
石をポケットにしまい、石畳の上に寝転がる。目の上には、大きな青空。実りの季節の訪れを教える雲が、点々と浮かんでいた。
「はあ………どうして僕には……。」
そう、ボソッと呟く。両手を広げ、空に掲げる。その隙間から、白い光が漏れた。
「…まーたこんなところで油を売ってたのか。」
その光を遮る、人影。手をどかすと、少年が見知った顔があった。
「…レイブ。君こそ、授業を抜けてきて大丈夫なのかい?」
「お前にだけは言われたくないな。」
やってきたもう一人の少年…レイブは、頭を搔きながら気だるそうに答えた。
「……どの授業も退屈でさ。後期の選択講義は、どれも真新しいものがないだろう?」
そう言うレイブの左胸には、白いバッジが光を帯びていた。
「………僕も、別の意味で退屈だよ。」
「………? まあ、いいや。」
レイブは、腰に提げる剣を抜き、少年に見せつける。その剣身には、何か文字のようなものが刻まれていた。
「この王立学園は実力が全て。お前も早く、何か特技を見つけたほうが良いぞ。じゃ、後でな。」
剣をしまい、元いた方へと戻っていく。レイブには悪気はなかった。それを少年は理解していた。しかし、少年は無意識に拳を強く握り込んでいた。
「僕だって………好きで劣等生をやっているわけじゃないんだっ!!」
そう、大きくも静かに、叫ぶ。しかしその叫びも、虚に帰するのみであった。
◇
王立学園。グランベルクの東に位置する、サルドム王国の教育機関。グランベルクの基礎を作りし神々が遺した、三つの秩序を崇拝する、王国が人々にその考えを広めるために作ったものだ。
しかし、今はその目的よりも、別のことに使われることがもっぱらであるが。
この国に於いては、平民も貴族も皆、実力主義である。而して、平民が功を上げれば貴族に取り立てられることもある。反対に貴族は何もしなければ、その名誉は無に帰る。
だからこそ、人々は皆功を上げるため、一生懸命に生きる。一見人々に苦労を強いる仕組みであるが、これのおかげで国が堕落しないという側面もある。現に、サルドム王国はグランベルクが創造された時からある国家であるとも言われるくらい、歴史は長い。王国を取り仕切る王族もまた、万世一系の血筋で国を治める。しかし、血筋が王族のものであっても、功を上げない者は容赦なく存在を消されてしまう。
そんなこの国にある、教育機関。人々の功の中には、子息が優秀な成績を上げることもまた、含まれるのである。
◇
学園の東側、谷が聳える地にかけられた石橋を、少年は歩いていた。谷はいつも、強風が吹いている。その風は、時に大人を優に持ち上げる。だから、危険なために、風が強い時にはその旨が記された掲示が出される。
………今日も、出されていた。しかし、彼は全く気付かなかった。周りを見る余裕が、少年にはなかった。レイブに言われた言葉が、ずっと繰り返していたから。
「特技………特技か……。僕も!」
そうつぶやいた刹那。
彼の――小さな体は、煽られた。
少年は、気づけなかった。彼がそれを自覚した時には、既に石橋の下であった。
死
その一文字が、彼の思考を一瞬で置き換える。
「あれ………僕、このまま死ぬの?」
ぼそりとつぶやく。最早、手遅れであろうと思われた。
「…………………。」
また同時。同時に、何かが唱えられた。
「…………………………………………………………………!」
目を開けた時、自分の存在を疑った。
さっきまで上に見えていた石橋は、彼の下にあったのだ。実りの光に、目を細める。
そして、石橋に目をやる。光に遮られよく見えなかったが、微かに人影が見え………その者の右手には、紋様のようなものが広がっていた。
「これって……………魔法なのか?」
◇
「……………………………はっ!?」
いつの間にか、彼は地面に降り立っていた。先程まで、空中に浮かんでいたはずだが…。文字のとおり、瞬間の出来事であった。
しかし、そんなことはどうでも良い。少年は、先程微かに見えた人影を探そうとした。
立ち上がり、先程その人物がいた地点の辺りに目をやる。
その男は、谷塔の壁に腰かけていた。駆け足で男のそばに寄り、少年は大きく頭を下げた。
「あのっ……先程は助けていただき、ありがとうございましたっ!!」
しかし、返事は返ってこなかった。恐る恐る、頭を上げると…男は、こちらをじっと見ていた。少年は思わず後ろにのけぞってしまう。それにも構わず、男はまだ見ていた。
「あの………すみません?」
男に、更に声をかける。二間おき、男はようやく重い口を開いた。
「油断は時に、命をも落とす危険性を含む。気をつけろ。」
返す言葉もなかった。小さくうなずくと、少年は、更に男に話しかけた。
「あの………先程の“魔法”は?」
少年の純粋な問いに、男は目を丸くした。少年には何がなんだか分からなかったが。頭をボリボリと搔きながら、男は答えた。
「魔法………まあ、その言い方も間違っちゃいないが…。」
呆れ、その言葉がピッタリと当てはまる顔をする。しかし、少年の更なる問いかけにも答えた。
「お前は、秩序を知っているよな?」
「はい。この世の理である、“空間”“時間”“存在”の三秩序です。」
それをうなずきながら聞いていた男はおもむろに立ち上がり、体をうんと伸ばす。
「俺が使ったのはな、この三つの秩序のどれにも当てはまらねぇ。」
「どれにも当てはまらない…? …それって!?」
その含みある言葉を聞き、少年の脳裏にあることが浮かんだ。
『この世界は、結ばれた秩序のみで成り立つ筈の無いもので満ち溢れている。敢えて言わせてもらおう。この世界には秩序は“4つ”ある。最も、4つ目が秩序と言えるかはちと微妙だが――。“時間”も“空間”も通用しない上、“存在”の秩序は役割を果たさない。』
もう何百年も前、三秩序の会と魔法協会から追放され、封印された異論。その4つ目の秩序の前には、この世の理が全て無に帰するなどと大きく出た、異端な考え。
しかし、彼の使役した魔法…いや、魔法のようなものは、これにしか当てはまりえないのだ。
何故ならば、“人を浮かす魔法”など、秩序に反しているから。
大きな衝撃波とともに、空を赤い閃光が染める。眩しさに目がくらむも、男に目線を移すと…その右手には、先程と同じような紋様が浮かんでいた。
『そう、秩序が無いんだ。秩序が無いことこそが、4番目の秩序だ。』
「俺が使役するは…“無秩序”の御業よ。」
男は、小さく笑った。