真夜中の紫陽花
夏の残滓、お日様の妖精、あの日に置いてきた白いワンピースの思い出……
「こんばんは。」
「こんばんは。久しぶりだね、どうしたの?」
「近くに寄ったので、ご挨拶を……」
明るくて可憐、純真で華奢。陽だまりの笑顔……
天真爛漫を絵にかいたような言葉の数々。どれもが彼女を仕立てるために贈った言葉だけど、私生活では困ったように笑うことが多かった。いくら気風が穏やかとは言え、常に微笑んでいたらそれはそれで変人だ。散歩先で、ベンチにでも座ってぼうっとしているのが趣味の一つだった彼女は、少なくとも物静かであったことだけはパブリックイメージに反することはないと思う。
「改めて、お久しぶりですね。」
「いつ以来かな。3年くらい?」
「もうそんなに立ちますか。光陰矢の如しと言いますけど……でも、貴方は変わりない様で、安心しました。」
「うん。君との約束だったしね。」
女性を家へ招き入れる。家の模様は彼女とともに過ごした時期とそう変わっていない。懐かしそうに目を細めて、キッチンに行った。
彼女とは趣味が多く一致した。曰く、貴方の真似をしたんです、なんて言っていたけれど、無理なく続けていたのを見るに、ほんとうに気性にあっていたんだろう。あまり同意が得られなかったのは、紅茶にミルクを入れないことくらいだろうか。
「…懐かしいですね。何もかも。本当にあの時のままで。時間が止まっちゃったのかと思いました。」
「3年くらいじゃ何も変わらないよ。」
「そうですか?私は…結構、変わりましたけど。」
「そうだね。君は、ほんとうに大きくなった。」
女性としては小柄ではあるが、手を伸ばせば届く存在から、雲の人へとなってしまったように思う。厚着というか、肌が出ない服を好んできていたのは昔からだけれど、帽子に眼鏡、マスクとか、そういったものを気にしだすようになったところとか。
客人に任せるのはどうかとは思うが、やりたいというのでそのままにさせていた。テーブルに2つ、カップを並べる。両手でマグを包んでちょっと熱いくらいの温度で飲み込む。昔通りのしぐさに目を細めた。
「…おいしい。ミルクがないのは不満でしたけど、貴方は、牛乳とか飲みませんもんね。」
「そうだね。連絡をくれたら買っておいたんだけど。」
「…そうですね。いきなり訪ねてきたことは、謝ります。」
「いや。…仕事はどう?やっぱり忙しいでしょ。」
「そうですね。こうして、ふらっと抜け出さないといけないくらいには。」
彼女を手放す――それも曰く付きの部署に――と聞いたときに懸念した通りの状況であったらしい。あの話をしたときの、泣きそうだった顔を思い出す。
「ごめんね。力及ばなくてさ。でも、君の成長を考えると、ぼくの元じゃ限界があったはずだと思う。」
「いえ。仕方ないことだと思います。私も、貴方とやっていけたらそれが一番だったと思って…今でも、思っていますが、これほどまでになれたかは、いささか疑問です。」
ほんとうに、穢れを知らない、幼い少女のような感性を持った彼女は化粧を覚えたように、いやな現実を生き抜くための知恵を覚えたらしい。
「こう言ってはいけないと、わかっているんですけど…たまに、貴方のもとを去ってまで…って思うときは、正直あります。」
「……」
何も言うことができなかった。彼女の苦労も、ぼくの現状も、全部力不足が原因だから。
「…ごめんなさい、なにも、言えませんよね。私のために尽力してくれたんですから。文句を言っちゃ、貴方の頑張りまで否定することになってしまいます。」
「いや。事実に否というつもりはないさ。それで君が楽になるのなら、すべて聞くよ。聞かせてほしい。」
「…思い返せば、あの日から、あんまり話す機会がありませんでしたね。」
「そうだね。君の学校の卒業式を見に行った時くらいじゃないかな。」
「懐かしいですね。柄にもなく泣いちゃいました。」
「柄にもって…『二人の季節』、評判良かったじゃん。」
「…私には、最後まで渚ちゃんの考えていることが分かりませんでした。きっと、もっとうまく演じられた人がいたと思います。」
「そんなもんさ。人間、自分の心ですらちゃんとわからないのに、他人の考えまで理解することは出来ないさ。」
『ごめんなさい。私には、貴方の見ている未来が見えない。私はただ、貴方のためを思って……』
言ってから、あの苦い記憶がフラッシュバックした。それは、ぼくたちの別れの言葉だった。
「……ごめんなさい。」
「いや。意地が悪かったね。ただ……君はしっかりやれてるよって言いたかったんだ。」
「…ありがとう。貴方にそういわれると、自信になります。」
「うん。頑張ってほしい。無理なくね?」
「…はい。ふふ、その言い方、懐かしい。わたし、毎晩、貴方のその言葉をつぶやいてから眠ってたんです。そうすると、次の日元気が出る気がして。」
「なんか恥ずかしいな。そんなことしてたんだ。」
「貴方のこと、大好きでしたから。ほんとうは毎晩電話したいなって、ラインの画面を開いて…」
「なんだ、電話してくれてもよかったのに。」
「…早く聞けばよかったかな。でも、毎晩夜更かしすることになっちゃってただろうし、このままでもよかったかも。」
「ぼくも、君と話すのが好きだったよ。どうでもいいことも、だいじな話も。みんな覚えてる。」
「……」
「……」
沈黙。どちらからともなく、ちょっとだけぬるくなったお茶をすする。女性は、静けさに耐えかねたように、あるいは懐かしむように部屋を見回した。
「あ、紫陽花。まだ飾ってくれてるんだ。」
「うん。裏庭で育ててるよ。…綺麗だよね。」
最後の日、彼女は言葉少なだったが、去り際に一つだけ、わたしを覚えていてくれるのなら、青い紫陽花を飾っていてほしい。そんなことを言った。
「紫陽花はきっと、わたしだったんです。」
「君はどっちかというと、ヒマワリじゃない?髪飾りもよくしてたじゃない。」
「そうですか?…あぁ、たしかに。初めて会った頃はそうでしたね。まぁとにかくですね、紫陽花の名前の由来ってご存じですか?」
「知らないかな。」
「藍が集まるという意味の、集真藍だそうですよ。わたしのちょっとした想い、覚悟、約束、そんなものが集まって一つの、大きな花になるんです。」
「…それは、聞いても?」
「…もう、知ってるはずですよ。あの日の約束は、まだ叶っていませんけど、もう少しですから。」
「……」
大人として、そして青春を捧げたこの子よりは経験豊富なつもりだったが、きっと彼女も、いろんな経験をしたんだろう。あの告白の日より自然体で、けれども強い意志が伝わってくる。まだあきらめていなかったのか。まだあきらめないでいてくれたのか。
「昔、言ってくれたじゃないですか。恋する女の子は強いんですよ。」
その言葉は、軽いキスとともに。過去の因縁は熱をもって、再びやってくる。
「…帰らないと心配するんじゃないの?」
「ん……そうですね。流石にそろそろ、電話に出ないと大事になる時間です。」
「うん。送ってくよ?」
「いえ、駅まで行ってタクシー拾います。」
「じゃあそこまで。」
「はい。ありがとうございます。」
徒歩五分程度とはいえ、彼女と同じ道を歩めることを、誇らしく思った。あの頃に戻ったような気さえする。女性は、少女だった時と同じように、2歩前を、スキップするかのように。
「ここまで、頑張りました。わたし、頑張ったんです。」
「うん。」
「頑張って頑張って頑張って。いろんな人と知り合いました。かっこいい人、かわいい人、偉い人、悪い人。でも、貴方よりわたしの内側に入れる人はいませんでした。今の人だって、そんなに気が合うとは思っていません。同じ目的があるから、そのことだけ話す。きっとそんな人生は楽しくないはずです。」
「うん。」
「わたしね、わたし…貴方が、好き。まだ、ずっと、今でも。」
「うん。」
「もう少しで約束を果たせます。全部終わらせて、しがらみも全部断ち切って、帰ってきます。」
「うん。」
「だから……もう少しだけ、待っていてください。」
「うん。約束する。」
「…うん。」
「頑張ってよ。無理なくね。」
「…はい。」
ここでいい、というのでロータリーの差し掛かりで立ち止まる。彼女が振り返り、目が合う。脳裏にいろんな言葉が浮かび上がった。けれどもそれは彼女を言い表すには余計な言葉で、そして、足りない。あの夏の思い出のような女の子は大人になった。彼女は、あまりにも綺麗な人だった。ふと昔より視線が高い気がして、ヒールを穿いていることに気づく。昔は、かかとの高い靴は歩きにくいし転びそうだからと言ってはかなかったのに。そういった細やかな変化を知ることができなかったことがなんだか悔しかった。安い独占欲ではあるが、彼女の一番はまだぼくだと信じていたから。
「…約束を果たすまで会わない、みたいな言い方しましたけど、今週には撮影も全部終わって、一週間くらいフリーなんです。…あの、よかったら遊びに来てもいいですか?」
「もちろん。次来るときにはミルクも用意しておくよ。」
「はい、ぜひ。」
昔は二人で、食後の散歩をした。ちょっと遠出をして、自然公園にもよく出かけた。夜の静かで、普段と違った様相に彼女が目を輝かせていたことを思い出した。
ぼくの手元にいた頃は、日差しと並べてPRしていたような気もするけど、彼女には夜が一番似合うと思った。そしてそれを、小さな独占欲に従って黙っていたことによくやったと言いたかった。この笑顔より美しいものを、ぼくは知らない。
それはそれとして暇だからって1週間も連泊しようとするのはどうかと思うよ。