72 光臨
「それより見て!始まったわ!」ヒュパティアが広場中央を指さした。
マサキたちが目を向けると、天井から広場の中央……正確には台に横たわるナツミに向かって、光の粒子が雨垂のように舞い落ちていた。
大賢者たちは詠唱を続けながら宙に魔方陣を投影して、それを隣の賢者に回してを繰り返している。魔法と言うより得体の知れない超テクノロジーを駆使しているように見えた。
そのうち屋内の光量がすーっと落ちて薄暗くなり、天井からしたたる粒子の光がひときわ鮮明になった。それは薄闇の中で薄紫色の光の滝のように見えた。
大天使ヤハウェが腕組みしたまま天井に顔を向けた。
アズラエルが厳かに告げた。
「龍翅族がアマルディス・オーミの魂を迎えに来たようです」
「なんという霊圧であろう」ゼウスが低く唸るように言った。
マサキたちもその存在感を肌身に感じていた。
開いた天井からわずかに垣間見える空には暗雲が垂れこめ、雷光が瞬いている。その空のどこかに圧倒的な魔導律のみなもとが存在していた。
血肉のある生き物とはどこか違う、冷たく、しかしなにか依存したくなるような、ある種の母性を感じる。
霊長目に属さない、たぶん肉体的精神的にずっと進化したなにかだった。
それでマサキたちは、アマルディス・オーミでさえ龍翅族の若者に過ぎなかったのだと直感した。少なくとも彼女には肉体があったのだから。
何万年もかけて成長と言うより進化してゆく生き物とは、いかなる存在なのか。
「あれが神じゃないとしたらなんなんだ……?」
畏怖にうたれたトムが囁いた。
「イグドラシルに神はいない」とはデスペランやサイファーが地球人に語った言葉だが、誰もが似たり寄ったりの感銘を受けていた。
言葉ではどうにも表現できないもどかしさに、今すぐ空に駆け上がってその姿を目にしたいと思ったが、思うそばからその姿を拝むことはたぶんできないだろうと直感していた。
「次元が違う」という慣用句がこれほど的を射たことはないだろう。
巨大な白い異形の手が、天井からするすると降りてきた。
通路を埋め尽くした学生たちのあいだに押し殺したようなどよめきが沸き起こった。
長いしなやかな指先が、横たわるナツミのからだの上を躊躇うように探り、やがて胸元のペンダントをつまんだ。
サイファーがナツミの誕生日に贈ったプレゼント。その石にアマルディス・オーミの魂が宿り、3個目の神器となった。
その事実を知っているのは真空院厳津とアルファだけで、ナツミ本人さえ知らない。だからマサキたちも、大賢者さえその動きに首をかしげた。
だが石から鋭い光が放たれはじめ、ナツミを囲む賢者たちの動きがにわかに慌ただしさを増した。
マサラ・ハイデリックが叫んだ。
「皆さん!記憶の洪水が始まりますよ!しっかり心構えしななさい!」
「えっ!?」アナが驚いて思わず耳を塞いだ。「なに?どうすればいいの!?」
「さあ……」
マサキも途方に暮れていた……が、それがどういう意味なのかすぐ思い知った。ナツミが横たわっている台の頭上で鋭い光が炸裂して――
記憶が
怒濤のように押し寄せ
マサキたちを打ちのめした――
――――――
――それから何万年が経過したか――
マサキは床に倒れていた。
記憶大聖堂に居合わせたほぼ全員が倒れたらしい。ユリナもアナたちも傍らに長々と横たわっていた。
立っていたのは賢者と大天使だけだった。
意識に流れ込んできた大量の記憶のおかげで時間の感覚が完全に狂っていたが、じっさいには一分も経っていないようだ。
マサキはベンチに手をかけて立ち上がった。足がふらついた。
薄暗い大聖堂に先ほどとは別の光が生じていた。
ナツミが横たわる台のそばに、明るい青色の球体が浮かんでいた。差し渡し10メートルほどもあるだろうか。
球体のところどころ白いマーブル模様と茶色いシミを纏っていた。
少し離れたベンチで座ったまま気を失っていたヨシキも、目を覚ましてその球体を見ていた。
「地球だ……」ヨシキがつぶやいた。
アナも目を覚まして立ち上がった。いぶかしげな顔であたりを見回していた。
「――いま、超早送りで地球の歴史絵巻を観てたみたい……」
「ああ」マサキも同意して、地球を指さした。
アナが目を丸くした。
「なにあれ!地球?」
「地球の記憶だよ」頭上に浮かぶ球体を見上げながらマサラが言った。「おまえさんたちが住んでいた世界の記憶。龍翅族アマルディス・オーミの記憶さね……」
「ああなんか――!」ユリナがもどかしげに頭を抱えた。「すごく大事な夢をいくつも見たのに!多すぎて覚えられないよ!」
「だな……俺たちが見たあれは、本に書かれた歴史じゃない。地球でじっさいに起きた出来事……その渦中にいた人たちの記憶だ!」トムも苦悶するように頭を抱えた。「くそっ忘れるわけにはいかないってのに……!」
流れ込んできたのは、必ずしも歴史的出来事に関することばかりではなかった。むしろほとんどはごくふつうの人々の、平凡な、暮らしの記憶だろう。
〈ハイパワー〉の祖先が流刑されてから30万年間に渡る、全地球人類の記憶……
それらが大波のように打ち寄せて、消えた。
「あんたたち、無理するでないよ」マサラが呼びかけた。「いまの記憶の炸裂はすべて記録されておる。この大聖堂はそのためにあるのだよ?」
アナが救われたようにほっとした顔でへたり込んだ。
「なるほど……そうなんですか……」
マサキたちは地球のミニチュアに歩み寄った。
儀式は終わったらしい。明るさが戻って、あの巨大な腕も消えていた。ステンドグラスの天井も閉まっていた。
「これがナツミの中にあったのか?」デスペランがマサラに尋ねた。
マサラはうなずいた。
「この人も龍翅族もこれで解放された。こんなものを抱えていたらいつかおかしくなっちまってただろう……これでひとつ、終点に近づいた」
デスペランはうなずいた。
「あとはサイファーを連れ戻すだけだ」
片桐アズサがひとりぽつんと立ち尽くし、地球を見上げていた。
ヨシキが隣に立つと、アズサがつぶやいた。
「ちっぽけで、儚げで……とても綺麗」
声は平静だったが、頬が涙で濡れていた。ここ数日見たこともなかった穏やかな表情を浮かべていた。
「いま、惨たらしい夢をいくつも見た」
「ああ」
「あれは平凡な人たちの日々の気持ちだった……彼らのほとんどは、自分を不幸だと感じているようだった。永続的な苦難を堪え時折の小さな出来事に幸福をかみしめる、そんな生活……」
「何千年前の人たちも、俺たちとさほど変わらない」
アズサはうなずいた。
「そうした普通の人々が社会の擾乱に磨り潰されてゆく……そんな苦悩ばかりだった……」
「それが社会だ、と言わんばかりに」
「わたしはなんと矮小な野心に突き動かされていたことか……」
アズサはヨシキに顔を向けた。
「しかも、その野心は突き詰めれば、夢で見た惨劇の数々に行きつく。人間は性懲りも無くあんなにも愚かなことを繰り返してきた……」
「すくなくとも、俺はいい夢も見たよ」
「もちろんそれもある……だけどあの記憶……!」
アズサは両手で顔を覆った。
「ずっと虐待されながら「ママはいつかきっと優しいママに戻ってくれる」と信じ続けながら亡くなった子供……あのわびしい気持ちを追体験したのは、わたしにはとても耐えられない……!」
ナツミがゆっくりと身体を起こした。
マサキが駆け寄って背中を支えた。
「大丈夫……ちょっと、手を貸して」
ナツミはマサキの手を借りて台から降り立った。
そして頭上に浮かぶ地球を見上げた。
「わたし……夢を見てた」
ナツミは言った。ただの宝石に戻ったペンダントに手を当てた。
「サイの居所が分かった」




