70 夢幻の領域
ヨシキとアナ、トムは広い下士官食堂で海兵隊の食事時間に招かれていた。二交代シフトで、時間内に終わらせて夜勤組に席を空けなければならない。
テーブル一面に並べられたバァル製のパンにスパイシーな下味のついたフライドポテトらしきもの、緑色のこってりスープ。ソーセージにハムに燻製……どれも信じがたいほど美味だ。量もたっぷりだが海兵隊員たちはヨシキの1.5倍くらい食べていた。
(兄貴たちもこっちに来れば良かったのに)
海兵隊は見たところ全員女性だ。あとで知ったが船の運航要員は全員男性らしい。荒くれ者揃いで、〈ハーピュレーソン〉前方の右舷区画に生活拠点があり、シフトの交代時間が違うのでおなじ船内でも滅多に顔を合わせないという。
ヨシキたちの食事や生活全般の世話を海兵隊が任されたのは、航行中の船内では比較的暇だからだ……まあ全員一度に使うシャワールームでは、少々間の悪い思いもしたが。
「お客人、メシはお口に合ったかな?」
「ええもう」アナは分厚いハムの最後のひと切れを味わいつつうなずいた。
女戦士たちはいずれも身長180センチ強、体格で選ばれているようだ。大食いなのに太っている者はひとりもいない。
いまはビシッとした上着の前を開けてくつろいでいた。
女性だけの海兵隊なんてアメリカにもないから、アナは早くもここが気に入りかけていた。見目麗しい隊員も多くいたのでてっきりデスペランのハーレム要員かと疑っていたが、いまはその考えを恥じていた。
「見たところ、あなた方の軍隊も組織的に僕たちのそれと変わらないようだ」トムが言った。
「そうなのかい?」
「ええ、われわれ西洋も船で海原を渡るようになった頃から近代的な軍隊を作り出しました……バァルのこの――」船全体を示すように手を振った。「〈ハーピュレーソン〉を動かす組織とたいへん似ている」
「そもそも軍隊じゃないけど」
「違うんで?」
「バァルに常備軍はないよ。維持する手間を考えたら無駄も良いとこじゃないか。わたしらはいざって時のために統率を学んでるだけ」
「そうそう、みんなだれかに命令されるのは苦手だから。だけどどうせ我慢して仕えるなら優れた指揮官に教わったほうが良い」
「デスペラン?」
「そうね、戦闘経験者なんて滅多にいないから。マリスタル船長も。十年奉公すれば土地と家をもらえるし」
「いざって時ってのはどういう状況を想定してるんです?」
「もうろくした火龍が町を襲って来やがったり、渡り虫の大群が沸いたとき」
「さて」中隊長らしき人が立ち上がった。「そろそろナイトウオッチに席を譲らなきゃ。あたしたちは寝るけどお客人は甲板で眺めを楽しみな。もうすぐ幻獣領域だ」
晩餐を終えたナツミたちも甲板に出ていた。帆が風を捉えるバランスが安定していて、甲板上はほとんど無風だ。ただし重低音の轟々とした空気のうなりが響き渡っていた。
雲の遙か上に上昇しているにもかかわらず、空に光が瞬いている。
「オーロラ?」
ナツミたちは夜を彩る幻想的な紫色の帳をただ見上げた。
「下を見てみろ」デスペランが言うので船縁から身を乗り出して見下ろした。
「わあ……!」
真っ暗な海に緑色の燐光が航跡を描いていた。
信じられないくらい大きな……海蛇、あるいは龍か。とてつもなく長く真っ白な生き物が遊弋していた。
「あれ生き物か?全長一㎞くらいあるんじゃないか?」トムがデジカメを取り出して撮影を始めた。
「外洋にはあんなのが住んでるのか……こりゃ船を漕ぎ出すなんて無理だな……」
デスペランが笑った。
「あれはウィベックススという海獣だ。こっちからちょっかい出さなきゃ襲ってこないよ」
マサキはひとり、甲板を見渡す楼閣の壁により掛かっていた。
顔もよく知らない、船に乗っているはずのない人間が、マサキの前に何人も立っていた。
とくに恨みがましい顔でもなかったが、マサキはそれらの人間が、先日の戦いで殺した相手だと分かった。
幻獣領域とデスペランが呼んだ空域に達してすぐ、それが見え始めた。
(そんなふうに見つめるなよ……)
イグドラシルでは魂は不滅だ。そう聞いてはいたが、じっさいにその事実を見せつけられるのはまったく別の話だ。正直、いい気持ちはしない。
この世界では、人も生き物もむやみに殺さないほうが良いのだ。
アマルディス・オーミでさえあれほどのパワーで圧倒しながらひとりも殺していない。悪党たちは死んだ方がマシという目に遭って悔い改めた。
あの後暴走族たちは泣いて許しを請い、(ひとりにされたり留置されるのを極度に恐れたため)街に受け入れてほしいと懇願したらしい。
いずれも子供のように素直で従順だったという。
かれらもまた、見た目以上の経験をして心底怯えたのだろう。魔導律の洗礼を受けた人間は否応なく霊感を強化されてしまう。
アナたちも甲板に出てナツミたちと合流した。
そして極彩色の空と暗黒の海、そしてのんびり回遊する海獣の姿に目を見張った。
アナは遠く空と海の境界線を指さした。
「あの光は?」
イグドラシルは平面世界だ。水平線は丸みを帯びておらず、海は漆黒の絨毯のようにやや上向きに広がっているように錯覚させつつ、果てしなく遠いところでぼんやりとした光の帯に消えていた。
「たぶん……昼の部分が見えてるんだ」トムは確信のない口調でつぶやいた。
「えー?……何千㎞……何万㎞先の景色か。すごい」
ヨシキは甲板に上がる直前、襟を掴まれてラッタルの物陰に引き込まれた。
相手は片桐アズサだった。文句を言おうとしたヨシキはアズサが憔悴しきっているのに気付いた。
「いったい――」
「お願い!」アズサは逼迫した口調で言った。「行かないで……ここにいて」
思いがけない言葉にヨシキがいぶかしげに首をかしげると、アズサはなおも訴えた。
「あれが見えないの!?」
「ああ」ヨシキはなんとなく察した。「死者が見えてるんだな?」
アズサはシーと鋭く息を詰めてぎゅっと目を瞑った。
体が小刻みに震え、強いストレスに苛まれているようだった。
演技のようには見えなかった。
「嫌……こんな世界、わたしは嫌……」今にも泣き崩れそうだ。
「奴らはなにもしないよ。できないんだ。少なくとも転生するまでは」
「だからってあれを我慢するなんて無理……!」
ヨシキは内心舌打ちしたが、いっぽうで根源的な不安も沸き起こっていた。幽霊が見えてしまうのがどれほど怖いか、日本人ならどうしても考えてしまう。
ヨシキはアズサを木箱に座らせ、隣に座って手を取った。
アズサは確信が持てないかのように何度か手を握り返し、やがてぎゅっと強く力を込め、ゆっくりとヨシキの肩にもたれた。