26 魔道士はいずこ
なにごともなく三日が過ぎて、ナツミも新生活になれはじめた。
朝は早起きして庭の農園から野菜を採り、鶏小屋で卵を採り、食事の用意。
午前中はお洗濯。それから買い物だが、隣家と食料の物々交換が主だった。
週に二度、ちょっと遠くまで牛乳をもらいに行く日もある。牛乳は縄を巻いた大きめの瓶入りだ。
イグドラシルには食料は豊富だが、飲み物については食料以上に気を遣う。
これについては前近代に戻ったようで、気楽に飲める飲料はアルコールか、搾りたての果汁、あるいはお茶だ。
清涼飲料や炭酸はようやくすこし出回りはじめたが、アルミ缶はまだ製造されていないため瓶入りか、持ち寄ったマグに注いでもらうかしかない。
水道水は飲めるそうだが、たいていは煮沸する。
そして、コーヒーは無い。
アフリカやブラジルはいまや数万㎞の彼方で,気軽にコーヒー豆を輸入できない。
そもそも新しくなったそれらの国で栽培を再開しているかも怪しい……バナナとか、いくつかの食料は公然と奴隷を使って生産していたからだ。
イグドラシルは農奴に身を窶さなくても,人々は生きていける。
これはチョコレートにも言えた……新しい日本にはまだどちらも存在しないのだ。
多くを輸入に頼っていた国だから、自前でなんとかしなければならなくなった物品は数多い。
なにもかも100%国産はほぼ不可能なので、自治体は隣国と連絡を取り合って、生産品の分担を決めようとしていた。
もちろん「政府」はそんな勝手な動きを阻止しようとしているのだが、自治体もそれについては政府の介入に反対してはいなかった……ただ仕切ろうとするあまりなんでも妨害しようとするのに辟易していただけだ。
どのみち、イグドラシルにはまだ大量輸送を可能にする大型船舶もなかった。
ふたつの海峡に水上ポータルが設置され、海洋生物と共に地球から数千隻の大型船舶がイグドラシルに送られた。
だがやはり燃料が無いため、それらの船は最初に寄港した海岸に留め置かれていた。
これは難しい課題だった。
単純に距離が10倍になっただけで、船舶の航続距離もそれに見合う性能が求められる。
そして大型タンカーが就航したとしても、輸送コストは距離が伸びたぶん上がる……よっていくつかの品目については、国産で賄うのとトントンとなる。
新世界ではあらゆる物事が地球のやり方では通用しなくなっていた。とくに「グローバル経済」論者は困惑の真っ最中だった。
「まあ考え方が古いのよ」
「どういうふうに?」
「コーヒーもカカオ豆も、イグドラシルにはおそらく代替品が存在してるってことよ!だってこの世界の植物相は地球よりだいぶ豊かなんだから」
マクドナルドの発祥地ではコーヒーの枯渇が社会問題になりかけていた。
「目先の利く人たちはもうそういうのの「宝探し」をはじめてる。コーヒーの代わりになるものを見つけたら大金持ちになれるもん」
「なるほど~」
アナたちがなぜ世界じゅうを旅しようとしているのか、その理由のひとつだった。
「それで冒険者やってるのね……」
アナは頷いた。
「いわば大航海時代の再来。ついでに魔法も上達できれば言うことなしだけど……」
アナたちは次の旅行先を決めあぐねていた。
次の目的地を決定する判断材料は、ひたすら「噂話」を収集することだ。
ネットも無く全国的なニュース網も完備されていない世界ではそれだけが頼りだった。チームレイブンクローのメンバー全員がバイトの傍らで情報収集に当たっていた。
「やっぱり日本に大魔道士なんて居ないんじゃないかな」
ランチの席でテッドが言った。
カワゴエニュータウンの広場にレイブンクローのメンバーが集まっていた。
「いるとしたらシマネってところじゃないかなって話だが、確証には至らない」
ニュースによれば、新しい島根県は,やはり新しく建立されたイズモ大社を中心とした神道の聖地を作ろうとしているそうだ。新日本でもかなり険しい山岳地帯らしく、県の人口は十万人程度だという。
面積は10倍なのに日本の人口は現在8千万人ほど。
移住が始まって70年間で,それだけの人数がイグドラシルに来たということだ……いっぽうおよそ6千万人が移住を望まず地球で寿命を全うした。
よっていくつかの人口密集地以外……国土のおよそ99%が無人の山林だった。
シマネのように10万人程度の街がひとつふたつ、という県は少なくない。
将来の人口増加を見込んでも今後50年間は関東だけで全日本人の生活を賄えるのではないか?という試算も出ていた。
そうした県に出かけるのは、よほど地理に明るくないと命がけとなる。ヘタをすれば山の中で一週間も過ごして迷子になる。
チームレイブンクローもしっかりした地図の入手に余念がない。
「う~ん、日本のそういう所に入門するのは、あなたたちアメリカ人には向かないと思うな。まず10年修行させられると思わなきゃ」
ナツミが言うとテッドは腕組みして天を仰いだ。
「たしかに、日本だとそんなふうかも。だけど修行の道に近道は無いとは言え、アナのお母さんなんかはもっと早く魔導律を習得できてたわけだし……」
「アレは特例らしいよ。大天使たちが地球人に魔導律をシェアできるように特別な術をかけてたんだって」
「ねーねー聞いて」ミカエラが言った。「わたし、トウキョウから来た旅人に聞いたんだけど、なんでもダイカクショウニンというえらいお坊さんがトウキョウにいるんだって」
「えっ!?」ナツミは思わず聞き返した。
アナが言った。
「その人ってたしか、デスペラン・アンバーの2冊目の本の共著者だよね?」
「ああ、シンクウインガンツ?その人がトウキョウにいるのか?」
「ま、噂だけど」
ナツミは首をかしげた。
真空院厳津和尚。またの名を大覚厳津上人。
死後、人類に先んじてイグドラシルに召喚され魔導律を習得後、また地球に戻った。
その後は20年ほど人類の救済に奔走したが、移民事業が本格化すると徐々に表舞台から去った。
メイヴ・ウィンスターと同様、まったく加齢しなくなっていたからだ。
ナツミの記憶では、アルファと彼はナツミと最後まで地球に留まったはずだった。
その後イグドラシルに転移していたとしても、ナツミとそれほど変わらない、つい最近のことだったのではないか……。
(それとも、わたしが特別遅かっただけで、厳津和尚様は何ヶ月も早く転移していたのかなぁ……)
「ね?ナツミさんどう思う?たしかそのガンツって人と知り合いだったでしょ?」
「ええと……ちょっと信憑性はどうかしら。それにあの人弟子をとるタイプじゃなかった気がする。でも魔導律日本一なのはたしかだと思う」
「そうか!トウキョウなら近いし、追求してみても良いかも!」
アナは方針らしきものを見いだせて喜んでいた。
ナツミはそこはかとなく不安を覚えた。




