夏_02
「な…夏休みの予定を組もうと思うんだ…」
片付いた部室の中…やっと活動を再開できた模型部は、今後の予定を話し合っていた。
「先輩、僕、お盆休みにおばあちゃんの家に行きます…」
「うん…。お盆休みは、部活も…お休みだね。」
1年生にそう言った僕は、陣内くんを見つめて言った。
「ぼ、僕の希望を言っても良い…?今年の秋の…文化祭で、模型部として…ひとつ、大きな事をしたいんだ…」
「何…?」
そう聞いて来た陣内くんにコクリと頷いた僕は、興味深げに僕を見つめるみんなをグルっと見渡して、笑顔で言った。
「おっきなジオラマを…作ろう!」
「はい!Nゲージ班!」
伊集院くんの言葉に、1年生の二人がそそくさと彼の元へと集合した。そして、ぺちゃくちゃとおしゃべりを始めたかと思ったら、大きく頷いた伊集院くんが僕を見て、こう言った。
「透明のレールを上空に敷いて…空を飛ばせたい!」
「もちろんさ!デゴイチを飛ばそう!」
伊集院くんに笑顔でそう答えると、陣内くんが身を乗り出して言った。
「春ちゃん!怪獣と戦うよりも、宇宙人と戦いたい!」
「良いね!大きな宇宙船をバックに置くのもカッコいい!」
構想を練り出した陣内くんは、大きな紙を取り出して、みんなの意見をまとめ始めた。
「ゴジラはいつも…海から来る…」
ひとり、口元に手を当てた後藤君は、考え込むような渋い顔をしてじっと宙を睨んでいる。そんな彼を見つめたまま、僕はポツリと言った。
「海を…作ろう!」
それはレジンと言う特殊素材を使った大掛かりな物だ。
でも…
だからこそ…
みんなで作るジオラマで、やる甲斐があるんだ…!
「まじか…」
僕の言葉に瞳を潤ませた後藤君は、部室に置かれた造形の雑誌を手に取って…レジンの海の作り方を熟読し始めた。
「部費は…?いぐらまで出せるのぉ…?」
そんな南條くんの言葉に、僕は口端を上げてこう言った。
「…3万円!」
すると、陣内くんは、紙の上に必要な材料と、ざっとした値段をすらすらと書きながらこう言った。
「正直、微妙だ…。レジンが1リットルで5、000円はする。その他…立地を構成する為に使う、模型用の発泡スチロールに、透明のNゲージのレール…後は…」
そう…ジオラマには、沢山の材料が必要になるんだ。
まず、地形を作るために発砲スチロールを切り出さなくてはいけない。それには、箱型の発泡スチロールとは違う…立方体の大きな塊が必要なんだ。そして、それはなかなかの値段を張る。他にも、地表に塗る石膏に、草の代わりを果たす…緑色の毛足の長い粉…ディティールを攻めるなら…鉄、アルミ、その他のテクスチャも必要になって来る。
そして、今回は…更に…海を作る。
それには…レジンという透明の固まる液体が必要なんだ。
うちのお母さんが、ジェルネイルなんて物を爪に付けていた時期があった…あの、UVライトで固まる液体を…僕たちは、海にしようとしている。
ただ僕たちは…これをUVライトじゃなくて、溶剤を使って固めるんだ。
そして、陣内くんのご指摘通り…レジンはめたくそ高い。
だから…お金を掛ける部分と、そうでない部分のメリハリを付ける必要があるんだ。
僕は、不安げに首を傾げる陣内くんを見つめて、ニッコリ笑って言った。
「…僕は、今回は、フィギュアを紙粘土で作ろうと思ってるんだ。」
「ふぁっ!?」
間抜けな声を出した陣内くんは、僕を見つめて深呼吸した。そして、ゆっくりと、確認する様に、上目遣いでこう聞いて来た。
「…春ちゃん、まず先に聞こう…。君は、どの程度のジオラマを作るつもりなんだい…?」
そんな彼の言葉にコクリと頷いた僕は、生唾を飲み込むみんなを見つめて、ニッコリ笑って言った。
「2畳…。丁度、2畳分のジオラマを、作ろうと思ってる!」
「まじかぁ~~!でかすぎる~~~!」
「まじだ!」
陣内くんの手元の紙を手繰り寄せた僕は、長方形を横に2つ並べて描いた。そして、その5分の1に線を引いて言った。
「…ここから、こっちが海だ!」
「はぁ~~?!」
呆れた様に両手を上げる陣内くんをケラケラ笑って見下ろした僕は、ニヤニヤと口元を緩ませて笑顔を見せる1年生を見つめて言った。
「レジンで固めた海の中に…アトランティスを作るんだ!そして、潜水艦と…水中探査機も欲しい!イルカと戯れる…島人の姿を作るのも…面白いね!」
「ははっ!良い!先輩!面白い!!」
そう…ジオラマは自由だ…!
見る人が、思わずクスリと笑ってしまう様な…そんな、遊び心を取り入れて、一度では気付け切れない情景を映す。
そんな、素敵なジオラマを、みんなと、作りたいんだ…
「春氏…これは、大掛かりな一大事業ですぞ!!」
「そうだ。だから…夏休みを利用する。」
伊集院くんの言葉に深く頷いた僕は、そう言い切って、みんなを見まわした。そして、目に力を込めてこう言った。
「僕たちは…模型部だ。細かい作業を繰り返して…繊細な物を作る事が好きな集団だ。みんなそれぞれ、得意とする分野が違う。でも、その違いを…有効に発揮出来る場所がある。それが…ジオラマだ。この大きな舞台は、皆の技術の集大成をひとつの作品に込める事が出来る。僕はね…みんなと一緒に、そんな何かを全力で作ってみたいんだ…!」
「春氏!」
「は、春ちゃん…!!」
「先輩~~!」
そう、こんな規模のジオラマはそんじょそこらの気合では、完成させる事は不可能だ…。僕は、それを、時間に制限のない夏休みを、フルで使って…やってみよう。と…みんなに持ちかけている。
「犠牲は…ある。多分、すっごい疲れるし、色々な予定をキャンセルしなくちゃいけない場合も出てくる。でも…出来上がった物は、きっと素晴らしい物になる!ねえ、どうだい?もし…僕のこの案を支持してくれるなら、拍手をくれないか…」
「春ちゃん!おらも…おらも、やるだよっ!!」
急にやる気を見せた南條くんは、タッパーのべったら漬けを全て食べつくして、僕に拍手をくれた。
「先輩!俺も…俺も、やってみたい!」
パチパチ…
パチパチパチパチ…
「我らNゲージ部隊は…春氏に付いて行くでござるよ!デゴイチを空に上げる…それは銀河鉄道じゃなくても出来るでござる!」
パチパチパチパチパチ…
「ゴジラは…一番安いのを買おう。そして、塗装し直そう…それで、良い…!」
パチパチパチパチ…
「…春ちゃん…」
「陣内くん…どう…?」
ひとりだけ浮かない顔をした陣内くんは、僕をじっと見つめて押し黙ってしまった。
僕は、シュンと背中を丸めた彼を覗き込んで首を傾げた。すると、彼は悲しそうに眉を下げてこう言った。
「…彼女が…夏休みは、デートや、お祭りに行きたいって…」
そうか…
僕は陣内くんの背中を叩いて、にっこりと笑って言った。
「じゃあ…陣内くんは出来る範囲でカバーしてくれっ!僕たちは、全力を尽くす!よし、みんな…やるぞ~~~!陰キャの底力を見せつけようじゃないか~~!」
「うぉおおおお~~~!!」
一気に盛り上がった模型部の部室の中は、クーラーを利かせているにもかかわらず、汗ばむほどに暑苦しくなった。
…そして、あっという間に、下校の時間を迎えた。
部活の帰り道…僕と陣内くんは、一緒に駅へと向かって歩きながら、構想を練った。
「ベニヤじゃたわむ…もっと強い土台が必要だ。完成後、移動させる事を考えたら、頭上を走らせるレールも立地も、組み立てを考慮して作らないと…」
「フンフン…なる程ね…」
さすがの陣内くんは、僕に色々と教えてくれる。そんな彼を見上げながら、僕は何度も頷いてメモを取った。すると、陣内くんは僕の手元のメモを眺めながらこう言った。
「…ねえ、春ちゃん?さっき、ざっと計算したら、あの範囲をレジンで埋め尽くすには、900リットル必要だったよ。」
「はぁ~?!そ、それは…ほぼ1トンじゃないか…あはは…あははは…」
少し、僕は、大風呂敷きを広げすぎたみたいだ…
他の方法を、考えなくてはいけないかもしれない。
「んじゃあ…他の材料を、ホームセンターに行って…買って来ようかなぁ…」
「それより、春ちゃん…まじでさ、千秋君に謝ってよ…」
急に表情を変えた陣内くんは、僕を横目に見てそう言った。
「分かってるって…」
彼に苦笑いをした僕は、思った以上にちいちゃんを気にする陣内くんを見つめて、眉を下げた。すると、陣内くんは一文字に結んだ口を動かして、言った。
「昨日の彼は、とっても…悲しそうだった…。あんな顔を見た事は無かった。春ちゃん…ふたりの過去なんて、僕は知らない。でも…昨日の君は、言い過ぎだ。」
そうだね…君の言う通りだ…
「…うん。その通りだ…」
陣内くんと別れた僕は、電車に乗って…自宅の最寄り駅まで向かった。そして、駅前のとらやで、手土産にちいちゃんの好きな羊羹を買った。
…これで、許してくれるかな…
そもそも、怒ってるのかな…
そんな気持ちを抱えたまま、自宅のマンションへと帰って来た。
下から見上げたちいちゃんの家の前には、彼が既に帰っている証拠に…バスケットボールがダランとぶら下がっていた。
自分の家の手前…僕は、ちいちゃんの家のインターホンを押して…応答を待った。
「…はい。」
「ちいちゃん…あの…昨日は、ごめん…ね、開けて…?」
彼の声を聴いた瞬間…僕の胸が鋭い刃物で抉られた様に、痛くなった。
…予想以上に彼の声が暗かったんだ。
でも、きっと…インターホン越しだから…たまたま、そう、聞こえただけだ。
そして、僕が彼に対して…後ろめたさを感じているから、そう、聞こえただけだ…
ガチャ…
目の前の玄関が開いた。
僕は顔を覗かせて、同じ様に顔を覗かせたちいちゃんと目を合わせて、固まった。
「何…」
ぶっきらぼうにそう言ったちいちゃんは、僕の知ってる…いつもの彼じゃなかった。
目を丸くして息を飲んだ僕は、手に持った紙袋を掲げて言った。
「あ…あ、あの…これ、とらやの芋羊羹…」
「…要らない。」
「え…」
ガチャン…
目の前で、無慈悲に閉じられた玄関を見つめて…僕は呆然と立ち尽くした。
どうやら…僕は、彼を酷く怒らせてしまった様だ。
一緒に成長して来た17年間…僕は、一度も、ここまで彼を怒らせた事は無かった。
だからかな…
とっても、悲しかった…
「ち、ちいちゃぁん…怒んないでよ…!ごめんって…ねえ…!ごめんってばぁ!」
玄関をコンコンとノックしながら、必死に扉の向こうのちいちゃんにそう言った。
でも、彼はもう、玄関の前には居ないみたいで…ただ、馬鹿みたいに謝り続ける、僕の声だけ…虚しく響いて消えて行った。
「あんた、何してんの…?」
そう言ったのは、うちのお母さんだ…
「…ちいちゃんを怒らせてしまった…」
「あ~あ!馬鹿やったね!も、帰って来な!」
そんなお母さんの声に頷いた僕は、トボトボと背中を丸めたまま、自分の家の玄関に入った。
今日…僕の名前を呼んだちいちゃんは、あんなに冷たい目をしていなかった。
だから、きっと…怒ってなんか無いって、踏んでた。
…でも、僕の予想は外れたみたいだ。
手を洗って…夕飯を食べた僕は、風呂に入って…自分の部屋にこもった。
そして、ベランダに出て、隣のちいちゃんの部屋を覗き込んで言った。
「ちいちゃん…ちいちゃぁん!」
電気は点いている。
いつもなら、こんな風に僕が呼びかけたら…カーテンを開いて、顔を覗かせてくれる。
そう…いつもなら…
いつまで経っても反応のない彼の部屋を見つめていた僕は、部屋に戻って、メジャーを手に戻って来た。そして、目いっぱい伸ばしたメジャーの先で、彼の部屋の窓をカリカリと音を立てながら撫でた。
シャーーーッ!
「あ!ちいちゃん!」
カーテンを開いたちいちゃんは、僕をジト目で睨みつけながら、窓を開いた。そして、僕の手に握られたメジャーを、乱暴に取り上げて、僕の部屋に向かって放り投げた。
「な、なぁんだぁ!なんで、なんでそんなに怒ってるんだぁ!」
無言で部屋の中に引き返そうとするちいちゃんの服を掴んだ僕は、そのまま彼の腕を手繰り寄せて、がっちりと掴んで言った。
「昨日の事…?ねえ、昨日の事を怒ってるの…?あれは、僕が悪かった…!本当に、ごめんなさい…!!」
「もう…構うなよ。俺に消えて欲しいんだろ…?俺の顔も見たくないんだろ…?望み通りにしてやるよ…。もう、話しかけてくんな…。俺も、お前の顔なんて…見たくない。」
え…
そう言った、ちいちゃんの声も…目も…体全体から出ている雰囲気も…今まで見た事もないくらいに、冷たくて…痛くて、僕を突き放す様な物だった。
彼の腕を掴んだ手に力が入らなくなった僕は、ヨロヨロと体を振りながら、自分の部屋のベランダにへたり込んだ。
そして、意図せず込み上げてくる嗚咽を、堪え切れずに…背中を揺らしながら泣いた。
僕は…取り返しのつかない事を言ってしまったみたいだ…
陣内くんが言っていた…親しき中にも礼儀あり。
そんな大事な事を忘れて、ちいちゃんに…言ってはいけない酷い事を言ってしまった…!!
ピシャン…シャーーーッ!
ちいちゃんがベランダの窓を閉めて…乱暴にカーテンを閉めた。
僕を、ベランダに…残したまま…
「うっうう…うう…なぁんで…何でこんな…こんなぁ…」
自業自得なんだ…
彼は、僕に何もしていない。
それは、昔から…そうだ。
なのに、
なのに…
僕は、彼に理不尽な怒りを…ぶつけていた。
本来なら、僕に意地悪をする相手へ向けるべき怒りを…全て彼に向けていた。
ちいちゃんが居るせいで、僕が意地悪される…
そんな卑屈で…情けない、八つ当たりを…彼に繰り返していた。
「こ、これじゃ…僕に、意地悪をして来た人たちと、同じだぁ…」
涙を拭いながらそう呟いた僕は、取り返しのつかない事をしてしまった自分に、ため息を吐いて、首を横に振った。
17年間…なんだかんだ…仲良く、一緒に育って来た彼が、僕の顔も見たくなくなってしまう程に、怒ってしまった。
それは、僕の甘えがもたらした…八つ当たりのせいで、だ…
そう。
僕はいつも…ちいちゃんを拒絶しながら、彼に甘えていた。
何を言っても許してくれる…なんて、自分勝手な思いのまま…彼の気持ちも考えずに…奢っていた。
ベランダから部屋に戻った僕は、落ち込んだ気持ちを持ち直す事が出来なくて…そのままベッドに突っ伏して寝転がった…
そして、何気なく壁を撫でて、次の瞬間、思いきり引っ叩いた。
バン!
いつもなら…隣の部屋のちいちゃんが、お返しとばかりに叩き返して来る筈なんだ。
そう…いつもなら…
でも、もう、無いみたいだ。
いくら待っても、彼からの返答は無かった。
「ちいちゃん…」
いつもみたいに…笑ってよ。
僕は…君の事が、大嫌いだ…
優しくて、思いやりがあって…いつも、僕を助けてくれる…
誰よりも、僕と一緒に遊ぶことを最優先させて、地味でつまらない遊びにも、目を輝かせて笑ってくれた。
そんな君が、他の子と遊ぶ事が…嫌だった…
ずっと傍にいて欲しかった…
僕だけのちいちゃんだと思っていたのに、君はあっという間に人気者になって…どんどん僕から離れて行ってしまった。
それが、とても…悲しかった…
僕は、君に…置いて行かれた気がしたんだ…
すぐに友達を作れる君は、みんなの羨望の眼差しを受けて…輝いて見えた。
卑屈になった僕は、君を遠ざける事で、自分を守った。
女の子にも人気な君は、あっという間に…一線を越えたね。
あれは僕が塾から帰る帰り道…偶然、見てしまったんだ。
君が、当時付き合っていた女の子にキスする所を…
その時のショックといったら…ないよ。
僕は、1週間、熱を出して中学校を休んだんだ。
お母さんが心配して、僕を大きな病院に連れて行くくらいだ。
何とか持ちこたえた僕は、もっと卑屈になって…自分を守った。
ねえ、どうして、あんなにショックを受けたのかな…
ちいちゃん、君は、きっと、既に済ませてるんだろ…?
同じ様に育った筈なのに…君はどんどん先に進んで行って、僕はずっと…ここに居る。
…女の子とキスする事も、エッチな事をする事もなく。
ずっと、変わらずに…馬鹿みたいな模型を作る事に熱心になってる。
君は成熟していくのに…僕は、子供のままだ…
…情けない。
きっと…こんな自己嫌悪が、僕を卑屈にさせて…君に理不尽な怒りを向けてしまう原因になっているんだ。
ごめんね…ちいちゃん…
君の様に…なりたいって、心の底で…憧れて、ひがんでる…それが、僕だ…
次の日の放課後…
「春氏!春氏!」
「んっ?!」
伊集院くんの声に顔を上げた僕は、不思議そうに首を傾げる彼を見つめて言った。
「ど、どうしたの…?」
「スケールを把握したいから、体育館へ行って、マットを持って来ようと思ってるでござる。一緒に来て欲しいでござる!」
作業スペースを確保する為に部室の机を廊下に出した僕たちは、秋の文化祭に向けて、各々の構想を練っていた。そして、伊集院くんは“1畳”の感覚を掴むために、体育館のマットを持ってきたいと僕に言ったんだ…
「あ、あぁ…うん。良いよ…」
にっこりと笑った僕は、伊集院くんと一緒に体育館へと向かった。
「…疲れてるでござるか?」
「へ…?何で?」
「何だか…ぼんやりしているでござる…」
そんな伊集院くんの心配を受けながら、僕はバスケ部の靴の音がキュッキュッと鳴り響く体育館へとやって来た…。
自然と視線を下に向けた僕は…先を歩く伊集院くんの踵を見つめたまま、彼の後ろを付いて歩いた。
「春氏!これは一畳でござるか…?」
「…へ?…た、多分…」
歯切れの悪い僕の言葉に首を傾げた伊集院くんは、大きくて重たいマットを両手で持ち上げて、そのまま…後ろに転げて倒れた。
「あぁ…!」
ドテン…!
「ぷぷっ!」
「春氏!笑ってないで、助けて欲しいでござる!」
マットの下敷きになった伊集院くんがツボに入ったんだ…
だって、ゴキブリみたいに両手両足を動かしてて、面白いんだ!
「ふふっ…!ははっ!あははは!!」
「春氏~~!」
…いつもなら、こんな風にしていたら、僕の傍に来てくれた筈なんだ。
春ちゃん…何してるの…?って…
「はぁ…」
そんな声を期待して待っている自分に気が付いて、嫌気がさして、思わずため息がこぼれた。
僕は伊集院くんの上に乗ったマットを両手で引き上げて、彼を助けてあげた。そして、片側の持ち手を掴んで、ヨロヨロになった伊集院くんに言った。
「ほ、ほらぁ…!僕が、こっちを持つから…伊集院くんはそっちを持ってよ。」
「お、思った以上に…重たいでござる…!!」
本当…このマットは思った以上に重たかった!
まだ1メートルも進んでいないのに、既に手のひらがひりひりと痺れて痛くなって来た。そんな、弱っちい自分に気合を入れる様に、眉を上げて伊集院くんに言った。
「男だろっ!」
「はっ!とんだ、時代錯誤でござるよ…!」
伊集院くんは反対側の持ち手を掴んで、僕よりも低い位置で構えて、僕の後を付いて来る。
「ちょっとぉ!先に行ってよ…!そして、僕よりも下に持ったらダメだぁ!同じくらいの位置で持って!これじゃ、僕ばっかり負荷がかかるだろっ!」
「なぁんででござるかぁ!春氏が先陣を切る。春氏がそれがしを先導する…それが、長の務めでござるよ?」
こんな時だけ…!!
「んぁあ~~!!」
底力を見せた僕は、マットを思いきり上に持ち上げて、反対側で豪快に転んだ伊集院くんを引き摺りながら体育館の中を進んだ。
「おぉ…!春ちゃん、男前だぞ!」
そんな同級生の声なんて、聞こえないくらい…僕は神経を集中させて、視線を下げたまま…体育館の中をマットを引き摺って歩いた。
見てよ。
助けて貰わなくても…僕は、ひとりで…ちゃんと出来る。
でも、出来れば…こんな頑張りを見せた僕に、声をかけて欲しい。
春ちゃん…どれ、俺が持ってやるよって…
そう、言って欲しいんだ…
バタン!
…運動部の汗っかきのせいだ。
踏ん張った上履きが汗で滑って、僕はものの見事に顔面から転んだ。
「うわぁん!いったぁい!!」
「は、春氏~!…あぁ!た、大変だぁ!」
「春ちゃん、だ、大丈夫…?」
そう言って駆けつけて来てくれたのは…僕の、まるちゃんだった。
「はぁ~ん!痛い、痛いよ…まるちゃぁん!」
両手を伸ばして彼に抱き付こうとする僕に、伊集院くんが手を伸ばして言った。
「春氏!鼻血が出ているでござる!」
な、何だってぇ…?!
“血”なんて言葉に固まった僕は、機能停止したロボットの様に、まるちゃんに伸ばした両手を固めたまま、じっと自分の鼻の奥から垂れて来る生ぬるい液体の温度を感じていた。
「大丈夫…こうしていれば、血は止まる…」
まるちゃんは静かにそう言うと、誰かがくれたティッシュを僕の鼻に当ててくれた。
彼の顔が間近に見えて、汗をかいたビブスの奥に思いを馳せた僕は、異常に興奮して言った。
「うっそ~!止まんなぁいよぉ!」
「…止まる。」
はぁはぁ…た、た、た、楽しい…!
まるちゃんは…優しい。そして…強いんだ。
しかし、まるちゃんが言った通り…僕の鼻血はあっという間に止まった。
本当は、もっと、向かい合って傍に居たかったけど…自分の血小板の働きには、文句は言えない。
「これを…模型部の部室まで運ぶの…?」
僕と伊集院くんが四苦八苦していたマットをクルクルと丸めたまるちゃんは、小脇に抱えながらそう言った。
あまりにあっけなく重たいマットを扱うもんだから、僕と伊集院くんは、顔を見合わせて、ケラケラ笑いながらまるちゃんに言った。
「うん…!」
「じゃあ…持って行こう…」
あぁ…まるちゃん…僕は、君が…大好きだ!
「ありがとう…まるちゃん…」
デレデレになった僕は、鼻の下を伸ばしながら…大好きなまるちゃんを見上げてそう言った。
「千秋~!カッコいい~~!」
ガコン!
頭の上から、ちいちゃんの彼女…柏木さんの黄色い声援が聞こえて、左側でもの凄い音が響いて聞こえた。
でも…僕は、まるちゃんの背中しか…見ない様にした。
「わぁ…。春ちゃん。千秋先輩は凄い高くまで飛べるね…ダンクが出来るなんて、カッコいいね…。ねえ、スカウトされてるんだって…知ってた…?」
スカウト…?
「なんの…?」
まるちゃんの背中を見つめてそう尋ねた僕は、目の端で頭上の柏木さんに投げキッスをするちいちゃんを見て…咄嗟に顔をそむけた。
「なんのって…プロバスケチームにだよ…」
「へぇ…どうでも良い…」
下唇を噛み締めた僕は、つっけんどんにそう言った。
そして、大きなまるちゃんの背中に手を当てて、彼の顔を覗き込みながらケラケラ笑って言った。
「まるちゃん、早く行こう?僕が押してあげる!ほらぁ~!ふふっ!」
「わぁ…!はは…!」
楽しそうなまるちゃんの声に頬を上げた僕は、伊集院くんと一緒に、まるちゃんの背中を押して、この目に毒な…体育館を逃げる様に後にした。
いつもそうだ…
君は、僕の目の前で…誰かにアイコンタクトを取って、誰かにキスを贈って、誰かを探して、誰かに声を掛ける。
そんな…君が、僕は大嫌いだ…
顔も見たくないよ、さようなら…僕の、幼馴染だった人。
「春ちゃん、マット…何に使うの…?」
そう尋ねて来たまるちゃんは、僕を見下ろして首を傾げた。
「あのね、実は…模型部は、秋の文化祭に向けて…一大プロジェクトをスタートさせたんだ!ふふっ!きっと…まるちゃんは楽しいと思うよ?」
そう…ちいちゃんと違って。
ムフムフ笑う僕を見下ろしたまるちゃんは、目じりを下げてクスクス笑って言った。
「それは…楽しみだね。」
「むふぅ~~!まるちゃぁん!」
「あぁっ!春氏!よすでござる…!!」
可愛いまるちゃんの笑顔に…僕の理性は吹っ飛んだ。
迷わずまるちゃんの背中に乗った僕は、彼の汗だくの髪に顔を埋めて、バーサーカーの様に匂いを嗅ぎまくった。
すぐに、馬鹿力を見せた伊集院くんによって…引きずり降ろされたけど…常軌を逸した僕の醜態に、まるちゃんは身を強張らせていた。
「はぁはぁ…まるちゃんの笑顔は、100万ボルトだ…!僕の理性をヒューズの様に吹っ飛ばしていく!」
肩で息をした僕は、まるちゃんから視線を逸らして、深く深呼吸をした。
中庭の緑は、乱雑に伸びきってる…誰も、庭の手入れなんてしないからだ…
真夏のカンカン照りの中…小鳥も来やしない学校の中庭を凝視しながら、僕は魅力的なまるちゃんに本能を揺さぶられない様に、必死に気を逸らして歩いた。
恋に踊らされた僕は、気が付いたんだ。
このウェーブはすぐに収まるって…気付いた。
本能に体を支配される瞬間があるんだ。その波を乗り切れば…何とか、激しい激情をやり過ごせる。
つまり、これらをコントロールする術を手に入れれば…僕は、理性を失わずに…我を忘れずに、もっと、まるちゃんと、普通に…一緒に居られる。
「はい。1枚で良いの…?もうひとつ、持って来ようか…?」
「も、もう1枚…欲しいな…」
ウェーブを乗り切った僕は、もじもじしながらまるちゃんにそう言った。そして、再び…目に毒な体育館へと、彼と一緒に戻った。
「良いの…?練習中でしょ…?」
まるちゃんを横目にそう言うと、彼は僕を見下ろして首を傾げて言った。
「…良いんだ。だって、俺は次の試合だから…」
俺…だって…!
ぐふ、ぐふふふ!!
「ねえ、春ちゃん…夏休みは、忙しいの…?」
「…へ?もちのロンさ!お盆休みと土日以外は、大忙しになる事、間違いなしだ!ねえ、まるちゃん?楽しみにしててね…?僕は、これに…全力を費やすから…!」
まるちゃんを見上げて僕はそう言った。そして、目じりを下げて微笑む彼を見つめて、同じ様に目じりを下げてにっこりと微笑んだ。
「…まるちゃん、もうすぐ試合だから、あんまり遊んでんなよ…」
ちいちゃんは、体育館へ戻ったまるちゃんにすぐにそう言った。
他の人がそうした様に…まるで、僕の事なんて見えないみたいに…まるちゃんにだけ、そう、話しかけた。
「…まるちゃん、僕、ひとりで持って行けるよ。ありがとう…助かった!」
「もうひとつ手伝ったら…すぐにダッシュで戻って来るんで…すみません。」
僕の言葉を制する様に、まるちゃんはちいちゃんにそう言った。そして、目を丸くする僕を見下ろして、優しく微笑んで言ったんだ。
「春ちゃん、今度の土曜日…遊園地に行こうか…?」
は…?!
「え?え、え…え…い、いい…行くぅ…!ぜ、ぜぜ…絶対、行くぅっ!」
カクカクと首を揺らした僕は、目の前のまるちゃんの周りに…綺麗な花が沢山見えて、微笑みかけて来る彼の笑顔の周りに…キラキラと光るアンノウンな白い発光体を目撃して、目を大きく見開いた。
彼は…神様の、奇跡だ…!!
「はぁはぁ…はぁはぁ…!!」
胸の奥が高鳴って、激しく動揺した僕は、呼吸をする事もままならない…
まるちゃんはそんな僕に笑顔を向けて、走ってマットを取りに行った。
僕は、ただただ目を点にしたまま、目の前のちいちゃんを見つめて口をパクパクして言った。
「で…で、でで…デートだぁ…!」
「フン…」
彼は僕の感動を一蹴して踵を返してどこかへ行った…
正直、ちいちゃんがどこへ向かおうとも、どうでも良かった。
ただ…まるちゃんにデートに誘われた事実だけが、僕の頭の中をクラクラと揺らして、その後の自分の行動の履歴を、全てあいまいな物にした…
「…土曜日…遊園地…土曜日遊園地…遊園地、土曜日…9時…駅前で、待ち合わせ…はぁはぁ…く、く…9時…!駅前で…!!」
「…もう、春ちゃんは、どうしたんだ!」
まるちゃんと一緒にマットをもう1枚持って模型部に戻った。
でも、僕にはその前後の記憶が良く分からない。どうやってここまで戻って来たのか…その間、まるちゃんと何を話したのかさえ、覚えていないんだ。
ただ…別れ際に彼が言った言葉だけ、忘れてしまわない様に…何度も復唱した。
今度の土曜日…9時に、駅前で待ち合わせをして…一緒に、遊園地へ行く。
「きゃ~~~~~~っ!!」
「なぁんなんだぁ!も、集中できないだろっ!」
後藤君にお尻を引っ叩かれた僕は、そのままマットの上につんのめってゴロゴロと体を転がした。
「あぁ~…もう、春ちゃんは…」
陣内くんの呆れ声を耳に聴きながら、僕の顔を覗き込んで来た南條くんをぼんやりと眺めていた。すると、彼は首を傾げて、2枚並べられたマットの上を指さして言った。
「春ちゃん!なぁ…ここは、海なんだっぺ?」
「そだよ…海だよ…ぐふふ。」
心ここにあらずな僕の返事を聞いた南條くんは、おもむろに自分の鞄から何かを取り出して、僕の目の前に掲げて見せた。
は…?!
「こ…こ、これはっ?!」
それは、1/700スケールの戦艦大和…エッジングパーツがふんだんに船上に付けられた風貌は、まさに…プロの仕上がり…!
「…おらが作った。」
キョトンと首を傾げてそう言った南條くんを見つめた僕は、渾身の咆哮を上げて言った。
「すんげぇぇぇっ!!なぁんだこれぇ!」
僕は勢いよくマットの上から飛び起きて、南條くんの見せてくれた戦艦大和をまじまじと見つめて、ため息を吐いた。
「春ちゃん…エッジングパーツが、えぐい…」
僕と頬を突き合わせてそう言った後藤君は、すっかり武骨ながらに美しい形を見せる南條くんの戦艦モデルに夢中になった。
「あぁ…見て、ここ…とってもリアルだ…」
「ふふ、凄い…ほんと、かっこいい…」
まるで船上に誰かが出て来そうな程に、南條くんの仕上げた大和は…完璧だった。
すっかりメロメロになった僕と後藤君は、べったら漬けを口の中に放り込む南條くんを潤んだ瞳で見つめて、ため息をついて言った。
「…凄い…!」
「おら、船しかつぐんね…。戦艦、船舶、漁船、タイタニック…。どれも、細かい部品と、エッジングパーツが多すぎて、おらの作業は…ここだと出来ねんだ。」
エッジングパーツ…それは金属で出来たパーツの事。
普通のプラモデルはプラスチックで出来ている。
しかし、表面に付ける凹凸、細かな部品…などを、エッジングパーツと呼ばれる金属のパーツで再現させる事がある。
それは、網目だったり、糸ほどに細いパーツだったり、多岐に渡る…
切断する事も、接着する事も、技術の要る代物なんだ。
南條くんの作った大和の様な本格的な戦艦のプラモデルは、戦車のプラモデルとは桁違いに…そのエッジングパーツが多い事で有名。
つまり、南條くんは大穴の黒い馬!ダークホース!一番のプラモデル上級者だったという事だ!
「あ~はっはっは!これは凄い!春ちゃん!海上は南條くんにお任せだな!」
大笑いした後藤君は、南條くんの大和を手に持って机に座った。そして、まじまじと角度を変えながら、じっくり、ゆっくりと、鑑賞し始めてしまった。
「あぁ…僕も、僕も、見たぁい!」
「ん、も…!春ちゃん!マットの上を走らないで欲しいでござる!それがしたちは、レールをどう設置するか…思慮に思慮を重ねているんでござるからね!」
伊集院くんに、怒られた。
でも、こんな素晴らしいプラモデル、見ない訳には行かないよ。
「ね…もしかして、この…先端の、これは…?」
「このプラモデルの中で、いっちゃんこまけえエッジングパーツだぁ…」
クラクラする…
1ミリにも満たない細さのこんなパーツ…
ルーペでも目に嵌めないと、僕には無理だ。
「…南條くん、1/1000…もしくは、1/1200の戦艦を海上に作ってよ…ゴジラを陸海で挟み撃ちしよう…?海にはレジンを使うから…潜水艦を作ってくれたら、一番良い所に置いて、固めてあげる。ね…?作ってよ…」
「…そだなぁ。原子力戦艦でゴジラをおびき寄せても良いっぺな…」
「連合艦隊だな…豪華だ…」
うっとりと瞳を細めた後藤君は、嬉しそうに口元を緩ませた。彼は、同じ様なリアル路線を地で行く…良い仲間を見つけたみたいだ。
「南條くんの大和は圧巻だった!あんなに素晴らしいプラモデル、入賞してもおかしくない!他にも、あのZ旗の三笠を作ってるって言うんだから…脱帽さ。戦艦選びのセンスも気に入った。僕もさぁ…横須賀の三笠に乗った事があるんだけどさぁ~…」
「春ちゃん…千秋君と、どうなった…?」
陣内くんと駅まで帰る途中…彼は、再び僕にちいちゃんの事を聞いて来た。
夕方6時を過ぎたというのに、まだまだ明るい空は赤く色を染める程度で、蒸し暑さも、蝉の鳴き声も…まるで、昼間の様だ。
そんな空を見上げた僕は、隣の陣内くんを横目に見ながら苦笑いをしてこう言った。
「…謝った。でも…駄目だった…」
「…時間を置いて、もう一度謝ってごらん…?」
「ん…もう、良いんだ…」
…元々、気が合う訳じゃない。
住んでる世界も違う。
タイプも違うし、周りに集まる人も、好きな物も、違う。
ただ…幼馴染だっただけだ。
僕は、俯いて、陣内くんにそう言ったっきり、もう…話したくなくなった。
そんな僕を横目に見た彼は、肩を落としてこう言った。
「…高校生になって、彼女が出来て…他人と一緒に居る事の難しさを思い知った…。自分が思っている事は、言葉にしない限り…相手には通じない。」
陣内くんは、ため息を吐きながらそう言った。
その様子は、僕に話している様にも見えるし…自分に言い聞かせている様にも見えた。
「…うん。」
自分が思っている事は、言葉にしない限り…相手には通じない…か。
女の子と付き合うと、達観した物の考え方が出来る様になるんだろうか…
まるで大人の様な教訓を残した陣内くんと別れた僕は、いつもの電車に揺られながら自宅の最寄り駅まで帰った。
僕は…自分の気持ちを、言葉にして…ちいちゃんに伝えて来たさ。
君といると…自分が傷つくと。
何度も、伝えて、彼を傷付けて来た…
だから、僕たちの友情は…悲鳴を上げて壊れてしまった。
陣内くん…
自分の思っている事は、言葉にして伝えてはいけない時もあるみたいだ…。特に、感情的になっている時はね…
電車を降りた僕は、いつもの帰り道を背中を丸めながら歩いて進んだ。
ふと、行く先にちいちゃんを見つけた。笑顔で笑う彼の隣には、柏木さんの姿があった。
ほんの一瞬見ただけなのに、僕の胸は苦しくなって…喉の奥が痛くなった。
いつもそうだ…
君は、僕と居るよりも…他の誰かと居る時の方が、楽しそうだ。
こんなの…慣れてる。
小さい頃から、そうして来た様に…僕は、気が付かない振りをしながらちいちゃんの前を通り過ぎた。
さようなら…僕の幼馴染。
君とは、分かり合えない。
「ただいま…」
「おっかえり!春ちゃん!聞いて?お父さんが…お父さんが…!夏休みに帰って来るのよっ!!ヒャッホ~~イ!」
お母さんは結婚20周年を迎えるというのに、未だにお父さんの事が大好きなんだ。
ご機嫌な気分を料理でも表現している。
まるでクリスマスの様な食卓には、三角の帽子が人数分置かれて、シャンメリーが氷水で冷やされている。
「そうだ…僕、土曜日…まるちゃんと遊園地に行くんだ。」
めでたい雰囲気につられた僕は、お母さんにそう言った。
「まじか…デートじゃん!」
そう…。デートだ…
「でも…嬉しそうじゃないね?」
そう…その理由は自分でも分かってる。
お母さんの言葉に、俯いて首を傾げた僕は、涙をポロリと落として苦笑いをした。
ちいちゃんの…せいだ…
「腋毛を剃って…足の毛を剃れ、そして、腕の毛もつるつるにして行くんだ。顔の毛も剃って、いつキスしても良い様にリップクリームも持って行け!」
お母さんは僕を食卓に座らせてそう言った。そして、後から現れるであろう妹を今か今かと待ちわびる様に、ソワソワし始めた。
バタン!
「なぁんだぁ!今日はクリスマスかよっ!」
男になりたがってる妹は、扉を勢いよく閉めて僕の隣にドガっと座った。すると、前のめりになったお母さんは、ケラケラと笑いながら彼女に言った。
「なっちゃぁん!春ちゃんが!春ちゃんが!土曜日にデートに行くのよっ!まるちゃんと!」
「なぁんだよっ!俺はこの前振られたばっかだぞ!ふっざけんなよっ!」
そんな悪態を吐く妹を窘めたお母さんは、首を傾げたままの僕の顔を覗き込んで、にっこりと笑って言った。
「そうだ!お母さん、明日…今どきの服を買って来てあげる!春ちゃんが一番かわいく見えるファッソンを提案してあげるっ!あ~ふふ!今日は、良い事の連続ね!お父さんも帰って来るって決まったし、春ちゃんのデートと、初キッスも決まった!」
お母さんの言葉に、僕は、愛想笑いしか出来なかった。
まるちゃん…
胸が、苦しいよ…助けてよ。
君の傍にいると…この苦しみを忘れる事が出来る。
優しい君の笑顔が、僕を、癒してくれるんだ…
「ふふ…あんまり…変なのを買って来ないでね…?」
僕がそう言うと、お母さんは僕の髪を撫でて、男前に胸を張って言った。
「おうよっ!」
クリスマスの様な夜ご飯は、それなりに美味しかった。
きっと、離れて暮らすお父さんへの、お母さんの愛がこもってたからだ…
「土曜日…9時…駅前…9時…遊園地…遊園地。」
風呂を済ませて自室にこもった僕は、ベッドに寝転がりながら天井を見つめていた。
そして…何度も、何度も、忘れない様に復唱していた。
土曜日…遊園地…
まるちゃんは、僕がジェットコースターに乗れないと知ったら、つまらないと思うかな…
違う人と来た方が良かったと…思うかな…
「…あの子は、そんな事言わない…」
そう、そんな事…誰も、言わない。
ただ、期待外れな自分を負い目に感じた僕が、勝手に卑屈になっていただけだ。
ちいちゃん…柏木さんには、あんな笑顔を向けるんだ。
優しそうで、楽しそうだった…
そら、そうだ…だって、好きな人と居るんだもの。
小学校では、雪ちゃん…あけみちゃん…遥ちゃん…
中学校では、美咲ちゃん…仁美ちゃん…桃子ちゃん…幸恵ちゃん…
そして高校では、柏木さん…真理ちゃん…
きっと、他にも…ちいちゃんを好きな女の子がいる。
「ねえ…ちいちゃん。」
ふと、体を横にした僕は、彼の部屋に向かって壁を見つめたまま話した。
「…キスって…どうやって、するの…?」
きっと、君は全てを済ませてる。
僕の知らない…あんな事や、こんな事を…誰かと既に済ませてる…
答える筈もない壁に向かってそう呟いた僕は、手のひらで壁を優しく撫でて、最後に思いきり引っ叩いた。
バシン!
…お前なんて…大嫌いだ…
僕の気分を、いつも…台無しにする…
そして、とうとう…土曜日を迎えた。
僕は、お母さんの言いつけ通り、足の毛も、腋毛も、腕の毛も、顔の毛も、全て剃った…。
そして、いつキスしても良い様に…リップクリームをズボンのポケットに入れた。
「はぁ~~~~っ!春ちゃぁ~~~ん!良い?手は繋げ!手だけは…絶対に繋げ!そして、門限は…9時よ!それ以上は、駄目!お泊りなんて…絶対、駄目!」
そんな気合の入ったお母さんの声に背中を押されて、僕は家を出た。
お泊りなんてしない…だって、僕は、男だ…
夜道を歩いていたって、ヤンキーぐらいにしか絡まれない。
お母さんの買って来てくれた服は、いつもより…僕を少しだけ大人っぽく見せた。
白いズボンに…ピンクの大きなシャツ。そして…麦わらのカンカン帽だ。
背中にしょった黒いリュックは、僕の誕生日にちいちゃんがくれた物。
そんな物をお守り代わりに持ってくるなんて…僕は…本当に…
はぁ…
「春ちゃん。」
そんな声に顔を上げた僕は、目の前の彼を見て、満面の笑顔で言った。
「まるちゃぁん!」
彼は、10分前行動の僕よりも先に待ち合わせ場所に着いていた。
デレデレになった顔を気にもしない僕は、私服姿のまるちゃんを下から上へと舐める様に見て言った。
「はぁ~~!カッコいい!!」
困った様に眉を下げたまるちゃんは、僕のカンカン帽を指で弾いて笑って言った。
「可愛いね…」
ズッキュ~~~~~ン!
あぁ…神様!神様!!
カンカン帽を作ってくれて…ありがとう!!
顔を真っ赤にした僕は、ぎこちなく歩きながら、まるちゃんと一緒に改札へ向かった。
ど、どどどどどどどどど…どうしよう…
可愛いねって言われただけで、僕は発作を起こして…死にそうだ。
まだ、宴は始まったばかり…こんな調子では、命がいくつあっても…耐えられそうにないよっ!
郊外へ向かう電車は人もまばらで、僕とまるちゃんは並んで座る事が出来た。
自分の腕に触れるまるちゃんの体の温かさが、僕の胸の鼓動をどんどん早めて行って、彼が体を動かす度に、意味も無く顔を見上げた。
ねえ、楽しい…?
僕と居て、楽しい…?
「…でね、南條くんが凄かったんだぁ…!」
南條くんの戦艦プラモデルの話をした僕に、まるちゃんは目じりを下げてこう言った。
「わぁ…意外だね。あの人は、いつも、たくあんを食べてる印象しかなかったのに…」
ふふ…そうなんだ。
僕も盲点だった。
まさか、彼があんな猛者だったなんて…
まるちゃんを見つめて微笑んだ僕は、カンカン帽を膝の上に置いて、彼の腕にもたれかかった。そして、ブラブラと揺れる吊革を見つめながら言った。
「レジンを大量に使って、海を作るんだ…」
「大がかりだね…」
「その前に、アトランティスを作る。発泡スチロールを削って…表面に白い砂を吹き付けるんだ!宝箱を置いても面白いかもしれない…サンゴ礁からはウツボが顔を覗かせて、トレジャーハンターを狙ってるんだ。」
「ふふ…それは、面白そうだ…」
こんな僕のつまらない話を、笑って聞いてくれる…ツーブロックで陽キャの、手先が器用な…君が、大好き。
僕は、瞳を細めて僕を見下ろすまるちゃんに言った。
「ね、まるちゃんも何か作る?そうだぁ、たぁくんがこの前作ったさぁ…ストロー人間を街の中に置いてみようか…?僕がその周りに…驚いた顔をする人を作って空間を彩ってあげる。それを見つけたら…きっと、たぁくんは喜ぶよ…?ふふっ!」
「春ちゃんを置いて…?」
へ?
僕のカンカン帽を手に持ったまるちゃんは、首を傾げる僕を見つめながら、両手に挟んだ帽子をクルクルと回して言った。
「俺が、すぐ見つけるから。春ちゃんをフィギュアで作って…ジオラマのどこかに置いてよ。」
ズッキュ~~~~~ン!!
「だ、だぁめぇん!そぉんなぁん!」
「なぁんで!はっはっは!」
顔を真っ赤にした僕は、ケラケラ笑うまるちゃんの腕をバシバシ叩きながら悶絶した。
ヤバい…
まるちゃんのパワーワードの破壊力が、僕の想定を超えてる…
まだ遊園地に付いてないのに、僕は既に興奮してる。
そう…ひどく、興奮してるんだ!
電車をいくつか乗り換えた僕たちは…11時過ぎに遊園地へとたどり着いた。
遊園地…
それは、家族連れが訪れる場所…そして、カップルがデートに訪れる場所だ。
ふたり掛けのシートに溢れた…いわば強制的に密着する空間を作りだす…空間の魔術師の様な、ファンタスティックな場所。
数々の猛者たちの血と汗と涙が染みついている…アベックの聖地だ。
よし…やるぞ…
僕は…まるちゃんが乗りたいって言ったら、ジェットコースターに泣かないで乗ろうと決心を付けて、今日…この時まで、イメージトレーニングを続けていた。
絶対に…君をガッカリさせたりしない…
そんな思いを抱きながら、隣を歩くまるちゃんに気付かれない様に、丹田に気合を入れて僕は遊園地の門をくぐった。
「春ちゃん、何に乗りたい…?」
来た…
「ぎゃ~~~~~~~!」
まるちゃんに返答をためらう僕の頭の上を、ジェットコースターに乗った人の叫び声が通り過ぎて行った…
「ジェ…ジェットコースター…かな?」
首を傾げた僕は、遠くの観覧車を見つめながらまるちゃんにそう言った。すると、彼はクスクス笑って、僕に手を差し出して言った。
「ふふ…そっか…じゃ、一度どんな乗り物があるのか…見て回ろう?」
ホッ…
「う、うん!」
僕は、まるちゃんの手を迷う事無く握って、笑顔でそう答えた。
大きな手…
この手は、たぁくんを抱っこして…バスケットをする。そして…陣内くんの作った難解なロボットのパーツを見事に組み立てる事の出来る…素敵な手なんだ。
「ま、まるちゃんの手が好き!」
極まった僕は、思わず、彼を見上げてそう言った。すると、まるちゃんは目じりを下げて、首を傾げてこう聞いて来た。
「手…だけ?」
ズッキュ~~~~~ン!!
「んな訳、無いやろが~~~い!僕は、まるちゃんの全部が大好きなんだぁ!」
人目も憚らず、僕は…ハッスルしてそう言った…
ここには、伊集院くんも、陣内くんも…ちいちゃんも居ない。
つまり、ハッスルする僕を止めてくれる人が誰も居ないんだ。
理性を失った僕は、両手で抱き付いたまるちゃんにスリスリと何度も頬ずりして、必死に自分の匂いを擦り付け始めた。
そんな僕を見た家族連れが、子供を遠くに避けて進んでも…カップルがヒソヒソ話をして通り過ぎて行っても…僕は止まらなかった。
「ふはは!春ちゃんは、本当…可愛らしいね?」
ケラケラ笑ってそう言ったまるちゃんの笑顔と、言葉を聞いた僕は、ハッスルを通り越して…すっかり、ドロドロに惚けて、大人しくなった。
僕は、そっとまるちゃんを解放した。そして、彼の手を再び握り直して一緒に歩き始めた。
恋は人をおかしくする…そして、興奮を通り越した人は…首から上が熱くなって…何も考えられなくなるみたいだ…。
ただ、繋いだ手だけが…僕の目に映って、自分の隣に君がいる事を教えてくれた。
「これなら、乗れそう…?」
楽しそうな子供の笑い声が聞こえるアトラクション前で、まるちゃんは首を傾げて僕を見下ろした。
すぐに僕は、彼の指さした空を飛ぶ象を見つめて、首を傾げて言った。
「…乗れそう。」
ギリギリ…セーフだ…
彼と一緒に水色の象に座った僕は、安全ベルトを硬く結んで、ガチガチに体を強張らせた。すると、まるちゃんは、僕の頭からカンカン帽を取って、膝に置きながら僕の手を握ってくれた。
そして、僕の顔を覗き込みながら、優しく微笑んで言ってくれた。
「春ちゃん、怖くないよ…?」
あぁ…神様…この瞬間を僕にくれて、ありがとう…!!
「うん…。僕、こ、怖くないよぉ…ははは!」
ブザーが鳴って、象が高くまで上がって行くと、僕の金の玉がヒュンと縮み上がった。すると、まるちゃんは自分で操作出来るレバーを使って、一番低い位置まで象を下ろしてくれた。
優しい…どえりゃあ、優しい男だ…
「まるちゃん…ありがとう…」
僕が俯いてそう言うと、まるちゃんはにっこり笑って繋いだ手を優しく揺らした。
子供用の乗り物のせいか…密着する範囲が多いね?
僕は、すっかり君の体温に当てられて…頭の中がぼーっとしてしまった。
まるで服を着ていないみたいに…君の体温が僕の体に伝わって来るんだ。
神様…象の乗り物を作ってくれて、ありがとうございます…。
お陰で、僕は、天国に近い…まるちゃんの傍で、既に、死にかけてる!
胸の動悸は治まる所か、高い位置をキープしたまま、心臓を強く跳ねさせているんだ。
「…まるちゃん、何食べる?」
「ん~…焼きそば…」
「じゃあ…僕は、ラーメンにしよ~…」
いくつかの子供用アトラクションを楽しんだ僕たちは、お昼ご飯を取りにフードコートにやって来た。隣でお店の看板を見上げるまるちゃんは、すっかり僕に慣れた様子で、自然体の姿を見せてくれる。
僕と君…年齢はひとつだけ君の方が下だけど、こうしてふたりで遊ぶと、そんな事忘れてしまうよ。
そんな風に感じてるのは、僕だけじゃないだろ…?
まるちゃん…
「…焼きそばには、紅ショウガだと思ってた。」
そんな僕の言葉に首を傾げたまるちゃんは、ニヤニヤ笑いながら、意気揚々と焼きそばに黒コショウを掛けて言った。
「美味しいんだよ?ほら、食べてごらんよ。」
ぐふっ!
首を傾げたまるちゃんが、箸に掴んで差し出して来た焼きそばを見つめた僕は、惚けた頭を瞬時に奮い起こして、思いきり口を開いて食らい付いて行った。
「んがぁっ!」
「うおっ!」
驚いたまるちゃんが体を退いても、僕は彼の箸に食らい付いて、思う存分、箸の先の焼きそばを啜って食べた。
ほほ~!お恵みじゃあ!お恵みじゃあ!
「ぐほっ!か、辛い…!ごほっ!ごほっ!」
ガッツくのは…僕の悪い癖の様だ。
黒コショウの沢山乗った焼きそばが、辛くない訳がなかった…
我を忘れた僕は、そんな簡単な事すら分からなくなってしまったみたいだ。
まるちゃんは慌てた様子で、僕の背中をさすってお水を口に運んでくれた。そして、眉毛を一気に下に下げて、申し訳なさそうにこう言った。
「ごめん、忘れてた…。春ちゃん、俺、激辛好きだった…」
な、なぁんだって?!
新しく…君の情報を更新したよ、まるちゃん。
右手の親指にほくろがあって、手先が器用で、ツーブロック…そして、たぁくんという年の離れた弟がいて、激辛が好き…
謝るのが当然な程に、まるちゃんが僕に勧めた焼きそばは、殺人級の辛さを極めていた。
「ん、ごほ…ごほ!まるちゃぁん…激辛だよ…!こんなの食べれるなんて、舌が死んでる!」
「ぷっ!ははっ!あっはっはっは!」
顔を真っ赤にして大笑いするまるちゃんを見つめた僕は、咳き込んで流れた涙を拭いながらクスクス笑って言った。
「じゃあ…今度、蒙古タンメンを食べに行こうか?」
「良いね…ふふ。でも、春ちゃんは食べきれないだろうね…」
意地悪にそう言って笑ったまるちゃんは、あの激辛の焼きそばをケロリと啜って食べて見せた。そんな様子に僕は目を丸くして、頬を膨らませてこう言った。
「食べれる~!」
「どうかな…」
「ん、食べれる~!」
あぁ…ふふ、めっちゃ、楽しい!
恋は人をおかしくする…そして、それは、いつまでも続く様だ…
まるちゃん…
君に出会ってからずいぶん経ったし、それなりに僕たちは仲良くなって来たよね。
それなのに、僕は、未だに君に胸を撃ち抜かれ続けてる…
君の可愛い笑顔を見ると、僕は天にも昇る様な幸せを感じてしまうんだ。
そして、居るのかも分からない…どこかの神様に、トンチンカンな祈りを捧げてしまう。
ねえ…ちいちゃん
君も…柏木さんにこんな気持ちになるの…?
今までの彼女にも…こんなメロメロな気持ちを抱いて来たの?
まるちゃんと繋ぐ手が、とっても心地良いんだ。
「ほんとに…?」
「うん!僕は…乗れる!」
この子と一緒に居ると、僕は少しだけ強くなれる…
だって、あんなに怖がっていたジェットコースターに乗る事が出来たんだよ?
…凄いだろ?
あの、僕が…ジェットコースターに乗ったんだ。
それは、生まれて初めての恐怖だった。
でも、隣にまるちゃんがいてくれたから…僕は、いつもより…少しだけ強くなれた。
ちいちゃん、君も…そうなの…?
柏木さんと居ると、君も…強くなれるの…?
「はぁはぁ…はぁはぁ…!!」
僕はヨレヨレになりながらジェットコースターの降り口を逃げる様に駆け降りた。そんな僕の後ろを、大笑いしながらまるちゃんが付いて来て、僕に笑顔でこう言ってくれた。
「ふっははは!頑張ったね?春ちゃん!んふふふ!」
あのばっきゃろのジェットコースターは…普通の恐怖マシンじゃない。なんと、僕を乗せて…1回転したんだ…!
信じられない!
「…ま、ま、まるちゃぁん!僕は…僕は、ジェットコースターを克服したぁ!」
ゲラゲラ大笑いするまるちゃんに息も絶え絶えにそう言った僕は、大好きな彼にしがみ付いて頬をスリスリさせた。
これがあるから…頑張れたんだ。
まるちゃん、君がいてくれたから…僕は、少しだけ強くなれた。
あんなやさぐれた怖い3年生にも立ち向かえたし、見たくない、ちいちゃんの居る体育館にも行けた。
もっと、遡って言えば…君が、僕の目の前で陣内くんのロボットを組み上げた時から…僕は、強くなれていた。
だって、君を探す為に…僕は、慣れない勧誘活動に精を出したんだ。
全て…君がいてくれたから、出来た事。
全て…君がいてくれたから、変われた事。
「最後に観覧車に乗ろうか…?春ちゃん。」
「うん、乗る~!」
僕は、まるちゃんと一緒に紫色の観覧車に乗った。
あんなに楽しそうに笑っていた子供たちは、まだ帰りたくないと所々で泣いては親を困らせている。そんなのお構いなしに空は茜色に染まって、家路を急ぐ眼下の人たちを赤く染めていた。
「わぁ…まるちゃん。見てごらん?人がゴミの様だよ?」
「ふふっ!きっと、ラピュータの雷が落ちるよ。」
「あ~はっはっはっは!!」
こんなニッチな会話、君と出来ると思わなかった。
やっぱり、君は、オタクの魂を持った…陽キャなんだ。
「ねえ、春ちゃん…?」
「なあに?」
僕たちの乗った観覧車がてっぺんに届く頃、まるちゃんは僕の顔を覗き込みながら首を傾げて聞いて来た。
「千秋先輩とは、どんな関係なの?」
「ん?ちいちゃんは…僕の家の隣に住んでる。赤ちゃんの頃からお隣同士だ。」
まるちゃんの顔を見つめてそう答えた僕は、肩をすくめて、こう付け足した。
「でも…この前、とても怒らせてしまった。彼は、僕の顔を見たくなくなったそうだ。」
その瞬間、まるちゃんの眉がピクリと動いて、僕を上目遣いに伺って見つめた。そんな彼の視線を見つめ返した僕は、視線を窓の外に向けて言った。
「…お前の顔なんて見たくない。目の前から消えろ…。初めにそう言ったのは、僕だ。ほら、彼は人気者だからさ、そんな彼と仲良くなりたい人は、いつも必ずおまけの様に付いてまわる僕の存在が、嫌だったんだ。だから、しょっちゅう嫌がらせをされて、とても、嫌な思いをした。」
「だから、この前…あんなに泣いていたの…?」
声を落としたまるちゃんを横目に見た僕は、眉を顰めた彼を見つめてにっこり微笑んで言った。
「あれは…僕の早とちりだった…。重なったんだ。昔された嫌がらせに…。でも、蓋を開けてみれば…今回の嫌がらせは、まるちゃんにちょっかいを出した真理ちゃんの仕業だった。」
「ねえ、春ちゃん。どうして…千秋先輩の取り巻きには、あんな風にバットを持って立ち向かわなかったんだろうね…?ふふ…あの時の春ちゃんは、めちゃくちゃ格好良かったのに。」
そんなまるちゃんの言葉に顔を真っ赤にした僕は、もじもじしながら言った。
「え、え~…カッコよかったのぉ~!も~!も、も~!」
ま、まるちゃんに…カッコ良いだなんて…褒められたぁ…
僕は、デレデレと鼻の下を伸ばして、目の前で首を傾げるまるちゃんを見つめた。すると、彼は口元を緩めて、僕にこう言った。
「…千秋先輩の時は、怒る前に…とっても傷付いちゃったのかもしれないね…?」
あぁ…そうなのかな…
思わずクスクス笑った僕は、首を傾げて僕を見つめるまるちゃんに瞳を細めて言った。
「そうだよ…まるちゃん。僕は、彼の傍にいると、無駄に傷付くんだ。だから、ずっと…ちいちゃんから離れたかった。」
ずっと傍に居てくれると思っていたのに…僕を置いて行った。
女の子とキスして、笑って、楽しそうに…こんなデートを繰り返して、やる事を済ませて、何も失う事無く、僕の隣に戻って来て…しらじらしく、笑いかけて来る…
「僕は、彼が、大嫌いなんだ…」
そう呟いた僕の頬を撫でたまるちゃんは、そっと僕の唇にキスをした。
ボッ…!
あわ…あわあわあわあわ…
「あ…あわあわ…」
顎が外れたみたいに口をガクガクさせた僕は、顔を熱くしながら目を点にした。
そして、目の前のまるちゃんを見つめたまま、おもむろにポケットに入れたリップクリームを取り出して唇に塗って言った。
「キ…キスする?」
「もう、した…」
はぁ~~~~~~!!
顔を赤くするまるちゃんを見つめながら、僕は、彼の唇が触れた自分の唇を舌なめずりして舐めた。
スースーする舌先に、動揺して塗り過ぎたリップクリームが、彼の味を消してしまった気がした。
それが悔しかったのかな…
僕は、身を乗り出して、彼の膝に両手を着いたんだ。そして、まるちゃんの顔を覗き込みながらこう言った。
「…ねえ、まるちゃん…もう一回、しても良い…?」
そんな僕に、まるちゃんは、瞳を細めて首を傾げて言った。
「…良いよ。」
そっと触れて来た、彼の唇は、とっても柔らかかった…
「ぐふっ!」
僕は、雪見大福以上の柔らかさを、人生で初めて、体感してしまった…
「わぁ…楽しかったね。春ちゃん。今度は水族館へ行こうか…」
クラクラになりながら観覧車を下りた僕は、どうやってここまで歩いて来たのかもあいまいだ。
遊園地の出口を出た僕は、さっきの事なんて、何も無かった様に普通に話しかけてくるまるちゃんを見上げて、首を傾げて聞いた。
「ここは…僕の夢の中かな?」
「…?いいや、多分…現実だよ。」
そうか…これは、現実なのか…
来た時と同じ様に電車に揺られながら、来た時よりも少し混雑した電車の中で、隣に立って外を見つめ続けるまるちゃんを横目に見て、心の中で彼に聞いてみた。
まるちゃん…君は、男の僕と、キスをしたよ…
それってどういう事なの…?
付き合ってるとか…両想いとか…そう、思っても良いのかな。
それとも、友情の延長で、何となくしたキスだったの…?
誰にでもチュッチュする…外人みたいに。
「春ちゃん、ジオラマの高低差はどのくらい出すの…?」
ふと、まるちゃんが僕を横目に見てそう尋ねて来た。
そんな彼の問いかけに、僕は、首を傾げながら手を動かして教えてあげた。
「2畳分の大きさにするんだ。眼下には海があるから、こう…向こうから勾配を付けて…海まで抉ってく。海抜0を超えて水中まで再現するから、結構勾配はきついよ。150センチは欲しいね…。大変だけど、正面から見たら…きっと、圧巻さ!」
「ふふっ!それは…発泡スチロールで作るの…?とっても、楽しそうだ…」
ニコニコと笑ったまるちゃんがそう言うから、僕はムッと頬を膨らませて言った。
「だぁから、まるちゃんは模型部に入ったら良かったんだぁ!」
「ははは!確かにそうだ!」
そうさ…
でも、そうしたら、模型部は壊滅するだろう…
部長の僕が、君に…ぼんくらになってしまうからね。
まるちゃんは僕の家の最寄り駅で、僕と一緒に改札を出た。…彼の家は、学校のある駅にあるのに…だ。
「まるちゃん?一緒に帰るの…?」
僕は、隣を歩いて進むまるちゃんを見上げてそう尋ねた。すると、彼は僕を見下ろしてこう言った。
「…送るんだ。」
ズッキュ~~~~~ン!!
山崎円くん、君は、なんて…男前なんだ!!
何度撃ち抜かれたか分からない胸を蘇生させた僕は、まるちゃんを見上げたままデレデレと鼻の下を伸ばした。そして、彼が差し出した手を握り返して、グデグデに甘ったれて言った。
「やっさしい~!まるちゃぁんってば、やっさしぃ~い!」
まるちゃんは僕をマンションの下まで送ってくれた。
そんな彼の背中が見えなくなるまで、僕は手を振った。
…楽しかった。
デートは、とても…楽しかった。
でも、
まるちゃん、どうして僕にキスしたの…?
僕たちは、どういう関係になったの…?
そんなモヤモヤが残った。
そして、陣内君の言った言葉が妙に身に染みた。
自分が思っている事は、言葉にしない限り…相手には通じない。
一理ある…
僕も少しは、大人になった様だ。
マンションに入った僕は、エレベーターに乗って自分の家のある5階まで上がった。そして、外から丸見えの廊下を歩きながら、暗くなった空を見上げてため息をひとつ吐いた。
「…ちょっと、千秋、どこ行くの?!」
そんなお母さんの声と共に、僕の目の前で、ちいちゃんの家の玄関が思いきり開いた。
僕に気付きもしない彼は、玄関から、部屋の奥のお母さんに向かってこう言った。
「うるっせえな…!」
親にパンツを洗って貰ってる癖に…親の作ったご飯をモリモリ食べてる癖に…悪態を吐くなんて馬鹿なクソガキでしかない。
呆れた僕は、彼の思いきり開いた玄関のドアを片手で軽く押さえて、何も言わずにその場を通り過ぎた。
そして、自分の家の鍵を開いて、僕を横目に見るちいちゃんを無視してそのまま家の中へと入った。
…君が、お母さんにそんな悪い言葉を使う奴だと、思わなかった。
軽蔑するよ。
扶養家族の癖に…自分が見えていないなんて、馬鹿なやつ。