プロローグ 『襲撃―ターニング・ポイント』
望むと望まざるとにかかわらず、どんな人間にも自分の将来にかかわる人生の転機ってのがいくつか存在する。それは知らぬ間に借金の連帯保証人にされたばかりに全財産を失ったことかもしれないし、テレビドラマでお決まりの名台詞を声高に叫びながら信念を貫く銀行員の姿に胸を打たれたことかもしれない。いずれにせよ、それはまるでそういうお約束であるかのように何の前触れもなくやってくるもので、転機に直面したとき、人は否応なく人生の岐路に立たされる。
さて、一人の少年の話をしよう。この時点ではごく普通の少年の話だ。
え? 顔も見せずに急に語りだしたお前は何者なのかって? いやいや、僕のことなんてどうでもいいのさ。本当に。だって僕は彼が自分で語らない彼自身の物語をお節介でみんなにベラベラしゃべるだけの存在なのだから。どうしても僕という存在が何なのかを知りたいなら…そうだな。名前だけ教えよう。僕は自分勝手な代弁者。さすがに本名は勘弁してね。僕にも、君たちの世界でいうところの……そう、プライバシーってものがあるのだから。
前置きはこの辺にして、少年の話に入ろうか。
この物語を読んでいるみんなは、家から出た直後に不審者に出くわしたとしたら、どうする?
おそらくこの世を生きるほとんどの人にとって仮定の上での話に過ぎないこの問いに、運悪く現実の問題として直面してしまったところから、彼の物語は始まる。
「え?」
彼が両親から送り出され、家を出発した直後――家の前にある通りを進んでいる時、彼の視界に「それ」は急に入り込んだ。
ああ、そういえば先に言っておかないとね。少年の名は大山海斗。平々凡々とまでは言わないが、至って普通な名前の、至って普通の高校生。左右の目の色が違う――いわゆるオッドアイの持ち主であることを除いて、彼あるいは彼の人生に取り立てて語るべきことはない。
そんな彼の前に現れ、非日常を届けたのはフード付きのマントを身に着けた人物だった。
その登場は、まさに「唐突」としか言いようがなかった。曲がり角の向こうからからやって来るでもなく、後ろから声をかけるでもなく、海斗の前方五メートル辺りの何もない空間にいきなりその姿を現したのさ。まるでワープでもしてきたかのようにね。
「……えっと…」
あまりに非現実的な光景に思わず海斗の足が止まる。急に現れた不審者検定一級間違いなしの何者かは、フードを深く被っており、わずかに口元が見えるだけでその表情までは確認できない。体もマントで覆い隠されているため体型も分からず、海斗には目の前にいるのが男か女かも判別がつかない。
「……」
困ったことに、不審者は目の前に現れた割に何のアクションも起こさない。ただ何かを見定めるように海斗をじっと見つめているだけだった。用があるなら話しかけてくれよ――とは思うものの、不審者に気さくに挨拶できるほどのメンタリティを持ち合わせない海斗としては困惑しながら不審者の様子を窺うことしかできないよね。
しかしこの後三年通った高校の卒業式に出席する予定の海斗には不審者が話しかけてくるのをいつまでも待っているだけの時間はない。二十秒ほど待った後、彼は嫌々ながらも意を決し、不審者に一歩近づいたわけだけど――
「あの、俺に何――」
『爆ぜよ紅炎』
海斗が口を開いた瞬間、不審者は右腕を真っすぐ海斗に向けて伸ばし、聞きなれない単語を呟いた。すると――
「は……?」
不審者の伸ばした右手――開いた掌の先に赤い球体のようなものが出現する。
無論、この時点で誰もが認める一般人たる海斗には不審者が何をしているかなんて分かるわけもない。
しかしここで彼が人並みに漫画やアニメ、ゲームといった娯楽を楽しむ経験を持っていたことが幸いする――つまり、経験則と本能で彼はこれが『攻撃』であることを理解した。
そしてその直感に違わず、赤い球は出てきた次の瞬間、真っすぐに海斗の方へ向かって飛んできた。
「うわっ……!」
小学生の投げるドッジボールの球くらいの速さだったとはいえ、わずか数メートルの至近距離で放たれたそれを躱すことができたのは極めて幸運だったと言えるだろう。
しかし彼の持っていたスクールバッグは残念ながら運を持ち合わせておらず、赤い球が直撃してしまった。鞄に徳を積めというのも酷な話だし、これについては致し方なかったというしかないね。
そしてバッグがどうなったについては――結論から言うと、バッグの持ち手より下は完全に消失した。正確には焼失した、というべきかな。
「……嘘、だろ…」
真っ黒に焼け焦げ、煙が上がっている持ち手の先を見て、海斗は赤い球の正体を確信する。
そう。炎だ。不審者改め襲撃者は真っ赤に燃える火球を海斗に向かって放ったのさ。
もしこれがバッグではなく自分に当たっていたとしたら――海斗に戦慄が走る。海斗の体は防火仕様でもなければ難燃性でもない。当たれば無論即死さ。しかし問題はそれに尽きない。なんたって海斗には自分が出合い頭に殺されかける理由がさっぱり分からないからね。
「……おい、あんた誰なんだ! 何でこんなことするんだよ!」
理由の説明の一つもなくいきなり攻撃された海斗としては、極めて真っ当な主張なんだけど、襲撃者は問いかけに対し応答はしなかった。代わりに再び右手を海斗に向ける。
「お、おいちょっと待――」
『爆ぜよ紅炎』
再び、襲撃者の右手から火球が放たれた。今度は直観ではなく来ると分かっていた海斗はこの攻撃も辛うじて躱すことに成功する。しかし、今度は彼の斜め後ろにあった家の塀が一部焼けて溶け落ちた。コンクリート製の塀すら易々と溶かすほどの熱量――海斗の冷や汗は止まらない。
「ふん、よく躱す。魔法は初見だろうに――やはり貴様はここで殺さねばならんな」
「あぁ……!?」
ここに来て、襲撃者が初めて言葉を発しする。だけどその声はまるでひどいノイズがかかっているかのように不鮮明で、声を聴いてなお性別すら判然としない。わかりやすい例えで言うなら、ボイスチェンジャーを使っているような声だった。そしてさらに問題なのは、海斗には襲撃者が話していること自体全く意味が理解できないということ。
「だから何で俺が殺されなきゃならねえんだって! 理由くらい言えよ!」
「貴様が知る必要はない。黙って死ね」
海斗は何とか襲撃者から話を聞き出そうとしたけど、それは全くの徒労に終わる。こいつは有無を言わさず自分を殺す気だ――もはや話し合いでの解決は完全に不可能と悟った海斗は、襲撃者に背を向け逃げ出した。だけど――
「逃がさん――圧し留めよ!」
「――ッ!?」
襲撃者が左手を上に掲げ、またも妙な呪文のような言葉を唱えた途端、海斗は一歩たりとも動くことができなくなっていた。それどころか、体が重すぎて立っていることすらできない――まるで地面から引っ張られているかのように、海斗はまるで許しを請う罪人のように両手両膝を地面に着いた姿勢になる。
「重っ…! な…んだよ、これ……!」
「まったく情けない話だ。魔法も使えん獲物に領域魔法まで使わされるとはな」
小さくため息をついた襲撃者は、ゆっくりと海斗の正面に回り込み――そして三度、右手を海斗の方へ向けた。
「だがこれで詰みだ――終われ、災厄の使徒」
「……っ…!」
また火球で攻撃される――分かってはいるものの、動きが封じられた海斗に、もはや成す術はない。
せめて痛みが一瞬で終わりますように――そう願いながら、海斗は目をつぶった。
そんな姿に憐憫の情の一つも覚えることのないまま、襲撃者は海斗を見下ろす。そして――
「爆ぜよ紅炎」
命を刈り取る呪文を無感情に唱えた。だけど次の瞬間――
「「流れよ波濤!」」
「―――!!」
二つの声が、死の運命に待ったをかける。
さらに声が響くと同時に、跪く海斗の後方から、二本の水の槍が飛び出した。一本は襲撃者が生み出した火球へ、もう一本は襲撃者本人へ――それぞれ火球の数倍ものスピードで迫る。
「チッ…!」
襲撃者は小さく舌打ちし、その場から飛び退く。
それにより襲撃者を狙った水の槍は標的を捉えることなく地面に激突するも、もう一本は狙いを過たず火球と正面からぶつかり、それを打ち消すことに成功した。
「なんだ……!?」
襲撃者が飛び退くと同時に謎の重圧から解放された海斗は起き上がり、今しがた声がした方に顔を向ける。そこにいたのは――
「父さん…!? 母さん……!?」
そう。そこにいたのは、彼がよく知った顔――海斗の父と、母だった。
「無事か! 母さん!」
こちらを睨みつける襲撃者から目を逸らさないまま、海斗の父は鋭い声で息子の様子を母に尋ねる。
「ケガはないわ! すぐにここから移動する!」
応じた母の声も、海斗が知るおっとりとした様子からは想像もできないほど力強い。
いつもとは全く違う両親のやり取りを、海斗は呆然と見つめることしかできなかったが、やがてハッと我に返り、すぐ近くにいた母に慌てて顔を向けた。
「母さん――」
「立って海斗! 走るよ!」
「え!? あ、ちょっと……!」
一体これはどういうことなのか――それを尋ねる間もなく、母は海斗の手を引き不審者とは逆の方向へ走り出した。
「……ちょっ…母さん速っ…!」
母は海斗も驚くほどの速さで普段は静かな住宅街を駆け抜けていく。中学高校と六年間運動部で部活に励んだ海斗でもついていくのがやっとだった。おかげで海斗は聞きたいことは山ほどあるのに母とはろくに話すこともできなかった。
結局海斗と彼の母は家から二キロほど離れたほとんど遊具のない公園までずっと走り続け――そこでようやく足を止めた。
「……ふぅ」
「…はぁ……はぁ………はぁ……」
二キロをほぼ全速力で駆け抜けたにもかかわらず、ほとんど母は息を切らしていない。一方の海斗は息も切れ切れだったが、息を整えるのもそこそこに母に詰め寄った。
「説明してくれ! さっきの一体何!? あいつは一体誰なんだ!?」
今まさに殺されかけていた海斗は涙ながらに母に説明を求めた。だが母は海斗の質問を無視し、目をつぶって何かを考えこんでいた。ややあって、母は目を開けると、海斗に真っすぐ向き合った。
「ごめんね海斗。聞きたいことが山ほどあるのは分かるけど、それに答えている時間はないの」
「えぇ…!? なんで!」
「さっきのあいつがすぐここに来るから。本当に悪いけど、父さんと母さんじゃあいつは止められない。だから海斗はここから逃げて」
「そんな……訳わかんねえよ母さん! そもそも逃げるったってどこにいけば…!」
「ここじゃない世界よ。今からあなたをそこに送る」
「はぁ!? 一体何言って―っておい!」
母は再び海斗を無視して一方的に会話を打ち切ると、懐から取り出した紙のようなもの地面に広げ始めた。
ろくな説明もないまま一方的に進む話に海斗は混乱の極みに達していたが、母は地面に広げた五メートル四方程度の紙にこれまた懐から取り出した絵筆のようなもので真剣に何かを書き込んでおり、とても邪魔できるような雰囲気ではない。結局頭の中に浮かぶ様々な疑問を飲み込んで、海斗は母の作業を見守った。
数分後、母紙に何かを書き込む作業をやめ、顔を上げた。
「海斗。ここに立って」
母が紙の上を指差す。訝しみながらも海斗は母に従い広げられた紙の上へ進み、足元を確認した。
「魔法陣……?」
紙に描かれていたのはファンタジーゲームや漫画などでよく見た魔法陣だった。円の外側に何やら海斗の知らない文字のようなものが刻まれ、中央に星――六芒星が描かれている。まさに彼が見た創作の世界における魔法陣そのものである。
「なあ母さん。これは――」
「そこからあなたを異世界に飛ばす――ルクスマギアという国に繋がるはずよ」
母の口から飛び出たのは、全く知らない国の名前だった。
「ルクス……何だって?」
「ルクスマギア。そこに魔法士団って組織がある。そこを頼って」
「いや、頼れっつってもさ――」
次々に飛び出す聞きなれない単語に顔をしかめ、海斗はふと公園の入り口に海斗は顔を向ける。
そしてそこで、海斗の表情が固まった。
息子の異変を即座に感じ取った母も同じ方向へ目を向け――もう来たか、と歯ぎしりする。
いつの間にか、そこにはあのフード姿の襲撃者が立っていた。つい先ほど味わった恐怖を思い出し、思わず海斗は魔法陣から出そうになるが――
「そこにいて!」
母の鋭い一喝により、何とか踏みとどまった。しかし襲撃者は既にこちらへ歩み始めている。
「……転移陣か。とうの昔に廃れた魔法と認識していたが」
襲撃者は興味深げに呟きつつも、ゆっくりと近づいてくる。
それに対し、海斗の母も海斗との間に割り込む形で立ちはだかる。この時既に彼女はとある『覚悟』を表情に滲ませていたけど、それを海斗が窺うことはできなかった。
襲撃者は母の妨害の意思を感じ取りつつも、悠然とその距離を詰め、最初に海斗の目の前に現れたときと同じく、距離五メートルの辺りでその足を止めた。
「転移陣はまだ発動していないな。ならば一度だけ機会をくれてやる――女、そこをどけ。私は貴様の命には興味がない」
右手を伸ばし、襲撃者はそう言った。断ればどうなるか――言外に含めた意味には当然、母も気づいている。しかしそれでもなお、母は決然と言い放った。
「この子は私の息子だよ。どこの誰だろうと絶対に渡さない」
「そうか。ならば死ぬ前にこれを見ておけ」
母の返答は襲撃者の予想通りだったようで、そのことに対しこれといった反応を見せることはなかった。代わりに襲撃者は、右手を伸ばしたまま、左手をマントの内側に滑り込ませ、取り出した『それ』を母の足元に転がす。
二人のやり取りを固唾を飲んで見ていた海斗の視界にも『それ』は入ってきた。『それ』は真っ黒になっていたが、その特徴的な形は海斗と彼の母に否応なく一つのものを想起させた。
――これは、人の頭によく似ている。
そう気づいたとき、ようやく海斗は思い出した。
海斗と母があの場所から逃げたとき、一人だけはその場に残っていた。それにもかかわらず襲撃者がこの公園にいるということは、その残った人物に何かがあったという証左に他ならない。つまり真っ黒な『それ』の正体は――
「……よくも、あの人を…っ…!」
「ウソだろ…そんな…!」
――母は怒り、息子は涙を流した。一気に膨れあがる感情が脳を満たし、理性を奪う。
そうして生じた隙を、襲撃者は見逃さなかった。
「貫け炎槍」
あっという間だった。襲撃者の右手から伸びた炎の槍は、一瞬で母の胸を貫いた。
「あ――」
「母さん!」
炎の槍はすぐに消えた。が、既に致命傷だった。母は心臓を焼かれ、膝から崩れ落ちた。
「夫婦揃って哀れなことだ。災厄の使徒ごときのためにその命を散らすとは」
言葉とは裏腹に、侮蔑を露にして襲撃者は嘲笑した。そして母の遺体には目もくれず、そのまま右手を海斗の方に向ける。
「貴様も両親の後を追うがいい。安心しろ。苦痛など感じる暇もない」
「……この野郎、よくも父さんと母さんを…!」
両親を嘲笑われた少年の目には先ほどまでの恐怖はなく、怒りが渦巻いている。しかしこの襲撃者を前に何の対抗手段も持たないことに変わりはなかった。
おそらく数秒後、自分は死んでいるだろう。
だが、それでも――こいつをせめて一度でもぶん殴ってやらねばとても両親に顔向けできない!
数秒先の未来のことなど知ったことではないと言わんばかりに、怒りのまま海斗が姿勢を低くする。
そして襲撃者へ突進しようとした――まさにその瞬間。
「来たれ神波!!」
突如海斗の目の前に、津波と見まごうほどの巨大な波が顕れ、襲撃者へ殺到した。
抵抗する間もなく波は襲撃者を絡め捕り――そしてそのまま球形へと姿を変えて空中に固定され、巨大な水の牢獄と化した。
「これ、は――」
この水を操る不思議な術は、先ほど海斗の両親が見せた『水の槍』の上位版というべきものだろう。ならばこれを行ったのは――
「母さん!」
心臓を貫かれ、絶命したはずの海斗の母がいつの間にか魔法陣のすぐそばまで来ていた。
しかし体力は尽きかけているらしく、這いずった姿勢のまま、口からは大量の血を吐き出していた。
「母さん……母さん!!」
慌てて海斗が母へ駆け寄ろうとする――しかし母はそれを手で制止した。
「もう……そこから動いちゃダメって言ったでしょ…たまには、言うこと聞きなさい…」
力なく笑い、そして母はそのままゆっくりと魔法陣へ近づき、辿り着くと――短く呪文を唱えた。
「光あれ」
呪文を唱えると同時に、海斗の足元の魔法陣が白く光りだした。光はすぐに強さを増し、あっという間に目も眩むほどの輝きとなる。
「これは――母さん!」
「大丈夫。そのままじっとしてて――次に気が付いたら、もう終わってるから」
「でも……でも母さんも一緒に行かないと――!」
何とか母も魔法陣の中へ入れようと、海斗は必死に手を伸ばす。しかし見えない壁に阻まれ、母にその手は届かない。
「ごめんね…母さんとは……ここでお別れ。あ、と……は…あなた、一人で……」
「無理だ! 俺一人で生きるなんて無理だって! 母さん! 母さん!」
「だ…いじょ…うぶ……よ。きっ…と……じまん……のむすこ……だもの……」
白い輝きはどんどん強くなり、ついに母の姿すらも光の中に消えていく。そして海斗の意識も、もはや絶たれる寸前だった。
それでも海斗は、最後の一瞬まで傍にいようと、母のいる方へ手を伸ばし続けた。
やがて意識の最後の一欠片が光に包まれ、闇の中に落ちるその瞬間。彼が最後に見たのは―――
―――どこまでも優しく、どこまでも暖かい両親の笑顔だった。