起
僕が住んでいるのは、アパートの一階にある部屋だ。二階以上には設置されているベランダがない代わりに、小さな庭となっている部分があり、僕はそれをとても気に入っていた。
本来ならば、ただ土が敷き詰められているだけのスペースだが、僕のところは違う。庭の半分くらいに、植物が植えられているのだ。以前の住人が残していったものらしく、下見の際に不動産屋は、
「この部屋だけ、ちょっと庭が手狭ですが……」
と、たいそう恐縮したような態度を示していた。もしかしたら、交渉次第では、家賃を値引きしてもらえたのかもしれない。
でも僕は、自分の部屋にだけ花が咲いている、という点に特別感を覚えて、規定の賃貸料のまま、契約したのだった。
特別感といえば。
ちょうど、今の時期に咲いているアジサイだ。
漢字で『紫陽花』と書かれるように、アジサイは紫色の花なのだが、ものによっては赤紫っぽい『紫』だったり、青に近い『紫』だったりするようだ。
その点、うちのアジサイは、手前が赤っぽくて、奥側が青っぽい。見事なグラデーションを形成していた。
もしも『グラデーション』ではなく、はっきりと赤と青に分かれているのであれば、それぞれ違う株が同じ茂みに植えられたのだ、と思ったかもしれない。でも明確な境目が存在しない以上、そうではないはず。どういう理屈か知らないが、このようなアジサイが自分の庭にあるというだけで、僕は優越感に浸ってしまうのだった。
「どうだい。ちょっとした見ものだろう?」
部屋を訪れた友人に、誇らしげにアジサイを見せる。
そんな僕に対して、彼が少し眉をひそめたのは、まるで可愛い子供やペットを自慢されたみたいな気持ちになったのだろうか。
それでも、僕の言葉は止まらなかった。
「確か下見の時も、このアジサイは咲いていてね。気のせいかもしれないけど、その時は、こんなグラデーションではなく、普通に一色のアジサイだったと思うんだ」
それほど「僕だけ」と感じてしまう、特別なアジサイなのだ。このアジサイに、僕は強く歓迎されているのだ。
そういうつもりで、ますます胸を張ったのだが……。
友人の顔が、いっそう険しくなる。
「その下見の時って、まだ前の住人が出ていったばかりだろ?」
「はっきりとは聞いていないけど、おそらく、そうだろうね。それが何か?」
友人の質問に答えてから、逆に僕の方からも尋ねてみる。いったい彼は何を気にしているのか、不思議に思ったのだ。
すると友人は、
「よく、そんな平気な顔してられるな……。悪いけど、俺はもう帰るぜ」
と言って、逃げるような勢いで、立ち去ってしまう。
残された僕は、ぽかんとするばかりだった。