宵闇
現在の時間軸に戻りました。
騒動の後処理にかなりの時間を取られてしまい、僕がマーベル邸を訪れたのは夕方と言うよりも夜と言った方がいいくらいの時間になってしまっていた。
早くリリアに会いたい。
昼休みのあの時、怖かったんだろう。
リリアは泣いていた。
すぐに追いかけて抱きしめて、涙を拭ってあげたかったけれど、リリアを守るため、僕はあの場を離れることができなかった。
会ったらまず抱きしめよう。
大きくなってからは照れがあってなかなかできなかったけれど、今ならできる気がする。
びっくりさせてしまうだろうか。でも構わない。
それから、昼休みに怖い思いをさせてしまったことを誠心誠意、謝ろう。
急ぎ入口の扉をノックする。
コンコンコン
いつもならノックをする前に、リリアがかわいらしく微笑みながら扉を開けてくれる。
ところが今夜は普通にノックできてしまった。
昼にあれだけのことがあったんだ。リリアだって疲れているだろう。
いつもと同じにはできないだろう。
そうは思うが…。
僕は何処となく違和感を感じながらも、中からの反応を待った。
ガチャリ
ゆっくりと扉が開かれて、現れたのは憔悴した表情を浮かべたリックだった。
どうした?そう言おうとしたが、僕より先にリックが口を開いた。
「なんでこんなことになったんだよ…」
僕は状況が掴めず、ただただリックの顔を見つめる。リックの目から涙が溢れた。
「…何があった?」
そう尋ねると、リックは無言のまま視線で僕に中へと入るよう促した。
それに従って中に入ると、リックはそのまま僕を案内するように歩き出した。
胸騒ぎがする。
「リリアは?」
先ほどから一番気になっていることを前を歩くリックに尋ねてみる。
それに対しても、やはりリックは答えなかった。
リリアとリックに会うために、僕は幼い頃から何度となくこの屋敷を訪れている。
そのため、ここの屋敷に務める使用人たちは僕に対して畏まりすぎた態度は取らないでいてくれた。
歩いていく途中、見知った侍女たちを見かけた。気付いて僕に会釈をしてくれたが、彼女たちも普段とは異なる雰囲気を纏っているように見える。
リックは階段を上って、右側に歩いて行く。
そちら側はリリアの部屋のある方だ。
胸騒ぎがして怖くてたまらない。
リックは部屋の前で立ち止まると、僕を振り返り静かに言った。
「リリアが家を出て行った」
あまりのことに言葉が出てこなかった。
心臓が早鐘を打つ。
なぜ?リリアはここにいるはずなのに。
家を出た?どうして…。
リックは主のいない部屋の扉をノックなしに開けると、奥の方へと歩いて行く。
その様子をぼんやりとした気持ちで見ていたために扉が閉まりかけてきたので、慌てて僕もそれに続いた。
部屋はいつもと何も変わらないはずなのに酷く寂しく見えた。
「手紙がこの机の上に置いてあったんだ。まずは読んでほしい」
「わかった」
受け取った封筒の宛名は『フィリオ様』となっていた。
「それから、これを見てほしい」
リックに話しかけられて、読もうとしている手紙から一旦顔を上げる。
彼は机の上から、細いリボンで纏められた糸のようなものを大切そうに両手で持ち上げて、僕に見せてくれた。
このリボンには見覚えがあった。
そして、遠目には上等な糸のように見えるもの。長くてとても美しい色合いの糸。
いや、これは糸じゃない。
この青みがかった美しい黒を僕が忘れるわけがなかった。
リリアの髪だ。
これがここにあることの意味に思い当たって、僕は目の前が真っ暗になった。
リリアは、もうここには帰らない覚悟で家を出たのだ。
僕の考えていることがわかったのか、リックは目を伏せた。
そして、リリアの髪を静かに机の上に置くと、今度は小さな何かを右手で摘み上げた。
「手紙の上に、これも置いてあった」
リックの手のひらの上に載っていたのは、僕が以前「いつも身につけていてね」と言って、リリアに贈った指輪だった。
リリアには言っていなかったけど、この指輪には僕が波長を合わせると現在地が分かる魔法がかけてあった。
さらに波長を合わせれば、使用者の喜怒哀楽の感情を知ることもできる。
もし恐怖などの感情をキャッチした場合は、さらにもっと波長を合わせて周囲の音声を拾うこともできた。
僕が近くにいない時でもリリアを危険から守れるように。
髪にはリリアの気配が残っている。それを指輪が勘違いした。
リリアが図らずも髪と一緒に指輪を置いていったことによって、僕はリリアの位置を正確に把握できないでいたのだ。
全然、守れてないじゃないか…。
リックはソファを指し示して言った。
「そこに座るといいよ。座って手紙を読んで。それで読み終わったら、今日何があったのかを教えてほしい」
僕は頷いて、ソファに移動した。
幼い頃、かくれんぼをすると、あの裏にリリアはよく隠れていた。
僕が覗くと、リリアは決まってキラキラした目で見上げてきた。
見つけられてしまったというのに、それは嬉しそうに。
かわいくてかわいくて仕方がなかった。
今も隠れていたらいいのに。
そう思ってソファの裏を覗いてみたけど、そこには薄闇が広がっているだけだった。
「父上と母上が今、心当たりを探している」
リックの言葉に頷いて、僕は手紙を読み始めた。