黒い影
もう少し過去の話です。
僕は見慣れた扉の前に立ち、右手をゆるく握った。
そして、さあノックしよう、と手を後ろに引くと…。
カチャリという音と共に扉が開かれて、いつものようにリリアがぴょこっとかわいい顔を覗かせた。
「リリア、確認もなく扉を開いてはいけないよ。いつも言ってるでしょう。もしも僕じゃなくて悪い奴だったらどうするの?」
「ごめんなさい。でも、ちゃんとフィリオ様だって分かっているから開けたのよ」
しゅんとしながらも、かわいいことを言ってくるリリアに、注意をしている立場なのを忘れて頬が緩んでしまう。
「それにね。もし悪い人だった場合は、これで撃退しようと思うの」
そう言うリリアの右手人差し指の先には、ささやかな炎が見えた。
僕は堪らず、ふふっと笑ってしまった。
「こんなにかわいらしい炎だと、悪い奴が吸おうとしてるタバコに火を点けてあげるくらいしかできないんじゃない?」
リリアは炎に向かってフッと息を吹きかけて消した。
「そうかあ。学園に入って最初に覚えた魔法なの。習った時、これを護身用にしたらいいって思い付いて。名案だと思ったのになあ。しょうがない、他の対策を考えなきゃ…」
僕は少し方向性の違う回答を導き出したリリアの頭に手を乗せて、少し屈んで視線を合わせた。
「コラコラ。撃退対策を考えるより先に、誰なのかも確認しないで扉を開けないってことを約束してくださいね」
「はーい、分かりました」
リリアはとびっきりの笑顔を見せてくれた。
僕は今日、マーベル公爵家に来ている。
リリアはここまでのやり取りを仕切り直しするように、優雅なお辞儀をした。
「どうぞ中へ。いらっしゃいませ、フィリオ様」
僕も姿勢を正して答えた。
「うん。お邪魔するよ、リリア」
屋敷の中に通してもらう。
「今日はまず、お兄様とお話があるんですよね?」
「そうなんだ。早くリリアとお茶をしたいのはやまやまなんだけど…」
リリアはふふっと笑って言った。
「そんな…。大丈夫ですよ?ありがとうございます。お待ちしてますね。お兄様はサロンの方にいらっしゃるから、今、呼んで参りますね。しばらくこちらでお待ちくださいませ」
そう言って、サロンの方に向かいかけたリリアの腕を、僕はそっと掴んだ。
すると、リリアはこちらに振り返った。
「大丈夫。直接僕がサロンに向かうよ」
小さい頃から数え切れないほど訪れているので、この屋敷のことで知らないことはないような気がしているくらいだ。
部屋の位置も、もちろん正確に把握しているのだった。
「分かりました。では、お話が終わった頃にまた。どうぞ、ごゆっくり」
リリアは柔らかく笑って、ペコリと頭を下げた。
「うん、またあとでね」
僕も笑顔で応じた。
サロンに入ると、リックがソファに座っているのが見えた。
難しそうな表情を浮かべて腕組みをしている。
「リック、来たよ」
僕が声を掛けると、リックは立ち上がった。
「フィリオ、出迎えをするつもりだったのに申し訳ない」
そう言うと、本当に申し訳なさそうに頭を下げた。
「いや、別にいいよ。そんな風に頭を下げないで。おかげでリリアと楽しく過ごせたから」
僕は手をひらひらさせる。顔はもちろん笑顔だ。
「リリアか」
「うん?」
「いや、執事が出迎えたなら、僕に声がかけられたはずだなと思って。まだ子どもっぽいところがあるからね」
「いやいや。リリアはちゃんとしていたよ。僕を出迎えてくれて、リックを呼びに行こうとしていたしね。それを僕が呼び止めて、自分で行くから大丈夫だよって言ったんだ。リックとの話を早く終わらせて、リリアと少しでも早く一緒に過ごしたいからね」
リリアが確認なしに扉を開けたことは、あえて伏せておく。そして、出迎え方法に問題がなかったことを伝えた。
彼女が怒られるのは本意じゃないからね。リックだってリリアには相当甘いから、それほど怒られたりしないにしても。
実際、リリアは令嬢として恥ずかしくない振る舞いを身に付けていた。
確認せずに扉を開けたことを注意したものの、僕だと分かって毎回開けてくれていることも知っていた。
マーベル公爵家の執事の話によると、どこかの窓から僕が屋敷の敷地内に入ってきたことを確認して、そっと耳を済ませて扉の前に待機しているのだそうだ。
「そうか。それならよかったけど」
「というわけで、本題に入ろう」
僕がそう言うと、リックはソファに座ることを勧めてくれた。
2人で向かい合って座る。
マーベル公爵家のサロンにあるソファはとても座り心地が良い。
「あまり、いい話じゃないんだろう?」
リックは静かに頷いた。
「そうなんだ。調べているうちに、もしかしたら…と思うことがあって。学園内で話すのは憚られることだから、フィリオに我が家まで来てもらったんだ」
僕は頷いて、話の続きを待った。
「ローレンヌの親衛隊の暴走の件で、この前、誰かが禁忌の魔法を使っているんじゃないかって話になったよね。だから黒幕を探すことにして、フィリオが先生方に協力をお願いしてくれただろう?」
「うん。人心を操る闇魔法を使うには、かなりの魔力量が必要になるからね。そこから黒幕の正体が掴めそうだから、生徒には本来開示されていない個別の魔力量を教えてもらえるように頼んだ。それで、該当者は何人いた?」
リックは首を横に振った。
「いなかったんだ。正確に言うと、あんなに短期間に何度も使えるような人物はいなかった」
「そうなのか…。魔法学の授業に出ている生徒の中に、黒幕はいなかったわけだね。少しだけホッとしたよ」
全校生徒の中で魔力を持っている生徒だけが受ける必要のある魔法学の授業は、学年に関係なく合同で行われている。
今年度でいうと15名ほど。
他の年度もだいたい同じくらいの人数で推移している。
人数がそれほど多くない魔法学クラスの生徒同士は仲良くなる傾向にあった。
魔力を持っているということは、人生において利点とも難点ともなる可能性がある。
同じ力を持つものにしか分かち合えない思いを共有できる仲間がいることが、どれほど心強いことか。
そういうこともあって、魔法学クラスは全学年合同で編成されているのだ。
「たしかにね。あの中に黒幕がいると考えると、暗い気持ちになる」
リックは一旦話を切り、紅茶を飲んだ。
「魔力量で言うと、それこそフィリオか僕かリリアくらい持っていないとできないらしいんだ。とにかく回数が多すぎる」
「そんなに必要なのか。リリアは自分では引き出せないからいいとして。僕も使ってないから除外して、じゃあリック。君が黒幕だったのかい?」
「それはこちらのセリフだよ。フィリオ、まさか王太子の君が…」
2人で顔を見合わせて、笑う。
もちろん、僕もリックもリリアも黒幕ではない。
リックはソファに座り直してから、身を前に乗り出した。
「それで、ある可能性が出てきたんだ。先生にはもちろん言ってない。完全な僕の推測だから、フィリオに初めて話すんだけど…」
僕も身を前に乗り出して、リックと顔の距離を近づけた。
「黒の丸薬を使っている生徒がいるんじゃないかって」
それを聞いて僕は驚いた。黒の丸薬なんて…。
「黒の丸薬って、あの黒の丸薬だよね。まさか…」
「父上から聞いたんだ。どうやら貴族社会で最近、黒の丸薬に関する不穏な噂が出ていると」
「それはたしかに。僕も陛下から聞かされているよ。でも、あれを使っている生徒がいるなんて。考えたくないことだ…」
「たしかに。ただ僕たちはあれのことを知っているから恐ろしいものだと分かるけど、その人物が知らなければ、夢の薬だと思うかもしれない」
黒の丸薬とは、飲むと魔力を持っていない者でも魔法が使えるようになるという、まさしく魔法の薬だ。
どこかの国で作り出されたものなのだが、じわりじわりとその他の国々に広がっていったため、精製元がもはや分からないことになっている。
作成者はもちろん、この薬の本当の姿を知っていたからこそ、自らの正体を隠したのだろう。
この薬は、たしかに魔法を使えるようになる。だが、その代償に飲んだ人間を蝕むのだ。
それは肉体であったり、精神であったり様々に。
最初に広がった頃、たくさんの国々で犠牲者が出たと聞いている。
そのため、今では買うことも売ることも飲むことも禁止されているはずなのだが…。
当時を知らない人が増えたからなのか、最近になってまた、広がってきているという噂があるのだった。