リリアの決意
「あとで話がある」とフィリオ様は言っていた。
あの声の冷たさから考えても、決して良い話ではないだろうと思う。
良い話ではなくて、あの場では言えないようなこと。
それはもう「婚約の解消」以外にないのではないか。
7年前にはお役に立てた私だけど、今となっては…。
ラルゴ様が言うところの「邪悪で陰険な女」を婚約者にしておくことなど、百害あって一利なしだと思う。
いずれそう遠くない未来に、フィリオ様が人生を共に歩きたいと思える方を見つけてそうなっていたのだろうから、婚約解消自体には何も異議を申し立てるつもりはない。
そもそも申し立てられる立場ではない。
けれど、今のような“私の評判が地に落ちたことに伴う婚約解消”は全く想定していないことだった。
このままでは、お父様やお母様、お兄様にもご迷惑をおかけすることになってしまうだろう。
どうしよう。
そんなことになったら私は…。
心がどんどん沈み込んでいく。深い方へと、より暗い方へと。
そうしているうちに、ある言葉が私の頭に浮かんできたのだった。
それは、ラルゴ様があの時私に言おうとしていた言葉。
「最低の人間なんだよ、お前は。フィリオ様、そして俺たちの前から“消えろ”」
消えろ 消えろ 消えろ…
繰り返し繰り返し、その言葉が頭の中に響く。
そうね、私は消えた方がいいんだ。
フィリオ様のためにも、家族のためにも。
それがこれから起ころうとしてる事態の、何よりの解決策に思えた。
フィリオ様は「あとで」と言っていたのだから、これから何時間か後にはうちの屋敷にいらっしゃるだろうと思う。
フィリオ様は私のことを妹のように思っていてくれたのだと思う。これまでにたくさん可愛がってもらった。
お兄様が2人いるみたいで、いつも楽しかった。
時折、私のことをリリィと呼ぶことがあった。
表向きは婚約者なので、関係を深めるためのお茶会の時間が月に2度ほど設けられていたのだけど、そういった2人きりで過ごす時などに呼んでくれていた。
フィリオ様だけに呼ばれる私の愛称。
私はこの愛称がとても好きだった。
仮の関係とは分かっていても、まるで本当に愛されているかのように感じられて嬉しかった。
だけど、今のこんな私はフィリオ様の前に出られるはずがない。
フィリオ様の中には、「妹のリリア」も「リリィ」も、もういないのだから。
いらっしゃる前に出ていかなければ。
そうと決めて、私はこの気持ちが萎まないうちに行動を開始した。
鏡の前に立って三つ編みを解くと、その長い髪にハサミを入れる。
腰くらいまであった髪はバッサリと、肩につくかつかないかの辺りまで切ってしまった。
貴族の令嬢は髪を伸ばすのが常識なので、こうすることにより公爵家の令嬢であることを辞めるという決意が伝わると思ったし、私の未練も断ち切れるような気がした。
切った髪のうちの一房は以前フィリオ様に褒めてもらったこともあるお気に入りのリボンで結び、机の上に置く。
その他の部分は、紐を使って一纏めにして袋に入れた。
以前お兄様と街に行った時に、きれいな髪の毛は買い取ってもらえることを聞いたのだ。
家を出て1人きりで生活しなければならないのだから、いくらかでもお金は必要になる。
修道院に入るとしても、この王都からは遠く離れた街のところに入ろうと思っていた。
フィリオ様の幸せを願っているけれど、未来のお妃様と並んで立つ姿を見るのはあまりにもつらいから。
それに、こんな私のような存在が近くにあるのもよくないと思えた。
そして、旅支度に取り掛かった。
何を持っていくか。
女性が1人でこの王都を出た上に長い旅をすることは、かなりの危険を伴うだろうと思われる。
髪も短くなったことだし、ここは男性を装うことにしよう。
方向性が決まったので持っていく荷物を手早く選んでいく。
クローゼットを覗くと、いいものが見つかった。
もうお兄様が着れなくなった街歩き時の変装用のお古があったのだ。
幸いなことに何かに加工しようと思ってもらっておいたものだが、よかった。
試しに着てみると、髪の長さも相まって男の子にしか見えない。これなら街の中にうまく溶け込めると思った。
着た服の他に数枚を選び、鞄に詰めていく。
帽子も顔を隠すのに使えるので持っていくことにした。
荷造りを終えてから、手紙を書いた。
フィリオ様と家族に宛てて。
どうか、私の想いが届きますように。
最後に右の薬指にしていた指輪を外して、机に置いた手紙の上に置く。
フィリオ様から「お守りに」と言って、いただいたものだ。
いつも着けていたから、今の何も着けていない指が不自然に感じてしまう。
しばらく指輪を見つめていると、学校から持って帰ってきて机の上に置いていた手提げの中から本がパタリと音を立ててこぼれ出てきた。
なんとなく、この本を持っていくことにする。
部屋をぐるりと見回してみる。
あのソファの後ろ。あそこは幼い頃にかくれんぼでよく使っていたなあ。
フィリオ様がひょいと覗いて私を見つけてくれるのだ。
その様子を見上げるのが好きで、何回かに1度はあそこに隠れた。
あの窓からは表の門がよく見える。
フィリオ様がうちにいらっしゃる日には、嬉しくて朝から何度も外を眺めていた。
そこかしこに思い出があった。
こんな形でここを去る日が来るなんて…。
泣きそうになったけど、ぐっと堪える。
そして、先ほど屋敷に入った時に使った秘密のルートを逆方向に辿って、私は家を出た。
ここでリリア視点は一旦終わり、視点が変わります。