陽だまり
フィリオ様があれほど怒っているのを、私は今までに見たことがない。
フィリオ様は穏やかで優しくて、陽だまりのような人だ。
それがあのように怒り、さらにその感情が自分に向けられているのだと思うと、胸が潰れるようだった。
悲しい、辛い、苦しい…
がむしゃらに走っているうち、気付けば私は自分の屋敷の近くまで来てしまっていた。
授業をボイコットしてしまうなんて。
けれど今から学校に戻る気持ちには、全くなれなかった。
とは言っても。
こんな中途半端な時間に帰ったら、きっとお母様も使用人たちもみんな驚いてしまうことだろう。
「お腹が痛くて早退したの」と言ってみようか、とも思ったけれど。
手に持っているのはお弁当箱と本が入っている小さな手提げだけ。
カバンも持たずに帰ってくるなんて、不自然すぎる。
教室に置いたまま帰ってきてしまうなど、まずないことだ。
何よりものすごく泣きはらした目をしているのだから、何かがあったのだと容易に分かってしまうだろう。心配させてしまう。
どうしたものかと考えて、思い付いた。
いつもお兄様と街へ出る時に、こっそり使っている秘密のルートで自分の部屋に入ることにしよう。
思いきり泣いたおかげで、周りのことを少し考えられるくらいには冷静になれていてよかったと思う。
誰もいないことを確かめてから、裏門を静かに開けて敷地内に入る。
キョロキョロと辺りの様子を窺いながら素早く移動。
当然見回りの目はあるので、見つからないように木の影に隠れたり、屈んだり、壁に体をピタリとつけたりしてやり過ごす。
私の部屋は2階にあるのだけれど、近くに生えている木の枝を伝うとバルコニーから中に入ることが可能なのだ。
こんなこと普通の令嬢ならできないだろうけど、私は小さな頃から兄とフィリオ様と一緒にだいぶヤンチャな遊び方をしてきたので、それが出来てしまうのだった。
お兄様との街散策時の他に、思わぬところで役に立ったな。
ふいにフィリオ様のことを思い浮かべてしまったので、またズキリと胸が痛む。
バルコニーから問題なく部屋の中に入ると、手提げを机の上に置き、あとはそのままベッドの上に前から倒れ込んだ。
寝具からは陽だまりの匂いがした。
このまま何も考えずに眠ってしまえたら、どんなにいいだろう。目をそっと閉じてみる。
まぶたの裏には、さきほどのフィリオ様の後ろ姿が浮かんだ。
あのようなフィリオ様の声、今までに一度も聞いたことがない。
本当に冷たくて、声に怒りが滲み出ていた。
フィリオ様との出会いはお兄様が8歳、私が7歳になった頃。
王太子の遊び相手になってほしいと陛下から直接頼まれた父が、私たちを連れて王宮へと出向いたことによる。
フィリオ様とお兄様は同い年ということもあって話が合い、すぐに打ち解けた。
お兄様のおまけの私も早い段階で打ち解けることができて、可愛がってもらうようになった。
3人で、ほとんど毎日と言っていいほどたくさん遊んだ。
私たちが王宮に出向く時もあれば、フィリオ様がうちにお越しになることもあった。
楽しくて、たくさん笑った。
2人から揶揄われて泣いてしまったこともあったけど、いつでも最後には必ず笑っていた。
あの日々の思い出は、生涯忘れることのない宝物だと思う。
そんな毎日に変化があったのはフィリオ様が10歳になって、そろそろ婚約者を決めなければならなくなった時だった。
候補者と会うのに私たちと遊んでいた時間が充てられたため、これまでのような頻度でフィリオ様と会うことができなくなったのだ。
とてもとても寂しかった。
そして、会えなくなって3週間目のこと。
お父様からお部屋に呼ばれて、
「リリアがフィリオ様の婚約者に決まったよ」と言われたのだった。
突然のことに私が驚いていると、お父様が説明してくれた。
そもそも世間には知らされていないけれど、フィリオ様と私は仮の婚約関係なのだ。
今までは自由に過ごしていた時間が削られて、毎日たくさんの婚約者候補と会わなければならないことに疲れ果てたフィリオ様は、幼なじみであり公爵家の娘である私を表向きの婚約者とすることで、その日々から解放されたという経緯があるのだ。
今は顔合わせを面倒だと思ってしまうような調子でも、年頃になれば、フィリオ様ご自身が想いを寄せる女性が現れるだろう。
その時に何の文句を言うこともなく、身を引ける人物が必要だったのだ。
婚約者に決まった日のことは、今でもはっきりと思い出せる。
あの日の天気、あの時に私が着ていた服、髪型、お父様の服までも覚えているくらいだ。
お父様のお話が終わって、時間を置くことなくフィリオ様はうちの屋敷へとやって来た。
いつもはお兄様と3人で過ごすところだけど、その日は初めて2人きりでお茶をすることになった。
紅茶の香りとお菓子の甘い香り。
午後の柔らかな日差しの中で3週間ぶりに見るフィリオ様は、あまりにも格好良すぎて、眩しかった。
その上、
「リリア、愛しの婚約者殿。会いたかったよ」
「ほのかな、花のような良い香りがするんだよ、リリアは」
などと、まるで本当の婚約者に言うような甘い言葉を私にかけるものだから、とうとう直視できなくなってしまった。
それで視線を外すと、今度は私の右手をそっと握った。
「リリア、僕との婚約は嫌だった?」
「え…?そんなこと、ないです。絶対に」
問いかけの内容に驚いて視線を戻しながら答えた私に、フィリオ様は微笑んで「よかった」と言った。
その微笑みがとても優しくて、心地良くて。
まるで陽だまりの中にいるみたいだなと私は思っていた。
いつの日か解消されるのは分かっている。悲しいけれど、それは仕方のないこと。
でも、それまでは隣にいることができる。
お役に立つこともできる。
この心地良い陽だまりの中にいることができる。
仮であっても出会った頃からフィリオ様のことをお慕いしていた私にとっては、天から贈り物をもらったみたいに嬉しいことだった。
更新が夜中になってしまいました。眠い時間です。