番外編:結付(3)
「ううん、これはお父様のではないの。ルシウス先生からいただいたんです」
私の返答に対して、お兄様は意外だというような顔をした。
「へえ、ルシウス先生から。職業柄、手に入れられたのかな?これ貴重な本なんだよ」
お兄様が手を伸ばしてきたので、私は「どうぞ」と言って持ってきた本を渡した。
「懐かしいな。そうそう、この花の刺繍。確かに父上の持っているものと同じだね」
お兄様は本を左手に持ち替えると、右手の人差し指で表紙にある花の刺繍をなぞり始めた。
輪郭を正しく辿っていく指先を見ていると、お兄様が決して“見えているフリ“をしているわけではないことが分かる。
私はルシウス先生から教えてもらったあの話を、いよいよお兄様にしてみる。
おそらくお兄様は…。
「お兄様、実はね。その刺繍は“ある条件を満たした人“にしか見えないそうなの」
言ってから、お兄様の様子を注意深く見守る。
すると右の眉が、ほんの一瞬、少しだけ動いた。よく見ていなかったら気付かないくらい、微かな変化だ。
やはりお兄様は知っている。
私の言葉を聞いて一呼吸おいてから、お兄様は刺繍を指で辿るのを止めた。
そして、本の表紙に向けていた視線を私の顔へと移す。
「それは…。ルシウス先生から聞いたの?」
私は小さく頷いてから、お兄様の顔を真っすぐに見た。
感情を抑えて平静を保つようにしているけれど、間違いなく動揺はしている。
そんな表情をしていた。
「ルシウス先生から聞いた時、冗談だと思ったの最初は。こんなにはっきりとあるものが見えないなんて、どうしてそんな突拍子もないことを言うんだろうって思った。小さな頃、何度もお兄様と一緒にこの本を眺めたわ。その時から私には刺繍が見えていたし、お兄様にも見えていない様子はなかったから。だって、2人でこの本のことを“花の刺繍の本“って呼んでいたんだもの。この本にはタイトルが書いていなかったから。だけどね。改めて考えてみると思い当たる節があったの。私とお兄様とお父様以外は…。お母様も屋敷で働いているみんなも、この本のことを“紺色の本“って、そう呼んでいたって」
ジョアンお父様は学者だった。
学者というと研究室に篭って机に向き合い続ける…というイメージを抱いてしまうけれど、真逆で研究のためにいつも忙しく各地を飛び回っていたという。
その旅にはライラお母様も同行することがよくあった。
とても旅慣れていた2人は身軽であることを好んでいて、物をあまり持たなかったようだ。
自分たちの余分なものを増やさない代わりに、得たお金は屋敷で働く使用人や領民たちのために使っていたという。
私はまだその頃幼くて、ジョアンお父様とライラお母様がまわりからどのように思われていたかを知らない。
だから、大きくなってからお父様に「2人はとても尊敬されていたよ」と教えてもらった時、誇らしい気持ちになったものだ。
でも、その性分のせいで。
私の手元には、2人を思い浮かべられるような物が何も残らなかった。
幼かった私は時折、2人の気配を探して泣いてしまうことがあった。
そんな時に、お父様が思い付いたように執務室の書棚から出してきて「ジョアンが子どもの頃から好きだったんだよ」と言って見せてくれたのが花の刺繍の本だったのだ。
花の刺繍の本は、ライラお母様も持っていた。
好きで、あの視察の時にも持って行ったくらいに大切にしていた。
ライラお母様が「お父様と私を結び付けてくれたのよ」と言っていた本でもあった。
お父様は「寂しくなったら、この本を見るといい。2人のことを思い出せるだろう。大切な本だから書棚にしまっておくけれど、いつでも取りにおいで」と言ってくれた。
それから「これはね。僕とジョアンのお祖母様、リリアとリックからは曽祖母様のものなんだよ。まだ字は読めないと思うけれど、この花の刺繍がきれいだろう?僕とジョアンもリリアくらいの小さな頃から、よく眺めていたものだよ」と教えてくれた。
リックお兄様は私の相手をよくしてくれていたので、私が「花の刺繍の本を見たい」と言うと、それにも付き合ってくれていた。
まだ字も読めないので、ただ表紙を眺めたり、パラパラとページをめくったりするだけの時間。
私にとってはジョアンお父様とライラお母様を感じられる時間だったけれど、リックお兄様にとっては退屈な時間だったのではないかしら。
それでも、いつも何も言わず、お兄様はニコニコと微笑んで私のことを見てくれていたように思う。
大切な本と聞いているので、本を眺めた後はそのままにせず、必ず書棚に戻していた。
自分たちで書棚に戻すこともあったし、執事のイーノックやお母様が戻してくれることもあった。
『サイラス様の書棚に戻しておきますよ。この“紺色の本“を』
『ほらほら。おやつを食べながらはダメよ。お父様の大切な本だからね。私が“紺色の本“を戻しておくから、2人はおやつを食べていていいわよ』
お兄様は何も言わない。
答えるつもりがないわけではなく、何を私に話すべきなのか、そういうことを考えているように見える。
私にとってどうすることが一番良いことなのか。きっとそんなことを。
お兄様は優しいから。
知ることは、私にとって負担になることなのかもしれない。
でも私は知りたい。だから、話を先に進めた。
「秘術を使う民のこと…。お兄様は知っている?」
私の言葉に、お兄様は目を瞠った。
先ほどまでとは打って変わって、はっきりと動揺を表情に出している。
そして、少し焦ったような声で言った。
「リリアごめん。休んでいてと言ったけれど、今から僕と一緒に父上のところに行ってほしい」
コンコンコン
私がお兄様に返事をしようとしたところで、部屋の扉がノックされた。
お兄様に向けて言うはずだった言葉を、扉の向こうの誰かに言う。
少し大きめな声を出した。扉越しでも聞こえるように。
「はい」
カチャリ
私達は、お兄様が部屋を出て行こうとしたところで私が呼び止めて、立ち話をしていた。
そのため扉との位置関係としては、お兄様が扉に背を向け、私はお兄様越しに扉を見ている形だった。
それなのに、気付けば私からはお兄様の背中だけが見える状態になっていた。
あっという間の出来事に驚く。
扉の向こうの誰かがドアノブに手を掛けた音を合図に、お兄様が素早く動いたのだった。
どうしたんだろう?と不思議に思う。
まるで敵にでも攻め込まれたかのよう。
緊張感まで伝わってくる。
「誰?」
お兄様が低く鋭い声で尋ねた。
すぐに相手からの返答はない。
私はそっと体を右側に傾けるようにして、お兄様の陰から扉の方を見てみた。
お兄様がいつもより低い声で尋ねたからなのか、扉の向こうの誰かはほんの少しだけ開いたところで動きを止めたようだ。
誰の姿も見えない。
「…お話し中に失礼致しました。リック様、リリア様。旦那様がお呼びです。執務室にいらっしゃいます」
それは私が普段からよく聞いている声だけど、微かに震えている。
扉の向こうにいるのは侍女のミナだった。
誰なのかが分かると、お兄様は緊張を解いた。
張り詰めた空気も緩む。
「いや、構わないよ。呼びに来てくれてありがとう」
次に発した声はもう、いつもと変わらないものに戻っていた。
なかなかに背景が盛り沢山なため、進みがゆっくりになっています。




