ささやかな賭け事
本にそんな仕掛けが施されていたなんて、思ってみたこともなかった。
普通の本と比べても、何も変わらないように見えていた。
ペンダントもそう。
ルシウス先生の話によれば、これは今この瞬間にも効力を発揮しているということになる。
そっと指先で触れて持ち上げて、視界に入れる。
幼い頃から繰り返し眺めてきたペンダント。
やはりこれも、普通のペンダントとどこも変わらないように見えた。
作用中であっても、特に光るなどの外見から分かるような変化はしないのだな、と思った。
ルシウス先生が、パタリと音を立てて本を閉じた。
その音につられて、私はペンダントから手を離してそちらへと視線を向けた。
表紙を上にして閉じられた本には、しっかりと花の刺繍があった。
紺色の本に花の刺繍がよく映えている。
これが魔法によって見えているものだなんて…。
聞かされた今も信じられない気持ちだ。
そこにあるのに本当はない。いえ、本当はあるのにそこにはない?
一体、どちらなんだろう。
「ねえ、リリアさん」
呼びかけられて、私は花の刺繍からルシウス先生へと視線を移した。
ルシウス先生は柔らかな瞳で、私のことを見ていた。
「今僕が話したことは、リリアさんにとって驚くことばかりだったと思う。けれど、それを知らなかったからと言って今までに何か困ったことはあったかな?」
ペンダントのことも、本のことも、秘術を使う民のことも。
私は知らないことばかりだ。自分に関わることなのに。
だけど、知らなかったからと言って、これまでに困ったようなことは何も思い浮かばなかった。
「いいえ。なかったです」
「うん、きっとそうなんだろうなって思うよ。それはどうしてなのか、分かるかな?」
お父様、お母様、お兄様、使用人のみんな、そしてフィリオ様。
私の胸の内には、私が小さい頃から関わってきた人たちの顔が現れた。
みんな、私のことをとても大切にしてくれている。
「私の周りの人たちが、私の知らないところで守っていてくれたから…」
「うん、そうだね。そこにどういう理由があって、こうなっているのか僕には分からない。けれど、リリアさんが周りの人たちからとても大切にされているということは分かるんだ」
ルシウス先生は言ってから、素敵な笑顔を浮かべた。
私は“そう思います“の意味を込めて、力強く頷いた。
「だからね…」
ルシウス先生がこれから言おうとしていることが、私にも伝わってきた。
だから敢えて、私は先生の言葉に被せるように自分の言葉を発した。
{一旦、家に戻ろう。フィリオ王子もご家族も、みんな心配して、きっと今頃探しまわってると思うよ}
{ノルモンタニューに行こうと思います。まずは自分のことをちゃんと知らなきゃって、そう思いました}
「?」
「…」
お互いに言い終えると、ルシウス先生の顔には“?“が浮かんでいた。
この瞬間、私も同じ気持ちを共有している。
けれど、聞かされたくはないと思ってしまった。
「ごめん、リリアさん。今、なんて言ったの?」
「すいません。先生は何と仰ったのですか?」
私は素知らぬふりをして言葉の確認をした。
思った通り、私たちは全く正反対のことを言い合っていた。
ルシウス先生の言ったことが正しいというのは、私にだって分かっている。
一旦帰った方がいい、そう思う。
これまでも大切に思ってくれている人たちなのだから、いきなりいなくなったことによって今はすごく心配させてしまっているだろう。
ノルモンタニューで自分で調べるよりも、まずは家族や身近な人たちに事情を聞いてみた方がいいだろうとも思う。
でも…。
今後の自分のことを考えると、家に帰ることが怖いのだ。
今じゃなくても遠くないいつか、フィリオ様の邪魔になる日が来てしまう。
そうなる前に“このまま、どこかに消えてしまいたい“という強い思いは消えてくれないのだ。
私が俯いて考え込んでいると、ルシウス先生のクスリと笑う声が聞こえた。
駄々をこねる子どもみたいだ、と呆れられているのかな。
先ほど『どうしてそんなに頑ななの?』と言われたけれど、本当にその通りだなと思う。
「話が別の方向に寄り道して。その結果『一旦家に帰った方がいいだろうな』という雰囲気になっても、リリアさんの“家には帰らない“という気持ちは揺るがないんだね」
ルシウス先生は呆れる様子もなく、のんびりとした声で話し始めた。
そして、まだ話の途中だと思われるところで一呼吸置いた。
「それだったらさ。僕と賭けをしてみない?」
その後に続いた言葉が意外で、私は思わず顔を上げてルシウス先生を見た。
ルシウス先生はいつもの優しい表情をしている。
「賭け?」
私が聞き返すと、ルシウス先生は楽しそうに笑った。
「そう、賭け。別に大層なものを賭けようって話ではないよ。リリアさんは明日、朝一の船に乗ってノルモンタニューに行くつもりでいるんでしょう?」
「?…はい。そのつもりでいます」
「だからね。それを利用して、ちょっとした賭けをしてみようと思うんだ。タイムリミットは船が出航するまで。探している人たちにリリアさんが見つかったら、僕の勝ち。リリアさんは大人しく家に帰る。見つからなかったら、リリアさんの勝ち。このままノルモンタニューに行く。どう?簡単な話でしょう?」
ルシウス先生は私がこのまま行くことに反対しているのに、そんな内容の賭けでいいのだろうか。
多分今頃、私のことを心配して探しているとは思うけれど、どの辺りを探しているかまではこちらからは分からない。
ただ私は行き先を言うこともなく、変装をしてメルブルエまで来ている。
しかも船は朝一番で出航する。
何らかの痕跡を辿ってこの街まで探しにくる頃には、私はもう海の上にいるのではないだろうか。
「私にとってこの賭けは、有利すぎませんか?先生は私のことを家に帰したいのに、いいのでしょうか?」
何か思惑があるのではないか、そう疑ってしまう。
「うん、僕の方が不利だよね。だから、リリアさんが勝った場合には1つお願いを聞いてほしいんだ。元々帰る予定だったし、さすがにリリアさんに長距離の一人旅をさせるのは心配だから、僕も一緒に行っていい?もちろんリリアさんが良いって言うまで、誰にも言わないから。きっと僕は役に立つと思うよ。どうだろう?」
そう言うと、ルシウス先生は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
前話を(1)としていましたが、そんなに長くしなくても…と思い直して変えました。




