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看過

「着きましたよ、起きて」

肩を少し揺すられて、私は目を覚ました。

ぼんやりとした視界の端で他の乗客が降りていく様子が見える。

感覚としてはさっき目を閉じたばかりなのに、もう目的地に着いているなんて。

一体どれくらいの時間眠ってしまっていたのだろう。

開いた馬車の扉の外からは街の喧騒も聞こえてきているというのに、目を覚さなかったことにも驚いてしまう。

できても微睡くらいだろうと思っていたのに、熟睡してしまうなんて。

私は慌ただしく立ち上がって、身の回りに忘れ物がないかを確認する。

そして、ルシウス先生に誘導されるようにして乗合馬車から降りた。


初めて見るメルブルエという隣街は、港街なので王都とはまた異なる賑やかさがあった。

街自体が熱気を帯びている、と言えばいいだろうか。

無意識のうちにキョロキョロと、あちらこちらを見てしてしまう。

後ろで扉が閉まる音がして、すぐに馬車は行ってしまった。


そこで「あっ」と思う。

起き抜けでぽやぽやしたまま降りてしまったけれど、私はまだ運賃を払っていない。

急いで馬車を追いかけないと。

そう思って走ろうとしたら、ルシウス先生に腕を掴まれた。


「どこに行くんです?」

「あの、運賃を払ってなかったので、払わなきゃと思って」

「ああ、そういうことだったか。それならもう僕が払っておきましたよ」

ルシウス先生は珍しく一瞬厳しい顔をしていたけれど、すぐにいつもの柔らかな表情になった。


「眠っている間に…。それはご迷惑をおかけしました。無賃乗車になってしまったかと思って焦ってしまいました」

「大丈夫。もし払い忘れていたのなら、ちゃんと言われるものだから」


それもそうだなと思う。

あの御者さんは私が公爵家の人間だとは気付いていないと思うけれど、もし万が一分かった場合に家族に迷惑がかかってしまう、そう思って焦ってしまった。

もう少し落ち着かないとね。

これからは1人でいろいろとやっていかなければならないのだし。


「そうですよね。立替てくださってありがとうございます」

私はお財布を取り出すために自由に動かしたかったので、腕を掴んでいる先生の手にやんわりと触って離してくれるように合図を送った。

それなのに、ルシウス先生は手に込めた力を緩める気配がなかった。

このままではお財布を取り出せない。

仕方なく声を掛けることにした。


「あの、先生。手を離していただけないでしょうか?」

「どうして?」

「どうして?え…。あの、先生に運賃をお渡しするために、鞄からお財布を取り出したいのです。片手だとうまく出せそうにないので…」

そう言えばすぐに離してくれるものと思っていたけれど、ルシウス先生は変わらず腕を掴んだままだった。


「いいや。運賃もいらないよ。それより、いいのかな?こんなに人目があるところで僕のことを“先生“と呼んでも。君は今、身分を隠しているのでしょう?僕との関係性が周りにバレてしまうよ。僕は君のこと、ちゃんと名前で呼ばないようにしてるのに」

そう言われて、私は固まってしまった。

え…?ルシウス先生は何を言ってるの?

身分を隠してるって?名前を呼ばないようにしてるって?

私は何も言えずにルシウス先生を見つめていた。


「だってそうでしょ?男の子の変装をして街に視察に来てるんだよね?あ、でもうちの学校に通ってる設定なのかな?」

先生は笑顔を浮かべながら言った。


なんだ、そういうことか。

そう言えば、乗合馬車に乗る時にそういう話になっていたんだった。

私が家を出てきていることを指摘されたのかと思って、一瞬ドキッとしてしまった。

ルシウス先生と一緒にいると、心臓によくないな。

怪しまれないうちに早く離れた方がいいわ。


そう思ったので、私はルシウス先生にお別れの挨拶をすることにした。

「そう、そうです。あ、でも学校のことまでは考えていませんでした。たしかにあまりそういうことを言うのはよくないかもしれないですね…。ハハ。運賃のことはすいません、ありがとうございました。とても助かりました。いつも助けてもらってますよね。ありがとうございます…。では、僕はもう行きますので。せん…ルシウスさんもお気を付けて」

男の子として自分のことを“僕“と呼ぶ。

おまけに愛想笑いも含めてそこまでを一気に言ってしまうと、私はペコリと頭を下げた。

これで手を離してくれると思ったのに、やっぱりルシウス先生は手を離してくれなかった。


これはもう、ルシウス先生がたまにやる、よく分からない冗談なのかな?と思った。

けれど、そろそろ本当に離してほしい。

「ハハ…あの…そろそろ手を…」

言いながら見上げると、ルシウス先生の顔は全く笑っていなかった。


「まさか、行かせるわけないでしょ。分かってるよ、全部。君から話してくれるかなと思って、いろいろ仕掛けてみたけれど…。うん、そんな気はないようだね」

そう言われて、血の気が引いていくのが自分で分かった。

何か言わなきゃ、何か。

私は焦るばかりで、言葉が全然出てこなかった。


ルシウス先生はここでやっと、私の腕から手を離した。

けれど、すぐに今度は両手を私の両肩に置いてくる。

あっと言う間もなく、私はくるりと体の向きを変えられてしまった。


それからルシウス先生は少し屈むと、私の目線の高さに自分の目線を合わせて、諭すように言った。

最初から分かっていたよ、家を出てきたんだってことは。

だって荷物も持ってるし、何より髪をそんな風にしてしまってるんだもの。分かるよ。

ただ、あの場所では話を聞けないなって思ったんだ。周りの目があったからね。

道の反対側にいた理容師さん、こっちをすごく見てたでしょ?

あそこで髪を売ったのかな。


ともかく喧嘩して家出をしてきたとか、そんな簡単なことじゃないだろうなと思った。

髪をそれだけ切るということは只事じゃない、覚悟があってのことだ。

変装をしていることから見ても、何かから隠れたいんだということが分かる。

本来ならご家族に連絡をしなければいけないけど、もしかしたらその家族と何かあったのかもしれないよね。

だから君に話を合わせて、ここまで来たんだよ。

王都だと誰かが通りかかる可能性がある。

でもここなら、一目で君が誰か分かることもそうそうないだろうし。

とはいえ、ここで立ち話というのもよくないね。

場所を変えようか。

お腹も空いてるでしょ。

メルブルエのおいしい魚介料理が食べられる素敵なところがあるんだよ。


最初から分かっていたなんて…。

目の前のルシウス先生の顔がぐらぐらと揺れ、視界が歪み始める。


そして私は再び、意識を手放した。

最初は10話くらいの予定だったのですが…。

ここまで読んでくださっている方、ありがとうございます。


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