第56話 禁止令
◇ ◇ ◇
「それで結局どうすれば良いのかな?」
十分にストレッチを行った亜梨紗は、昨日話していた詳しい話は明日また話そうと言っていた件についてレンと千尋の二人に問いかけた。
「昨日言った通り、まずは制球力を磨くべきだと思う」
千尋の提案は昨日と変わらずに制球力を磨く事だ。
投手である以上制球力が良いに越した事はない。それに球速のない投手には特に大切な要素だろう。
「そうだね。後は球威を上げる事も重要かな」
「球威?」
「うん。例え球速はなくても球威のある球を投げられればそう簡単には打たれないよ」
制球力を磨く事に賛成しつつ、レンは球威を向上させる事も提案する。そして球威について大まかに説明を始める。
良く球が軽い、球が重いという表現をされる事もあるが、これが所謂球威の事だ。球が軽いと球威がない、球が重いと球威があるという認識で良い。正し、言うまでもない事だが、物理的に考えて実際にボールが重くなるという事はあり得ないので誤解しない様に。
では球威のある球とは一体どういった物なのかを説明すると、投球の際の肘と手首のスナップが強く、球が指から離れるまで確りと掛かっていると、投球フォームにもよるが、捕手に球が向かって行く方向に対して球が逆回転や斜めの逆回転を多くする様になる。
すると普通は捕手に近づくにつれて重力の影響で球は落ちて行くが、回転数が多いと空気抵抗が軽減されたり、球の上に揚力が働いて落ち難くなる。これをマグヌス効果と言う。
傍から見ていてもボールが浮いてる様に見え、対峙する打者などはホップするように感じられる。
また、捕手に向かってドリルの様な横回転が多いと初速と終速の差が少ない球となる。これが所謂ジャイロボールだ。
仮に速い球を投げられたとしても球威がなければそれはただの棒球であり、とても通用する代物ではない。逆に球速は遅くても球威のある球ならばそう簡単に打たれる事もないという訳だ。勿論それだけでは厳しく、制球力や変化球、捕手のリード次第ではあるが。
長々と説明をしたが、球威がある=回転数が多く、初速と終速の差が少ないという認識を持っていれば十分であろう。
「なるほど」
レンの説明に亜梨紗は納得顔で頷く。
「まず制球力を磨く為には、リリースを安定させる。体重移動を安定させる。正しい投球フォームを身に付ける。それら実現させる筋力と可動域を身に付ける。かな」
「そうだね。正直亜梨紗の場合は投球フォームは弄らない方が良いと思うけど」
「うん。私もそう思う。加藤は投球フォームを変えずに色んな球種を投げられるのが武器だから態々弄ってリスクを負う必要はない。だからまずは投球フォーム以外の所から始めて見るのが良いと思う。その後必要なら投球フォームを見直す方針で」
千尋とレンが意見を交わし合うのを亜梨紗は真剣な眼差しで聞き入っている。
「球威を上げる為にこれからは回転数にも意識を向けてみようか。後は体幹と下半身を強化する事。それに体重移動も大事かな。それで結果的に球速アップにも繋がると思うよ」
レンが球威を上げる方法を口にしたところで二人の意見の交わし合いは締め括られたが、千尋は最後に釘を指す様にはっきりと亜梨紗に告げる。
「とりあえず今日は投げ込み禁止」
「えぇ~」
「・・・・・・昨日何球投げたっけ?」
「うっ。ごめんなさい」
千尋の投げ込み禁止令に亜梨紗は露骨に不満顔を顕にするが、昨日の事を持ち出されては亜梨紗に反論をする余地はなかった。
昨日無我夢中で散々投げ込みを行ったのだ。本人が何球投げたかもわからない程に。なので今日は肩や肘、手首など利き腕は面々的に休養させる方針を千尋は定めていた。
ちなみに今は伝えていないが明日も投げさせるつもりはない。本人のモチベーションを削がない為に決して口にするつもりはないが。
今日は主に体幹や下半身の強化、柔軟など行う事にする。
「あれ? 三人とも何してるの?」
三人が練習に取り掛かろうとしていた時、室内練習場の扉を開いて慧が顔を覗き込んでいた。
そして扉を開いて室内に入ってくると、慧の後ろには純の姿も確認出来た。
「今から練習するところだよ」
「そっかっ。なら私達もご一緒するねっ!」
慧と純も加わって五人で練習を始める。
その後セラと澪も途中から加わって、一年生組七人で練習に励んだのであった。
◇ ◇ ◇
寮内にある監督室でデスクに向き合っている早織は思考の海に潜っていた。
(五回戦のオーダーはどうしましょうか)
翌日に控えた五回戦のスターティングメンバーについて考えていたのだ。
(相手はCシードの藤沢奨稜。藤院学園程ではないですが、十分強敵です)
藤沢奨稜は鎌倉学館や藤院学園と同じく私立高校だ。
部員数は一一四人を誇り、過去には一度だけだが夏の甲子園にも出場している。一度だけとはいうが、魔境である神奈川県大会を勝ち進んで甲子園まで進んだ事実は物凄い事だ。仮に藤沢奨稜が他県に所在していれば、甲子園出場回数は今よりも増えていた可能性も大いにあるだろう。
プロ選手も一〇人程輩出しており、鎌倉学館とは比べるまでもない程の差がある。
野球部だけではなく、バレーボール部や陸上部、テニス部なども全国的に実績を残している。むしろ野球部よりも高い実績を残しているのだが。
(宮野さんは完全休養なので、当然先発は市ノ瀬さんで決まりです。これは事前に伝えてあるので確りと調整してくれているでしょう)
五回戦の先発はローテーション通り澪で決まりだ。澪には事前に伝えてあるのでコンディション調整は抜かりなく行っているだろう。
(五回戦まで中一日。そして五回戦から準々決勝までの期間も中一日ですか・・・・・・。出来れば投手陣は休ませたいですね。特にリリーフ陣は)
仮に五回戦を勝利して準々決勝まで進んだとしても春香は中三日での登板になる。出来ればもう少し休ませたいが、三日の休養があればまだ良いだろう。
だがリリーフ陣はそうもいかない。リリーフ陣は連投になる事を常に考慮しなくてはならないのだ。いくら先発投手より一試合における投球回は少ないとはいえ、疲労の蓄積は免れない。それにリリーフには先発とは異なる心理的負担が掛かる。なのでリリーフだがら大丈夫などと安直に考えてはいけないのだ。
(いえ、先の事ばかり考えていても足元を掬われてしまいますね。まずは明日の五回戦に集中しましょう)
先の事よりも間近に迫った五回戦の方が大事である。もちろんその後の事も指導者として確りと考慮しているが、足元を掬われては元も子もない。早織は子供達が頑張って勝ち進んでいる成果を大人として指導者として水泡に帰す訳にはいかないと思い改めて気を引き締める。
その後も早織はデスクに向き合って思考の海へより深く潜って行くのであった。
そうしていよいよ五回戦の日が訪れる。




