第41話 ノビ
「いつも通り投げれば抑えられます。落ち着いていきましょう」
マウンドに上がった春香に声を掛ける千尋は、自信の籠った力強い眼差しを向ける。
「打者一巡目まではシュートとチャンジアップを隠しましょう。ですが、必要な時はサインを出すので、そのつもりでいて下さい」
「えぇ。わかったわ」
微笑みを浮かべる春香の様子を確認した千尋は、自分のポジションに戻っていく。
『佐々岡さん。鎌倉学館の先発、宮野はどの様な投手でしょうか?』
実況の古立は、解説の佐々岡に春香について尋ねる。
『そうですね。正直鎌倉学館の選手については、椎名さん、市ノ瀬さん、守宮さんの三人以外殆どデータがありません』
『鎌倉学館は近年人数不足で大会にはあまり出場していませんでした。ガールズ時代に活躍した選手以外は、なかなか観る機会もありませんでした』
『はい。なので、今大会を観た限りの判断になりますが、宮野さんは良い投手ですよ。何か図抜けた物がある訳ではありませんが、基本に忠実で、投手に必要な要素を満遍なく確りと持ち合わせています』
『投手に必要な要素ですか?』
『はい。急速や変化球はもちろん。牽制やクイック、フィールディングに冷静さ。そして、度胸などですね』
『なるほど』
『宮野さんは、どれも一級品とは言えませんが、水準以上は持ち合わせています』
春香は図抜けた武器を持っている訳ではないが、どれも平均以上にはパラメーターが行く、バランスの良さが特徴だ。これといった武器はないが、弱点といった弱点もない、非常にリードし易く計算の出来る投手である。
春香に相対するのは、左打席に入っている藤院学園の一番打者である茂木だ。
(この人は長打もある。甘く入ったら持って行かれる)
千尋は初球、アウトローにフォーシームのサインを出す。サインに頷いた春香は腕を振りかぶる。春香の投げたフォーシームは、千尋の構えたミットに精確に向かっていく。
茂木は初球を見送り、ストライクとなった。
二球目、千尋はインローにスライダーのサインを出す。
(ボールでも良いので厳しい所に)
(わかったわ)
サイン交換を終えた千尋はミットを構え、春香は投球モーションに入る。サイン通りに投げ込んだスライダーは、内に外れてボールとなった。
三球目はインハイにフォーシームを投げる。
茂木はバット振り、一塁側へのファールとなった。
これでワンボール、ツーストライクだ。
そして四球目。
千尋は春香にサインを出す。
(アウトローにカーブを。ボールからストライクゾーンにギリギリ入るくらいに、ボールでも良いので投げて下さい)
(了解よ)
サインを確認した春香は、一息吐いてから投球モーションに入る。春香が投じたカーブは、ストライクゾーンギリギリに決まる。茂木はバットを振る事が出来ずに、見逃し三振となった。
『茂木は見逃し三振となりました!』
『インハイからのアウトローで見極めが難しかったと思いますが、恐らくカーブにタイミングが合わなかったのでしょう』
『緩急ですか?』
『そうです。フォーシームの後にカーブですからね』
『なるほど。藤院学園の次の打者は二番の平瀬です』
ネクストバッターである平瀬が左打席に入る。
(この人はあまり三振しない粘り強さがある。無理に三振を狙いに行くより、凡打の方が理想かな)
平瀬についての印象を頭の中に思い浮かべた千尋は、サインを決めると春香に示す。
平瀬に対する初球は、インローにフォーシームを投げる。
フォーシームが千尋のミットに収まると、平瀬は見送り、球審はストライクを取った。
続く二球目はインローにスライダーを投げると、内外れてボールとなる。
三球目はアウトローにフォーシームを投げて、低めに外れて二球続けてボールとなった。
四球目はカーブをアウトローに投じると、平瀬は空振りをしてストライクとなる。
カウントがツーボール、ツーストライクとなった五球目。千尋はインハイにフォーシームのサインを出した。サインに頷いた春香は千尋のリードを信頼して、千尋のサインに応える様にノビのあるフォーシームを投げ込んだ。
ノビとは、大抵フォーシームに対して使われる言葉である。
体感では、「思ったより伸びる、球速以上に速く感じる」や「浮き上がっている様に見える」という感じだ。
近年は数字での評価も相まって、「回転数が多い」ボールと言われる事も多い。間違いではない。ここでの説明は割愛するが、回転数のみがフィーチャーされる事が多いのだが、回転量と同じくらい大事な要素として「回転軸」がある。
ノビについては以下の様に漠然と認識しておけば問題ない。
・伸びがある。
・球速以上に速く感じる。
・浮き上がっている様に見える。
・回転数が多い。
もっと詳しく知りたければ調べてみるのも一興だろう。
春香が投じたフォーシームは、ストライクゾーンからボール半個分から一個分程高めに外れるコースだったが、平瀬はバットを振った。
平瀬がスイングしたバットはボールを捉えるも、打球は頭上に高く飛んでいった。
素早くマスクを外した千尋は少し後方に下がって落下地点を見定めると、打球が落ちてくるの待つ。落ちてきた打球を確りと捕球して、平瀬はキャッチャーフライとなった。
これでツーアウトだ。
『佐々岡さん。平瀬はキャッチャーフライとなりました』
『アウトローに二球来た後に、インハイにフォーシームでしたからね。緩急もありますが、見極めが難しかったと思います。平瀬さんとしては、不本意ながらつい手が出てしまった感じではないでしょうか』
『鎌倉学館バッテリーの攻めが上手く嵌まったという事ですね?』
『はい。そうです』
『藤院学園は平瀬が凡退し、次は三番の鈴木が打席に立ちます』
平瀬を打ち取ると、ネクストバッターである三番打者の鈴木が左打席に入る。
(この人は選球眼が良くて、バットコントロールも良い。失投は見逃さずに打ちに来る)
千尋が春香にサインを出す。
春香は初球、千尋のサイン通りアウトローにフォーシームを投じる。
鈴木は初球のフォーシームを狙っていたのか、初球から打ちにいった。しかし打球は三塁方向に飛び、三塁手である涼が確りと捕球し、余裕を持ってファーストに送球すると、セラが捕球してサードゴロとなる。
これで三者凡退だ。
「ナイピっ!」
鎌倉学館ナインは春香に声を掛けながらベンチに戻る。
『鈴木は初球打ちをし、サードゴロに倒れました』
『恐らく狙っていたと思いますが、宮野さんの投じたフォーシームが思った以上に速くて振り遅れたのでしょう』
『思った以上にですか?』
『はい。球速は予めわかっていても、打席に立つと実際の球速以上に速く感じる事があります』
『なるほど』
『宮野さんは二回戦の時よりも球にノビがある様に感じます。調子が良いのかもしれませんね』
『初回の攻防は、鎌倉学館が一点を先制しました。続く二回以降の攻防は一体どうなるのか見物です!』
初回の攻防は鎌倉学館が一点を奪い、藤院学園は無失点に終わった。鎌倉学館が先制してリードしている状況だが、試合はまだ始まったばかりだ。鎌倉学館も当然油断など出来ない。
鎌倉学館対藤院学園の対決は、二回以降どの様な攻防が繰り広げられるのだろうか。




